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異世界 満喫トラベラー 〜もちろんダラダラと何もしないで過ごす日もあるよ〜

作者: みみたん
掲載日:2026/04/25

 意識が、ふわりと浮き上がるような感覚があった。

 つい先ほどまで、地獄のような仕事を忘れて私は片思い相手のリク君と食事をしていたはずだ。少しお酒も入って、いい雰囲気で、駅前の電柱の影。彼が顔を近づけてきて、私の心臓はうるさいほど跳ねていて――。


「……えっ、ここ、どこ?」


 目を開けると、そこは果てしなく広がる純白の空間だった。

 足元には雲のような柔らかなもやが立ち込め、境界などどこにも見当たらない。


「ここは次元の境界。現世と来世、そして異界とが交わる狭間の地じゃよ」


 穏やかな、けれどどこか重みのない声が響いた。

 振り返ると、そこには豪華な装飾が施された椅子に座る、白い髭を蓄えた老人がいた。後光のようなものが差しているが、着ているのはやけにカジュアルな法衣だ。


「ここはなんですか? あなただれ? リク君は!?」

「慌てるでない。わしは八百万の神の一柱。平たく言えば、お主たちの世界の管理運営を任されておる神じゃな。リク君ならまだあちらの電柱の影におるよ」


 神様、と自称する老人は気の毒そうな顔で私を見つめた。


「お主にとっては、受け入れがたい話かもしれぬが……落ち着いて聞くのじゃ。遥香よ。お主は今、このままでは命を落とす運命にある」

「神様? てか死ぬ? ……なんで死ぬと言い切れるんですか? 病気でもないし、こんな元気なのに、そんなの信じられると思います?」


「……非常に言いにくいのじゃが」


 詰め寄る私に、神様は哀れみの目を向ける。


「ならば、聞くよりも実際の未来視ビジョンを見せてやるのじゃ」


と、手元の水晶を指先で弾いた。


 その瞬間、私の脳内に強烈な映像が流れ込んできた。

 

 映像の中の私は、目を閉じてリク君のキスを待っている。……が。

 彼の顔が至近距離まで迫った瞬間、私の鼻腔を凄まじい「異臭」が貫いた。ドブ川と生ゴミを煮詰めたような、破壊的な口臭。

 映像の中の私が、耐えきれず「オエッ」と派手なえずき声を上げ、その勢いで仰け反る。

 ガツッ、と鈍い音を立てて横の電柱に頭を激突。さらにその反動で後ろにひっくり返り、後頭部をアスファルトに強打――。

 そこで映像は途切れた。


 真っ白な空間に、耐え難い沈黙が流れた。

 悲しみでも恐怖でもなく、猛烈な羞恥心が私を支配する。


「……そ、その死にかた、キャンセルできませんか?」

「運命とは非情なものよ。決められた因果を変えることは神にもできぬ……」


残念なものを見るような、なんとも言えない表情をした神様だが、真っ直ぐにハルカを見て希望の声をあげた。


「しかし、救いがないわけではない。今、神界ではある試みが流行っておってな。その年で『最も不幸な死』を迎える者を、死の直前にこうして召喚し、異世界へ転移させるというムーブメントがあるのじゃ」


 神様は少し身を乗り出し、悪戯っぽく微笑んだ。


「どうじゃ? 不名誉な死を迎え、神界の歴史に名を刻むか。それとも、全ての未練を捨てて、新たな世界で生き直すか。選ぶ権利はお主に与えよう」


 迷う必要なんて、一秒もなかった。


「……行きます。今すぐ行かせてください」


 リク君の口臭に殺されるなんて、未来永劫語り継がれるような恥晒しは、絶対にお断りだ。


「話が早くて助かるわい。いやぁ、実を言うと、わしもこの召喚枠を勝ち取るのに苦労してな」


 先ほどまでの神々しさはどこへやら、神様はタブレットのような板を取り出し、何かのグラフを確認し始めた。


「今の神界は空前の『異世界転生・転移ブーム』なのじゃ。他の神々もこぞって人間を送り出しておる。『異世界恋愛系』で甘酸っぱいドラマを流す女神もおれば、『追放ザマァ系』や『無双系』でスカッとさせたい男神もおる。サバイバルや宇宙戦争、はては少々刺激の強い成人向け配信まで、コンテンツは飽和状態よ」


 神様が言っているのは、まるで現代の動画配信サイトの事情だった。


「わしも一発、大きなバズりを生み出したくてな。そこで白羽の矢が立ったのが、お主というわけじゃ。さて、ハルカよ。お主は新たな世界で、どんな冒険がしたい? どんな英雄になりたいのじゃ? 望むままを申してみよ」


 神様は期待に満ちた目で私を見つめる。きっと、魔王を倒したいとか、聖女として崇められたいとか、そんな答えを待っているのだろう。

 けれど、私はもう疲れていた。

 毎日納期に追われ、人間関係に気を使い、最終的には好きな人の口臭で死ぬなんて。


「神様……私は、もういろんな意味で戦いたくないんです」

「ほう? 魔王を倒して勇者になる、という王道ベタは嫌か?」

「嫌です。疲れるのも、誰かのために義務を負うのも、もうお腹いっぱい。恋愛運だってないし……。私は、ただ仕事もせず、世界の綺麗なものを見て、いろんな文化を愛でて、美味しいものを食べて、のんびりと過ごしたいんです」


 私の言葉に、神様は意外そうに目を丸くした。


「……ただ、生きるだけか? それでは配信としての『引き』が弱い気がするが……」

「逆ですよ。殺伐とした世界で、ただ優雅に、わがままに生きる旅路……。癒やし系コンテンツとして、逆に新しくないですか?」


 私は、神様の「トレンドに乗りたい」という欲求を、逆手に取ることにした。


「……うーむ。確かに、毎日血生臭い無双シーンや、ドロドロの復讐劇ばかり見せられている視聴者かみからすれば、ただただ心地よさそうに歩き回る映像は、一種の清涼剤になるかもしれぬな。寝落ち用動画としての需要もありそうじゃ……。よし、アリじゃな! その方向でいこう!」


