悪役令嬢は、ずっとここにいるのに
ミレジアは、みんなの真似をしていた。
令嬢たちが笑うときには、同じように扇で口元を隠した。
紅茶を飲む前には、カップへ顔を近づけ、香りを確かめるふりをした。
王太子が話すときには、少しだけ首を傾け、青い瞳を柔らかく細めた。
ちゃんと分かっている。
ちゃんと真似をしている。
みんながすることは、全部している。
それなのに、ミレジアが近づくと、いつも会話が止まった。
「まあ、今夜は冷えますこと」
「え、ええ。そうですわね」
令嬢たちは、ミレジアの肩越しに目をやり、顔を強張らせる。
中には扇を取り落とす者もいた。
どうしてだろう。
ミレジアは拾ってあげようと手を伸ばした。
すると令嬢は短い悲鳴を上げ、扇を置いたまま逃げてしまった。
「落としましたよ」
呼びかけても、振り返らない。
人間は、ときどき変なことをする。
自分で落としたものを拾わずに行ってしまう。
ミレジアは扇を胸元に抱え、持ち主が戻ってくるのを待った。
けれど、誰も戻ってこなかった。
今夜の王宮では、王太子レオハルトの成人を祝う大舞踏会が開かれていた。
広間には百を超える蝋燭が灯り、磨き上げられた床に光を落としている。
楽団は軽やかな曲を奏でていた。
貴族たちは笑い、踊り、祝いの言葉を交わしている。
その中央に、王太子レオハルトがいた。
ミレジアは、彼の婚約者だった。
だから、彼の隣に立った。
けれどレオハルトは、ミレジアを見なかった。
彼が見つめているのは、反対側に立つ少女だった。
ミレジアと同じ銀色の髪。
ミレジアと同じ青い瞳。
ミレジアが十五歳の誕生日に父から贈られた、真珠の髪飾り。
ミレジアが婚約式で着た、薄青のドレス。
ミレジアが王太子から受け取った、青玉の指輪。
そのすべてを身につけているのは、妹のリゼリアだった。
「ミレジア」
レオハルトが、妹を呼んだ。
ミレジアは微笑んだ。
「はい」
返事をしたのに、彼はこちらを向かない。
「緊張しているのか」
レオハルトは妹の手を取った。
「いいえ、殿下」
リゼリアは青ざめていた。
指先が小刻みに震えている。
「ただ、少し寒くて」
ミレジアは妹の背後から、その肩へ手を置いた。
「大丈夫よ」
リゼリアの体が跳ねた。
振り返らないまま、唇を噛む。
「わたくしがいるもの」
「……やめて」
小さな声だった。
レオハルトが眉を寄せる。
「何をやめるのだ?」
「何でもございません」
リゼリアは急いで答えた。
「独り言ですわ」
ミレジアは首を傾げた。
独りではない。
ここにいるのに。
いつだって一緒にいた。
リゼリアがミレジアの部屋へ移された夜も。
侍女たちがミレジアの衣装を、妹の体に合わせて縫い直した日も。
両親がリゼリアへ、姉の笑い方や歩き方を教えていたときも。
レオハルトが妹を抱きしめ、ミレジアの名を呼んだときも。
ずっと見ていた。
みんな、真似をするのが上手だった。
リゼリアは特に上手だった。
もう三年も、ミレジアとして暮らしている。
けれど今夜のリゼリアは、いつもと違った。
舞踏曲が終わると、彼女はレオハルトの手を離した。
そのまま広間の中央へ進み、震える声で告げた。
「皆様に、お話ししなければならないことがございます」
楽団の音が止まった。
国王と王妃が、険しい顔で身を乗り出す。
父は何度も首を振っている。
母は扇で顔を隠していた。
「やめなさい」
父が低く言った。
リゼリアは従わなかった。
「わたくしは、ミレジア・ローデンハイムではございません」
広間がざわめく。
ミレジアは、リゼリアの隣に立った。
妹は泣いていた。
「わたくしの名は、リゼリアです。ミレジアの妹です」
「何を言い出すのだ」
レオハルトの声も震えていた。
「君がミレジアだろう」
「いいえ」
リゼリアは首を振った。
「姉は三年前に死にました」
誰かが息を呑んだ。
驚いた顔を作った者はいた。
けれど、本当に驚いた者は一人もいなかった。
ミレジアには分かった。
みんな知っていた。
その顔だった。
「姉は、王宮の北塔から落ちました。けれど王家との婚約を失いたくなかった父は、姉によく似たわたくしを身代わりにしました」
