復讐を果たしたわたしが王弟殿下の婚約者になりました。(冒頭・続)
「……で、……だった?」
「それが……」
人の話す声が聞こえてくる。
聞いたことのない、男性の低い声と、やや高の高い男性の声がヒソヒソと何かを話しているが、その内容までは聞き取れない。
ぼんやりとその声を聞いているうちに、段々と意識が浮上する。
「彼女の名前はニナというそうです。なんでも、二年半ほど前にヴァニエストの者達に村を焼かれた、その生き残りだとか」
……わたしのこと?
急激に意識はハッキリして目が覚める。
目を開ければ、少し離れた場所に椅子を置いて座っている男性と、立っている男性がいた。
どちらも黒地に紅い差し色のある軍服のような、制服のようなものをかっちりと着込んでいて、白い手袋が目立った。
……誰?
「ん? ああ、目が覚めたようですね」
椅子に座った男性が振り向いた。
男性は灰色がかった金髪を緩く後ろで纏めており、赤い瞳が穏やかに細められた。
端正な顔立ちはどちらかと言えば綺麗だけれど、その顔の向かって左側──本人から見れば右目──には縦に傷痕がある。
そのせいかどこか凄みがあった。
その脇には枯葉色の髪にくすんだ青い瞳の男性も立っている。
灰色がかった金髪の男性が立ち上がる。
「大丈夫ですか? 突然倒れたと聞きましたが、どこか痛いところはありませんか?」
男性の言葉に起き上がって確認する。
サラ、と肩口で髪が揺れた。
……ああ、そうか……。
血に染まったから髪は切ってしまったんだった。
……サーシャが「雪みたいに綺麗な色ね」って褒めてくれた、自慢の髪だったんだけどな。
「……ありません」
手の中に硬い感触があり、見れば、あの黒曜石のナイフを握ったままで、掌に跡が残っていた。
男性がベッドの脇に膝をついて、わたしと視線の高さを合わせる。
「あなたはダルトワ村のニナで間違いありませんか?」
「……はい」
男性の問いに頷き返す。
「気絶する前のことは覚えていますか?」
もう一度、頷いた。
「改めて、フォートリエ王国軍北方司令部所属アウグスト=フェルファウンド大佐だ。……と言っても、あなたにはよく分からないですよね」
困ったように男性、フェルファウンドという人が苦笑する。
「大佐、分かります。この砦の一番偉い人が大佐でした。軍隊の中で、上から数えた方が早い人」
「……ええ、そうです、物知りですね」
フェルファウンド様と呼ぶべきだろう。
その人は微笑むとそっとわたしの頭を撫でた。
綺麗な顔立ちだけど、その掌は大きく、筋張って少し硬くて、剣を握っている人の手だった。
「どうしてあなたがあそこにいたのか、お話していただけますか?」
柔らかな声にわたしは頷いた。
説明しなければいけないのは分かっていた。
「わたしは、復讐をしたかったんです」
この張り裂けそうなほどの苦しみを。
痛みを、悲しさを、怒りを、後悔を。
今はただ、誰かに話したかった。
* * * * *
ベッドの上で少女が淡々と話している。
その内容は、まだ幼さの強く残る少女が口にするにはあまりにも残酷なものだった。
このフォートリエ王国は自国の北方に位置するヴァニエスト王国と長い間、小さな衝突を繰り返してきた。
その中で少女は生まれた村を襲われ、偶然、ここまで逃げ延び、そして砦の中で下働きとして迎え入れられたという。
この北方ではそういう境遇の者は少なくない。
だが、少女は二年この砦で暮らした。
二年の間に彼女には家族のような存在が出来た。
「サーシャとジャンは、本当のお姉ちゃんとお兄ちゃんみたいに思っていました」
きっと、この砦での生活は楽ではないだろう。
それでも少女の懐かしむ表情からは、それが幸せな日々だったのが窺えた。
しかしその平和は長くは続かなかった。
五ヶ月前ほど前、この砦は陥落した。
ヴァニエスト王国の騎士達の手によって。
「……わたしのせいで、サーシャとジャンが死にました……」
少女は一滴も涙をこぼさなかった。
淡々とした声だった。
けれど、その小さな手がきつく夜石を握り締め、荒れた手は、血が微かに滲むほどであった。
表情が変わらないその姿は見たことがある。
戦争で大切な者を喪くして心を閉ざしてしまった者や、全力で何かに打ち込んで目的を達した者などが、こういう風になってしまうことがある。
少女は大切な者を喪った後について語った。
目の前にいる仇を憎しみ、行いに怒り、喪った嘆きに苛まれながら、四ヶ月、仇に媚を売る。
それがどれほどつらく、屈辱的な気持ちであったかは想像に絶するだろう。
……まだ、こんな幼い子が……。
「そして、あいつはわたしを呼びました」
あいつ、というのはあの部屋で首を掻き切られて息絶えていたあの男のことだ。
少女は名前も口にしたくないようだった。
それもそうだろう。
そこで初めて少女が俯いた。