 神様は、ニヤリと口角を上げて納得した。


「……よし、癒やし系旅番組、アリじゃな! その方向でいこう! ではハルカよ、お主に相応しい最高のジョブを授けてやろう」


 神様はノリノリで指を鳴らし、目の前に淡く輝くリストを浮かび上がらせた。


「ほれ、ジョブ一覧じゃ。好きなものを選ぶがよいぞ」


 私がそのリストを一瞥して首を横振ると、神様は困惑したように声を漏らし、手元のリストを何度も見直した。


「ううむ、わしが提示した『勇者』や『聖女』では不足か? これらはわしが丹精込めて準備した、最高峰のスペックを持つSSランクジョブなのじゃぞ。これを選んでおけば間違いはないというのに……」

「古いです。神様なのに、既存のテンプレートしか用意できないんですか? そんなの、他の配信に埋もれちゃいますよ」


 私の煽りに、神様は「ぐぬぬ……」と唸る。


「……よかろう! そこまで言うなら、お主が望むジョブをわしが形にしてやろう。どんな能力が欲しいのじゃ?」

「ジョブ名は神様にお任せします。スキルは三つ。何でもわかる『鑑定』、何でも入る『無限収納』、それと……何キロ歩いても身体が辛くならない『無限体力』。これだけあれば、私は満足です」


 神様は呆れ半分、感心半分といった様子で指を鳴らした。


「ならば、【風来坊ワールドサバイバー】なんてどうじゃ? ナイスネーミングじゃろ?」


「名前にこだわりはないのでわかりました」


 さらに私は、自分の姿についても注文をつけた。


「あと、せっかく動ける身体になるなら、歳も取りたくないです。ゆっくりだらだらとしたい日もあるし、せっかくなら世界の全てを見たいですよ」


「……うーむ、老化せぬ体、つまりハイエルフに転生か? それは予定外じゃ……。わしのマナ、足りるかな……。設定の書き換えにかなりのリソースを食いそうじゃが……」


 神様は急に弱気な声を出し、何やら空中に複雑な数式を浮かべて計算し始めたが、やがて溜め息をついて肩を落とした。


「……はいはい、承知した。全く、お主のような注文の多い召喚者は初めてじゃよ」


 神様は苦笑しながら、私の肩に一羽の太った小鳥を乗せた。


「これはパル。お主の長い旅の話し相手兼、神界への『配信デバイス』じゃ。注意事項を伝えておくぞ。パルが見ている景色は、時々神界でライブ配信される。お主は自由に生きて良いが、わしらの視線はそこにあると思え」


 私はパルを指でつつきながら、一番大事なことを確認した。


「ずっと見られてるのは嫌です。特にお風呂とかおトイレとか、見るつもりですか?」

「そんな破廉恥な真似、神の権威にかけて致さぬわ! 生理現象や入浴時は、わしらの側でも自動的に『プライバシー保護モード』で暗転・遮断される仕組みになっておる。そこは安心するがよい」


 神様は少し寂しげに手を振った。


「では、さらばじゃ。お主の『癒やし系旅番組』、期待しておるぞ。……あ、それと、日本に戻っても死ぬだけじゃから! 達者でな!」


「えっ? まだ聞きたいこととお願いしたいことが……」


 その言葉を最後に、私の視界は眩い光に包み込まれた。

 

 次に目を開けたとき、私は、人間だった時とは比べ物にならないほど「軽く、澄んだ」体で、異世界の草原に立っていた。


 どこまでも続く、瑞々しい緑の絨毯。

 空は吸い込まれそうなほど高く、元の世界では決して見ることのできなかった、透き通るようなコバルトブルーが広がっている。


「……ふぅ。本当に、来ちゃったんだ」


 私は、自分の手を見つめた。

 指先まで白く、陶器のように滑らかだ。爪は淡い桜色をしていて、人間だった頃の、キーボードを叩きすぎてささくれ立っていた面影はどこにもない。

 ふわりと風が吹くと、耳の横を長い銀髪が撫でていく。その時、少し尖った耳の先が風を切り、周囲の音を驚くほど鮮明に拾い上げた。


「おい、いつまで見惚れている。配信はもう始まっているのだぞ。まだ視聴者はゼロだが、このままでは神様も立場がない。早く視聴者を増やすために何か行動してくれ」


 肩に乗ったパルが、嘴で私の耳を小突く。

 私はその太った鳥を一瞥し、軽く肩をすくめた。


「急かさないでよ。私は私のペースで歩くって、神様にも言ったでしょ」


 そう。私はもう、何者にも縛られない風来坊なのだ。

 私は大きく一歩を踏み出した。


 その瞬間、全身を突き抜けるような「軽さ」に衝撃を受けた。

 重力がないわけではない。ただ、自分の肉体が羽毛にでもなったかのように、地面を蹴る力がロスなく推進力に変わるのだ。


「……すごい。全然、重くない」


 私はそのまま、丘を下るように走り出した。

 普通の人間なら、転びそうになって速度を落とすような急斜面。けれど、今の私には足首の関節一つ一つが完璧なサスペンションのように機能しているのがわかる。


 気づけば、私は全速力で草原を駆け抜けていた。

 景色が飛ぶように後ろへ流れていく。風が頬を叩く感触が心地いい。

 普通の体なら、数分もすれば肺が焼け付くように痛み、足が鉛のように重くなるはずだ。

 けれど、十分経っても、二十分経っても、鼓動は穏やかなまま。呼吸一つ乱れない。


「おいハルカ! 速すぎる! カメラのピントが追いつかんと言っておるだろうが!」


 パルが必死に翼を羽ばたかせ、私の横を並走しながら喚いている。


「パル、これ楽しいよ! どこまででも行ける気がする!」

「無限体力なのだから当たり前だ! だがな、少しは視聴者のことも考えろ。ただ景色が流れるだけの映像でバズるわけなかろう!」


 パルの文句をBGMに、私は一気に地平線の先へと向かった。

 一時間ほど走り続けただろうか。気づけば、先ほどまで遠くに見えていた深い森の入り口が、もう目の前まで迫っていた。


 私は足を止め、一度も膝に手を置くことなく、すっと背筋を伸ばした。

 汗一つかいていない。

 