「黙れ!」
父が立ち上がった。
「姉の死を隠し、わたくしに姉の名を与え、姉として生きるよう命じました」
リゼリアは泣きながら、髪飾りを外した。
「もう、続けられません」
真珠が床に散った。
ころころと転がり、そのうちの一粒がミレジアの爪先で止まった。
ミレジアはしゃがみ、それを拾った。
自分のものだったから。
「姉は、まだここにいます」
リゼリアが言った。
今度こそ、広間が完全に静まり返った。
ミレジアは嬉しくなった。
やっと言ってくれた。
「ずっと、わたくしの後ろにいるのです」
リゼリアは顔を覆った。
「眠るときも、食事をするときも、鏡を見るときも。ずっと、こちらを見ています」
ミレジアは微笑んだ。
「だって、心配なのだもの」
「見えるはずがない!」
レオハルトが叫んだ。
「死人がいるはずなどない!」
けれど彼の目は、まっすぐミレジアを見ていた。
初めてだった。
三年ぶりに、目が合った。
ミレジアは駆け寄り、彼の袖を掴んだ。
「見つけてくれた」
レオハルトの喉から、潰れた音が漏れた。
「やめろ」
「ずっといたのよ」
「触るな」
「どうして見ないふりをしたの?」
「来るな!」
王太子の叫びを合図にしたように、広間の人々が一斉に動いた。
扉へ殺到し、互いを押しのけ、転んだ者を踏み越えて逃げようとする。
けれど扉の前にも、ミレジアが立っていた。
窓の外にもいた。
大鏡の中にもいた。
磨かれた銀杯にも、蝋のように光る床にも、小さなミレジアが映っていた。
どこへ逃げても、必ず目が合う。
それから、ミレジアは誰にも触れなかった。
追いかけもしなかった。
ただ、みんなを見ていた。
それなのに、ひとりが床へ崩れ落ちた。
またひとりが、自分の目を両手で塞いだ。
「見えない」
男が繰り返す。
「何も見えない。何もいない」
指の隙間から、ミレジアを見ていた。
可哀想に。
そんなに震えて。
「大丈夫よ」
ミレジアは男の前へしゃがんだ。
「怖いものなんて、何もないわ」
男は絶叫した。
翌朝、百人近い貴族が、舞踏広間にうずくまっていた。
命を落とした者はいなかった。
ミレジアに傷つけられた者も、一人もいなかった。
ただ全員が、壁や床を見つめ、何もない場所へ謝り続けていた。
ローデンハイム公爵夫妻は、二度と正気に戻らなかった。
リゼリアは、自分の名前さえ言えなくなった。
王太子レオハルトだけは、その後も王太子としての日常を続けた。
朝になると、向かいの席へ紅茶を用意する。
夜には、寝台の片側を空ける。
廊下を歩くときには、隣にいる誰かへ微笑みかける。
「ミレジア」
彼は毎日、彼女の名を呼んだ。
「今日も綺麗だ」
ミレジアは、教わったとおりに扇で口元を隠す。
「ありがとうございます、殿下」
ちゃんと笑えている。
ちゃんと真似をしている。
いい子にしていれば、もう無視されない。
レオハルトは、とても優しくなった。
目を逸らさない。
眠るときも、食事をするときも、ずっとミレジアを見ている。
ときどき泣いてしまうけれど、人間はすぐに壊れるから仕方がない。
ミレジアには、どうして彼らが壊れたのか分からなかった。
自分は何もしていない。
誰も傷つけていない。
ただ、見つけてもらえるまで待っていただけ。
三年前から、ずっと。
ここにいるだけなのに。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、翠巳さんの『みえないこ』をモチーフに、悪役令嬢ものへ落とし込んでみました。
見えているのに、見ないふりをされる。
ここにいるのに、いないものとして扱われる。
何もしていないのに、怖がられる。
そんな「みえないこ」の怖さを、死んだあとも自分の居場所から動けない悪役令嬢として描きました。
ミレジアは最後まで、誰かを傷つけたつもりはありません。
ただ、自分がここにいると気づいてほしかっただけです。
けれど、見ないふりをしていた人たちにとっては、目が合ってしまうことそのものが罰だったのかもしれません。
少しでもゾッとしていただけましたら幸いです。




