5. ジョキン・ショーシュー!
レティシアの目の前には、吐き気を催すような悪臭と淀んだ空気が大きな塊のようになって立ちはだかっていた。
(なんでこんな悪臭がするかなぁ)
これまでも魔獣の肉と骨で出汁を取ったことはあった。抱きかかえられる程度の大きさの魔獣の骨からはとっても美味しい出汁も取れたのだ。それより大きい魔獣の場合は、家畜より獣臭さと刺激臭は多少キツかったものの、耐え切れないほどの悪臭がしたことはなく、臭み消しの香草や薬草、野菜などと一緒に煮込めば何の問題もなかった。
(大きすぎた? 凍らせていたから魔素が抜けきらずに凝縮した?)
悪臭の壁を前に、レティシアは改めてこの悪臭の原因を考えていた。そもそも臭いなど魔法を使わなくても時間がたてば拡散してやがて消えるはずだ。風魔法でも浄化魔法でも消えない悪臭ということがおかしいのである。
だが、原因を考察する前に、食堂やサロンといった家族のエリアが使えない状態を何とかしなければならない。今のままではあまりに不便で、なにより厨房を開放しなければ、食事が不自由である。
お父様は、今回の悪臭騒動の責任は自分や料理長にはないと言ってくれたが、それはこれ以上余計なことをしでかすなという牽制だと、レティシアはそこはかとなく察していた。だが、やはり原因は自分だと思うのだ。自分がやったことは、やはり自分で解決、はできなくても、せめて解決の道筋くらいは見つけたいではないか。
昨日、起き上がれるようになってから、レティシアはこの場所を訪れていた。その時は、いつも生卵をきれいにするときのように人の体に害のあるものをなくす洗浄魔法で悪臭と空気をきれいにできないかと試してみたのだが、ほとんど効果はなかった。当たり前と言えば当たり前だ。風魔法と浄化魔法でさえ消せなかった悪臭が、浄化魔法の下位互換である洗浄魔法でなくなるはずもない。だが、これまでの経験上、人の体に悪いものなら洗浄魔法で消えるはずだった。だがそれが消えずに、その上悪臭と淀んだ空気とが物体のような質感をもって立ちはだかる様を目の当たりにして、いっそ物理的存在であればこれを蹴散らせるのではないかと考えていたのだ。
あたり一帯に水をぶちまけるか、雨のように水を降らせて空間ごと洗ってしまうか――。そんなことを考えていたのだが、今、改めて空気の壁に対峙してみると、別のアイデアがわいてきた。
(あ、こっちのほうがいいかも)
なんとなくそう思ったレティシアは、両手を前に伸ばし、そこに水魔法で一抱えほどの水球をつくり出した。そしてその中に人の体に害をなすものを消す洗浄魔法が満ちていくことをイメージした。魔法を使う際には、身の回りにある魔素を使ってどのような現象を起こすのかをどれだけ明確にイメージできるかが大事だとヘルミーネから習っていた。なので、単なる水ではなく洗浄効果のある水で悪臭と淀んだ空気を蹴散らすことをイメージしたのである。すると魔法で生み出された水の塊の中にキラキラしたものがふよふよと漂い始めた。
(ほあぁ、このキラキラが洗浄魔法なのかしら……)
本当に思い付きだったので、実際にどうなるかは自分でもわからなかったのだが、水球の中にキラキラ輝く極小の粒が渦巻くようにどんどん増えていく様子はなかなか美しい。それを眺めていると、どこか楽しい気分になってきて、知らずに口角が少し上がったのが自分でもわかった。
(悪くないんじゃない?)
やがてキラキラが水球の中にギッシリ詰まったようになると、レティシアは頭に浮かんだ言葉と共に水球を空気の壁に向かって押し出した。
「ジョキン・ショーシュー……?」
(壁のレリーフの溝や板の隙間、天井の角や腰板の桟の裏側……、目の前の空間隅々まで、水と洗浄魔法で悪臭と淀みの元を消し去れ?)
