背中合わせ
走っていた。ずっとずっと、少なくとも十分以上は走っていた。
肺が痛くて堪らない。膝も笑い出してきたし、私に腕を引かれて走っているあの子も、多分限界が近い。
私の右手には鈍く光る拳銃が握られていた。替えの弾倉はあと一つ。銃内部には恐らく二発。
これだけであの男達を蹴散らすのは無理だ。体術の達人ならまだしも私もあの子も一般人なのだから。
「ま、って…!も…っ無理、!」
苦しげに喘ぐような声が後ろから聞こえてくる。振り返れば泣きそうな顔のあの子。
前に視線を戻せば大きな庭園がある美術館があった。
「頑張れ!あそこまで走って…!」
「うん…っ!」
開きっ放しの観音開きの扉から美術館に飛び込む。だけどまだ休む訳にはいかない。あの子の手を引いて美術館を突っ切る。
外に出て広い庭園に足を踏み入れた。整えられた芝生の柔らかさが靴の底を通して伝わってきた。
綺麗に剪定されている植木、それも他の木々の中にあるものを探し、その根本にあの子を押し込む。相対するように向かいの植木の根本に私も隠れた。
あの子は疲れているからか一言も喋らない。ただ乱れた息を整えようと出来るだけ音を立てないように呼吸を繰り返しているようだった。
――――さくり。
聞こえた足音に自然と息が止まる。体に力がこもり、背筋を嫌な汗が流れた。
あの子が酷く怯えた様子で目を見開いている。息を潜めて…そう、お願いだから動かないで。
足音が近付き、植木の隙間から黒いスラックスに包まれた足が見えた。その足は暫く立ち止まっていたが――きっと周囲を見回していたんだろう――やがて離れていった。
少し遠くで私達を追い掛けてきた男達の声がする。スーツにサングラスという気質には見えない格好の彼等は何故かあの子を執拗に追い掛け回す。
理由は本人も皆目見当がつかないらしい。私にも分からない。
ただ一つハッキリしているのは捕まってしまったらあの子は殺されることだけ。
男達の声も聞こえなくなった。もしかしたら美術館の中を探しているのかもしれない。今なら逃げられるだろう。
あの子が植木の下から体を少し出した。
途端、黒い足が視界に入り、あの子が掴まれて植木から引きずり出されてしまう。
「!」
それからはまるでスローモーションのように世界が流れていった。
植木から体を投げ出してあの子の腕を掴んでいる男に発砲する。足を銃弾が掠めた。それに反応して男が片手に持っていた拳銃を私へ向け発砲。
しかしそれは私に当たることなく近くの芝生にめり込んだ。立ち上がった私は男へ突進する。予想外だったのか男の手があの子の腕を放した。
このままでは男の力に負けてしまう。拳銃のグリップ部分を男の側頭部へ叩きつける。一発、二発……
三発目を振り下ろそうとしたが、男の顔を見て愕然とした。
手から力が抜けて拳銃が芝生へ落ちる。あの子が私の名前を呼んだけれど、男から視線を逸らせない。
…………なんで、
「どうして、…?」
馬乗りになり気絶させようとしていた相手は私の弟だった。あの子とも仲が良かったはずの、たった一人の大切な弟。
私と似て少し広い額の端に血が滲む。拳銃のグリップで殴った場所から出血しているんだ。
「…姉貴…」
弟が私を呼ぶ。瞬間、涙が溢れてきた。
「ごめっ、ごめん…っ。ごめんね…!」
大切な家族を傷付けた。本当に…本当に大事で、絶対傷付けたくないと思っていたたった一人の弟をあろうことか殴ってしまった。
両手で顔を覆ったけれど涙は止まらない。
弟の手が私の頬に触れる。いつの間にか私よりも大きくなっていた弟の、少しかさついた指の感触に体が震えた。
「…泣くなよ」
困ったように言う弟の顔を私は見下ろした。声音通り困った表情で眉を下げている。
「これは俺が選んだんだ。姉貴が悪いんじゃない」
「でも…!」
「いいから。姉貴達はさっさと逃げろよ。追っ手がくるぜ?」
弟の言葉にハッとする。そうだ、早く逃げなくては。発砲音で恐らくこの場所にいることはバレてしまっただろう。
立ち上がれば弟は血の滲む額に手を当てていた。
服についた葉を払ってあの子の手を掴む。もう一度弟を見ると早く行けといいたげに手が振られた。
「…ごめん」
それだけ言って、落とした拳銃と弟が持っていた拳銃を拾うと私は走り出した。
あの子が走りながら振り返る気配がしたけれど、私は振り返らずに走り続ける。
噛み締めた唇には痛みと共に微かな鉄の味が広がった。
その日を境に、私と弟の人生は一変してしまった。