「……決めた。私、この世界中の道を全部歩いてみる」


 納期も、満員電車も、大好きだったリク君の口臭もない。

 ただ、自分の足が行きたい場所へ、行きたいだけ進める。


 私は満足げに頷くと、静かになったパルを連れて、木漏れ日の差し込む未知の森へと足を踏み入れた。


---


 森へと足を踏み入れて数時間。

 木漏れ日が心地よく、私はハイエルフの「疲れない体」に任せて、鼻歌交じりに進み続けていた。

 しかし、空の色が淡いオレンジから紫へと変わり始めた瞬間、ふと、ある「致命的な事実」に気がついた。


「……あ、ちょっと待って」


 ピタ、と足を止める。

 私の【無限体力】は、どれだけ歩いても足が痛くならないし、息も切れない。

 けれど、それは「お腹が空かない」とか「眠くならない」という意味ではないのだ。


「……パル。私、食べ物持ってない」

「ハルカ、今さら気づいたのか。お前、走るのに夢中になりすぎだぞ」


 パルが呆れたように、近くの枝に止まって私を見下ろした。


「食べ物はない、泊まる場所も決まってない、ついでにお金も一銭も持ってない。さらにはここ、普通にモンスターも出る森だからな?」

「えっ、モンスター!? ……そうじゃん、ここ異世界だった!」


 急に背筋が寒くなった。

 納期がないのは最高だけど、代わりに「死の危険」があるのを忘れていた。

 私は慌てて、神様に貰った【無限収納】を意識する。


「な、何か入ってないかな……。神様の慈悲とか、初心者セットとか……」


 頭の中に浮かぶ収納リスト。そこには無情にも、大きな『0』という数字が表示されているだけだった。中身は完全に、空気しか入っていない空っぽだ。


「……あ、終わった。私、野垂れ死ぬかも。リク君の口臭どころじゃない、モンスターに噛み砕かれて人生終了……?」


 絶望して膝をつきそうになった私の視界の隅で、パルが羽をバタつかせた。


「おいハルカ、何を情けない声を上げている。お前には『鑑定』があるだろう。それに視聴者がようやく『3人』まで増えたのだぞ。『エルフの顔芸助かる』とか『ポンコツ系か?』とか言われておる。少しは神様の期待に応えて、何かやってみろ」


 視聴者3人……。

 神様、私の絶望をエンタメにしてるの?


「……わかったよ。やるよ、やればいいんでしょ」


 私は大きく息を吐き、立ち上がった。

 ハイエルフの視力は、暗くなり始めた森の中でも驚くほど遠くまで見える。

 私は「鑑定」をフル稼働させ、生き残るための「快適な寝床」と「食べられるもの」を探し始めた。


「……よし。まずは、あの大きな木。あそこの上が安全そう」


 寝床を見つけたところでお腹の虫が、情けない音を立てて鳴った。

 ハイエルフになっても、空腹感だけは人間の頃と変わらないらしい。


「ハルカ、あっちの茂みに何かあるぞ。鑑定してみろ」


 パルの促しに従い、私は大きな木の根元に実っている、青紫色のベリーのような果実に目を向けた。


「【鑑定】……ええと、『ポイズン・ベリー。食べると三日三晩、激しい腹痛と下痢に襲われる。味は非常に苦い』。……パス」

「危ないところだったな。次だ、次!」


---


 私は暗い森の中を歩き回り、目につくもの全てに鑑定を飛ばした。

 『シビレダケ:全身麻痺』、『ニガヨモギモドキ:殺菌効果はあるが食用不可』……。

 異世界の自然は、思った以上に私を殺しにかかっている。


「……あ、あれは?」


 少し開けた場所に、たわわに実ったオレンジ色の大きな果実を見つけた。形は梨に似ている。


「【鑑定】……『ハチミツペアー。月の光を浴びて熟す果実。無毒。非常に糖度が高く、一口食べれば天国が見えるほどの絶品。現地のギルドでは金貨一枚で取引される希少品』……これだ!!」


 私は歓喜の声を上げ、ハイエルフの跳躍力で枝に飛びついた。

 もぎ取ったハチミツペアーは、手のひらでずっしりと重く、皮越しに甘い香りが漂ってくる。

 私は我慢できず、袖で軽く拭いてから思い切りかぶりついた。


「っ……!? おいしい……!」


 溢れ出す果汁は、完熟した桃とマンゴーを掛け合わせて、さらにハチミツを足したような濃厚な甘み。それでいて後味は爽やかで、疲れ(精神的な方の)がスッと引いていく。


「おい、ハルカ! 一人で食うな、こっちにもよこせ!」

「わかってるって。……はい、パルも」


 パルに分け与えながら、私は二つ、三つと夢中で実を食べた。

 すると、視界の端で光の粒が騒がしく動き始める。


「おっ、ハルカ! 視聴者数がようやく『10』まで増えたぞ! 『深夜の飯テロはやめろ』『エルフが果実にかぶりつく姿、絵になりすぎだろ』『その果実、超レア物じゃねーか!』……コメントが増えてる!」


