どうせ嫌われ者ならば、悪女になってみせましょう。(冒頭)
お兄様の心底嫌そうな顔に気付かないふりをしながら、内心は胸のすく思いだった。
わたしの隣にいる男性が微笑んだ。
「それでは、ヴィオラは我がユークリッド公爵家でお預かりさせていただきますね」
男性の言葉に父と兄が同時に「え?」と言う。
……思った通り、婚約誓約書の内容を見ていないみたいね。
目を丸くする父と兄に、男性は「おや」とわざとらしいほど驚いた顔をする。
「もしや読まれていないのですか? 私とヴィオラが婚約した場合、我が家で結婚まで預からせていただくと明記してあるのですが」
父が慌てて取り繕った笑みを浮かべる。
「え、ええ、そうでしたね、いつ頃公爵家に向かわせればよろしいでしょうか?」
「今すぐ、そう、今日中に移っていただきますよ。ここに残しておいたら彼女の身がどうなるか分かりませんからね」
「……それはどういう意味でしょうか?」
男性の言葉に父が眉を顰める。
それに男性、いや、わたしの婚約者となったアスティア=ユークリッドが目を細めて笑みを深めた。
「それはあなた方が一番よく分かっているでしょう」
父と兄の顔が強張るのが愉快で仕方なかった。
* * * * *
シェアフェス家には三人の子がいた。
一人は前妻の子であり、嫡男のミハイル。
一人は前妻の子であり、長女のヴィオラ。
そして後妻の子である、次女のシェリル。
後妻は男爵家の令嬢で、実は長年シェアフェス侯爵の妾でもあった。
シェリルは侯爵の実の娘だ。
そして、わたし、ヴィオラ=シェアフェスはこの家では嫌われ者であった。
父シェアフェス侯爵は母の亡き後、すぐに後妻を迎え入れた。
父と母は政略結婚で二人の間に愛はなかった。
けれど、それとこれとは話が違う。
母親を失ったばかりの十歳のわたしの前で、父は平然と後妻とシェリルを連れてきて、こう言ったのだ。
「新しい母様と妹だ、仲良くしなさい」
そう言われても、わたしは頷けなかった。
わたしの母は亡くなった母だけだ。
だから頭を撫でようとした後妻の手を叩いて払ってしまったのだが、それは父の望むものではなかった。
十二歳だった兄は新しい妹に心奪われたようだ。
それから父も兄もわたしには見向きもしなくなった。
しばらく頭を冷やしなさい、と部屋で食事を摂るように言われた。
けれど、その後、わたしはずっと自室でたった一人で食事を口にすることになる。
後妻はわたしに近付かず、新しい妹は頻繁にわたしのところへ来たが、相手をせずに追い返していたら、父と兄から叱責を受けた。
「どうして妹に優しくしてやれないんだ」
「そうだぞ、半分は血の繋がった姉妹じゃないか」
でも、わたしはそうは思えなかった。
新しい妹はあまりにも後妻に似ていたのだ。
兄は父にとても似ており、この家で、前妻である母に似たわたしの居場所はなかった。
最後まで頷かなかったわたしを父は見限った。
父にも兄にも完全に見捨てられ、後妻はわたしの存在を無視し、新しい妹はわたしの物を奪っていった。
同い年で背格好も似ていたせいかドレスも勝手に着られて、装飾品も、部屋にあったヌイグルミも、何もかもが奪われた。
わたしが嫌がる度に新しい妹は泣いた。
妹が泣くと父か兄に呼ばれて「姉なのだから」と渡すように強要された。
母の形見の装飾品すら取り上げられた。
残ったのはたった一つのカメオのブローチだけ。
これだけは肌身離さず持っていた。
これだけは渡せなかった。
わたしが生まれた時、父が母に贈ったというカメオのブローチだが、父はもうそのことを忘れているらしい。
父や兄に見放されたわたしの周りには使用人がいなくなった。
申し訳程度にメイドが一人二人来るが、部屋もあまり掃除されず、身支度は殆ど一人で行うようになった。
とても侯爵令嬢の扱いとは言えなかった。
最初はまともだった食事も段々と質が落ち、やがて使用人以下のものとなった。
小さな乾いた丸パンに具の少ない野菜スープ。
それを日に二度。
使用人達が忙しい時には日に一度の時もある。
そのせいか背はそれなりにあるが、わたしは痩せていて、そしてドレスも地味なものしか買ってもらえなくなっていた。
わたしに充てられた予算が年々減ったのだ。
その分、妹は流行りのドレスを着るようになった。
しかもわたし宛の手紙は全て後妻の手に渡り、わたしは病弱だから出席出来ないと勝手に全て断られていた。
やがて誰からも招待状が来なくなった。
そうして気が付けば七年の月日が経っていた。
十七歳になったわたしは、ついに耐え切れなくなり、怒りのままに後妻を階段から突き飛ばして殺してしまった。
わたしは親殺しとして裁判にかけられた。
貴族において親殺しは重罪である。
わたしがどれだけ自分の状況について叫んでも、誰も耳を貸そうとしなかった。
