その女、悪辣にして聖なる使徒なり。(冒頭)
天と地の狭間に生まれしヒトの子等よ。
父母兄弟を愛し、友を愛し、隣人を愛しなさい。
清貧を尊び、労働の喜びを知り、主より齎されし数多の恵みに感謝せよ。
慈悲と慈愛を忘れず、誰も妬まず、誰も憎まず、己に訪れる幸福を大切になさい。
喜びに笑い、悲しみに泣き、幼子の如く厚き信仰を以て道を行きなさい。
一滴の雨を讃えなさい。一粒の麦を讃えなさい。
人生の苦楽を嘆くこと勿かれ。
それらはやがて貴方の血肉となるであろう。
ヒトよ、何時如何なる時も驕ること勿かれ。
さすれば主の御許に寄りし栄光を授からん。
──聖書第一章『主の御言葉』より抜粋──
* * * * *
朝の目覚めは僅かな憂鬱感で始まる。
家具家電付きのワンルームはずっと物が増えていない。ベッド、脚の短い座卓、クローゼット、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、エアコン、ガスコンロ。目に見える私物は仕事用のノートパソコンと座椅子、ラグ、カーテン、出勤用のコートとバッグ。そして携帯。
シンプルと言えば聞こえは良いが、生活感がなく、どんな人間がそこに住んでいるのか分からないほど最低限の物しか置かれていない。
この殺風景な部屋に、寿々川冬香は三年間暮らしている。
背中まである真っ直ぐな黒髪、やや切れ長で涼しげな目元は焦げ茶色の瞳、どちらかと言えば色白で、日本人の中では低くも高くもない平均的な身長に、飛び抜けて良くも悪くもない体型。
ほとんどの人間は彼女を『普通』と言うだろう。
冬香自身、あえて目立とうとはしない。
それは彼女が集団に混じるための方法だった。
ベッドから起き上がると服を着替える。今日は週末で仕事は休みだ。普段よりもゆっくり時間をかけて身支度を整え、毎日メニューの変わらない朝食を用意する。一杯のコーヒーに、スーパーで売っている数個入りで一袋数百円のチョコクロワッサンを二つ、インスタントのコーンスープ。
それらを食べながら携帯でニュースを確認する。
「……通り魔ねえ」
昨日から今朝までの記事の中にある、事件に関するものはそれくらいだった。
未成年の少年が自宅近くの道で、通行人達をカッターナイフで次々と切り付けたらしい。
犯人の少年は駆けつけた警官に現行犯逮捕された。
「誰でもいいから殺したかった」と話しているようだが死人は出ていない。
冬香はすぐにその記事への興味を失った。
彼女が好きなのは、もっと惨忍で、残虐で、凄惨な内容のものである。話を聞いた人間が顔を顰めるほど酷い、人間の心の闇が織り成す血みどろな事件。
冬香は幼い時分から自分の感性が両親や周囲と全く異なることに気が付いていた。
漠然とした感覚ではあったものの、周りと同じように振る舞うべきだと理解し、人生の大半を普通の人間らしく過ごしてきた。
サラリーマンの父親と元OLの母親の間に生まれ、小中高と可もなく不可もない成績で上がり、有名ではないが地元ではそれなりに良いと言われる大学に進学し、就職活動にて中堅企業の会社に採用される。
まさに平凡と呼ぶに相応しい道のりだった。
異物として排除されないためであったものの、冬香にしてみれば何の楽しみもない灰色の人生は退屈で平坦な道である。
これから先の何十年もこのまま生きて行くのかと思うと自分の人生すら億劫に感じていた。
朝食を食べ終え、食器を洗い、片付ける。
さて今日はどうしようかと考えていた冬香の耳に、来客を告げるインターフォンの音が聞こえてきた。宅配か郵便、もしくは勧誘くらいでしか鳴る機会のない軽い音が間を置いて二度響く。
玄関へ行ってドアスコープから外を覗いてみた。
そこには無地の黒いスーツ姿に髪をきっちり七三分けにした、年の頃は三十代前半ほどの男性が立ち、愛想の良さそうな笑みをニコニコと浮かべて扉が開くのを待っている。
冬香は鍵を開け、扉を開いて顔を出した。
「……何かご用ですか?」
扉の前にいる男性が浅く会釈をする。
「朝早くにすみません。こちらは寿々川冬香さんのお宅で間違いございませんでしょうか?」
訪問販売かと思い、冬香は内心で面倒臭いと思いながらも頷き返した。
「ええ、寿々川は私です。何かの勧誘や訪問販売なら間に合ってますけど」
先手を打った冬香に男性が笑みを深くした。
