羅生門的生存戦略 少女は男の脇毛を抜いていた
ある日の夕暮れ時のこと。
一人の男が、旧市街の南端に聳え立つ巨大な朱塗りの歩道橋の下で雨宿りをしていた。
空を覆う鉛色の暗雲からは激しい土砂降りが容赦なく降り注ぎ、かつてはこの街のシンボルだった古びた鉄骨や太い柱を黒く濡らしている。赤く塗られた塗装のあちこちが剥げ落ち、年月の残酷さを物語っていた。
男——いまや職を失ったばかりの元警備員は、大きな溜息をつき、雨に濡れて額にへばりついた髪を乱暴に押し上げた。
「……ハァ、マジでどうすんだよこれ……」
彼はごく最近まで、大手の警備会社「東都警備保障」の契約社員として働いていた。しかし先月断行された大規模なリストラの波に呑まれ、一昨日に突然の即刻解雇を通告されたばかりである。
手元にあるのは、コンビニの安い弁当を数回買ったら底をつく数千円の電子マネーと、腰のベルトに挿した護身用の伸縮式警棒が一本だけ。
このままでは路頭に迷って餓死してしまう。
元警備員としてのプライドを保ったまま誇り高く行き倒れるか、あるいは……身を落として、通りすがりの人から財布をひったくる「泥棒」になるか。
「いやいや、泥棒って! 俺、こう見えても採用時の『適性倫理テスト』だけは満点だったんだぞ!? 落ちぶれたからって略奪とか無理無理無理! でも腹減った!」
頭を抱えて歩道橋の下で一人ノリツッコミを繰り返す男。
広い高架下には、彼のほかに誰もいない。ただ、剥げかけた大きな鉄柱に、寒さに震える大きめのカマキリが一匹とまっているだけだった。
「お前もリストラされたのか? 奇遇だな。一緒に餓死するか?」
カマキリは返事をしない。当たり前である。
雨脚はさらに強まり、夕闇が本格的に古い街並みを呑み込もうとしていた。
寒さと空腹で指先が痺れてきた男は、暖を取るため、そして今夜の雨風を凌ぐ寝床を確保するために、この巨大な歩道橋の中央にある旧管理用の閉鎖された階段を登り、使われていない連絡通路へ入ってみることにした。
そこはホームレスや訳ありの人物が潜む不気味な場所だと噂されていたが、今の男にとっては寒風を防げるならどこでもよかった。
「失礼しまーす……誰もいませんよねー……?」
錆びついた鉄の階段を、ギシ……ギシ……と音を立てて登っていく。
手すりは埃とサビまみれで、登るにつれて湿気とカビの嫌な匂いが鼻をついた。
階段を登りきり、うっすらと街灯の光が届く連絡通路の闇へと足を踏み入れた瞬間——
「ひっ……!?」
男は思わず悲鳴を噛み殺した。
そこには、怪しい段ボールや打ち捨てられた粗大ごみが転がっていた。だが、彼を戦慄させたのはその光景そのものではない。
闇の奥、スマートフォンの青白いライトに照らされた一角で、何者かが横たわる男の上に跨がっていたからだ。
(な、なんだ!? 変質者か!? 都市伝説の妖怪か!?)
恐怖で膝がガクガクと震える。
その「何者か」は、身をかがめ、倒れている男の腕を強引に持ち上げて脇のあたりに向かって手を動かしていた。
プチッ。プチッ。と、妙にシュールで不審な音が暗闇に響く。
「……痛っ! ああもう、この体毛、根元からなかなか抜けないんだけど!」
……え?