すると目の前で水球がシュバッと弾け、キラキラが霧のように通路いっぱいに広がっていった。
(ほぉぉ……)
思ってもいなかった光景に、声にならない感嘆の息が漏れていた。
「お嬢、これは……」
レティシアの後ろに立っていた料理長が、呆然とつぶやくのが聞こえたが、レティシア自身、見たこともない魔術の発動に言葉をなくしていた。
やがてキラキラが消えると、目の前にあった淀んだ空気の壁から感じていた圧が減ったように感じたレティシアは、そっと一歩前に踏み出した。
そこには、さっきまであったはずの悪臭の壁はなかった。
(よしっ⁈)
訳がわからなくても、思った通りの結果が出れば成功である。思わずこぶしを握り、レティシアは慎重にもう一歩、さらに一歩前に進んだ。
ここまでは悪臭は感じられない。空気も淀んでいない。むしろ爽快感があるかもしれない。上下左右をぐるりと見渡せば、明らかに悪臭の塊の位置が後退したようで、その境目がうっすらと見えるようだった。
実体があるようでないような浄化魔法はともかく、風魔法はもっと強く大嵐レベルであれば拡散できたのかもしれない。もっとも、屋内でそんな大魔法を使えば建物自体が破壊しかねない。どうしてこんな悪臭を伴う淀んだ空気がこの場にとどまり続けるのかはともかく、得体のしれない存在には、実体がある水魔法は使い勝手がいい、というか最強じゃないかと考えながら、
「やはり、物理が一番ですか……」
満足げにそうつぶやくと、その場で、前よりも大きな、自分自身がすっぽりと覆うほどの大きさの水球を作り出した。しかもすでにキラキラしたものでいっぱいになっていた。
「お嬢、だからそれは一体……」
料理長に聞かれたところで、説明しようとすれば長くなる。そんなことより悪臭の壁を何とかするほうが先である。
「ジョキン・ショーシュー!」
訳がわからない言葉であるが、浄化魔法も風魔法も効かない重苦しい質感を持つ空気を水という物理できれいにするための魔法発動の言葉とレティシアは理解していた。
水球は、先ほどと同じように勢いよく弾け、霧のように通路を覆っていった。そしてキラキラが消えた頃には、さっきよりも奥まで悪臭の塊は後退していた。その結果を目にして、レティシアは数度軽く頷いた後、料理長のほうに振り向いて嬉しそうに笑った。
「これでいけそうよ! 水魔法と洗浄魔法が効くみたい!」
悪臭の起こりは、自分であったことは重々承知している。領館の皆に迷惑をかけたことは、お父様にくどくど言われなくても分かっている。それを自分で始末が付けられそうなことが分かった達成感と、厨房をきれいにできれば食事の不便もなくなる期待感に、自然と口元が緩んでいた。
それでも注意深く天井や壁を見て、きれいになったエリアの境目を確認しながら前に進んでいたのだが、警戒感なく踏み出した何歩目かのとき、ぶわっと悪臭に包まれてしまった。どうやら天井や壁、床に近いところは洗浄効率が良く、廊下の真ん中の空間にはまだ悪臭の塊が飛び出すように居残っていたらしい。
「ぼげっ!」
レティシアは、反射的に顔を背けて仰け反り、後ずさりながら崩れ落ちた。
「げぼっ! がはっ! うげっ!」
「お嬢!」
後ろに控えていた料理長が慌てて寄り添い、えずくレティシアの背中をさする。俯くレティシアは気付かなかったが、この時、料理長は微妙な顔になっていた。涙目になってせき込む様子は可愛そうなのだが、風魔法でも浄化魔法でもどうにもならなかった悪臭と淀みを消し去る魔法を編み出したことに感動していたところに、この状態である。感動だけで済ませてくれないところがいかにもレティシアらしく、また、この小さな“お嬢様”にあれこれ振り回されている自分が滑稽で、どこか安心していることに気付いて複雑な気分を持て余していたのだった。
久々の更新です。年度末からずっと時間が取れない……。