「勧誘と言えば勧誘なのですが。──……この平凡な日常から抜け出して、貴女が望む愉快なことをしてみたいと思いませんか?」
男性の言葉に冬香は黙って探るような視線を向ける。
自分に負けず劣らず凡庸そうな男性の笑みが、先程までの愛想の良いものから、どこか不気味さを感じさせるものへと変化していることに気付く。
それは冬香自身に通ずるところがあった。
「立ち話もなんですから、上がってください」
面白そうな匂いを嗅ぎ取った冬香は、扉を開け放つと男性を室内へ招き入れた。
男性はまた会釈をしつつ「お言葉に甘えてお邪魔します」と随分腰の低い態度で部屋に上がる。
先ほど朝食を食べていたテーブルの椅子の片方を男性に勧め、何か飲み物でも出そうかと考えた冬香はとりあえず紅茶を淹れることにした。安いティーバッグのもので、やはりこちらも安いスティックシュガーを添えて出す。
そんなものでも男性は恐縮しながら受け取り、スティックシュガーを入れてスプーンで混ぜると一口飲んだ。
「いやあ、寒かったのでありがたいです」
相変わらず不気味な笑みのまま、そう言った。
そのどこか戯けた様子を見ながら冬香も安い紅茶を片手に男性の向かい側にある椅子に腰掛ける。
カップへ口をつけた。
いつもの安い紅茶だ。
だが男性は美味しそうにそれを飲んでいる。
「それで、どのような勧誘ですか?」
冬香の言葉に男性がカップをテーブルに置く。
「ああ、申し訳ありません、こういったものはなかなか飲めないものでつい。私はこういう者でございます」
男性が上着のポケットから名刺を取り出した。
そこには「世界神組合 第四階級第三十二神 ヴァイデンフリード」と書かれていた。
……色々と突っ込みを入れた方が良いのだろうか。
「まずは私について説明させていただきます。私は人間が言うところの神と呼ばれるべき存在となります。それについて、今この場で証明いたしましょう」
男性がカップを手に取り、それを少し持ち上げると傾けた。
中身がこぼれると思った瞬間、中に入っていた紅茶が流れ出し、そして空中で静止した。
ハッとして、つけっ放しのテレビと時計を見る。
どちらも止まっていた。
それだけではない。
外の音も全く聞こえなくなっていた。
窓の外に出て下を見下ろす。
地面を歩いている人間達も止まっている。
世界中の音が消え、無音に包まれていた。
ベランダから中へ戻り、席に着く。
「今、この世界の時間を停めさせていただいております。寿々川様へのご説明が終わりましたら、また元通りに動かす予定ですのでご安心ください」
「……紅茶がこぼれてしまいますね」
「おや、そうですね、それは困ります」
男性がカップを元に戻すとこぼれかけていた中身がまるで逆再生したかのように戻っていく。
「さて、これで信じていただけたでしょうか?」
冬香は頷いた。
「では改めて私自身について説明いたします」
まず、世界はいくつも存在するのだと言う。
物語が書かれた本が星の数ほどあるように、世界も数えきれないほど存在し、そしてその世界一つ一つに神が存在する。
目の前の男性は男神ヴァイデンフリードであり、神々の世界では第四階級に在籍し、その階級にいる三十二番目の神だそうだ。
「第四階級は、会社で言えば平社員です。上位の神々、まあ、上司達に納める世界を生み出すのが私達第四階級の神々の仕事なのです」
しかしいくつも世界を生み出したとしても、全てが問題なく出来上がるわけではない。
上位の神々に納めるには基準がある。
最低でも、万単位で時間の過ぎた世界でなければならず、生き物の数などの適切でなければいけない。
だが基準を満たす世界というのは少ない。
「ちなみに寿々川様の生まれ育ったこの世界は既に上位神の一柱であるお方に納められた世界であり、数ある世界の中では希少な『完成した世界』なのです」
そしてヴァイデンフリードもまた、上司へ納める世界を生み出しているのだが、そこで問題が生じている。
「世界の決まりの一つに、その世界を担当する神が直接世界の流れに関わってはならない、というものがございます」
つまりヴァイデンフリードは手を出せない。
「それなら神託なり何なりを行えば良いのでは?」
「一応、その世界の者の中には使徒や聖者と呼ばれる者は存在しますが、多くは生み出せません。そしてその世界の使徒や聖者に神託は一度しか下せないのです。しかし別世界の者ならばその限りではありません」
なるほど、と理解した。