声が、妙に可憐で爽やかだ。
男は目を凝らした。
スマホの青白い明かりに浮かび上がっていたのは、不気味なバケモノなどではなく、艶やかな漆黒の黒髪と、吸い込まれそうな大きな瞳を持った、十五、六歳ほどの超絶美少女だった。
ただ、その美少女は今、路上で酔い潰れて眠っている男の腕を持ち上げ、毛抜きらしき器具で腋毛を一本一本ものすごい形相で引っこ抜いている最中だった。
「うりゃ! 抜け! 抜けぇぇぇ! この毛さえあれば、高級なウィッグやカツラの特殊加工用としてフリマアプリで高く売れて、明日の焼き肉が食べられるんじゃぁぁ!」
少女は腋毛を引っこ抜くたびに、妙にスタイリッシュな決めポーズを作っている。
(いや待て、落ち着け俺。雨宿りのために古びた歩道橋の二階へ登ってきたら、路上で酔いつぶれた男がいて、その死体みたいな男の上にまたがった超絶美少女が一心不乱に腋毛を引っこ抜いていて、しかもそれをフリマアプリで売って焼き肉を食べようとしてるって……どんな状況だよ!? シュールすぎるし不審人物なんてレベルじゃないぞ……!!)
「……気配検知。後ろに誰かいますね」
男の足音が鳴ったのか、少女がぬめっとした無駄のない動きで振り返った。
その黒髪を揺らし、猫のようにくりっとした瞳で男を睨む。鼻筋が通った可憐な顔立ちをしているが、手にはしっかりとむしり取ったばかりの黒々とした毛の束が握られていた。
「ひぃっ! 幽霊!? それとも不審な毛抜き妖怪!?」男は思わず叫んだ。
「失礼な。私は極めて正常な人間です。というか、不法侵入はお前の方では? こっちは先客です。私のテリトリーを荒らさないでください」
少女はすっと立ち上がると、むしり取った毛を大事そうにウエストポーチに仕舞い、ツカツカと歩み寄ってきた。
「私はただの……現在はしがない無職の毛髪(主に腋毛)回収業者です」
「職種として成り立ってなさすぎるだろ!? 俺はただの元警備員だ! 同じく無職のな!」
「無職……? なんだ、ただの生産性のない人間ですか」
「生産性がないって言うな! 構造改革の被害者と言え! ていうか何で人の腋毛なんだよ!」
二人は街の片隅の不気味な空間で、何故か全力で口喧嘩を始めてしまったのだった。
「で? 無職のあなたは、こんな衛生環境の劣悪な場所に何しに来たのですか? 自ら社会的な死を選ぶために飛び降りにでも来たのですか?」
少女は構えを解くと、パンパンと服の埃を払いながら呆れたように言った。
男はぽりぽりと頭を掻く。
「いや……雨宿りと、できれば暖を取れる寝床を探しにな。しかしお前、よくそんな可愛い顔で路上で寝てるおっさんの腋毛なんて抜けるな。怖くないのか? というか普通は髪の毛だろ!」
「恐怖という感情は、空腹という危機を前にすれば優先度が下がります。それに、髪の毛は傷みが激しいですが、脇の毛は摩擦に強く、高級なウィッグや特殊な精密ブラシの素材として高く買いたたか……買取されるのです。それにね……」
少女は急に無表情のまま真顔になると、足元に倒れていびきをかいている酔いつぶれた男を指さした。
「この人だって、生前……じゃなくて、日頃から倫理的に重大な欠陥を抱えている可能性が高いのですよ?」
「え? 知り合いなのか?」
「いいえ、初対面です」
「知らないのかよ!」
「データはありませんが、私の観察眼と直感が告げています。この服の汚れ具合、酒臭さ……絶対に普段から路上で吸い殻をポイ捨てし、『飲み屋のネオンが眩しかったから』とか言い訳するタイプです。間違いない」
「偏見と決めつけが凄すぎるだろ!! 完全な濡れ衣だぞ!?」
男は呆れ果てて頭を抱えた。この少女、顔はめちゃくちゃ美しいのに、言っていることが無茶苦茶である。
「いいですか」
少女は男の前に歩み寄ると、すっと顔を近づけてきた。
あまりの距離の近さに、男の心臓が跳ね上がる。ほのかに甘いシャンプーの香りと、かすかに毛抜き用オイルの匂いが鼻をくすぐった。
「生存確率を最大化するためには、時に軽微なマナー違反やグレーゾーンの行為は許容されるのです。このおじさんも路上で寝て通行の妨げになっている(推測)のですから、私が生きるためにこの腋毛を回収して焼き肉を食べることも、私の倫理基準において正当化されます。これぞ私の誇る『自己生存肯定論』です!」
「なんだその勝手なロジックは! 完全な屁理屈じゃないか!」
「屁理屈ではありません。最適化アルゴリズムです。ではあなたは解雇されたショックとプライドを抱いたまま餓死するのですか!? それとも、軽微な『悪』を受け入れて生存を優先するのですか!?」
少女の瞳が、直球で男を射抜く。
その問いは、まさに男が歩道橋の下で悩み続けていた究極の選択だった。
泥棒になる勇気——。
それを持てずにいた男だったが、目の前の破天荒な少女の言葉を聞いているうちに、妙な思考回路が働き始めた。
(……待てよ?)