 どうやら、私の必死すぎる食レポが神様たちの心に刺さったらしい。

 空腹が満たされると、ようやく心に余裕が生まれた。


「……よし。保存用に、残りは全部【無限収納】に入れておこう」


 空っぽだった収納リストに、『ハチミツペアー×12』という文字が刻まれる。

 初めて手に入れた「異世界の財産」。

 私は満足感に包まれながら、安全そうな大樹の枝の上で、パルと一緒に丸くなった。


「……明日は、もっと美味しいもの見つかるといいな」


 パルの羽毛の温かさを感じながら、私は心地よい眠りに落ちていった。


---


 翌朝、私は朝日と共に目を覚ました。

 大樹の枝の上という不安定な場所だったが、ハイエルフの体幹は寝返り一つで落ちるようなヘマはしないらしい。昨日食べたハチミツペアーのおかげで、体調は万全だ。


「さあ、いつまで寝ている。ハルカ、今日は森を抜けるぞ」


 私の鼻先でパルが翼をパタつかせる。


「わかってるよ。……よし、出発」


 私は木から飛び降りると、再び森の中を走り出した。

 相変わらずの【無限体力】のおかげで、入り組んだ獣道も、急な斜面も関係ない。パルの先導に従い、ひたすら北へと向かう。


 森を抜けるのは意外と早かった。

 木々の密度が徐々に薄くなり、視界が急激に開ける。そこは切り立った崖の上で、眼下には広大な平原と、その中心にそびえ立つ大きな石造りの街が見えた。


「……すご。あれが、この世界の街なんだ」


 赤い屋根がひしめき合い、高い外壁に囲まれたその姿は、ゲームや映画で見た異世界の街そのものだった。


「ハルカ、視聴者が1人だけだな……。『こんな景色は散々見てるからなー』って言われておる。まあ仕方がないか」


 パルの実況は無視して、私は収納リストにある『ハチミツペアー』を思い浮かべた。これがあれば、当面の生活費には困らないはずだ。


 風が平原を吹き抜け、私の銀髪を揺らす。

 遠くに見える街並み、まだ見ぬ人々、そしてきっとどこかにある美味しい食べ物。


「……ふふ」


 私は思わず笑みをこぼした。

 元の世界では、今日が何曜日かも忘れるほど仕事に追われていた。でも、今の私は自由だ。この地平線の向こうまで、私の足はどこへでも連れて行ってくれる。


「パル。神様によろしく伝えといて」


 私は崖の下に続く道へと、力強く一歩を踏み出した。


「これから私はこの世界で生きていくんだ。まだ見ぬ景色、人、食べ物……全部、残さず満喫してやるから待ってろよー!仕事なんてしないからなー!」


 青空に向かって投げかけた言葉は、心地よい風に乗ってどこまでも広がっていった。


---


 その頃、遥か高みの神界では、一柱の神が腕を組んで巨大なモニターを眺めていた。


「……ふむ。わしが想定していた『癒やし系コンテンツ』とは、少々毛色が違ってきたのう」


 神様は苦笑いしながら、リアルタイムのトレンドランキングをチェックする。

 当初の予定では、美しいハイエルフが異世界の自然を愛でる「環境映像のような癒やし枠」で数字を稼ぐつもりだった。しかし、画面の中のハルカは崖の上で「仕事なんてしないからなー!」と拳を突き上げている。


「パルを顎で使いおって、挙句の果てにニート宣言。これでは『静かな癒やし系』というより、ただの『自由奔放すぎるエルフの観察バラエティ』じゃ。視聴者も『エルフの顔芸助かる』『清々しいほどのクズっぷり』と、ニッチな盛り上がりを見せ始めておる……」


 神様はがっくりと肩を落としたが、すぐにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「……まあよい。王道の癒やし枠は競合も多いが、この『予測不能なわがままっぷり』は、今の神界にはない新ジャンルかもしれぬ。トレンドの入り方は一つではないからのう」


 神様は再びモニターに向き直り、ワクワクした様子で指を弾いた。


「まだまだこれからじゃ! わがまま娘よ、好き勝手にやるがよい。お主がどれだけグータラしようと、わしがそれを最高のエンターテインメントとしてトレンドにねじ込んでやるわい!」


---


 一方、そんな神様の野望など知る由もない私は、ついに街の巨大な門の前に立っていた。

 行き交う人々の活気ある喧騒が、こちらまで漏れ聞こえてくる。


「おいハルカ、いよいよだな。しっかりしろよ、お前みたいなハイエルフは珍しいから、変な奴に絡まれるなよ」


 肩の上でパルが小声で忠告してくる。


「わかってるって。……あ、でもパル。一つだけ言い忘れてた」


 私は一歩、門へと歩みを進めながら、心の中で自分に、そして空の向こうで見ているはずの神様たちに告げた。


「私、もう二度と『納期』のある仕事はしないから。誰に何を言われても、私のペースで、私が食べたいものを食べて、見たいものを見て、寝たいときに寝る。……それが私の、この世界での『義務』だからね」


 門番が私を見て、その美貌と長い耳に目を見開く。

 私はそれを軽く受け流し、眩い光が差し込む街の中へと足を踏み入れた。


 私の新しい人生。

 わがままで、自由で、最高に贅沢な風来坊の旅が、今ここから始まる。



-----



 石畳を叩く靴音が、賑やかな喧騒に溶けていく。

 門をくぐった先にある街「アルテア」は、想像以上に騒がしかった。馬車の車輪が鳴らす音、威勢のいい商人の呼び声、さらにそれらが入り混じった熱気が肌を撫でる。


「……さて。まずはこの荷物、なんとかしちゃおう」


 私は収納リストに並ぶ『ハチミツペアー×12』を意識する。

 鑑定結果だと、一個につき金貨一枚。全部売れば金貨十二枚だ。これだけあれば、しばらくは働かずにふらふらしていても、野垂れ死ぬことはないはず。


「ハルカ、あそこだ。あの剣とはかりが描かれた看板がギルドだぞ」


 パルが羽先で指し示したのは、一際大きな石造りの建物だった。

 中に入ると、冒険者や商人たちが入り乱れて熱気を放っている。私が一歩足を踏み入れると、騒がしかったロビーのあちこちで、人々が作業の手を止めて私を見つめるのがわかった。


(……ふふん。やっぱり、ハイエルフの私が現れたんだもん。みんな、あまりの美しさに言葉を失っちゃったのかな)


