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Cassisに夏の匂いがしてきた。海面に反射する日差しが緩んでいる。空気も町の人も柔らかく、葡萄の蔓に新芽が光り始めた。
私の体だけは凝固を始めたようで、息が苦しくなる時がある。肺に転移したのだろうか。疲れやすくなっている。しこりは大きくなっていたが、不思議と痛みはない。私の細胞は、枯れようとしているのか、腐ろうとしているのか、どうやって終わっていくのだろう。
今年いっぱいは働けるだろうか。働けなくなる前にAngelaや店の人たちに伝えて、代わりの人を見つけなければならない。仕事の引継ぎをして、私が抜けても回っていくように段取りをつける。
Ramonにも話さなければならないだろう。でも最後の姿は見られたくない。母の最期は決して美しくはなかった。彼がもし忘れないでいてくれるなら、綺麗な姿だけを思い出して欲しい。
「Anna!久しぶり!できたわよ。」
Jacquelineは旋風のように、雑誌を抱えて店の木の扉を潜り抜けてきた。
「Jacqueline!元気だった?わざわざありがとう!」
手渡された雑誌の表紙は、Ramonが作った赤と黒のデザートになっていた。Jacquelineにコーヒーを勧めながら、
「表紙になったのね。」
私は雑誌をめくり始めた。
「この写真いいでしょ?編集長がすごく気に入って、表紙にしたのよ。」
Cassisの特集の一部に、店の紹介が掲載されている。2ページほどの記事に料理と店の写真が美しく飾られている。
「写真が実物より良くて、実際に来た人ががっかりしちゃうんじゃない?」
私は小さな笑い混じりに言ってみた。
「腕のいいカメラマンでしょ?でも、実際の料理も素晴らしいから大丈夫よ。」
料理の説明も的を射ていて、表現豊かで私はJacquelineの才能に感心した。
「やっぱりプロだけあるわ。文章が上手でCassisに来てみたくなるし、料理も食べてみたくなるもの。」
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。」
取材の時の話など軽い会話を続けていると、Jacquelineはゆっくりと話題を変えた。
「実は・・相談があるんだけど・・」
「何かしら?」
「Ramonのことなんだけど。」
私は一瞬で様々な情景を想定した。彼女は相談をするために、雑誌を郵送すれば済むところをわざわざやって来たのだろう。この労力に見合った願い事をされるのだろうと身構える。
Ramonとの仲を取り持って欲しいというのではないだろうか。いや、もう既に二人はそういう関係になっているのかもしれない。恐れていた彼を失うという現実の幕が開いた。嫉妬?怒り?恐怖?孤独?私の感情は香水の香料のように複雑に他種入り混じり揺れ動く。その香水は悪臭に決まっている。
「私の知人が、ニューヨークで店を出すことになったのよ。彼は料理人じゃなくて、実業家なの。今までレストランやバーを3店舗展開していて、どこも順調だし、投資家とし大成功している人なの。その彼が次のレストランを計画していて、シェフを探しているの。Ramonはどうかと思って、推薦したら彼も乗り気で、是非会ってみたいって言っているの。彼の店はフランチャイズではなくて、一店舗ずつ個性のある店づくりをしているから、Ramonの創造的な料理がぴったりなんじゃないかと思って。」
私は、Jacquelineの途切れることのない言葉の流れに漂いながら、とうとう訪れた時を眺めていた。
「他にも候補のシェフがいるから確約はできないけど、ここで働いているシェフを引き抜くのに、裏でこそこそしたくなかったの。だからまずはAnnaにお伺いを立てたいと思って。」
「そうなの・・・」
「Ramonにはまだ話していないんだけど。」
「私の許可なんて必要ないわ。彼が決めることだから、彼に話して。素晴らしいチャンスだと思う。うまくいくといいわね。」
私は欺瞞の面を付けた物わかりの良い経営者であり、理解のある恋人だ。愛する人の幸せを願う。Jacquelineの伸びやかな手足は瑞々しく、頬の肉はしっかりと骨に付着して緩んだ肌の歪みを完全に外に跳ね返している。私は手の甲に浮かんだ二つの小さな茶色い斑点を見られないように髪に手をやる。
「ありがとう、Anna、じゃあ早速話してくるわ。」
「厨房にいると思うわ。」
私は腕を伸ばしてJacquelineに道を用意した。その先でRamonに会えるように、体を動かして誘導する。心が引き止める。心が絞られて滴が滴る。苦痛ではなく笑顔を作るために顔を歪める。二人の未来のために道から外れ、汚泥に足を踏み入れる。もうすぐRamonの34歳の誕生日。良い誕生日プレゼントが降ってきた。




