1. はじまりは
「王都にウチの料理店を出すことにした」
夕食後のサロンで、グスタフ・モリンベル子爵は、意気揚々とそう言った。
グスタフの向かいのソファに並んで座る2人の子どもたちは、それを聞いてきょとんと揃って首を傾げた。
13歳のレティシアは、モリンベルらしい紫水晶のアーモンドアイに不思議そうな思いを宿している。首を傾げた拍子に緩やかにウェーブした艶やかな栗色の髪が肩から流れた。
(来年から王都の王立学院に通うのというのに、そんな無防備で可愛い顔を外で見せるんじゃない! 悪い虫がつくじゃないか!)
弟のクリストフは、眉を寄せて小難し気な表情を浮かべているのが標準装備の3歳だ。ソファに掛けるというより足を伸ばして乗っている状態で、妻によく似たエメラルドの瞳が疑り深げにこちらを見ている。
(ちっこいくせに、こましゃくれた顔をしやがって。いっちょ前に賢し気な顔しても可愛いだけだぞ)
「お店に出資するのではなく、料理店を出す? しかも王都に? 一体どうして……」
親ばか全開で子どもたちの可愛らしさに内心ニヤニヤしていたグスタフだったが、さも不思議そうなレティシアの至極当然な疑問にハッとし、コホンと一つ咳払いをしてから、しかつめらしい顔を取り繕い、おもむろに話し始めた。
領政や事業の話など子供にする話ではない。だが、モリンベル家のお子さま2人は、親ばかをぬきにしても頭が回る。年相応の無邪気さはあるものの、大人顔負けの洞察力や思考力を発揮することがあるのだ。子供だからと言って綺麗事を並べるだけでは、余計な気を回して突拍子もないことをしでかしかねないので、モリンベル子爵夫妻は、家族にとって、また領地にとって重要なことは、理由や見解をきちんと話しておくようにしている。
「一つには、ウチの収益を上げたいということがある。これまでも新しい産業を興すとか、何か特産物になるものはないかと探ってきたが、なかなか“これは!”というものは見つかっていない。ただ、今のうちに、何か新しい収益源をつくる必要性が高まったということなんだ」
モリンベル領は、小麦を中心とした農業を主要産業としていて、それ以外にこれといった特産物も産業もない。天候次第で収穫高が変わり、税収も不安定になりがちだが、魔物が生息する魔の森に接しているので、国からの補助金や狩った魔物の素材や肉が手に入り、南の領堺にもなっている老亀山地と隣領から流れる2本の川の恵みで、豊かというほどではないが領民が飢えることがなく生活できる程度には安定していた。
先日、北の穀倉地帯が近年稀にみる豊作らしいという報告が上がってきたという。それによって小麦の価格が下がるかもしれないのだ。モリンベル領の収穫は例年並みとの予想だから、小麦価格の下落は減収につながる。ここ数年は財政が安定していたから、すぐに赤字に転落するとか苦しくなるというわけではないが、決して余裕があるわけでもなく、今後数年にわたって小麦価格が下がったままであったり、大災害など不測の事態が生じた場合に備え、新たな収益源となるような仕組みづくりが必要なのだという。
グスタフは、そこで一旦話を止め、気遣わし気に娘を見ながら静かに言った。
「それに、7年前の災害による税の優遇処置が今年で切れるんだ」
7年前、モリンベル領は、記録的な大雨と暴風雨に見舞われた。数か所で川が決壊していくつかの村が浸水し、その後に山地で土砂崩れが起きて一つの村が壊滅した。時間差で複数の災害が起きたため、復旧作業中の事故も含め、多くの人が亡くなり、その中には前子爵夫妻も含まれていた。
被害の大きさに、国から復興支援の他、3年間は無税で以降は段階的に税率を戻していく措置を受け、来年からは通常通りの税が課せられることになっていた。その状況で小麦の価格が下落すれば、せっかく立て直した領の経営に大きな影を落とすことになりかねない。新たな収益源の確保を急ぐのも無理はない。
レティシアは目を見開き、そっと視線を落としてぽつりとつぶやいた。