所詮、人殺しの言葉だと一笑された。
わたしは十七歳の冬、処刑された。
大勢の民の前で斬首刑に処されたのである。
……もしも、もしも次があるならば、今度は悔いのない人生を、幸せな人生を歩みたい。
* * * * *
「…………ぇ……?」
ふっと意識が引き戻された。
……わたし、処刑されたはずなのに。
起き上がると頭がくらりとする。
何が何なのか分からず、辺りを見回し、そして違和感に気付く。
……部屋の物が多い。
わたしの部屋にあった物は殆ど妹に取られてしまったはずだが、どうしてか、そこにあった。
どういうことだと頭に手を当てて気付く。
「手が小さい……?」
見下ろした手は記憶の中よりも少し小さい。
ベッドから起き上がり、姿見の前へ向かう。
カーテンを開ければ外は夜で、月明かりが窓から差し込む中、鏡を見た。
「……体が縮んでる……?」
そこにいたのは記憶よりも若いわたしだった。
慌てて机に駆け寄り、日記を掴む。
ページを捲って最後の日付を追う。
書かれていた日付は丁度、処刑される一年前のものだった。
どういうわけか、十六歳の冬にわたしは戻っていた。
一瞬あれは夢だったのかと考えたが、夢にしては全てがあまりにも現実味を帯びていて、そして首にギロチンが落とされた瞬間の痛みや衝撃はまだ記憶に残っていた。
……嫌よ、絶対に、あんなのは嫌。
たとえあれが夢であったとしても、同じような目には遭いたくない。
同時に、どうしようもないほどの怒りが湧いてくる。
父であるシェアフェス侯爵にも、兄ミハイルにも、後妻にも、腹違いの妹にも。使用人にも。
何年も受けて来た屈辱を返さなければ気が済まない。
「……復讐してやる……」
父も兄もわたしを顧みない。
後妻からは無視され、妹からは玩具にされる。
……もう、そんな生活は送りたくない。
ふっと母の言葉を思い出した。
「ヴィオラ、幸せになりなさい。そのためにどんな努力も惜しまず、誰にも負けないように強くなりなさい」
……ああ、そうですわ、お母様。
父や兄から嫌われているならば、とことん嫌われてやればいい。後妻も妹もわたしには要らない。
幸せのために、わたし自身のために。
どうせ嫌われ者ならば、悪女になってみせましょう。
シェアフェス侯爵家など失墜してしまえ。
* * * * *
どうやらわたしは熱を出していたらしい。
それなのに使用人は全く様子を見に来なかった。
数日寝込み、その後、わたしは体調が戻ってすぐにまだ繋がりのあるご令嬢へ手紙を出した。
そのご令嬢の家は毎年何度も夜会を行うので、その夜会の一つにわたしを招待して欲しいとお願いしたのだ。
使用人は面倒臭そうな顔をしたけれど、それでも手紙を持っていった。
それから数日後、返事は手元に届かなかった。
それでも妹がやって来て、そのご令嬢の家の夜会に招かれたと自慢げに話してくれたので、わたしはその家で行われる夜会の日時は把握出来た。
「わたしも行きたいわ」
そう言えば、妹は「まあ」と声を上げた。
「私がお父様とお母様にお願いしてあげましょうか?」
「ええ、そうね、そうしてちょうだい」
上から目線の言葉に内心では苛立ちつつも、平静を装って妹の言葉に頷いた。
「じゃあお姉様、ドレスを貸してあげるわ!」
そう言って妹は部屋を出ていった。
妹の侍女が持ってきたのは、去年の流行のドレスだったが、その方が都合が良かったのでありがたく受け取った。
わたしはそれから夜会の日まで肌や髪の手入れを極力行わず、食事も出来る限り口にしないようにした。
そうして着た妹のドレスはやや大きかった。
流行遅れの、明らかに体に合わないドレス。
しかも髪は一度しか櫛を通さず、化粧もせず、そのまま、わたしは部屋を出た。
使用人達に陰で笑われても構わない。
父や兄が不快そうに顔を顰めても気にしない。
後妻はわたしを見ないし、妹は笑っている。
「お姉様、そのドレスとっても似合っているわ!」
きっと妹からしたら愉快で仕方ないのだろう。
笑いたければ笑えばいい。
わたしはわたしの不幸を利用する。
わたしだけ別の馬車に乗せられて夜会へ向かった。
普通、夜会などで会場入りする時は女性はパートナーを伴っているものだ。
父には後妻が、兄には妹がいて、わたしは一人。
シェアフェス家の名前が呼ばれて入場する中、わたしはひっそりと後ろからついて行く。
視線がわたしに集まるのを感じた。
……さあ、見るがいい。
シェアフェス侯爵家の恥を。
妹は社交に富んでいるようで、すぐにご令嬢達に囲まれたが、わたしは会場の隅の壁際に佇む。
流行遅れの体に合わないドレスに手入れされていない髪や肌、暗い表情、痩せた体。
大勢の目にこの姿を焼き付けるのが目的だった。
……少し席を外しましょう。
