復讐を果たしたわたしが王弟殿下の婚約者になりました。(冒頭)
暗い部屋の中に月明かりが差す。
大きな寝台から降りて窓辺に寄る。
濃く、生臭い鉄の、血の臭いに包まれている。
……わたし、やったんだ……。
体が馬鹿みたいに震えている。
手にはいまだ感触が残っている。
思わず見下ろした手は赤黒く濡れていた。
「サーシャ、ジャン……」
……二人の仇を取ったよ……。
部屋の外が騒がしい気がする。
何だろうと顔を向けるのと、両開きの扉が廊下側から勢いよく開けられたのはほぼ同時だった。
「武器を捨て投降し、ろ……」
そこには見知らぬ男性達が立っていた。
服装からして自国の軍の人間だと分かった。
この砦を取り返しに来てくれたのだろう。
……でも、一歩遅かった。
わたしが微笑むと男性達が息を呑む。
敵国の人間はわたしが殺した。
* * * * *
わたしがわたしとして生まれたのは十年前。
名前も知らない小さな村で生まれた。
母親は生まれたわたしを見て「金になる」と喜んだ。
わたしは白髪に雪のように白い肌、紅い瞳、日差しに弱い体を持っていた。そういう人間は夜人と呼ばれて、特別視されているらしい。
貴族に売ればかなり高値で買ってもらえるそうだ。
それを知ったのは五歳の時だ。
わたしは普通の赤ん坊ではなかった。
どういうわけか前世の記憶があった。
その頃は現代人として二十歳まで生きてきた。
何故死んだのかは思い出せない。
そんな記憶があるせいか、わたしは泣きもしなければ、騒ぎも暴れもしない、不気味な赤ん坊だっただろう。
母親は気味悪がってわたしを村の馬小屋に押し込んだ。
世話をしてくれたのは少し年上の姉だった。
だが、姉はわたしを嫌っていた。
「なんでわたしがアンタの世話なんかしなきゃいけないのよ。いいわよね、夜人は。働かなくても食事が食べられるんだから」
いつもそんなようなことを言われてきた。
実際そうなのでわたしは文句はなかった。
日差しに弱いこの体は、日中外へ出ることが出来ない。外へ出て日差しに当たると肌は火傷したみたいに痛くて堪らないし、眩しくて目を開けているのも難しいのだ。
わたしは姉が持ってきた食事を日に一度食べて、酷く肌触りの悪い毛布を被って馬小屋の片隅に蹲っているだけ。
自分の状況を受け入れるのに二年かかった。
最初は夢だと思ったが、空腹でお腹が痛いのも、寒さで体が震えるのも、全てがあまりに現実味を帯びていて、夢だとは思えなかった。
ここが現実だと認めてからは情報を集めることにした。
昼間は馬小屋に閉じこもり、夜になるとこっそり抜け出して、家々から微かに漏れ聞こえる声に耳を傾けた。
その時に自分が貴族に売られることも知った。
十歳まで育てたら売る気らしい。
……その前に逃げなくちゃ。
それからは体力作りをした。
夜にひっそりと散歩をしたり、体を動かしたり、逃げるために努力した。
だが八歳のある日、村が襲われた。
ずっと同じ馬小屋で過ごしてきた老馬のリジーに深夜に頭を食まれて起こされた。
そうして眠い目を擦りながら、背中を鼻先でせっつかれつつ、体を起こす。
リジーはわたしを自分の子供と思っているのか、寒い日は寄り添ってくれたり、具合が悪いと心配してくれる、優しい雌馬だ。
水でも飲みたいのか、お腹が空いたのか。
リジーを馬小屋から出すと、リジーは村の外に向かって歩き出した。
元々村の中心からは離れていたし、少しくらいならバレないだろう。
そう思って村から離れている間の出来事だった。
気付けば村から大分離れており、村のあるだろう方角の空が明るくなっていた。
……燃えてる?