だから別世界の存在である私が必要なのだ。
自分の世界で、自分の代わりに動ける存在。
「それで、私に何をさせたいんですか?」
男性、ヴァイデンフリードは笑った。
「何、大したことではありません。寿々川様には使徒として、ヒト種の数の調整をお願いしたいのです」
ヴァイデンフリードの世界にはヒト種と呼ばれる生き物がいる。
ヒト種と呼ばれるのは、エルフ、獣人、ドワーフ、そして人間の4種類だ。
世界には種族それぞれに適正値というものが存在する。
しかし現在の四種類のヒト種は数値が乱れている。
その数値を適正値に戻す。
「調整の方法は問いません」
ヴァイデンフリードが手を翳した。
その掌の前に半透明の青い画面のようなものが現れた。
そこには五つの数が書かれていた。
エルフ、獣人、ドワーフ、人間、そしてその合計値。
「適正値内ならば緑に、減少していれば青に、増加していれば赤色で表示されます」
「人間の数値だけ赤いですね」
「ええ、そうなのです。それが問題でして」
人間だけが異常に増え過ぎてしまった。
そして増えた人間は自分以外のヒト種、つまりエルフやドワーフ、獣人といった他のヒト種を差別し、自分達人間こそがヒト種の中のヒト種であると傲るようになる。
聖者と呼ばれる存在が人間のみ現れるのも、それに拍車をかけたという。
「実際はヒト種の中で最も弱いのが人間であり、他のヒト種から迫害されないために聖者を人間から選んでいるだけに過ぎなかったのですが……」
その人間の方が他のヒト種を迫害し始めた。
エルフの森に攻め入り、ドワーフを追い出し、獣人を奴隷とするようになった。
「数は放っておいても増えていきますが、減少するのは困るのです。そこで寿々川様には主に人間の数を減らしていただきたいと考えております」
相変わらずの不気味な笑みを浮かべている。
「それはつまり、人間を殺せと?」
「はい、その通りでございます!」
男性が嬉しそうに頷いた。
「方法は一切問いません。魔法で虐殺しても良し、どこかの国同士を戦わせても良し、人間を減らすことが出来れば問題ありません。ああ、だからと言って人間が行なっている迫害をやめさせる必要はございません。それもまた世界の在り方の一つですので」
「増え過ぎたヒト種を適正値に戻せばいいということですね」
「ええ、そうです。勿論、寿々川様のお好きな方法でやっていただいて構いません。ただ、私の世界で使徒となる場合、こちらの世界での人生は捨てることになります。代わりに私の世界で使徒として働いてくださっている間、不老不死と無尽蔵の魔力をご提供いたします」
他にも世話をしてくれる精霊もつけるという。
「随分と待遇が良過ぎるのでは?」
「そうでしょうか? 世界を一つ無駄にしてしまうよりも、寿々川様に投資して世界を存続させた方が手間も時間も無駄になりませんので」
「どうされますか?」と問われる。
冬香はそれにニヤリと笑った。
答えなど最初から決まっている。
「喜んでその仕事、お引き受けします」
冬香はずっとずっと退屈だった。
この退屈でつまらない人生をやめたいと思っていた。
しかし現状において、それを捨てて冬香の思うような愉快なことを行うのはリスクが高過ぎる。
けれど、目の前の男性は言った。
冬香の愉快なことをしたくはないか、と。
そうして先ほども、冬香の好きなように行って良いと言っていた。
冬香は人の生き死にに関することが好きだ。
そして人の負の感情や欲望が大好きだ。
嘆き、悲しみ、絶望する。
欲望のままに動き、暴れまわる。
人が本性を曝け出すところが大好きなのだ。
それを是とされた。
この冬香の異常さを良しとされた。
それだけで冬香には十分であった。
「ありがとうございます! そう言っていただけると思っておりましたが、こうして頷いてくださると安心しますねえ」
男性が立ち上がった。
「では、早速で申し訳ありませんが私の世界へご案内させていただいてもよろしいでしょうか?」
差し出された男性の、ヴァイデンフリード神の手を冬香は取った。
「ええ、よろしくお願いします」
冬香は笑った。
この世にこんなに愉快なことがあったとは。
さあ、新しい世界へ旅立とう。
冬香が立ち上がると、男性と冬香の姿は掻き消えた。
同時に世界に音と時間が戻ってくる。
テレビがニュースを伝え、時計の針がカチカチと小さく響く。
部屋の主はもう、この世にいなかった。