忍び寄るもの
以前別の小説サイトのお題企画のために書いたもの。
「どうだ、わかるか」
奉行所が呼び出したという蘭方医は、広げられた絵を見て首を傾げた。なんですか、と聞かれても、それを知るためにこの者を呼び出したので、俺が知るはずがない。
「太田様、これは医者の領分なのでしょうか」
そう聞かれても、俺とて皆目見当がつかない。本当なら、数も少なく信用もない蘭方医に話を聞いてはいけない。だが、これは蘭方からやってきた品、そしておそらく医者の絡みだ。皮を切り肉をまさぐるなど、他の医者のやることではない。
蘭方医は、一見解剖の途中だが何をしているかはわからないという。術式の説明ではないかと思うが、ここから切ると必ず肋骨が邪魔になり臓腑に届かない。骨の接合か、筋肉の修復だとして、それを解説している様子もない。まして喉元まで開いた切開部はどう見ても切りすぎだ。これは蘭方医学を真似た、美術品ではないかというのが所見だった。
そうか、ととりあえず納得して蘭方医を帰した。自分もかなり焼きが回ったようだ。太田彦左衛門の名は、奉行所周りの人間には悪い意味で有名だった。融通を利かせすぎるため内密な情報が知られることも多く、先日も古い友人を危ない目に遭わせた。それ以来自重していたが、今回は仕方がない。何せ、他のまともな連中が放り出し、そいつらの考えることはすべて間違っていたともうわかっているのだ。ならば、まともでない話をしないといけない。
国が閉じられて、もう長い。時代が変容することを恐れた幕府は、変化を禁じた。新たな思想、進歩、発見はすべて葬られ、来る時間が動かないのは当たり前になった。来る時間が動かないから過ぎた時間も同じで、時代とは変化しないものだと多くの者が思っている。稀にその異様さに気付いた者が声を上げ、斬られる。平和でありながら狂った時代が、もう長く続いている。
もしどこか動いている場所があるとすれば、国の遙か西側、長崎と呼ばれる街だ。数少ない外の世界が見えるこの町には、時折珍妙な物が入る。聞けば、遙か海の向こうでは当たり前の品で、これから学問として栄えるであろうという。蘭方医学はその一つで、奇怪な書物にはたいてい切り刻まれた人間の身体が描かれている。知らぬ者なら眉をひそめる代物だが、医者にとっては垂涎の品だというのだ。見つかった絵は、それに近い物に見えた。
しかし、蘭方医に見せればこれは医学ではないという。確かにそうかもしれない、とも思う。描かれているのは切り刻まれた人間だが、どうやらこの国の者だ。海を越えてきたなら、南蛮人であってしかるべきだがそうは見えない。日本で描かれたのか。だが、今の時代に日本でこのようなものが描かれるだろうか。妙に鮮やかに描かれた皮膚の下は、見たことがなければ描けるものではない。絵描きにそんなことができるだろうか。
この絵が見つかったのは、長崎からほど近い街だった。ある商家で殺しがあり、一家が全員殺され、息絶えていた。。そして、殺した者も。どうやらこの絵の前でひざまづいて喉をかっきったらしい。一体何をしようとしたのかはわからないが、この絵を見て何かを考えたのはまず間違いないだろう、とのことだ。この商家がなぜこの絵を持っていたのかはわかっていない。おそらく出島から流れてきたのだろうと言われているが根拠はない。そして、絵は人の手を渡って流れ、この街に来た。もう誰も欲しがらないのは、今までの持ち主がこの絵を手放した理由だ。死亡。みな命を落として、絵は次の持ち主に渡っていった。
無論、奉行所にあるなど気持ちのいい話ではない。もういっそ焼いてしまえば死ぬ者など出ないだろうに、なぜかその話はない。時折言い出そうと思うのだが、いつも後になって忘れていたことに気付く。言おうと思っていたはずだが、自分で思うほど気にとめていないのだろうか。
その日は、たまたま奉行所に人のない時間があった。本当に誰もいないと問題なので、自分は離れることができない。まあ、伊豆の街の奉行所はなっていないので、こういうこともある。留守を守る間、広げてあった絵を見た。しまっておけばいいのに、誰かが広げているのだ。これも、いつも言おうと思って忘れている。
まるで、絵は語りかけてくるようだ。どんなことを言っているのだろう。
「俺はな、お前たちを見ているぞ。誰にもわからぬようにな」
バカげた話だ。だが、そんなことがあるなら、お前は何かと聞いてみたいものだ。
「大昔に、俺は海を渡った。この島国の男の身体を持ち帰り、自分のものとした。すぐに使うものではない。少しばかり臓腑をこねて、使える部分を残した」
なら、お前は人間ではないというのか。そんなことをして何になる?
「さらに昔、血も肉も焼き払われた俺は、足掻き這いずって、天に唾を吐くことを誓った。自らの身に戻ってくるような愚を、俺は犯さない。その唾を、連中の顔にぶつけ、叩き落とすのだ」
たいそうな鼻息だ。そのために男の身体がいるのか?
「今は卑小な身体も、これから強くなるにはちょうどいい。この身体を使い、強くなり、捨てて次の身体を得る。もうすぐだ。この閉じられた島国の民は、全員食い尽くす。多少なりとも足しにはなろう」
ならば、今は喰らっているということか。見るもの全てを喰らい尽くして、血肉に変える。お前は、だいぶ強くなっているというわけだ。
「貴様もだ。貴様も喰らって、俺は強くなる。差し出せ。お前がこの身体の、最後の贄だ」
俺は刀を抜いた。その切っ先が、自分の腹に向けられることに疑問もない。俺は何の迷いもなく、刀を持つ手に力を込めた。そのとき、奉行所の表から声が聞こえた。
「太田。いるか」
知っている声だった。近在に住む見知った顔の村井だ。我に返った俺は、絵に目を落とした。何も変わっていないはずの絵は、俺を見て笑っているように見えた。何かを考える前に、俺は刀を絵の男の胸に突き立てた。まるで何かの悲鳴がとどろいたようだと思ったが、表にいた村井は何も聞こえなかったと言っていた。
後に絵は、江戸へと運ばれてエゲレスの識者に見せられた。その識者は、こんなものを故国の人間は描かないと言い切った。そうかもしれない。絵に描かれた男は、見たこともないおぞましい怪物の姿に変わっていた。




