五月雨の庭
異種族……妖犬族の姫として、祖父の元へ連れてこられた千早。
彼女は、そこで運命の選択を迫られる!
そんな千早は、青桐にあわい想いを寄せ始めて……!?
「……はぁあ〜」
よく手入れされた庭園の見える、部屋の青畳に伏したまま千早は、本日何度目かの溜息をつく。
行儀悪く、ごろりと寝返りして五月雨にけぶる庭を見ていた彼女を、穏やかな中音の声が咎めた。
「ほらほら姫様、せっかくのお召し物が台無しですよ……起きてください。甘味をお持ちしました、白桃……お好きでしょう?」
「……うん……」
千早はのろのろと起きあがると、本意ではないが、瑠璃の碗を差し出しながら微笑む青年を見た。
彼の名を彩軌という、青桐直属の部下だそうだ。
(青桐……早く帰ってこい。早く、お前ともっと話がしたい)
「……青桐」
意に反して思わず出た言葉に、ハッと口を噤むが遅く、彩軌が小さく首を傾げた。
その仕種が、どこか少女のようで。
線が細く、女性と見紛う容姿の彼が、青桐と同業とは思えない。
それが、少し悲しい。
「青桐が心配ですか? 姫」
「げふうっ! べっ、別に心配なんか! ……してないことも、ないけど」
食べた白桃を喉に詰まらせかけて、目を白黒させる自分を見て軽やかに、本当に面白そうに笑う彩軌を、千早は涙目できつく睨んだ。
(うわ……涙目!)
「わっ、笑うな! 急に青桐の話なんかするからっ」
「姫は本当に可愛らしい、〈あの〉青桐が大切にしたがるのも頷けるよ……」
「可愛いとか言うな……彩軌の方が、あたしよりもっと女らしい」
「姫…俺、これでも男ですよ?」
彼のきれいな笑顔が、半分引きつっている。どうやらそれは禁句のようだ。
「悪い……でも、キレイなのは確かだぞ」
「話を戻します、いいですね? 青桐は、この常世ノ国の忍者ですが……彼に関する詳細は一切…誰もが不明だと言います」
一つ咳払いをして、彩軌はその表情を曇らせた。
「やっぱり強いんだな、青桐は……」
「あれ、白桃、もう召し上がらないので? 千早姫?」
「……ああ、もういい」
千早は、碗を床に置いて立ちあがり、一人縁側に腰掛ける。
うわのそらに応えた千早の後ろ姿を、彩軌がどこか切なげに見つめていたのを、彼女は知らない。
再び静寂が訪れ、ただ五月雨の雨音だけが僅かに響く。
(頭領の事しか、姫は考えておられない。青桐ではなく、もし自分が守護者だったなら、姫は俺を見てくれるのだろうか?)
痛い。
痛い、胸が痛い。
姫……せめて紛い物でもいいから、俺を見てください。
「なあ彩軌」
そんな彩軌の心境を見抜くように、千早がふり返った。
「はい」
「気を病ませてしまったようだな、すまない。あたしの事なのに、お前のほうが痛そうな顔をしていたぞ?」
「え……」
五月雨の庭を背に微笑む千早の目は、泣いている。
小さな肩が震えないように。
自分が震えているのが知れないように、必死に堪えている。
「……姫……」
(お館様は、なんて酷なことをなさるのか……まだ目覚めてもいない彼女を連れてきて。結局は…殺してしまうのに)
さぞ、心細いだろうに。
「青桐なら大丈夫ですよ。あの方なら今頃、国内のあちこちを飛び回っているでしょうね。他国からの要請ですが、ああ見えても忙しいのですよ。ですが…姫が呼べば、彼は必ずあなたの元へ戻ってきます」
「うん…きっと、戻ってくるよな」
もう、なにも考えられない。
彼がいないなんて。
考えたくない。
彩軌がなにか言っていたが、千早はわざと聞かないようにした。
考えれば考えるほど、会いたくて堪らなくて。
敢えて耳を塞いだのだ。
(……それに……)
待つのは、いつも辛い。
『おぅ千早、以前よりは強くなったな』
『ホントか!』
今でも、よく覚えている。