 私は買取専用のカウンターへと向かった。


「……これ、買い取ってほしいんだけど」


 私は収納から、ハチミツペアーを一個だけ取り出してカウンターに置いた。

 途端に、周囲の空気が少しだけ変わる。熟れきった果実の、あまりにも甘く、濃厚な香りがカウンター越しに広がったからだ。


「……っ!? これは、ハチミツペアーか? それも、傷一つない極上品だぞ」


 鑑定士と思わしき中年の男が、目を剥いて果実を凝視した。――けれど、すぐにその視線は私の顔へと吸い寄せられ、男は何かに打たれたように頬を赤らめて呆然と固まっている。


(あ、この人もだ。仕事中なのに、私に見惚れて顔を赤くしちゃうなんて。ハイエルフの美貌って、罪深いなぁ……)


「おい、嬢ちゃん。これ、どこで手に入れた? こいつは今、北の領主様が喉から手が出るほど欲しがっている品だ。……銀貨五十枚でどうだ?」


 男が、私に見惚れて狼狽しているのを隠すようにニヤリと笑う。

 私はため息をついて、鑑定結果を思い出す。


(鑑定:市場価格は金貨一枚。足元を見る商人には注意が必要)


「一個金貨一枚でしょ。わかってるから、まとめて十二個。その値段で買い取ってくれるなら、今すぐ全部出すけど」


 私が淡々と告げると、男の顔から余裕が消えた。男は苦虫を噛み潰したような顔で金貨を並べ始めた。

 私はジャラリと音を立てる革袋を手に取り、それを腰のベルトにしっかりと括り付けた。


「おいハルカ、視聴者が『10』からピクリとも動かんぞ! 『換金とか見飽きた』だとさ。お前、もっと派手な売り方とかできなかったのか?」


 パルが耳元でうるさく喚いているが、私は無視してギルドを後にした。


 外に出た瞬間、肺いっぱいに街の空気を吸い込む。懐には、自由を担保する十分な資金。

 その直後だった。


「おっと、すまねぇ嬢ちゃん!」


 ギルドの入り口ですれ違いざま、小柄な男が勢いよく私の肩にぶつかってきた。

 男は謝るふりをして、手際よく私の腰元に手を伸ばすと、そのまま人混みの中へと猛スピードで消えていく。


「あ、ハルカ! 今の奴、お前の金袋を盗んでいったぞ! 追わなくていいのか!?」


 パルが肩の上で羽を逆立てて騒ぎ出す。


「……別にいいよ。追いかけるの、疲れるし」


「正気か!? 金貨十二枚だぞ!? この世界で生きていくための命の金だろうが!」


「パル、落ち着いてよ。……あ、ほら。あいつ、袋の中身を確認したみたい」


 人混みの先で、路地裏に駆け込んだスリの男が、期待に満ちた顔で盗んだ袋を逆さにした。

 ――けれど、そこから出てきたのは、道端に落ちていた「ただの石ころ」が数個だけだった。


「えっ……? なんで!? 確かにお前、さっき金袋を腰に……」


「ギルドを出る一瞬の隙に、中身は全部【無限収納】に移しといたんだよ。袋の中には、重石代わりにその辺の石を入れておいたの。」


 私は頭の中に浮かぶ収納リストを確認する。そこには間違いなく『金貨×12』の文字が刻まれている。


「……さ、行こう。あの泥棒さん、中身が『石』だって気づいた時、どんな顔するかな」


 絶望して石ころを見つめるスリの男を尻目に、私は少しだけニヤニヤすると、唖然としているパルを連れて、石造りの大きな建物を背に、私はアルテアの目抜き通りをゆっくりと歩き出した。


 懐を心配しなくていいというのは、これほどまでに心を軽くするものだろうか。


「……さて。お金も入ったし、これから何をしようかな。異世界っぽいこと、何か一つくらいはしたいよね」


 私は、さっきギルドで手に入れた金貨の重みを(実際には収納の中だけど)思い出しながら、少しだけ得意げに胸を張る。

 門をくぐった時から、すれ違う人々が思わず足を止め、うっとりと私を見送るのがわかる。その誰もが、まるで伝説の生き物に出会ったかのような、純粋な憧れの眼差しを私に向けてくるのが手に取るように伝わってきた。


 向かいから歩いてくる若い冒険者も、私と視線が合うなりポカンと口を開けて、頬を染めて固まっている。通り沿いの露店で買い物をしていたおばさんも、私に見惚れてお釣りを落としている。


(……ふふん。やっぱり、ハイエルフの美貌っていうのは隠しきれないものなんだね。これだけ羨望の視線を集めちゃうと、ちょっと歩くのも緊張しちゃうな)


 そんな私の心中を露ほども知らないパルが、空中でバタバタと羽を動かしながら、呆れたような声を上げた。


「ハルカ、お前この街のこと何も知らんのだから、もっと危機感を持て。……おい、神様たちがざわつき始めたぞ。お前が意見を求めたから、向こうのチャット欄がとんでもないことになってる!」


 パルは、私にしか見えない配信画面のコメントを読み上げ始めた。


「まず、破壊神デスガルド様からだ。

『今すぐその角にある一番デカい時計塔を粉砕しろ! 崩落する瓦礫の幾何学模様を配信しろ! 視聴料として神気をくれてやる!』」


「しないよ。犯罪だし、そもそもそんな力ないってば」


「次は……愛の女神ヴィーナス様。

『あら、いいこと? 今すぐ目の前を通った男の胸ぐらを掴んで、情熱的なキスをなさい! 運命の強制起動イベントよ! 視聴者数は間違いなく爆増するわ!』」


「……リク君の口臭で死にかけた女に何言わせるの。却下。次」


「ギャンブルの神・カイジしんだ。

『金貨十二枚……! 圧倒的金……! 街の裏にある闘技場へ行け! 全額を一番人気の無い、今にも死にそうな老いぼれ剣士に賭けるんだ……! 破滅か、あるいは狂ったような奇跡か……それを見せろ!』」


「嫌だよ、やっと手に入れた軍資金だよ? ……ねぇパル、ろくなのがいないんだけど。神様って、もっとこう、導いてくれる存在じゃないの?」


 パルが白目を剥きながら、さらにコメントを追う。

 すると、それまで一度も発言していなかった一柱の神が、ボソリとチャット欄に文字を刻んだ。


『……おい。あのエルフ、いつになったらその「りくるーとすーつ」とやらを脱ぐんだ? ずっと場違いなのが一人混じってるぞ』


 その瞬間、チャット欄が爆発したような勢いで流れ始めた。


「わっ、ハルカ! 神様たちが一斉にブチギレだぞ!