ハッとしたが、わたしはリジーに引っ張られてそのまま村から離れて歩き続けることになった。
昼間は陰で休息し、夜に歩く。
二日ほどそうしていると砦を見つけた。
「ん? お前誰だ? ……その馬はダルトワ村のリジーか?」
ダルトワ村というのがわたしの生まれた村らしい。
リジーは自分の覚えている場所に来たようだ。
わたしはその砦で保護されることになった。
後から聞いた話だが、ダルトワ村に確認に行った人の話によると、焼き払われ、村人達は殺されていたという。
恐らく隣国ヴァニエストの騎士の仕業だろうとのことだった。
わたしのいるフォートリエ帝国は、隣接するヴァニエスト王国と長年小競り合いを続けており、仲が悪く、国境沿いではこういうことがたまにある。
わたしの村は運悪くヴァニエストの騎士達に見つかって、襲われたのだ。
母親や姉、村人に思うところはない。
あの村の人間とは関わることがなかったから。
わたしはそのまま砦で暮らすことになった。
夜人のわたしは夜に働くことになったが、砦は昼夜問わず国境を見張っているので、夜に働ける人間は思いの外、歓迎された。
砦の人達は優しかった。
彼らもヴァニエストとの戦争で家族や友人を亡くしており、行く当てのないわたしを受け入れてくれた。
夜に起きて、夜食をカゴに入れて、見張りの兵士達に配りに行くのがわたしの仕事だ。
給金はないけど衣食住が補えればいい。
「ジョン、夜食持ってきたよ」
見張りの少年が振り返った。
「お、ありがとうな、ニナ」
重いカゴを受け取り、ご褒美と言わんばかりに頭を撫でられる。
そこには見慣れた少女も一緒にいた。
「サーシャもいたんだ。おじさんに言って何か持ってくればよかったね」
少女が笑う。
「ありがとう、ニナ。でももうちょっとしたら寝るから大丈夫」
おいで、と手招きされて近付けば抱き締められた。
「そうだ、ニナにこれをあげようと思って。今日ダラスの街に行ってきたから、そのお土産。この黒い宝石みたいな石は夜人が持っていると幸運を運んできてくれるんだって」
差し出された巾着を受け取る。
中にはツヤツヤした黒い拳ほどの大きさの硬い石が入っていた。
……これって黒曜石かな?
「もらっていいの?」
「うん、ニナにあげたかったの」
「ありがとう、サーシャ」
ジャンとサーシャはわたしを初めに見つけて、この砦に置いてくれるよう頼んでくれた。
それにわたしにニナという名前を与えてくれた。
サーシャはお父さんと一緒に厨房で働いており、ジャンはサーシャと幼馴染で、両親を戦争で亡くした後にこの砦へ来たそうだ。
この二人は付き合っている。
将来、結婚するんだと話していた。
この砦の人はみんな好きだけど、ジャンとサーシャと、サーシャのお父さんは大好きだ。
本当の家族のように接してくれる。
だからわたしも家族のように思っている。
わたしはこの砦で二年過ごした。
この平和な日々がずっと続くと思っていた。
でも十歳のあの日、砦が夜襲を受けた。
大勢のヴァニエストの騎士達が数の暴力に物を言わせて、押し入ってきたのだ。
砦のみんなは必死に戦ったが、勝てず、半数近くが殺されてしまった。
ジョンとサーシャ、サーシャのお父さん、数名の戦えない人達と倉庫に隠れていたけれど、見つかった。
殺されはしなかったものの、それからはまるで奴隷の如く、毎日朝も夜も働くことを強要された。
反抗した人はみんな見せしめに殺された。
誰もが悔しくて、泣いて、それでも仕事を休むことは許されなかった。
ヴァニエストの騎士達を引き連れてきた男は、殺した人間を砦の壁に吊るし、それを眺めて酒を飲むような人間だった。
多分、誰もが怒りを覚えていただろう。
砦が陥落して一月ほど経った頃。
掃除をしていたわたしは突然髪を引っ張られた。
ヴァニエストの騎士達を統率している男がわたしの髪を掴んでいた。
「夜人か。報告にはなかったが。……まあ、まだ子供か」
容赦なく引っ張られ、顔を見られる。
「ほう」
まじまじと顔を見つめられる。
「この辺境の地に来た時はこんな場所と思っていたが、意外な掘り出しものを見つけたようだ。これなら多少は夜も楽しめるか」
舐めるように見つめられてゾワッとする。
そうして髪を掴んだまま引きずられた。
……痛い。
一緒にいたサーシャが男の前に飛び出した。
「お、お待ちください! ニナはまだ子供です!」
あ、と思った次の瞬間には、わたしの髪を掴んでいた手が離れて、サーシャを殴っていた。
「サーシャ!」
倒れ込んだサーシャに慌てて駆け寄る。
サーシャの唇の端は切れていて、もしかしたら口の中も切っているかもしれない。
「これだから平民は」
吐き捨てるように言われる。
「ならお前でも構わないぞ? どうする? この夜人の代わりになるというなら、この子供は見逃してやってもいい」
そいつは最低な男だった。
ニヤニヤと笑いながら言う男に、サーシャは顔を強張らせた。
「サーシャ、いいの」
サーシャにはジャンがいる。
いつか結婚するのだ。
こんな男の相手なんて絶対にダメだ。
立ち上がりかけた腕を掴まれる。
「わ、私が代わりになります……!」
「サーシャ! 何言ってるの?!」
「いいから、ニナ」
サーシャが立ち上がる。
「そうか」
