雨の日の別れ
『どうか……どうか目覚めないで、お願い、千早を人間にしておいて』
だが、母の願いは叶わず……千早は目覚めてしまった!
そこに、千早の覚醒を察知した妖犬族(千早の母・耶廉の種族)の男・青桐が現れる。
誰かいる!
千早は、耳の奥で大きな騒めきを聞いた。
騒めきはやがて、警鐘に変わる。
父と母、使用人、そして庭師の老爺以外を、千早は見たことがないのだ。
(誰だ……誰なんだ!?)
高まる恐怖心。
堅固に四方を囲む警報機があるはずなのに、一体何者が忍び込んだというのか?
しかしこの時は、好奇心が勝った。
「そこに、誰かいるのか?」
雨に濡れるのも厭わず、千早は裏庭にまろび出た。
細かな雨音が、耳元を掠めていく。なにもかもが無音に思われたその刹那、押し殺した、低い男の声が云った。
【妖犬族の声を聞くとは……やはり、おぬしは目覚めたか】
「誰だ!」
雨に濡れた千早の黒髪が、水分を含んで鈍い墨色に光る。
【気丈な娘よの……それ、ここにおるわ】
泥が寄り集まる。‐‐――‐いや、泥ではないのかも知れない。
不自然に蠢きながら『それ』は人間とおぼしき姿をとった。
千早は悲鳴を上げそうだった。しかし声が喉に張り付き、声が出ない。
「よ、妖怪……」
彼は、墨色の髪を煩そうに掻き上げると、真っすぐに千早を見た。
その瞳は赭‐‐―‐血の深紅だ。
千早の前に立つ彼は、見かけは若いようで、それでいてそうでもないような、不可思議な雰囲気を発していた。
【やっと目覚めたようだな、待ちわびたぞ。我が姫、そなたを迎えに来たぞ】
「冗談! ヘンな物に付いていくほど、あたしはバカじゃない」
差し出してきた男の手を、千早は思いきり払いのけて怒鳴る。
【ほほぅ、その『ヘンな物』の血を、おぬしも引いているのだぞ】
「嘘だ! あたしは人間だぞっ、バカなこと言うな」
それでも、くつくつと面白げに笑う男を、千早は初対面にして、心底嫌いになった。
その端正な顔を綻ばせて、男は食らいつく千早を弄ぶ。
【信じられぬのなら、母に聞くがよいさ】
「母さまに……なんてだ!?」
【自分は〈鬼〉なのか、と】
「……鬼……?」
オニ、鬼……なんの鬼だろう?
追儺なら、もう二月も前に済ませたはず。
【おぬし、可笑しな事を考えておるな】
笑いを含んだ男の声が、さらに千早の波立った気持ちを逆なでにした。
無礼千万、この上ない。
「なんだと! 人をどこまでもバカにして、楽しいか!」
そこまで怒鳴りかけて、千早はハッと口を噤んだ。
「千早、どうかしたの? そんな大声をあげたりして」
振り向いたそこに、傘を差した母がいたからだ。
【そぅら、聞いてみるがいい……知りたくはないか? 己のことを】
声は尚も笑いを含んで、千早を唆す。
それでも千早には、先に進む勇気がなかった。
【なんだ……怖じ気づいたのか? 仕方ないのぅ、俺が言ってやろう】
依然、小雨は止む気配がない。
しとしとと慎ましやかに、涙を落とし続けている。
【久しいのぅ、耶廉……俺を覚えているだろう?】
母が大きく目を張り、短く息を詰めるのが見て取れた。
「そんな……まさか、どうして……お前にここが解ったのです」
千早は、これ程までに怯える母親を、初めて見た。
「母さま……? この男を、知っているの?」
耳の奥で鼓動が煩い。
戦きで、全身を血潮が逆流している。
「……青桐……」
母は、云った。
「青桐……それがこの男の名前? どうして彼は、あたしを知ってたの?」
困惑した千早は、幼子のように母の着物の袖を引く。
「千早、騙されてはダメ……この男は」
そこまで言いかけた母親を、青桐は幾らか鼻白んで云った。
【こ奴は逃げたのだ、我が一族からな】
「逃げた……?」
鸚鵡返しに呟いた千早の肩を、いつの間にか、青桐が引き寄せていた。
【耶廉よ……千早が目覚めたはそなたの咎ぞ。絶命などと、愚かな真似はせぬ事だ】
「どうして、母さま……どういう事? 目覚めって、〈鬼〉ってなんなの?」
その怯えた声にビクリと肩をすくめた母親は、悲しげな絶望の眼差しで、我が子を見つめた。
「覚醒など、来ないと思っていたのに……来なくてよかったのに。知ってしまったのね」
【千早はお前などよりも、優れた能力を持っておる……これが今生の別れ。忘れるが、おぬしの為じゃ】
「……母さま……」
娘の、濡れて墨色に光る髪を愛おしげに撫でつけながら、母親は嗚咽を堪えていた。
「この子を連れて行くというのなら、約束して頂戴……必ず、千早を守ると」