『てめー、余計なことをバラすんじゃねえ!』

『異世界に日本のパンツスーツ着たアホエルフがいるから楽しいんだろうが!』

『せっかくのシュールな絵面が台無しだ! あの姿で颯爽とファンタジーの街を闊歩してるのが面白かったのに!』

……って、ブーイングの嵐だ!」


「あ、おい! 視聴者が一気に『20』まで増えたぞ!

『パンツスーツのポンコツエルフはここですか?』『確信犯じゃなくてマジの天然かよ草』って、新規の神様たちが野次馬に来てる!」


「え……? アホエルフ? シュール……?」


 私は足を止め、自分の格好をまじまじと見つめた。

 無機質な紺色のジャケットに、センタープレスの効いたスラックス。

 この街の誰も着ていない、あまりにも「現代日本」すぎるシルエット。


「……え、でも、みんなうっとりした憧れの眼差しで私を見てたじゃない! 門番さんも、鑑定士さんも、さっきの冒険者さんも! 私の美貌に見惚れて、みんなうっとり固まってたじゃない!」


 私がすがるように叫ぶと、パルは冷ややかな目で自分の手元――神界の録画アーカイブのようなもの――を巻き戻して確認し、残酷な真実を突きつけてきた。


「……ハルカ、現実を見ろ。今録画を見直してるがな……門番が固まってたのは『なんだあの不気味な装束は!?』っていう戦慄だ。鑑定士が頬を染めてうっとりしてたのも、美貌にじゃなくて『見たこともない奇妙な襟』に困惑してただけだぞ。さっきの冒険者も、うっとりじゃなくて、『やべぇ奴がいる』って顔を引きつらせて絶句してただけだ!! 誰も見惚れてなんてねーよ!!」


「……あ、ああ……っ」


 血の気が引くのと、一気に顔が沸騰するのが同時だった。

 私は、自分がハイエルフとしての圧倒的な美貌とオーラを放っているから、街中の憧れの視線を独占しているのだと本気で思っていたのだ。


「……これまでの視線は私が可愛いからじゃなかったのかぁ!! 私、さっきギルドで、このバキバキのパンツスーツ姿でスラックスのポケットに手を突っ込んで、『金貨一枚でしょ?』とかドヤ顔で交渉してたの……!? うわああああああ!!!」


 思い出すだけで、自分の頭を石畳に叩きつけたくなる。

 羞恥心が限界を突破し、私の白い肌は指先から耳の先まで、文字通り真っ赤に染まった。


「神様の変態! 性格悪い! 見てたなら言ってよ!!」


「いや、俺は言おうとしたぞ!? でも神様たちが『もっと泳がせろ』って……あ、ハルカ! 視聴者が『25』になった! 『真っ赤になって震えるスーツエルフ、極上の肴だわ』『さすポン!』だってさ!」


「もうやだぁ!! パル、一番近い服屋!! とにかくこの世界で『一番普通』の服!! 今すぐ着替えないと、私、恥ずかしさで爆発して死ぬ!!」


 私はパンツスーツのスラックスが裂けんばかりの歩幅で、涙目で街を走り出した。


「ビ、リッ!!」


 その瞬間、全力疾走の負荷に耐えかねた既製品のスラックスが、お尻の縫い目から無残な音を立てて裂けた。


「……ひゃんっ!?」


 冷たい風が、本来露出するはずのない場所を撫でる。

 紺色の生地の隙間からこぼれ出たのは、リクルートスーツには到底似つかわしくない、ファンシーな「クマさんの顔」がプリントされたピンクのショーツだった。


「おい、ハルカ! 視聴者数が爆増してるぞ! 『50』……『80』……うわっ、『100』突破だ!!」


「ちょ、クマさん!? 見えてる!? 」


 背後で神様たちが『待ってました!』『神回確定!』と狂喜乱舞するチャットの滝。

 私は、もはや顔の赤さが全身に回って発火しそうな勢いで、裂けたお尻を両手で必死に押さえながら、アルテアの目抜き通りを文字通り絶叫とともに駆け抜けていった。


「あ、あそこだ! 服屋!! パル、あのお店に突っ込むよ!!」


 私は、お尻の「クマさん」を両手で死守しながら、半泣きで路地裏にある一軒の仕立て屋に飛び込んだ。

 カランカランと鳴るドアベルの音が、今の私には処刑台の鐘のように聞こえる。


「いらっしゃい……って、おやおや。これはまた、随分と『個性的』なお客さんだねぇ」


 カウンターの奥から顔を出したのは、丸眼鏡をかけた初老の女性だった。彼女は私の紺色のジャケットから、必死に押さえられたスラックスの亀裂、そしてそこからチラリと覗くピンクの綿生地をじっくりと観察し、口角をニヤリと上げた。


「……着替えを。この世界の、一番普通で、一番目立たない服を。今すぐ、一秒でも早く!!」


 私が悲痛な声を上げると、背後でパルが残酷な実況を再開する。


「ハルカ、無駄だ! 視聴者数が『120』に到達したぞ!