俯き、口に手を当てて外へ出る。
そうしてそのまま庭園へ出た。
この庭園はテラスから見えるので、きっと、こっそり休憩をしに出た人達などがひとりぼっちのわたしを姿を見るだろう。
出来るだけ憐れに見えるよう、噴水の側に立って、ぼうっと空を見上げる。
…………許さない。
思い出すのはあの夢とも現実とも分からない記憶だった。
母の亡き後、すぐに後妻を迎えた最低の父親も、外見の愛らしい妹にコロリと落ちた兄も、平然と侯爵夫人の座にいる後妻も、わたしから全てを奪う妹も、わたしをせせら笑う使用人達も。
全員、許してなんてやるものか。
コツ、と背後で音がした。
「こんなところにいると風邪を引きますよ」
その声に驚いて振り向いた。
そしてわたしは笑った。
悲しいけれど、仕方なく笑って誤魔化すような、そういう笑みを浮かべて。
「わたしが風邪を引いても、誰も困らないわ」
そこには、見覚えのある男性が立っていた。
* * * * *
不思議な女性だ、とアスティア=ユークリッドは思った。
流行遅れのドレスは全く体に合っておらず、痩せて、艶のない髪や肌は手入れされていないのが一目で分かる。
シェアフェス侯爵家の病弱な長女。
彼女はそう噂されていた。
確かに痩せていて、病弱に見えないこともないが、侯爵家の令嬢が髪や肌の手入れをしないはずがない。
傍目にも明らかにおかしい。
「私はユークリッド公爵家が嫡男アスティア=ユークリッドといいます。失礼ながら、ご令嬢のお名前を伺っても?」
「申し遅れました、シェアフェス侯爵家が長女ヴィオラ=シェアフェスでございます」
憐れな姿でありながら、ヴィオラ嬢は丁寧で美しい礼を執った。
思わず、ほう、と見惚れてしまうほどだ。
「アスティア様は確か、母の従兄弟のご子息でいらっしゃいましたね」
「ええ、そうです。これまで付き合いはあまりありませんでしたが、私達は親戚ということになりますね」
ただ、シェアフェス侯爵家の嫡男ミハイルから、アスティアはかなり嫌われている。
その理由は同年代であり、男で、どちらもそれぞれ『白の貴公子』『黒の貴公子』と呼ばれて女性達の話題に上がっているというのもある。
ちなみにシェアフェス侯爵家のミハイルは白を好んで着るために『白の貴公子』と呼ばれ、逆に黒を好んで着るアスティアは『黒の貴公子』と呼ばれている。
アスティアはミハイルを気にしたことはない。
だがミハイルから敵愾心を抱かれていることは知っているし、勝手にライバル視されていることも知っており、何かと絡まれて鬱陶しく思ってはいた。
「ところで先ほどの言葉はどういう意味でしょう?」
アスティアの問いにヴィオラ嬢が自嘲する。
「ご覧の通り、わたしはあの家では疎ましがられております。誰もわたしを顧みない。だからわたしが風邪を引いても誰も困らないのです」
ご令嬢の暗いワインレッドの瞳に光が宿る。
それが悲しみなどではなく、憎しみや怒りであることをアスティアはすぐに理解出来た。
そういう負の感情を向けられることも立場上多い。
だからこそ、一瞬のその光に気付けた。
「ヴィオラ嬢、」
彼女が顔を上げる。
「アスティア様、失礼ですがアスティア様にはご婚約されている方はいらっしゃらないそうですね」
「ええ」
ワインレッドの瞳は夜の中では漆黒に近い。
くすんではいるが、きっと、本来その髪は美しい金色なのだろう。
痩せていても、似合わないドレスを着ていても、真っ直ぐに背筋を伸ばして凛と立つ姿は美しい。
「もし、想いを寄せていらっしゃる方がおられないのであれば、わたしを妻にしてはいただけませんか? わたしはこの通り珍しい紅系統の瞳を持っています」
……ああ、面白い。
先ほど、声をかける前に彼女は殺気を纏っていた。
殺したいほど憎い相手がいるのだろう。
……いや、それはシェアフェス家の者達か。
踏みつけられても折れない花。
ヴィオラ=シェアフェス侯爵令嬢。
これまで見てきた貴族のご令嬢達とは何かが違う。
もっと知りたいと興味が湧いてくる。
「いいでしょう。あなたと私の子であれば、紅い瞳の者が生まれる可能性もより高くなりそうです」
ユークリッド公爵家は紅い瞳の男児が受け継ぐ。
たとえ長男であっても、瞳が紅くなければ跡継ぎにはなれず、最も真紅に近い瞳の者が後継者として選ばれる。
アスティアもまた、黒髪に紅い瞳を持っていた。
アスティアはその場に跪き、ヴィオラ嬢の手を取った。
「ヴィオラ=シェアフェス侯爵令嬢、どうかわたしと月が満ちて欠けゆく時を、共に過ごしてはいただけませんか?」
それは貴族の求婚の言葉の一つであった。
「はい、わたしもあなたと太陽の巡る朝を共に迎え続けたいと思っております」
ヴィオラ嬢の返答は肯定だった。
そして私は彼女の共犯者となったのだ。
* * * * *