男は元警備員としての思考をフル回転させた。
少女の理論によれば、「生存のための悪事は許される」。
そして少女は今、寝ている男から毛を奪った「悪人(自称)」である。
ということは……。
「なあ」
「なんでしょう、無職さん」
「俺も今、スマホの電子マネー残高が数百円で、このままじゃ餓死するんだ」
「ふむ、栄養補給が必要ですね。私の焼き肉のタレをひと舐めくらいなら……」
「だから、俺がお前の羽織っているそのブランド物のジャケットを奪って質屋に持っていっても、恨まないでくれよな! 俺も生きるためだから!!」
「……は?」
少女の美しい顔がフリーズした。
男は一瞬で開き直り、少女が着ているオーバーサイズのジャケットの袖をガシッと掴んだ。
「ちょっと何を言っているのですかバカ! 私の構築したロジックを私自身に適応しないでください!」
「いやいや! お前が言ったんだろ!『生きるためなら悪事も許される』って! 俺はお前から上着を奪ってフリマアプリで売り、カツ丼を食べる! これぞお前の言った『自己生存肯定論』の完全なる適用だー!」
「システムエラー! 屁理屈のカウンター攻撃を検知! 撤回してくださいーーーっ!!」
少女は真っ赤になって暴れ出した。
「離しなさいバカ! 助けてください! 追いはぎです! 私が本気を出したら一秒で通報するレベルの変質者です!」
「悪人に人権はない! さあその上着をいただくぞ!」
「嫌です! これは古着屋で三日三晩悩んで買ったお気に入りの服なんです!」
「急にリアルで生活感のあるエピソード挟むな! 罪悪感が湧くだろ!」
ドタバタと暗い連絡通路で取っ組み合いを繰り広げる男女二人。酔いつぶれた男が気持ちよさそうにいびきをかき続ける横で、静かな空間は一瞬にして騒がしいコント会場へと変貌した。
しかしその時——
階段の方から、ドシドシと重い靴音が響いてきた。
「おい……上から賑やかな声がするぞ」
「不審者か? 巡回ルートを外れて溜まり場にしてるやつがいるのか?」
懐中電灯の光が階段の下から漏れてくる。
夜間巡回中の警察官二人組だった。
「「あっ……」」
二人はピタリと動きを止めた。
「危険検知。補導・取調べを受けると自由度がゼロになります……!」少女が青ざめる。
「俺も無職な上に路上で少女の服を剥ごうとしてた変質者として逮捕されるのは御免だ!」
男は咄嗟に少女の手を強く握りしめた。
「え……? 手部の圧迫感を検知……」
「走るぞ!」
「ちょっと、ジャケットは!?」
「もう要らん! 一緒に逃げるぞ!」
男は少女の手を引くと、連絡通路の反対側にある非常階段へと駆け出した。
雨が吹き込む踊り場。濡れた階段を二人は一気に駆け下りていく。
「ここから降りるのですか!? 足元が滑りますよ!?」
「滑らなきゃ転ばない!」
「論理的ではありませんーーーっ!」
二人は手を繋いだまま、夜の雨が降る街へと飛び出したのだった。
夜の街を逃げ走る二人の足音が、濡れたアスファルトにシャープな水飛沫を打ち上げていた。
土砂降りの雨は容赦なく全身を打ち叩き、ものの数十秒で二人の服をずぶ濡れにしていく。
「はぁ……はぁ……! おい、どこまで走るんだよ! 警察はもう追ってきてないぞ!」
男が肩で息をしながら振り返ると、手を引かれていた少女がピタリと立ち止まった。
その黒髪は雨を含んでしんなりと頬に張り付き、着古したオーバーサイズのジャケットからは水滴がぽたぽたたと滴り落ちている。
「息率の上昇と体温低下を確認……。このまま屋外に滞在し続けると、低体温症により生存確率が著しく低下します」