『クマさんの絶望顔とハルカの絶望顔がシンクロしてる』『ハイエルフの初脱ぎが服屋の試着室とか草』……って、神様たちが投げスパチャの準備を始めてる!」


「うるさぁーい!! 見ないで! 神様ならもっと高尚なものを見ててよ!!」


 店主の女性――マーサさんは、私の叫びを「若い子の元気な挨拶」程度に受け流すと、店の奥から数着の衣装を抱えて戻ってきた。


「ハイエルフのお嬢さん、あんたみたいな綺麗な肌には、こういう生成りのチュニックが似合うよ。下は動きやすい革のキュロットだね。……ほら、さっさと着替えてきな」


 私はひったくるように服を受け取り、試着室へと転がり込んだ。


 狭い個室の中で、私は忌々しい「リクルートスーツ」を剥ぎ取っていく。

 日本の満員電車に耐え、ブラック企業の不条理な業務をこなし、そしてこの異世界で私を「自意識過剰なピエロ」に仕立て上げた紺色の布切れ。


「……さよなら、私の社畜生活……」


 私はそれを収納の肥やしにすると、マーサさんに渡された服に袖を通した。

 柔らかな麻の感触が肌に心地よい。胸元を紐で編み上げるタイプのチュニックは、スーツの時のような窮屈さがなく、それでいてハイエルフの整った身体のラインを自然に引き立てていた。


 試着室のカーテンを勢いよく開ける。


「ど、どうかな……?」


 パルが、空中でピタリと動きを止めた。

 店主のマーサさんも、眼鏡をずらして私を凝視する。


「……おいハルカ、チャット欄が静かになったぞ。

『……おい、今の見たか』『あの変なスーツが邪魔してただけだったのか』『ようやくハイエルフらしい姿が見れたな』……って、神様たちが感心してやがる。素材の良さがやっと伝わったみたいだな」


 そこには、紺色のスーツを脱ぎ捨て、ようやく世界の風景に馴染んだハイエルフがいた。

 銀の髪が生成りの布地に映え、少し赤らんだ頬が、神秘的な種族特有の美しさに人間臭い愛らしさを加えている。


「ふん。やっぱりアタシの見立てに間違いはなかったね。代金は、さっきの面白い見せ物料込みで銀貨五枚だ。……ついでに、そのクマだか何だか知らないけど、あんたの『聖域』を守るための頑丈な下着もサービスしてやるよ」


「マーサさん……!! ありがとう……本当にありがとう!!」


 私は新しい下着と服を握りしめ、心から感謝した。

 ……けれど、どうしても納得がいかない。私は震える指先で、肩に乗るパルを指差した。


「ねぇ、パル。さっき私、お尻が裂けて、その……例のクマさんが丸出しになってたよね? その時、視聴者数はどうなってたの?」


 パルは気まずそうに視線を逸らし、羽でポリポリと頭を掻いた。


「ああ……えーと、なんだ。あの瞬間、視聴者数が一気に『100』の大台に乗ったぞ。デスガルド様なんて『これぞ真の芸術!』って、神気を投げまくってたな」


「はぁぁぁぁぁぁ!? ちょっと待って! あの白い髭の爺さん、『生理現象や入浴の時はプライバシー保護モードで自動的に暗転・遮断される』って言ってたじゃない! なんで私の下着が全開になった時に発動しないのよー!」


 私が怒りと恥ずかしさでパルを掴んで揺さぶると、パルは目を回しながら、配信画面のシステムログを虚空に投影した。


「落ち着けハルカ! 神様は端折って説明してたが、このデバイスの仕様書にはちゃんと続きがあるんだよ! プライバシー保護モードが発動するのは『生理現象』『入浴時』、それに『ハルカ本人が服を脱ぐと意識した時』、そして『本人が強く遮断を望んだ時』だ!」


「だったら、なおさら発動しなきゃおかしいじゃない! あんなの、脱げたも同然でしょ!?」


「そこが神界システムの落とし穴なんだよ! いいか、神界にはな……そもそも『下着』という概念そのものが存在しないんだ!」


「……え?」


「神様たちはみんな、一枚の布を纏うか、あるいは概念的な光の衣を着ているだけだ。だから、システム上『下着』も『服』の一部として登録されてやがる。お前のスラックスが裂けても、その下にまだ『クマさん』がある限り、システムは『まだ服を着ている』と判定して、保護モードを起動させなかったんだよ!」


 私は絶句した。まさか神様たちが下着を知らないせいで、私の最後の砦が「ただの服」扱いされていたなんて。


「……あ、おいハルカ。今、チャット欄に愛の女神ヴィーナス様が書き込みしたぞ。

『あら、これがお主の世界の「したぎ」というものなの? 全部脱いでいるより、変な絵が描かれた布で隠されている方が、なんだか想像力を掻き立てられて……むしろエロいわね。新ジャンルの発見よ!』

……だってさ。神様たちの間で『シタギ』がトレンド入りし始めてるぞ!」


「変な絵って言わないで! それに新ジャンル開拓しないで! もう最悪……っ!!」


「ハルカ、お前が『遮断して!』って強く望めば発動したはずなんだが……お前、あの時パニックでそれどころじゃなかっただろ?」


「……あ、ああああああ!! もうやだぁぁぁぁ!! 神様も、このガバガバなシステムも、全部大っ嫌いだぁーー!!」


 私は、おまけで貰った新しい下着(今度は無地)をギュッと抱きしめ、屈辱に震えながら走り出した。


 私の「癒やし系旅番組」は、神様たちに「下着」という新たな性癖を植え付けるという、とんでもない方向へ爆走を始めていた。



---



 私は服屋を出て、人通りの少ない裏路地の壁に背を預けた。

 新しい服の感触に安堵するよりも先に、パルの説明に対する「もっともな疑問」をぶつける。


「……ねぇ、パル。さっきの説明、やっぱりおかしくない? 神界に下着なんて概念がないなら、なんで女神様はあんなに盛り上がってるのよ。知らないものを見て『エロい』なんて感想、普通は出てこないでしょ」


 パルは器用に羽をすくめると、配信画面のコメントログを羽先でスクロールしながら答えた。


「ハルカ、神様というのは『全知』に近い存在だ。だが、それゆえに『隠されているもの』に対して異常に脆いところがあるんだよ。あの方々にとって衣類はただの記号だが、お前が履いていた『シタギ』は、お前の強烈な羞恥心と結びつくことで、単なる布から『絶対的な境界線』に昇華しちまったんだな」


