4. 悪臭騒動の被害
少々修正しました。遡って若干修正していく予定です。修正した分は、タイトルに数字を入れていきます。大筋に変更はありません。
結局、件の鍋は第一級危険物として騎士団が撤去した。
浄化魔法を使える騎士数人が代わる代わる先頭に立って、浄化魔法で悪臭の幕をかき分けるようにして勝手口から厨房に入っていった。鍋にたどり着くと、浄化の魔石をその中に放り込んだうえで蓋をし、念のため水魔法の水球で包み込んで隔離。それを館裏の林の奥に運んで、土魔法で深く深く掘った穴に鍋ごと埋めたのである。
しかし、領主館内のカーテンやリネン類、絨毯、壁紙などに染みついた臭いは、いくら風魔法、浄化魔法をかけても多少悪臭が薄まった程度で、なくなることはなかった。玄関ホールから厨房にかけての本館1階の半分のエリア、主に領主の私的エリアが使い物にならなってしまったのだ。
魔法が当たり前のこの世界では、自分の体や狭い範囲をきれいにする、種火程度の火が出せる、掌大の小さな光を灯す、コップ1杯程度の水やお湯が出せる、濡れた髪が乾かせるなどといった生活魔法は、平民も含めて割と多くの人が使える。だが、広範囲にわたる空間を浄化する魔法となれば、強力な魔法を使える貴族でも使い手は少なく、また魔力量が少なければ使える回数も限られる。魔力が足りなければ、浄化魔法を込めた魔石を使うことができるが、特定の魔法が込められた魔石は少々お高い。
鍋を廃棄するまでに、また、レティシアや料理長たちを“きれいに”するために、子爵家にあった浄化魔法の魔石のほとんどを使ってしまった。浄化魔法を使える数人の騎士たちの魔力量もそんなに多くはない。悪臭が染みついたカーテンや絨毯などはすべて外して、洗えるものは洗って、壁紙や床などに染みついた悪臭は自然に消えるのを待つか、浄化魔法を使える騎士には負担をかけるが、少しずつ浄化していくか、あるいは新たに浄化魔法の魔石を購入するか。いずれにせよ、しばらくは悪臭エリアを封鎖するしかなく、グスタフにとって頭の痛いことであった。
しかも、悪臭の大本である厨房が使えないとあっては、使用人の分も含めて毎日の食事の支度ができない。この日は、レティシアと料理長や下働きたちも寝込んでしまい、パントリーにあった多くの食材も悪臭が染みついて使い物にならなくなっていた。すでに夕刻。夕食はいくつかのグループに分かれて順次1軒しかない町の定食屋に行くことにし、商店などで明日以降の食材も調達してくることになった。
翌日以降は、メイド長が中心となって敷地内にある別館の厨房で食事を用意し、本館まで運んだ。料理長たちはまだ具合が悪かったのだが、なんとか夕方から働き始め、レティシアにいたっては、4日目にしてようやくベッドから出ることができた。
そして5日目。
執務室でグスタフの前にレティシアと料理長が立っていた。
すでに料理長から当日の出来事について聞き出していたグスタフは、当日から今日までの被害の状況を淡々と述べていた。
領館1階の厨房寄りの半分は閉鎖。そのエリアに備えられていたカーテンやリネン類、絨毯、布張りのソファや椅子などを撤去し、洗濯して悪臭が消えるもの以外は焼却処分。パントリーにあった食材はすべて臭い移りして使えなくなったので、腐りそうなものから順に焼却。そしてそれを補うために新たに購入した食材の費用と今後の費用予測、保有していたほとんどの浄化魔石を使ってしまったので新たに必要になるであろう浄化魔石の購入費用、慣れない別館の厨房を使う使用人たちの労力などなど。
それを聞くレティシアも料理長もだんだんと頭が下がっていき、顔色も悪くなる一方だった。やろうしたことではないが、結果として自分たちがしでかしてしまったことの被害をただ静かに聞かされることは、怒鳴りつけられるよりキツイ。領館中の人たちにどれだけの迷惑をかけたかを思い知って、ただ唇を噛むことしかできないことに、また苛まれるのだった。
「カルロ、鍋を埋めたところに変化はないか?」
一通りの被害を語った後、グスタフは執務室の扉脇に控えていた騎士団長に問いかけた。
「はっ。鍋を埋めた場所は、今のところ何の異常もありません」
グスタフは騎士団長に問いかけることで、領館に働く者だけでなく、騎士団にも余計な労力をかけていることを二人に知らしめた。そして、鍋一つに非常事態並の警戒態勢が取られていることを明らかにした。
「幸いなことに、この執務室や応接室といった公的エリアには被害がなく、使用人棟にも広がらなかったので、領政にも影響はなかった。2階にいたヘルミーナもあの臭いをかいでいないので、良かったよ……。ダシを取ろうとしたこと自体は、そもそも私が許可したことで、お前たちの責任ではない。だが、手に負えない悪臭が出たところで、なぜ止めなかった? 閉めておくべき鍋の蓋を握り締めていたのは、なぜだ、レティシア?」
