7. 封印された魔法
「1階廊下の悪臭をお嬢が消しました」
重要で急を要する報告だと分かっていたので、料理長は前置きもなく要点だけを口にした。
だが、執務机に肘を付き、組んだ両手に額を預けて考えに耽っていたグスタフの耳に、その言葉は届かなかった。浄化の魔石をどうやって入手するかで頭がいっぱいだったのだ。
領館を元通りにするまでに一体どれだけの浄化の魔石が必要になるのか。問題は資金だけではない。大量の浄化の魔石を必要とする理由をどう説明すればいいのか。理由も言わずに求めれば、悪意ある評判や憶測を呼ぶことは間違いない。
(それだけの浄化の力を必要とするほどの呪いをかけられたとか……。いや、かけられたほうならまだマシだ。禁呪の呪いに手を出して失敗したと思われるやも……。そうなったら、ウチはおしまいだ! 領民に顔向けができん……。)
通常の風魔法でも浄化魔法でも消えないあの悪臭と空気の淀みは、もはや瘴気といっていい。だが、瘴気の発生は、国の一大事だ。発生を確認した際には、国に届け出なければならない。そして、魔法師団の隊員か神殿から派遣された神官が高位浄化魔法によって瘴気を払い、その後数年間、国が瘴気の発生源を厳重に管理して経過を観察することになっている。
(国に報告しなければならないのか? 瘴気の発生源といえば、人が踏み込まないような奥地だと誰もが考えているというのに、領館の厨房の鍋と? ウチの子が鍋で瘴気を発生させたと? 国に報告したら、何年間もこの領館が国に管理され、最悪、爵位の返上になるか……?)
「旦那様!」
千々に乱れる思考に沈んでいたグスタフは、傍らに立っていた家令のギーゼンの声で我に返った。
「ん、あぁ。すまない。なんだって?」
ようやく目の前に料理長が立っていることに気が付いた。
グスタフと目を合わせた料理長は、状況を理解しやすいようにとゆっくり一語一語区切って改めて報告した。
「レティシアお嬢様が、1階、廊下の、悪臭と、空気の淀みを、消失、させました」
「……は?」
グスタフの思考が停止した。
「え?」
悪臭が発生して以来の騒動に疲弊しきっていて、料理長の言葉の意味を理解できていない主の様子に、ギーゼンはこらえきれなくなった。
「確認してまいりますっ」
そして、グスタフの指示を待つことなく、そそくさと執務室を出ていった。
残された2人は、言葉もなく見合っていた。料理長が言った言葉が徐々に頭に入ってきたグスタフは唖然とし、料理長はその内の気持ちを推し量らせない無表情で。
先に目を逸らし、動いたのは、グスタフだった。大きく息を吐き、脱力して背もたれに体をあずけると、椅子がギシリと軋んだ。
「あの瘴気を消した?」
(アレを「瘴気」と言ってしまう⁈ 魔物の骨を煮ただけだぞ⁈)
囁くようなグスタフの問いにギョッとした料理長だったが、存外平静な声で答えることができた。
「はい」
「……レティシアが?」
「はい」
「浄化魔法が発現したか……」
浄化魔法の使い手は、その力の大小にかかわらず国と神殿に登録することが義務付けられている。浄化魔法は瘴気を払う。瘴気は魔力が凝ったところに生まれるといわれ、魔物のスタンピードを起こし、人とその居住地に甚大な被害をもたらすのだ。そのため国は瘴気の発生に神経質になり、大きな災害になる前に瘴気を払うための対策を講じている。浄化魔法の使い手の登録はその一つであり、緊急時には騎士団と共に瘴気の発生源に行くことが求められる。魔力の濃い魔の森に隣接するモリンベル領に浄化魔法が使える騎士がいるのも、魔の森で瘴気が発生した際の初動対応のために他ならない。
だが、浄化魔法は瘴気を払うだけではない。
神殿の浄化魔法は、不安や絶望に淀んだ場の空気や心身の穢れ、禁呪である呪い、ケガ、病気、耐えがたい臭いなど、人が汚れと認識するあらゆるものを浄化し癒すとされ、信仰の礎ともなっている。そのため神殿は、往々にして浄化魔法の使い手を強引に取り込もうとする。魔力量が多い貴族子女に浄化魔法が発現したとなれば、必ず神殿に迎えようとするはずだ。高位貴族家であったならともかく、子爵でしかないモリンベル家では、それに対抗することは難しい。断れば、ウチを潰してでもレティシアを奪おうとするだろう……。
浄化魔法は、数ある魔法の中でも上位に位置付けられている。浄化魔法の使い手も国や人々の「守護者」と呼ばれて尊敬をもって扱われ、高く評価される。子供に浄化魔法が発現したことを誉とする家もあるが、グスタフは、国や神殿からの強制にさらされながら生きていかなければならない人生をレティシアに歩ませたくはなかった。