「境界線……?」


「そう。全部見えている全裸より、お前が『見られたくない』と必死に隠そうとするその『拒絶の意志』が、神様たちの高度すぎる想像力を逆にフル回転させたんだよ。愛の女神が言った『新ジャンル』というのは、物理的な露出じゃなく、その布一枚が生み出す『情報の遮断』と、そこから漏れ出るお前の『恥じらい』という感情のセットのことだ」


 私が絶句している間にも、チャット欄には神様たちの「深読み」が滝のように流れていく。


『なるほど……あの「クマ」という意匠は、神の眼すらも拒む聖域の紋章だったのか』

『隠されれば隠されるほど、その奥にある真実の価値が高まる。これこそが人間界の生み出した「焦らし」という名の高度な芸術か!』

『シタギ……なんという恐ろしい文明遺物だ。全裸よりもよっぽど背徳的ではないか』


「……芸術でも遺物でもないわよ! ただのブラック企業の激務で買い出しに行けなかった女の、ズボラな手抜きショーツだってば!!」


 叫ぶ私をよそに、パルは淡々と事実を告げる。


「おまけに、ハイエルフという高潔な見た目と、その幼稚なクマさんというギャップが、飽き飽きしていた神様たちにクリティカルヒットしたらしいぞ。おめでとうハルカ、視聴者数は『250』を維持したままだ。今や神界じゃ、お前のシタギは『未知の遮断装置』として、かつてないほど注目されている」


「……もうやだ。私のプライバシーは、神様たちの想像力を試すためのスパイスに成り下がったのね……」


 私は天を仰いだ。癒やし系旅番組を目指して異世界に来たはずなのに、どうして私は神様たちに「隠微な楽しみ方」を教えるハメになってるの。


「……パル、次。次に行くよ。これ以上ここにいたら、恥ずかしさでまた服が裂けそうだから」


 私は逃げるように路地裏を抜け出した。



-----



 屈辱の服屋を後にし、私はとにかく人混みを避けるように歩き続けた。

 新しいチュニックの麻の感触や、革のキュロットの軽やかさは、確かに私の心を異世界へと連れて行ってくれる。けれど、一歩踏み出すごとに石畳から伝わるのは、あの無機質な「カツ、カツ」という、聞き慣れた事務用パンプスの乾いた音だった。


(……ああ。私、まだこれ履いてるんだ)


 立ち止まって足元を見れば、素朴な風合いの服の下から、都会のコンクリートを歩くためだけの、光沢のない黒いパンプスが場違いに顔を出している。

 それは、私の体の一部にこびりついた「ブラック企業の社畜」としての残滓そのものだった。


「ハルカ、どうした? 新しい格好で満足して、今度は自分の足に見惚れてるのか?」


 空中で茶化すように旋回するパルを見上げ、私は小さく息を吐いた。


「違うよ。……これ、もういらないなと思って」


 私は路地の隅で、慣れないヒールで締め付けられていた足を、ようやく解放した。

 現れたのは、親指の先がひょっこりと顔を出している、黒いビジネス靴下。


 仕事帰りにリク君から突然誘われたデート。

 朝、靴下を履いた瞬間に違和感があったのに、「遅刻する!」とそのまま家を飛び出し、日中は仕事に追われ、気づけば履き替える余裕なんて一秒もなかった。穴が開いていると分かっていながら、リク君の前に立たざるを得なかった、あの時の居たたまれなさ。


「……バイバイ。私の、最悪な日常」


 私は、パンプスと靴下を【無限収納】の最奥――二度と取り出すことのない、記憶のゴミ箱のような場所へ放り込んだ。

 そのまま、すぐ近くの靴屋で、飴色の柔らかな革でできたショートブーツを買い求めた。


 【無限収納】からスッと銀貨を取り出して支払いを済ませ、新しいブーツに足を通す。

 立ち上がった瞬間、地面の感触が驚くほど優しく、そしてダイレクトに伝わってきた。


「……あ。全然、違う」


 ヒールに縛られず、自分の足裏全体で地面を掴んでいるという実感。

 それは、誰に強制されることもなく、自分の意思でどこへでも行けるという、本当の意味での「自由」を足の裏から突きつけられたような感覚だった。


 パタパタと、新調したブーツで石畳を軽く踏み鳴らしてみる。

 その心地よい音に混じって、どこからか、食欲を暴力的に刺激する「肉を焼く匂い」が漂ってきた。


「ぐぅぅぅ……」


 私の胃袋が、情けないほど大きな音を立てて抗議の声を上げる。

 異世界に来て、服を裂き、街中を走り回り、ようやく手に入れた平穏。その代償として、身体は激しいエネルギーの欠乏を訴えていた。


「おっ、ハルカ! 今の音、配信にしっかり乗ったぞ! ほら見ろ、チャット欄がまた動き出した!」


『おいおい、ハイエルフ様が野良犬みたいな腹の音をさせてるぞ』

『あはは! さっきまでの感傷的な空気が台無しだ!』

『だが、それがいい。食えハルカ、限界まで食うんだ!』


「……もう、放っておいてよ」


 視聴者数は、爆発的な盛り上がりが去って『50』前後まで落ちている。


 私は匂いの元――広場の屋台へと向かった。

 鉄板の上で、分厚い肉の塊がジューシーな音を立てて踊っている。


「おじさん、これ二つください!」


 私は【無限収納】から銀貨を二枚取り出し、カウンターに置いた。

 手渡されたのは、硬めのパンに肉をこれでもかと詰め込み、溢れんばかりのスパイスソースをかけた「肉はさみパン」。


 夕陽に照らされた広場のベンチに座り、私はそれを大きく頬張った。


「――っ、ふぐぅ……!! おいひぃ……!!」


 熱い肉汁が口の中に弾け、スパイシーな刺激が鼻へ抜ける。

 会社に搾取されるために、義務として胃に流し込んでいたあの頃の食事とは違う。

 誰の機嫌を伺う必要もなく、ただ自分の空腹を満たすためだけに選んだ、自由の味がした。


 私は、頬をリスのように膨らませたまま、アルテアの街に沈んでいく夕陽をいつまでも眺めていた。


2026/04/28 続きを載せます。

人気が出てくれたら連載するかもですが、、、

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