料理長がハッと顔を上げて、グスタフを見た。厨房から飛び出す直前、悪臭を抑えるために自分が閉めた蓋をレティシアが開けたことは話していなかったはずなのだ。だが、厨房外の広場で嘔吐しているレティシアが蓋を握り締めていたことに、グスタフは気が付いていた。
グスタフは、自分に向けられた料理長の視線をまったく気にせず、真っすぐにレティシアを見つめていた。
料理長も、なぜあのときレティシアが蓋を取ったのか疑問だったので、自分の一歩斜め前に立って項垂れるレティシアを恐る恐る見下ろした。
「……魔素だと思ったの。魔素を取り除けば、悪臭がなくなると……」
ぽつりと小さくつぶやいたレティシアに、グスタフは額に手を当てて大きな息を吐いた。
「お前の適性は、水魔法だろう。浄化魔法は使えないだろう?」
その言葉に、レティシアは一瞬何か言いたそうにしたが、唇を噛んで俯いた。
グランツ王国では、貴族子女がある程度体が育ったとされる7歳になると神殿で魔法適性と魔力量を調べる。魔力そのものは平民も含めて誰もが持っているが、水・土・火・風・光・闇の6大分野で広範囲に強力な魔法を使えるのは、貴族がほとんどだ。建国当時、6大魔法を使える者たちが王に直接仕え、その後貴族として代々の王に仕えてきたため、貴族の多くが6大魔法の使い手であり、魔力量も多い。もっとも魔力自体に指向性はなく、各人の適性も体質のようなもので、他の魔法が使えないわけではないが、適性があるものに比べるとかなりの研鑽が必要になるというだけだ。
理論上、水魔法に適性のあるレティシアにも光魔法の一つである浄化魔法は使えるだろう。だが、水魔法を学び始めてまだ2年。魔力量が多いと判定されたが、他の魔法を学ばせてはいないのだから、使えるはずもない。
それでも何か考えがあったのか。しばらく待ってみたが、レティシアが再び口を開くことはなかった。
「今回のことは不測の事故であり、重ねて言うが、お前たちの責任ではない。ただ、処理の仕方を間違えたことだけは覚えておきなさい。しばらくは、使ったことのない新しい素材を使った料理は禁止だ。封鎖エリアの臭いが消えるまでは大人しくしていなさい」
グスタフがくるりと背を向けると、話が終わったという合図だ。
レティシアと料理長は、ぺこりと頭を下げて執務室を出た。
料理長は、先ほどのレティシアの一言に少なからずショックを受けていた。
あの状態の中で、原因を考え、対処を考えていたのか。先ほど何か言いたげだったことからすると、自分が連れ出さなければ、何かあの悪臭の対処法を実践していたのかもしれない。だが、危険な状態だったのだ。抱きかかえて連れ出したことに後悔はないが、慌てふためくことしかできなかった自分に比べ、料理を追求し、試行し、その結果を検証してさらなる実践を続けていこうとする冷静で貪欲な思考に、驚き入った。
前を歩く小さな少女のどこにそんな情熱があったのか。それに比べれば、自分でもなかなかやるようになったと自負する料理研究など、まだまだ足りない……。
「いや、お嬢。どこに行くつもりで?」
グスタフの執務室から出て、部屋まで送るつもりでレティシアの後ろを歩いていた料理長は、向かう先が部屋の方向ではないことに気付いて、声をかけた。
「うん、ちょっとね」
とりあえずは送ろうと生返事のレティシアに付いていった先は、1階の玄関ホールだった。
公的エリアから進んで、家族のエリアに入ろうとしたところで、微かな悪臭が鼻を掠めた。僅かであっても体が覚えていたのだろう。ぶわっと体中に鳥肌が立ち、あのときのように吐き気が襲ってきた。レティシアも同じだったようで、二人して顔をしかめて口を押え、2~3歩後ずさった。臭いが残っているエリアは、空気からしてどんよりとして人がそれ以上進むことを拒んでいた。
その見えない壁を前に、レティシアは両手を前に出して、そこに水魔法で一抱えほどの水球を作り出した。
自分たちが下手を打った結果を前に、彼女は一体、何をしようというのか。
この悪臭を何とかしようとしているのだろうとは思うが、つい今しがた、グスタフから「大人しくしていなさい」と言われたばかりである。また、これまでのレティシアの思い付きが必ずしもすべてうまくいったわけではなく、時には腹を壊したり、薬草の苦みで舌がしびれて料理の味がわからなくなるといった料理人として致命的な事態になったこともある。ましてや領館中を巻き込んだ悪臭騒動を起こした上に、余計なことをしてさらに状況が悪くなることがないとはいえない。
自分は大人として、また子爵家の使用人として、ここはレティシアを止めるべきだと料理長は思ったが、首を振ってレティシアのすることを見守ることを選択した。子爵家での奉公をやめる覚悟と共に。