つい先ほどまで浄化魔石の入手に悩んでいたのに、それが必要なくなる代償がレティシアの浄化魔法発現というのは、あまりに理不尽に思われた。
親としての悲しみとあきらめを感じさせるグスタフのつぶやきに、料理長は、ニヤリとしてあっけらかんと答えた。
「いえ。水魔法と洗浄魔法だそうです」
それを聞いたグスタフは、目を瞠った。
「はぁぁ?」
数拍後、それまでの力ない様子から一転して、グスタフは声を上げて執務机に身を乗り出した。
「一体どういうことだ? そういえば、レティシアはどうした? どこにいる?」
ようやく思考が回り始めたグスタフは、立ち上がって料理長の後ろや執務室のドアにレティシアの姿を探した。
「あー、魔力切れで疲れ果てて、今は部屋でお休みです」
「魔力切れ……」
グスタフの思いは、わずかな間に希望と絶望の間を行き来した。最後に覚えた安堵に力が抜け、体がどさりと椅子に落ちた。その勢いに床と椅子がこすれ、椅子がまた軋んだ。
その時だった。せわしないノックと共に、ギーゼンが息を切らして勢いよく執務室に戻ってきた。
「旦那様、1階廊下の悪臭と淀みがすっきりきれいになくなっています! 食堂とサロンの方はまだですが、その前まで行けました!」
いつも冷静で物静かなギーゼンにしては珍しく、高い声でまくしたてた。
その後、グスタフは、ギーゼンと料理長と共に1階に下り、状況を確認してレティシアがどのように悪臭と淀みを消したのかを聞いた。“瘴気”についてはどうやら解決の目途が立ったと一安心できたものの、やはりレティシアのやらかしである。別の問題が浮上して頭が痛くなった。
(思い付きで水と洗浄の複合魔法を使っただとぉ⁈ いつの間に複合魔法を使えるようになった! しかも浄化の上位魔法になるのか? 新しい浄化魔法として報告すれば、神殿どころか魔法省や魔法師団も囲い込んでくるぞ! いや、だが、浄化魔法と分からなければ、登録の義務違反にはならない。そもそもアレを“瘴気”と断じたのが間違いなんだ。こうなっては領館の浄化は必要だが、レティシアとこの魔法をどうやって隠せばいい?)
翌日、魔力切れから回復したレティシアは、グスタフの執務室でグスタフとヘルミーネの双方から叱責された。予想した通りだった。想定外だったのは、両手を取られてヘルミーネから魔力枯渇の怖さをこんこんと言い聞かせられたことだ。
今回は、魔力切れの段階だったからよかったものの、成長途中の体と魔力で魔力枯渇になってしまったら、何日も寝込み、悪くすれば何年も目覚めず、最悪の場合は命を落とすことさえあり得るのだと。しかも魔力枯渇から回復しても、その後の体や魔力の成長が止まってしまったり、魔力が使えなくなってしまうことさえあるのだと。
落ち込んで涙を浮かべるレティシアに、ヘルミーネは、必ず自分か、魔法に長けた大人と一緒でなければ魔法を使わないことを約束させた。レティシアの周りに、魔法に長けた大人というのは、今のところヘルミーネしかいなかったので、実質ヘルミーネのいないところでは魔法を使えなくなったのである。
そして、ヘルミーネの監督の下、グスタフが立ち合ってレティシアに食堂で水と洗浄の複合魔法を発動させた。
使用人の立ち入りを禁止し、ギーゼンと料理長にはレティシアの魔法について口外しないことを誓わせ、レティシアには他の人がいるところで絶対にこの魔法を使わないよう誓わせ、今後封印される秘密の魔法である。
キラキラに満ちた巨大な水球が霧のようになって食堂中に広がっていく様子を初めて目にして、グスタフもヘルミーネも言葉をなくした。やがてキラキラするものがなくなると、部屋中がすっきりきれいになったことに目を見開いた。聞くと見るとでは大違いで、見た目も結果もこんなに美しい魔法だとは思ってもおらず、封印してしまうことが惜しいと思ってしまうほどであった。
驚きから覚めた2人は、魔法を習い始めて日が浅いにもかかわらず、水魔法と洗浄魔法を複合させ、水球を霧のようにして拡散させるというレティシアの魔法制御のち密さを賞賛した。だが、まだできるから、さっさと他もきれいにしたいというレティシアの願いを聞き届けることはなかった。食堂は、廊下に比べて小さな空間だったとはいえ、魔力を使いすぎないよう戒める意味もあって、決して無理をさせず、1日1か所を徹底させて、サロン、食堂と厨房をつなぐ通路、厨房と順に悪臭と淀みを消していったのであった。
使用人たちにあの悪臭と空気の淀みを消し去ったことが伝えられたのは、発生から10日目のことだった。