「7年……」
グスタフとヘルミーネは、そんなレティシアの様子を、固唾を呑んで見守っていた。
しんとして緊張感漂う両親と姉の常ならぬ様子に、クリストフはオロオロと3人に視線を巡らす。どうやら7年前の災害でレティシアに関係する何かがあったらしい。だが、それがどのようなことで、レティシアにとってどんな意味があるのかがわからない。ただ、この緊張状態の中心にいるらしい姉に力になりたくて、その手にそっと自分の小さな手を重ねた。
レティシアは、その柔らかで体温の高い幼児の手の感触に身じろぎ、もう片方の手でキュッと包み込んだ。そして、クリストフに笑いかけると、グスタフとヘルミーナになんの屈託もない晴れやかな笑顔を向けた。
「7年経って、新しいことを始める時期になったということなのね」
息を詰めていた夫妻は、その笑顔と言葉にホッとして微笑みを交わした。
だが、一瞬ゆるんだその場の雰囲気を、すでに気持ちが切り替わっていたレティシアの尖った声が破る。
「それで、なんでこれまでやったこともない料理店なの?」
何か新しいことを始める必要性はわかったが、だからと言って料理店をやることに納得したわけではないと、問いただすような響きがあった。
そもそも貴族は、自領の産業に関わること以外で自らが直接金儲けをすることを厭う。領地経営を蔑ろにしていると見做されるからだ。それなのになぜ、料理店などという小規模すぎて領の産業にも関係のない事業を始めようというのか。いっそ誰かに騙されて金を出すだけ、という話のほうが信じられるのだが、グスタフは、自らが経営する店を出すようなことを言った。不安しかないではないか。
娘が纏う空気の急激な変化に気圧されながらも、グスタフは気持ちを立て直して話を続ける。
「う、うむ。それは、お前のせいともいえるんだ。お前たちも知っているように、カンフェル商会のレオンがウチに来るたび一緒に食事をして、毎回料理を絶賛しているだろう? それが高じて、王都にいても同じものが食べたいと言い出したことから始まったんだが、今、東回りの商人の間で、フレル(領都)の食堂の料理が密かに人気らしい」
カンフェル商会は、モリンベル領の作物や木工品の取り扱いを任せているお抱え商会である。商会長のレオンによれば、王都の東側の貴族領を巡る商人たちが、旅程の中でフレルを訪れることをあえて選ぶことが増えているのだという。
モリンベル領は、大した産業もないので商売にはならないのだが、フレルにある宿屋2軒、食堂2軒で出される料理は、それを食べるためだけに訪れるほどではないものの、旅の途中であれば立ち寄りたいと思う程度には評判になっているようなのだ。
ここ数年、領主館の厨房から市井に伝えられた新しい料理や調理方法がいくつもあった。おそらくそれらのことなのだろう。
「料理だけで、この片田舎に人を集めることは難しいが、料理そのものをウチの特産品として考えて、それを出す店を王都に出したらどうかというのが、レオンの考えだ。商人というのは、国内外を回り、あちこちの美味いものを食べて舌が肥えているものだ。損得勘定を大事にする彼らが、多少の遠回りを厭わないということに勝機があると、私も思っている」
さも自信ありげに語る父親に、子どもたちは揃って胡散臭そうに眉をひそめる。
(料理店経営って、そんなに簡単なものじゃないと思うんだけど……)
「いや、ほら、ここ数年、レティシアの頑張りで、わが家の食事は格段に、本当に美味くなったじゃないか。まぁ失敗して大変なこともいろいろあったが……」
グスタフのその言葉に、クリストフ以外の3人が揃って遠い目をした。
またクリストフがわからないことで、両親と姉が通じ合っている。自分が生まれる前のことであれば仕方がないのだが、懐かしそうではなく、むしろ思い出したくもないような失敗があったというのだろうか。たかが料理で? クリストフは隣に座る姉の顔をうろんげに見上げた。
(なにしたの?)