「殺されてもいいから、殺したかった……」
淡々とした幼い声だ。
小さな手が、その手に収まるほどの夜石を両手で握って額を押し当てる。
四ヶ月かけて彼女が削り出した小さな石のナイフ。
四ヶ月も、殺意を抱き続けて作り上げた武器。
「わたしはどうなってもいい。ただ、サーシャとジャンのために……。ううん、わたしの復讐のために、絶対に殺すって思った」
話を聞いた後では、見方が変わる。
満足に武器なんて手に入れられない状況で、それでも必死にこの少女は考えて、あの男を殺すためだけに行動し続けたのだ。
少女の行動を理解出来なかった砦の者達はこの少女から距離を置いていたらしい。
たった一人で少女は戦ったのだ。
「あの瞬間だけが、殺せるから……」
そのために自分の命も、貞操も、全てを投げうってでも成し遂げたい。
「……わたし、」
「ちゃんとやれたよ」と淡々とした声が掠れた。
それは誰に向けた言葉なのかすぐに分かった。
「……サーシャ、ジャン……」
少女が本当の姉や兄のように慕っていたという二人の人物の名前が呟かれる。
声が震えていた。体も、震えていた。
それでも、少女は涙を見せなかった。
ただ紅い瞳は水面のように潤んでいた。
「……あなたは英雄です。敵国の将を討ち取った、史上最年少の英雄となるでしょう」
アウグストはそう返すしかなかった。
慰めの言葉も、励ましの言葉も、この小さな少女にかけるにはあまりにも非情なもののように思えたのだ。
だから事実しか口に出せない。
少女は黙って目を閉じた。
小さく、震える吐息がゆっくりと吐き出された。
「これが、わたしの全てです」
そう言って少女が目を開ける。
その瞳はもう潤んではいなかった。
幼い外見に似合わない、氷のような無表情が微笑み、アウグストは小さく息を呑んだ。
その表情はあの惨状の広がる部屋に突入した時に見たものと同じだった。
……この子を一人にさせてはいけない。
本人がどう思おうとも、敵国の将を討ち取ったこの少女こそが今回一番の功績を持つ。
「あなたには一緒に王都へ来ていただくことになりますが、大丈夫ですか?」
少女は小さく頷いた。
アウグストは振り返り、部下のアルドア=ウィンザードに声をかけた。
「王都に着くまで、護衛兼世話役としてオルフェウスを彼女につけるように」
「はっ」
手を振れば、ウィンザードはすぐに行動を開始して部屋を出て行った。
それからアウグストは少女を見た。
「王都に行けば、国王陛下があなたに褒美を与えてくださるでしょう。よほどのものでなければ、恐らく大抵の願いは叶えられると思います。……何か欲しいものはありますか?」
少女はしばしボーッとして、首を振った。
「そうですか……。では、何か思いついたら教えていただけますか? 前もって陛下に書状を送ることが出来ますので」
少女は一つ頷いた。
時間は深夜、それもあんなことがあった後なので疲れているのだろう。
……今日はもう休ませた方が良さそうだ。
「私は席を離れますが、代わりにオルフェウスを側につけます。まだヴァニエストの残党が残っている可能性もあるため、護衛という意味もあります」
少女はまた一つ頷いた。
嫌がる素振りはない。
ただ、紅い瞳がぼうっと手の中の夜石を見ている。
部屋の扉が叩かれる。
「入りなさい」
「失礼します」オルフェウスの声と共に扉が開く。
数少ない女性軍人の一人で、実力もあり、気配りも出来るオルフェウスならば少女を任せても問題ないだろう。
「それではニナ嬢、今日は休んでください」
少女がふ、とこちらを見る。
宝石のように透き通った美しい紅い瞳だ。
アウグストの目も赤いが、少女の瞳の方が深く、濃い色合いである。
肌も髪も、睫毛すらも白い少女はどこか神秘的だ。
「ニナで、いいです」
静かな声だった。
アウグストは頷き返した。
「了解しました、ニナ」
そうして立ち上がり、後はオルフェウスに任せて部屋を出る。
今日、史上最年少の英雄が生まれた。
人々は彼女を砦を救った英雄と謳うだろう。
その裏側にどのような事情があったのか、人々にはきっと語られることはない。
血溜まりの中で全てを諦めたように微笑んだ少女。
何故彼女が敵国の将の首を取らんとしたか、それを知った今、とてもではないが彼女を「英雄」だなんて呼べはしない。
小さな少女の覚悟と怒りだったのだ。
決して英雄譚などではない。
これは小さな少女に降りかかった悲劇なのだ。
「そんな少女を英雄に祭り上げなければならないなんて……」
せめて今後は少しでも、少女にとってつらいことがなければい良いと思う。
……それも難しいか……。
王都に行けば、貴族達がいる。
幼い少女は噂の的となるだろう。
それでも、功績を挙げてしまった以上は隠し立てすることは許されない。
アウグストは小さく息を吐き、歩き出した。
* * * * *
「え……?」
