3. 魔の悪臭騒動
ある日、魔の森近くの村から大きな猪の魔物を狩ったという報告があった。
その村には、時折森に入って魔物を間引くことが課せられており、その分の手当てが支払われ、税を牙や骨、毛皮といった魔物素材で納めていた。それ以外の素材は、村にあるハンターギルドの支部に高価で買い取ってもらえたが、魔物を呼び込むことになりかねない農作物の栽培や家畜を飼うことが難しく、決して裕福な村ではなかった。また、魔の森から魔物が溢れ出した時には最初の標的になる場所だけに、他から移住する人も少なく、大きく発展することはなかったが、森の状況や魔物の生息域などに変化がないかを村人から聞き取るため、半年に一度は役人が足を運び、代々の領主も必ず訪れている重要拠点の一つだった。村から大きな魔物の肉が献上されることもあり、領館の皆にとっても、その村は親しみのあるところだった。
今回、わざわざ報告があったのは、よほど大きな魔物だったらしい。ただ、魔の森自体に変化はないようなので、単独の“はぐれ”であると判断された。その後、村で解体して肉を食べてみたところ、かなり美味しかったのだという。そこで、領主様にその美味い肉を献上したいという申し出があったので、グスタフは有り難く受け取ることにしたのだが、それを聞いたレティシアが、「そんなに美味しい魔物だったら、骨からもいい出汁がとれるんじゃない?」と言い出した。そんなわけで、あばら骨を何本か買い取って、献上肉と一緒に届けてもらうことになったのである。
領主一家や領館の使用人一同は、これまでのレティシア主導による食事改善で、豚や鶏だけでなく、近くで狩られた比較的小さい魔物の骨からも、“出汁”という旨味のあるスープができることを知っていた。そのままスープとしてもうまいのだが、いろいろな料理に使えば、味のバリエーションが広がってさらに美味しい料理になること経験していたのである。わざわざ献上したいというほど肉が美味しいなら、その骨からは、どれほどうまい出汁が取れるのだろう。領主館では、誰もが新たな美味への期待を膨らませていた。
やがて、凍結させた二塊の大きな魔物の肉とあばら骨が届いた。
厨房では、大きな魔物の骨用にと大きな深鍋を新たに購入して準備を整えていた。香草や薬草、香味野菜も大量に用意して、料理長以下厨房のスタッフ一同が意気込んでいた。だが、魔物の骨は予想以上に大きく、そのままでは深鍋に入りきらない。叩き折ってようやく大鍋に収まったのであった。
そして、香草や香味野菜を加えた大鍋を火にかけてしばし……。
大鍋が温まってくるにつれ、なんとも不快な臭いがもわっと上がってきた。もっとも、これまでも家畜や魔物の骨から出汁を取る時は、最初は獣臭いような臭いがしたことから、あまり気にしなかったのだが、やがて沸騰してくると、獣臭いだけでなく、えぐくてツンとした吐瀉物のような、腐敗臭のような何ともいえない悪臭が一気にぼわっと厨房中に広がった。少しばかり魔獣の肉を削って入れたのが良くなかったのか、猪の魔獣というのがまずかったのか、骨を折ったせいで髄から直接エキスが出てしまったからなのか……。
誰かが耐えきれずにその場でえずいた。口と鼻を押えて外に飛び出した者もあった。
鍋の一番近くにいた料理長とレティシアは、ある程度獣臭いことを予測していたので、幅広の布を鼻から口を覆うように巻いていたため気づくのが遅れたが、布越しでも強烈な悪臭が感じられるようになり、目が刺激されて涙が出て来た時に、さすがにこれはいけないと慌てだした。火を止め、鍋に蓋をして、臭いを散らそうと料理長が風魔法を使った
だが、そのときすでに悪臭に当てられていた料理長は、体が小刻みに震えていたせいか、魔法をうまく制御できず、外との換気だけでなく、厨房奥の本館食堂につながる通路にも悪臭を押し流すことになってしまった。そしてそのことには気付かず、まずはレティシアを外に連れ出そうとしたとき、ひと際悪臭が強くなった。レティシアが、少しでも臭いを押さえようと鍋にかぶせた蓋を開けて、涙を流しながら鍋をのぞき込んでいたのだ。
「な、なにを! お嬢!」
料理長は、後先考えることなく、蓋を持ったままのレティシアを抱え上げて、勝手口から外へと飛び出していった。