「そんな当たり前のことをドヤ顔で言うな! どこか濡れずに避難できる場所は……」
男が街並みを見渡すと、路地の角にぽつんと温かい黄色い光を放つ小さな店舗が目に入った。
看板には大きく「24時間営業 コインランドリー」と書かれている。
「よし、あそこだ! 飛び込むぞ!」
二人は滑り込むように自動ドアをくぐり抜けた。
自動ドアが閉まると同時に、激しい雨音が一気に遠のく。店内には乾燥機の温かい空気と、合成洗剤の清潔な香りが満ちていた。
「助かった……。生きてる心地がしねえ……」
男はベンチに崩れ込むように腰を下ろし、濡れた髪を手ぐしで払った。
少女はといえば、入店するやいなや店内の温度計と乾燥機群を素早くスキャンし、すっと空いている大型乾燥機の前に移動していた。
「分析完了。この空間は現在、雨風を防げる上、暖房効果と適度なプライバシーが確保されています。現代の避難所として極めて優秀です」
少女はそう言ってウエストポーチから濡れた毛の束……ではなく、小さなポリ袋を取り出し、中身が無事であるかを真真剣な目つきで確認した。
「よかった……奇跡的に回収した腋毛の品質は保たれています。これで明日の焼き肉への道は絶たれずに済みました」
「まだその毛に執着してんのかよ! ていうか、警察から逃げる羽目になったのも、元はと言えばお前が路上で不審な毛抜き行為をしてたからだろ!」
「誤解です。私は合法的な経済活動を行っていただけです。法制度の追いついていない新しいビジネスモデルに対する警察の過剰反応です」
「言い訳のスケールだけは無駄にデカいな!」
男は呆れて天井を見上げた。
腹が鳴る。ぐぅぅぅ、と情けない音が乾燥機の稼働音を破って店内に響き渡った。
「……空腹シグナルを検知。やはり生産性のない人間は代謝効率も悪いですね」
「うるさいな! お前だってさっき焼き肉焼き肉騒いでただろ!」
「私は明確なマネタイズ計画に基づいた欲望です。あなたのようにノープランで餓死寸前に陥っているわけではありません」
少女はあきれ顔で鼻を鳴らすと、腕を組んでベンチに深く腰掛けた。
黒髪から滴る雨粒が街灯の光を反射して、少しだけキラキラと輝いている。
「なあ」
「なんでしょう、無職さん」
「お前、名前は?」
男の問いに、少女は不機嫌そうに目を細めた。
「個人情報の開示はセキュリティリスクを伴います。……ただ、呼称がないのも不便ですね。『毛髪回収業者さん』と呼んでくれて構いません」
「長ぇよ! 職種だし!」
「では、あなたのことは『元警備員の無職』と呼びます」
「情報量が悪意に満ちてるだろ! ……たく、名乗りたくないならいいけどさ」
男は苦笑し、湿気で少し重くなった息を吐き出した。
コインランドリーの外では、相変わらず激しい雨が街を濡らし続けている。
家も仕事もお金もなく、警察に追われる立場になった二人。しかし、温かい乾燥機の風に包まれていると、男の胸の奥にあった絶望感は、不思議とほんの少しだけ軽くなっていた。
「……で、毛髪回収業者さん。その集めた毛、本当にフリマアプリで売れると思ってんのか?」
「もちろんです。私の算出した需要予測によれば、マニア層向けの特殊素材として最低でも三千円の値がつきます」
「絶対売れねぇよ……。よし、明日明るくなったら、元警備員の俺が正しいマネタイズってやつを教えてやる」
「ほう……無職のくせに生意気ですね。試してみますか?」
濡れた服を着た妙な二人組は、コインランドリーのベンチで、小さな静かな火花を散らすのだった。