男はサーシャの腕を掴むと乱暴に連れて行く。
追いかけて男の手を掴んだけれど、乱暴に振り払われ、サーシャに「ニナ!」と鋭く名前を呼ばれた。
見上げた先でサーシャは微笑んでいた。
「大丈夫だから」
それがサーシャを見た最後だった。
翌日、サーシャの死体が砦の外に吊るされた。
服すら着せてもらえず、それを見たジャンがあの男に掴みかかろうとし、切り殺されたと聞いた。
わたしはおじさんに謝った。
わたしのせいでサーシャは死んだ。結果的にジャンが死ぬことになったのもわたしのせいである。
おじさんは血が滲むほど唇を噛み締めていた。
そしてただ一言「俺の前に顔を出すな」と言われた。そう言われても仕方がない。
ジャンの死体も砦の外に吊るされていた。
下ろすことも許されない。
泣いて、泣いて、泣き続けて、そして思った。
……あの男を殺してやる。
サーシャの死体は暴力を振るわれた跡があった。
ジャンの死体には何度も切りつけた跡があった。
二人は結婚して、幸せになるはずだったのに。
「……許さない……」
それからは復讐するために動いた。
出来る限り男に媚び諂った。
媚びて、甘えて、従順に。
砦のみんなからは嫌われたけど、復讐のためだと思うとそれほどつらくはなかった。
あの男を殺す。絶対に殺してやる。
ただそれだけを思いながら、サーシャからもらった黒曜石を毎日少しずつ削り、整え、機会を待った。
砦でこっそり飼っていた鶏で練習もした。
鶏には可哀想なことをしてしまった。
四ヶ月、わたしはあの男に好かれる努力をした。
そのおかげだろうか。
「今夜部屋に来い」
そう言われて、わたしは心底嬉しかった。
やっと復讐の機会が訪れた。
夜を待ち、わたしは服の下にナイフを隠し持って向かった。
見張りの騎士達はわたしが子供だからか、武器の確認はされず、運が回っていたと思った。
手の中にある冷たい感触をしっかり握る。
そして部屋に現れたわたしにあの男はとても上機嫌で、何の疑いもなくわたしを寝台へ引き入れた。
無防備なことに、剣は外して寝台から離れたテーブルの上に無造作に置いてあった。
「ああ、本当に美しいな」
体を這う手の感触が気持ち悪い。
吐き気を抑え、わたしは無邪気に笑いながら男の首に腕を回す。
男の顔が近付いて来る。
ギュッと男の首にしがみつく。
……機会は今しかない。
唇が触れた瞬間、わたしは黒曜石のナイフを男の首に当てて躊躇いなく引き裂いた。
男が驚愕の表情を浮かべて体を引き離した。
その顔の下から血が噴き出し、寝台の上をどんどん赤く染めていく。
男が喋ろうとしているがパクパクと口が動くだけだ。
手が伸びてきてわたしの首を掴んだ。
ここで殺されても構わない。
わたしの復讐は成功した。
首にかかる圧迫感に意識が薄れかけたが、ふっと首への圧が緩み、男がばったりと寝台へ倒れ込んだ。
咳き込みながら男の下から這い出した。
顔にも手にも男の血が付いている。
月明かりが部屋を薄っすら照らし出す。
この世界の月は紅く、月光もそのせいでほんのりと赤みがかっている。
白い髪も肌も、全て紅い。
そして冒頭に至ったのである。
部屋に押し入ってきた男性達は呆然とわたしと部屋の惨状を眺めていた。
「君がそこに転がっている男を殺したのか?」
先頭にいた男性に問われて頷く。
「そうか。……私はアウグスト=フェルファウンド。この砦を奪還するため、皇帝陛下の命でここまできたのだが」
言わずとも分かる。
わたしがその敵の頭を討ち取ってしまった。
「何故君のような子供が……。いや、それは後にしよう。オルフェウス、この子をどこかの部屋で綺麗にしてやってくれ」
「了解しました」
オルフェウスと呼ばれて返事をしたのは女性の声だった。
男性達の中から女性が一人出てきて、わたしに手を差し出した。
「あなた、お名前は?」
「……ニナです」
「そう、ニナちゃんっていうのね。私はレティーファというの。そのままだと困るから、一緒に来てくれるかな?」
それに頷いて、少し考えたけれど、差し出された手を掴んだ。
血塗れのわたしを見ても手を差し出したのだから、汚れても文句は言われないだろう。
別の部屋に連れられて、そこでレティーファさんはわたしに待っているように言って、大きな桶とお湯を持ってきてくれた。
服を脱いで、桶に入るとあっという間に真っ赤になった。
それでもレティーファさんは何度もお湯を張り替えてくれて、わたしの体と髪を洗ってくれた。
白い髪は血を吸って淡いピンク色のまま、血の色が抜けなくなってしまっていた。
「髪を切ってもいいかしら?」
「……お願いします」
そうして、レティーファさんはハサミを持って来てわたしの髪を切ってくれた。
血に染まった部分が多くて、腰くらいまであった髪はあっという間に肩に少しつくくらいまで短くなる。
まだ手の中にある黒曜石のナイフを見る。
「それは大事なもの?」
うん、と頷いた。
切り終えた髪は捨ててもらった。
適当な大きな服を着させられると、レティーファさんに連れられて部屋を出る。
砦の空気が変わっているのが何となく分かった。
……もう、終わったんだ。
そう思うと体の力が抜ける。
レティーファさんが慌てていたけれど、わたしは緊張の糸が切れたのか、そのまま気を失ってしまったのだった。