弟の視線を視界にとらえたレティシアは、つと顔を逸らしたのだった。
そんな子どもたちの様子に我に返ったグスタフが、言葉を続ける。
「まぁ、基本、ウチの料理でいいんだよ。レオンが、王都でもこんなに美味いものは食べたことがないって言っていたから。王都の料理店で出てくるのは、高位貴族や大商人が行くような高級店以外は、以前、ウチで食べていたような塩味だけなんだそうだ。一度ウチの料理を知ってしまったら、塩味だけの料理には戻れんと泣いていたよ。それは、私たちも同じだ。今となっては、焼いた肉に塩を振っただけで、なんでご馳走だと思っていたのか、本当に信じられんよ」
グスタフが苦笑すれば、ヘルミーネも頷いてしみじみと語った。
「本当に食事が楽しいものだって思ったのは、レティシアがあれこれ頑張ってくれた料理を食べるようになってからだわ。他所に行って自慢げに出される料理を褒めなきゃならないのがどれだけ辛いか。早く家に帰りたくなるのよ」
クリストフはそんな両親の言葉に、自分たちが普段当たり前に食べている料理が一般的ではなかったことに驚き、またそれがレティシアのおかげというところが嬉しく思えたものの、先ほどの3人揃って遠い目をしたことが気になった。
「それでだ。レティシアは今年から王立学院に通うようになるだろう? それに合わせたい。まずは、店で出す料理を急いで考えてほしい。収益を考えると、手間と原価が問題になるが、料理に使う材料については、できれば領のものを使って、何か商品になる産物が見つかればいいと思っている。王都は諸物価が高いから、多少は原価を抑えることにもなるだろう。それに、店の従業員も領民を使いたい。いつかはその店がウチの産物をアピールする出張所みたいになればいいのだが、まぁそう簡単にはいかんだろうがな」
料理店一つとはいえ、ずいぶんといろいろな目的を持って、領地経営の一助となるくらいの事業にするつもりらしい。
そんな父親の話を聞いて、クリストフが責めるような目で言った。
「レチ、あぃき?」
グスタフは目を瞠った。
(こいつは本当に3歳なのか……)
グスタフは驚き半分、嬉しさ半分で立ち上がると、ソファに近づいてクリストフを抱き上げた。そして左腕でクリストフを抱きながら、右手でワシワシと頭をなで繰り回しながら笑った。
「はっはっ! まったく、ウチのお子さまは痛いところを突いてくれる。もちろんレティシアの料理ありきの計画だが、れっきとしたウチとカンフェル商会の共同事業だ。レティシアに頼り切ってやろうというんじゃないんだぞ。レティシアの料理は、あくまでもきっかけに過ぎん。料理以外のことは、わたしとレオンでしっかり整える。少しは親を信用してくれないか」
グスタフは、クリストフの目をのぞき込みながら、そう言った。
眉間を寄せながら口を尖らせたクリストフは、納得したわけではなさそうだが、それ以上は何も言わなかった。
レティシアを見やれば、両手で頬を包んで何か考えごとをしているようだった。すでにいくつもの料理の素材や手間のことで頭がいっぱいなのかもしれない。グスタフは子どもたちの様子にほんのり口角が上がった。
(揃いも揃って、ウチのお子さまたちは賢すぎる。レティシアの影響なのか、クリストフときたら、とても普通の3歳児とは思えん。このちっこい頭で一体どこまで考えが及んでいるのやら……)
グスタフは、クリストフを抱いたままヘルミーネの横に戻り、互いの手を握り合って微笑みを交わした。
とにかく、レティシアとクリストフの容姿を書きたかった。
4月26日、修正しました。