誰も書いていない本
誰も書いていない本
「クルエル……アラブ人だとよ」
日本で聞いたその話を友人に聞かせていた。クルエル、というのは日本では口に出すのも憚られる侮蔑の言葉なのだそうだが、文化圏が違えばそんなことはわからない。オレの彼女が日曜に行ってる集会で聞きそうな響き、何がいけないんだか。その、アブドゥルというヤツの話はその筋では有名らしく、友人が知っていた。さすが一流大学の研究員、出張でアジアに飛ぶオレとはわけが違う。そう言って感心していたら、たまたま知っているだけだという。有名、らしいとしか知らずそれ以外はわからない。ならこれは有名なのだろうかと日本で聞いた話の続きを聞かせた。アブドゥルの書いたという、本のことだ。
世の理、森羅万象。そんなものを記したというハッタリはよく聞くが、ネクロなんたらという本は別物らしい。どう別かというと、書いていることが違う。世の理の隙間、森羅万象の禁忌。混沌への抜け道が、そこには記してあるという。そうだったか?とわからない様子の友人はこの話を知らないらしい。オレは調子に乗って話し続けた。
そのアブドゥルというヤツは実在したのか、と日本人に聞くと、いるわけないだろうとすぐに否定した。……否定したのだが……ならおかしいと頭を抱えていた。アブドゥルというその男は、歴史上実在しない。だがアブドゥルが書いた本は、どこかにあるはずだという。オレは酒を勧めすぎたと後悔して日本人を止めたが、酔っていないと言い張っていた。この後は酔っ払いの戯言か、そうでなければ……よく聞く怪談、都市伝説の類だ。
アブドゥルが記したという情報の断片を、聞いたとか少し読んだとかいう話をかき集めていた日本人は、研究のためとはいえ壊れた証言者の相手に疲れていたそうだ。何百年も前の話を伝え聞いたらこうなったというなかなかにおかしな連中は、どいつもこいつも至極真剣だったとか。整合を取るためにある証言者ともう一度接触しようとしたら、死んでいた。何かに食い殺されたのだという。おかしくなった証言者の、おかしくなっていない細君はごく真面目にそう言った。親戚数名によるささやかな年末のパーティは、気分転換どころか血みどろになった。まるで、アブドゥルの死に様。その死に方を聞いて、日本人は一人竦み上がったのだという。それはまるで、猟犬。自分が二十人に及ぶ証言者の情報を擦り合わせて仄見え始めた、狩りのようだという。
自分は狙われるかもしれない、と真剣に語る日本人は、真っ青になって震え始めた。時間の旅とは、時空の移動ではないのではないか。時空間を組み立てれば、抵触するのではないか。あの証言者は、前の接触でわずかに情報を得ていて……おいおい、飲み過ぎだ。疲れてるんだとオレが言っても日本人はやめなかった。アブドゥルがいたという可能性を追えば、アブドゥルの書いた本の在処は特定できるはずだという。当時存在した巨大な交易路、その流れの中に実在して、移動経路を脳裏に描くと二十余人の証言者の話は奇妙なほど一致して……。おい、と友人に呼びかけられて、オレは話を止めた。この後用事があるという友人は、急ぎで電話を一本入れて、もう出るという。日本で二ヶ月も仕事をして疲れたんだろう、東京だったか?とオレが心配される始末。残念だが東京ではない、オレがトンダのはサイタマだったかな。仕事ができるヤツはどこにでも足を運ぶのさ、とうそぶいたが、友人にたしなめられた。その本は、存在しない。もう確定しているのだという。専門家による調査チームが数回に渡る捜索を繰り返した結果、ガラクタだったことがわかった。……そんなことは、あの日本人は言っていなかったがなあ。だが友人は、はっきりしていると言って譲らなかった。
「この本に書いてある」
そんなにはっきり言われてはこれ以上何も言えない。半ばどうでもいいと思っていたから、こだわりもしなかった。また電話する、と言って友人は出ていった。今度は、海外からかけるかもしれない。オレももしかしたら、日本に行くかもしれないんだ。そう言って急ぐ友人に、言っておいた。よければ、案内するよ。その日本人と飲んでいたバーは、いい雰囲気だったしな。友人は胸の前で手を振って出ていった。