その話を聞かされた時、ドルッセルは例えようのない衝撃を受けた。
だが、強いて言うならば、何か大きなもので目一杯、頭を殴られた時のような、一瞬聞いた話を理解出来なかった。
「そ、それは本当なんですか?」
横から発された声が、自分のものではないことにまた驚いた。
全く同じことをドルッセルも訊こうとしたから。
自分達よりも若いが、その胸元を彩る勲章や肩のラインで階級はずっと上だと一目で分かる、灰色がかった金髪の上級将校が同じ言葉を繰り返した。
「ああ、この砦を占領していたヴァニエスト軍の将を、ニナ=ダルトワが一人で討ち取った」
それを聞き、ドルッセルはどうやってと思い、そして理解してしまった。
四ヶ月前のあの忘れられない出来事を。
何故、あれからニナの言動が変わったのかを。
あの四ヶ月前の出来事は、本当はニナが悪かったわけではないとドルッセルも頭では分かっていた。
悪いのはヴァニエストの騎士だ。
幼いニナに無体な真似をしようとするのを見れば、ドルッセルだって思わず制止の声を上げただろう。
娘サーシャの行いは間違っていなかった。
相手が悪かったのだ。
ヴァニエストの騎士は非道だった。
死者にも平然と鞭を打ち、人を人とも思わず、我が物顔で己の欲望を満たす輩ばかりだった。
ニナは被害者の一人だ。
だがドルッセルは頭で理解していても、心はどうしても納得出来なかった。
あのままニナを近くに置いていたら、きっと、ドルッセルはあの小さな頬を力の限り打ってしまっただろう。
娘の守ったニナを傷付けたくない。
しかしニナがいなければ娘も、そしていつかは息子になるはずだったジャンも死なずに済んだかもしれない。
相反する二つの感情に挟まれてドルッセル自身もどうすれば良いのか分からなかった。
それでも近くに置いておけないと思った。
だからニナに顔を見せるなと言った。
それ以上何かを言えば罵声を浴びせてしまうし、それ以上側にいたら暴力を振るってしまう。
その後、サーシャとジャンを殺した男にニナは懐き、ドルッセルはそれを見た時、失望したのだ。
あんなにサーシャとジャンはニナに良くしていたのに、事もあろうに二人を殺した男に擦り寄るなんて、と怒りすら湧いた。
もしもニナと二人だけになっていたなら、ドルッセルは間違いなくニナを殴っていた。
「……どうやって……?」
ドルッセルの呟きに上級将校が言う。
「夜石を削ってナイフを作り、それで男の首を掻き切った」
思い出すのは、ニナの笑顔だった。
サーシャが街でお土産に買ったという夜石を、ニナが娘から貰ったのだと嬉しそうに報告してきたことがあった。
夜石は確かに砕くと鋭く尖る。
尖った部分で手を切ることもある。
ドルッセルはガクリと膝をついた。
この四ヶ月、ニナは二人を殺した男にべったりくっついていた。
仕事も放り出して、砦の者達も、ドルッセルも、ニナが心変わりをしたと思った。
中にはヴァニエスト側に寝返った恩知らずと罵る者もいた。
……でも、もし、あれがあの子なりに考えた結果だったとしたら?
死ぬほど憎い相手に媚びへつらうことで、機会を窺っていたとしたら?
ニナは幼いが、その見た目よりも賢い子だ。
年齢よりも大人びた真面目な子だ。
……ああ、そうだ……。
ドルッセルは悔しくて涙が出た。
あの子はとても真面目な子だ。
初めてこの砦に来た時から、幼いなりに仕事を一生懸命こなしていた。
夜食の入った重いバスケットを両手で抱えて、小さな足で砦中を歩き、皆に配って回る。
あの小さなニナが笑顔で「夜食です」と持ってくる姿を見ると、どんなに厳つい顔の者でも笑顔になった。
小さな体で大変だろうに愚痴一つこぼさない。
「ああ、くそ……っ」
あんな小さな体で、小さな手で。
ニナはドルッセル達に出来なかったことを成し遂げたのだ。
きっと命がけだったはずだ。
砦奪還のために軍が来ていなければ、ニナの計画が成功しても、失敗しても、ニナは殺された。
自分達はその間、何をしていた?
厨房で働く非戦闘員だからとヴァニエストの騎士達に怯え、従い、ただただ現状を嘆くばかりだった。
何かしようなんて考えもしなかった。
助けが来るのを待つだけだった。
「馬鹿は俺だ……!!」
ニナはサーシャとジャンの、そして殺された砦の者達の仇を討った。
勝てるはずがないと最初から諦めて何もしなかった自分こそが、大馬鹿者である。
「すまない、すまん、ニナ……っ!!」
大切な二人を喪って、あの子が何も感じないはずがないというのに、あの子の立場も気持ちも考えようともしなかった
悔しくて、恥ずかしくて、涙が止まらない。
形容しがたい感情にドルッセルは嗚咽を漏らし、その場から立ち上がることも出来ずに両手で顔を覆う。
幼い声の最後の言葉は「ごめんなさい」だった。
……ニナ、お前は何も悪くない。
悪いことなんて、一つもなかったのだ。
* * * * *