旅の祓い師をしていた父とは、帰ってくる度に、いつも武術の手合わせをしていた。
『父さま、本当に行くのか? 物の怪退治に』
『ああ……それが祓い屋の使命だからな』
『行ってらっしゃい、父さま! おみやげ持ってきてねっ』
『おいおい…遊びに行くんじゃないんだぞ?』
じゃれつく愛娘を抱きあげて、頬傷のある、端正な顔をほころばせて父は笑った。
『大丈夫、父さまは強いから!』
『そうかぁ、じゃあ…母さまと留守を頼んだぞ』
『うんっ』
思い出すのは、いつも『行ってくる』の笑顔と、大きな手の温もり。
そして‐‐―――‐‐。
『奥さまぁ! 旦那様が……旦那様がっ』
父は、帰ってきた。
冷たい、亡骸となって。
『父さま……父さまあぁ、死なないって、言ったのにっ……!』
そして……無言の『ただいま』と、雨の日の慟哭。
だから待つのは不安で、それを思うと泣きたくなる。
「姫さま、なにを! お風邪を召されますっ、早く中へ!」
裸足のまま、雨の中に出た千早を抱きあげようとした彩軌は、勁い瞳に射抜かれて、咄嗟に手を離してしまった。
「姫……?」
「頼む、あたしのことを思うなら……このまま、一人にしておいてくれ。待ちたいんだ、自分の目で戻ってきた青桐を見たい」
ぱしゃりと、裸足が水溜まりを踏んだ。
やがて小糠雨は、刺し貫くような土砂降りに変わる。
「だから、お前は中に戻ってくれ。一緒に風邪を引くこともあるまい」
土砂降りの中、その背中を切なげに見つめていた彩軌は、きつく歯を食いしばっていたがやがて、踵を返して館へ戻っていった。
「すまないな……あたしは、青桐がいいんだ」
小さく呟いてから、しっとりと濡れた髪を掻き上げて、千早は鈍色の空を仰ぐ。
雨音が満ちていく。
冷たい雨なのに‐‐――‐なぜか心地よかった。
「早く戻ってこい、逢いたい……」
頬を、雫が滑っていく。
それが雨なのか、涙なのかは、彼女自身にも分からない。
ただ、それだけしか考えられなかった。
と、その背後で、ばしゃりとなにかが水を踏んだ。
慌てて振り向く千早。
そこには、青桐がいた。
腕には刀傷、太股には黒塗りの矢が刺さって血が出ている。
返り血だらけ、泥だらけだが……確かに青桐本人だった。
「青……桐?」
「お前、そんな格好で……なに泣いてんだよ」
「だって!」
「っと」
きつく抱きついてきた千早を、青桐はどこか嬉しそうに受け止める。
「……当分戻らないってっ、置いてかれたかと思って」
きつく抱きついたまま泣きじゃくる千早を抱き返して、青桐は大仰に溜息した。
「馬鹿が……俺がいつお前を置き去りにしたよ? ちゃあんと戻ってきただろうが」
「もう離れるな! あたしの傍にいろっ」
ぐずぐずと鼻を啜る千早に苦笑いして、青桐は抱き寄せた彼女の額に口づけた。
「なんだ、俺に惚れたのか?」
冗談交じりに言う青桐に、千早は思いきり赤面してしまう。
「ばっバカ! そんな訳あるかっ、お前はあたしの守護者なんだろっ…ただ、それだけだっ」
(戻ってきて、よかった)
初めて『傍にいて欲しい』と思えた男。
もう離さない。
「……とりあえず、傷の手当てをしないとな。入ろう、中へ」
雨に濡れた小さな肩がどこか愛しくて、青桐は眩しげに目を細めた。
(この姫は、俺の帰りを待っていた……俺なんかのために、雨に濡れて)
‐‐―‐‐愛しい。
そう思ったのは、錯覚だろうか?
「なにしてる、置いてくぞ?」
千早が不思議そうに振り向く。
「あ、ああ?」
「青桐……」
追いついた青桐の手を握り、千早は小さく、だがはっきりと言った。
「青桐……おかえり」
「……ああ」
ニィと、不敵に笑う青桐の傍で、千早は幸せを噛みしめている。
「雨降って、地固まる…ですね」
柱の陰に潜みながらくつくつと小さく笑って、どこか寂しそうに彩軌が呟いたのだった。