6. 領館1階の廊下を開放
「うぇっ……ぐっ」
レティシアは、頭部全体が悪臭の膜で覆われているように感じられ、それを少しでも払おうと頭を左右に振った。料理長がポケットから差し出してくれた手拭いを受け取り、涙とよだれにまみれた顔をゴシゴシこすったが、不快感はなくならなかった。
料理長は、悔し気に悪臭の塊を睨みつけるレティシアの頭をポンポンしながらため息をついた。
(なんでも自分で解決できると考えんじゃねーよ。子供なんだからもっと大人を頼って……って、お嬢にとってオレは頼れない大人ってことなんだろうなぁ……)
上向いて忸怩たる思いをかみしめながら、とはいえ、どんな大人が側にいても自分で納得するまでやらないと気が済まないんだろうと、レティシアの難儀な気質を思いやってやるせなさを感じていた。
そんな料理長の心の内も知らず、吐き気が治まったレティシアは、座り込んだまま両手の間に抱えるほどの大きさのキラキラした水球を出し、ボソッとつぶやいて頭の上に放り投げた。
「ジョキン・ショーシュゥ……」
瞬く間に霧のようなものがレティシアに降り注いで、手拭いでこすった皮膚の赤みも薄くなったようだった。
その様子を見ながら料理長が改めて聞いた。
「そのスペルはなんなんです? 聞いたこともないですぜ?」
「ん~とね。物理的な水魔法となんか目に見えない洗浄魔法を一緒にしてね。シュパッと霧みたいにできれば、淀んだ空気も洗って隅々まできれいにできるんじゃないかなぁって。そのときに思い浮かんだスペルなんだけど……。やってみたら、なんかこれ、効いているじゃない?」
悪臭エリアを見誤って頭から突っ込んでしまったものの、レティシアは自分が発動させた魔法の効果に満足していた。床に手をついて立ち上がりながら、嬉し気に早口で答えていた。
スペルは魔法を発動する際にイメージを固め、その事象を起こすために必須とされる言葉である。魔力量によって事象のレベルは異なり、達人はスペルなしで大魔法を発動できるともいわれるが、長々と詠唱する者もいる。生活魔法で使う「ウォーター」「グロウ」「ファイヤー」「ウインド」「ライト」から、騎士が使う攻撃魔法の「(属性)バレット」「(属性)アロー」「(属性)カッター」「(属性)ウォール」「(属性)ブラスト」などなど多くの人が知っているスペルも多い。たとえ独自のスペルを用いた魔法であっても、大概はなんとなくその事象が理解できるはず、というのが料理長のスペルに対する認識だった。
洗浄魔法と言われてみれば、「ジョキン・ショーシュー」の「ジョキン」に覚えがあるような気がした。
レティシアが食事の改善のために厨房に出入りするようになると、まず始めたのがやたらと手洗いをさせることと、調理前のいろいろな食材に洗浄魔法をかけることだった。洗浄魔法をかけた食材で料理をつくれば、以前よりいろいろな味が感じられて格段においしくなったのだ。なくなって初めて、食材には蘞みなどの不味く感じられる雑味があったと気づいた。そして厨房のスタッフも洗浄魔法を覚えるようになったのだが、卵に対する洗浄魔法だけは特別だった。卵に付いている“極々小さくて目に見えないけれども人の体に悪いもの”がなくなることをイメージしなければならないと言われたが、これがまた、まったく理解できなくて、料理長はいまだによくわかっていない。それでも、それができるようになった厨房のスタッフがいたので、半熟という“禁断の卵料理”の数々がレシピに加わったのだ。その特別な洗浄魔法のスペルが確か「ジョッキン」ではなかったか? いや「サッキン」? 「ショッキン」だったか?
料理長は内心で頭をひねっていたが、目の前にいるレティシアの小首を傾げて自分でもスペルの意味がよく分かっていないような様子から、これまでのいくつもの思い付きの料理同様に、思い付きで新しい魔法まで生み出したのかと驚き半分、呆れ半分の気分になった。もっとも、ずっとそうした行き当たりばったりに付き合ってきた身としては、まぁ、いつものことではあった。
(お嬢らしいっちゃぁ、らしいんだけどよぉ……。これ、もしかして、とんでもないことなんじゃねぇの?)
気が付けば、悪臭の塊を前にキリッとした顔つきで立っているレティシアが、いつの間にかこれまでで一番大きな、廊下の空間いっぱいに膨れ上がったキラキラした水球を作り出していた。
「お嬢。それはちょっと……」
レティシアの魔力量は多いと聞いてはいるものの、さっきから何度も水球を生み出している。いくらなんでも10歳の子供の魔力量で大丈夫かと心配になって、「大きすぎやしやせんかぃ」と続けた言葉にレティシアのスペルが重なった。
「ジョキン・ショーシュー!」
料理長の心配をよそに、レティシアが叩きつけようにした巨大な水球は、これまで以上の濃度のキラキラした霧となって、勢いよく目の前の空間を覆いつくしていった。
しばらくしてそのキラキラが消えた後、廊下の奥まですっきりきれいに見通せる状況になったことに料理長は唖然とした。空間を圧迫していたあの空気の淀みはどこにも感じられない。おもむろにレティシアを見やれば、その場にへたり込んでへにょりとした顔で料理長を見上げていた。
「疲れたぁ……」
「よくやった! お嬢‼」
廊下の悪臭と淀みをきれいに消し去ったレティシアが誇らしく、思わず小さな肩に両手をかけてしまったが、力が入りすぎたかと一瞬怯んだ。しかし、照れたような笑顔を浮かべるレティシアにホッとして、二人で笑みを交わした。そしてレティシアをそっと抱き上げ、本日何度目かのため息をついた。生活魔法しか使えない自分には経験がないが、魔力の使い過ぎによる疲労であろう。やはり最後は止めるべきだったかと一瞬の後悔がよぎったが、結局どんなときでも自分にはレティシアがやりたがることを止めることはできないという思いを強くするのであった。
「まったく、無茶苦茶ですぜ、お嬢。魔力がなくなったんでしょう? 今日のところはオレから旦那様に報告しておきますから、この後は大人しく休んでくださいよ?」
「ん……」
料理長の首に両手を回し、肩にくたりと頭を預け、背中をトントンされながらレティシアは頷いた。
「まぁ、明日は、お叱りから始まると覚悟しておいたほうがいいいと思いますがね」
「うぅぅぅ……」
悪臭と淀みを解消したとはいえ、グスタフに黙って勝手にやったこと。魔法の教師でもあるヘルミーネがいないところで魔力切れになるまで魔法を使ったこと。鍋のやらかしの後でもあり、大人しくしていろと言われたばかりで、結果が良かったといえども容認されるはずはない。レティシアが抱いていた達成感は、みるみるしぼんでいった。
疲れ果て、両親からの叱責を思って意気消沈したレティシアを部屋に送り届けた料理長は、メイドに後を任せてグスタフの執務室に急いだ。