【いいだろう……千早は俺の相棒だからな、そうなると決まっていたことだ】
青桐は千早の手を牽きながら、片手で腰の刀を抜いた。
引き抜かれた刀身が、雨を含んで、ぬらりと鈍色に嗤う。
一閃。
青桐は、雨でけぶる宙を斬った。
斬られた空間は、雨の重みを含んで垂れ下がる。
雨の幕を翻し、青桐は千早の肩を抱いて空間の狭間・〈あわい〉に消えていった。
〈あわい〉の底は、光に満ちていた。
夏の陽光より眩しい空間は、草の海が漣を描いてたなびき、色様々な花が、思い思いに咲き乱れていた。
道なき道を、二人は連れ立っていく。
「お前、幾つだ?」
「先に、アンタから言えよ」
にべもなく突っぱねた千早に、青桐は苦笑を浮かべた。
「勝ち気な奴だ…」
千早は青桐を引き離して、歩調荒く先を進んでいく。
「こらこら、話は終いまで聞けよ」
「なんだっ」
歩みを止めず、千早は青桐を見ようともしない。
「幾つかと聞いたな、応えてやろうか」
からかいを含んだ声に、千早は怪訝に片眉を上げて立ち止まった。
「そうだなぁ……見かけのよりは長く生きてる。おぬしよりは年上だな」
「大体20代後半あたりだろ。あたしは20……年増なんかに興味はないよ」
つんと顔を逸らし、とりつく島もない千早に、青桐は遂に噴き出してしまった。
「なに怒ってるんだ。‐‐――‐ああ、さっきの事か?」
「そうだな。‐‐―――‐けど違う。あたしをどこへ連れて行くつもりだ? それに、結局〈鬼〉がなんだか解らなかった。なんなんだ、〈鬼〉って」
眼光鋭く睨みつける千早に首を竦めてから、青桐は足元に生えていた花の一房を千早に渡す。
「やるよ、それ……飾ってやるから少しは落ちつけ、なっ?」
「〜〜〜っ、あたしは子供じゃないんだぞ! バカにしてるのかっ、さっさと教えろっ」
「分かった、怒鳴るなよ。〈鬼〉は長きを生くる者……勿論人間とは違う。変幻自在なんだ、お前もさっき見ただろ?」
悪びれた風もなくニカッと笑いかける、青桐の端正な顔に一瞬見惚れかけ、千早は慌てて抗議を再開させる。
「答えになってない! ここはどこで、あたしをどうする気だっ」
必死に怒鳴る千早に、青桐はまたも肩を小さく竦めて見せた。
「ほれ……少しは落ちつけ」
きぃきぃと煩く騒ぐ千早の髪を、青桐はやんわりとかき混ぜてやる。
「ちょっと……やだってば、要するに、妖怪の一族って事? 母さまも、みんな隠してたの? 最悪の展開だわっ」
千早は腕組みして、つんと明後日の方を向く。
「手っ取り早く言えばそうなるか、千早……これだけは言っておく」
「なんだ」
不機嫌も露わに振り向く千早の頬には、青筋が浮かんでいた。
「お前の母は一族を裏切った、下界でお前を産んですぐに雲隠れしたのだ。行方知れずのお前を、俺たちは手を尽くして探し出し、いまようやく捕まえた」
青桐の真摯な瞳に、千早はどこか居心地悪そうに身じろぎした。
「だから、なんだ」
千早の背筋が、急速に凍りついていく。
聞きたくない。
聞きたくない、なのに……。
逃げることも、耳を塞ぐこともできなかった。
「お前は、長の孫娘だ。そして俺は、お前の守護者。お前が生まれると同時にそう定められた」
千早は真っ直ぐに青桐の目を見返した。
「長って……アンタの一族の?」
「お前のでもあるんだぞ、そんな顔するな」
鼻面を抓まれて、千早は思いきり青桐の手をはたき飛ばす。
「そんなこと、言ったって……」
千早は戸惑う。
それ以外に、どういう反応をすればいいのかさえも分からない。
しかも、いきなり事実を告げられても、そう簡単に受け入れられるはずもないのに。
自覚はあっても、実感が沸かないのだ。
この男は、自分をどこまで連れて行くのだろう……?
「これから、どうするつもりだ?」
おずおずと尋ねる千早に、青桐は大仰に頷いた。
「これから行くのは長の屋敷だ……一族の者は、外から戻ると必ず長に会うことになっている」
「長って……どんなヒトだ?」
〈長〉だなんて、いま時分はなにかの時代劇でしか聞いたことがない。
(いま何時代だよ……戦国時代か?)
それを聞いて、千早はますます萎縮してしまった。
「立派な方だ……厳格で美しい」
「……ふぅん」
「立派な方でな、俺の父親代わりだ」
ただ頷いただけの千早に、青桐は大まじめに説いてみせる。
「……そうか……」
急激に景色が移ろっていき、花々の咲く青草の原から、まるでそこだけを切り取ったような、川砂利を曳いた黒土の大地が現れた。