一方、料理長の風魔法の効果は消えていたはずなのだが、通り道ができたとでもいうのか、悪臭は通路から本館食堂へじわりじわりと流れていき、他の部屋にも広がっていった。
洗濯したリネン類を抱えた1人のメイドが厨房横のパントリーに向かっていたとき、悪臭に気付いた。思わず吐きそうになって、慌てて踵を返してメイド長を探しに駆け去っていった。
食堂の隣にあるサロンで調度を確認していた従僕は、突如鼻を掠めた不快な臭いにウっと息を止めた。臭いの元を辿って食堂に行こうとしたが、あまりの臭さにそれ以上足を進められず、執事に報告しようと使用人棟に向かった。
家令のギーゼンは、主のお茶の用意をするため、公務エリアの子爵の執務室から家族エリアの奥にある厨房に向かっていた。2つのエリアの真ん中に位置するエントランスホールを越えて家族エリアに入ったとき、異様な臭いに気が付いた。原因を探ろうと歯を食いしばって食堂までたどり着いたものの、体中に鳥肌が立ち、吐き気を我慢できなくなって、この異常事態を主に知らせるためにえずきながら執務室に急いだ。
ギーゼンが執務室のドアをノックして、許しを得てから部屋に入ると、グスタフは途端に顔を顰めた。
「なんだ、ギーゼン、その臭いは! ちょっと待て。それ以上近寄るな!」
必死の思いで食堂まで進んだギーゼンの服や髪に、悪臭が染みついていたのだ。グスタフは、その臭いに耐えられず、素早く胸のポケットからチーフを取り出して鼻に当てた。
ドアを開けたまま、一歩中に入ったところで立ち止まったギーゼンは、顔色悪く、吐き気に苦しみながら、やっとのことで言葉を発した。
「は、はい。食堂の 先、おそ(グッ)らく、厨房から だと思 われま すが、……とんでもない(ウップ)悪臭が漂ってきて、い、ます。あま りに 臭いがひど くて、食堂に入 ることす ら難し い状況で す(ウグッ)」
ギーゼンが話をしている間に、執事とメイド長がやってきたが、ギーゼンから漂う悪臭に執務室に入れずにいた。開いたドアから顔を覗かせる2人に気づいたグスタフは、チーフを鼻に当てたままくぐもった声で彼らに聞いた。
「どうした? お前たちも何かあったのか?」
執事とメイド長はハンカチを鼻と口に当てつつ、目を見合わせて一つ頷き合った。2人を代表した執事が、執務室の外から眉を潜めながら答えた。
「従僕とメイドから報告がありました。食堂付近から異様な臭いがして近づけないと。館内にかなり広がっているようですので、至急対策をしなければなりません」
今日は厨房で、あの村から届いた魔物の骨の出汁取りをしていることを館中の者が知っていた。厨房で何かがあったに違いない。グスタフは魔物が纏う瘴気が噴出したのかと一瞬ゾッとしたが、この悪臭が館中に蔓延するかもしれないことのほうに恐怖を覚えた。
「騎士団長のカルロに、すぐに厨房に行って原因を突き止めるように伝えてくれ。私も行こう」
「いや、それは危険です。何があるかわかりません!」
家令のギーゼンと執事が止めるが、グスタフは厨房にいるはずのレティシアの身が心配になり、すぐに立ち上がった。
「私は外から厨房に向かう!」
グスタフは、正面玄関からぐるっと外を回り、本館に隣接する厨房の建物に近づいた。建物の玄関に当たる出入口の前に広がる場所に着いたとき、目に飛び込んできたのは、出入り口から奥にある勝手口にかけて、点々と散らばって崩れ折れている厨房のスタッフたちだった。皆、咳き込んだり吐き戻したりして、とんでもないことになっていることが一目でわかる光景であった。レティシアの姿が見当たらず、視線をめぐらして探せば、勝手口の近くで、涙を流しながら吐くレティシアの背を撫でながら、顔を逸らして自らもえずいている料理長の姿があった。
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ここまでの話を聞いたクリストフは、小さな両手で鼻と口を覆い、その場の阿鼻叫喚の様子を想像したのか盛大に顔を顰めた。
「グラじいも、によい、かいだ?」
うっすら涙ぐんで見上げるクリストフに、グラ爺は遠い目をした。
「わしも長く生きておりますがな。この世のものとは思えない臭い、心底恐ろしい臭いがあることを、あのとき初めて知ったのですじゃよ」