グレーテへのバトン
朱音「それでね…」
朱音「メアリさんに私の原稿を渡した」
朱音「メアリさんは最初は苦労したものの、今はだいぶ仕事に慣れてきたみたいだった」
朱音「ネムさんも別の方法を探してくれているって聞いた」
朱音「一年の月日が流れた」
朱音「メアリさんはまた私を訪ねて来たの」
朱音「それでね。素敵な報告を聞いたの」
朱音「同じ職場の人に告白されたって」
朱音「でもね…メアリさん断った…って」
朱音「どうして?って聞いたら」
朱音「今はそんなことをしている場合じゃないって…」
朱音「それでよかったの?って確認したら」
朱音「少し経ってから『うん…』って応えた」
朱音「嘘だって…分かった」
朱音「だからね。私言ったの」
朱音「嘘つきって…」
朱音「彼女とても驚いていたわ…」
朱音「好きなの?って聞いたら」
朱音「メアリさん…顔を赤くして言ったわ」
朱音「うん…って…」
朱音「そして、私は伝えた」
朱音「メアリさん。分かっていると思うけど…」
朱音「進んだ時間は巻き戻さない…一度きり」
朱音「大切なのはどう歩むべきではなく、自分がどう歩みたいのかだと私は思うの」
朱音「だから、後悔がないようにねって」
朱音「そしたら、メアリさん…」
朱音「顔が一変して嬉しそうに、うんっ!って…」
朱音「メアリさんは気が晴れたそうで、帰って行ったわ」
朱音「私はその後も、未来ちゃんと一緒に小説を書き続けた」
朱音「そして、更に一年が経った」
朱音「私は十八歳になり、未来ちゃんと一緒に施設を出た」
朱音「一緒に住まないって未来ちゃんに誘ったんだけど…ごめん。叶えたい夢があるんだって…」
朱音「あの子素敵なな夢を持っていたの」
朱音「お医者さんになりたって…」
朱音「その理由はね」
朱音「小さい頃、ご両親を事故で亡くなってしまったようなの…」
朱音「だから、自分と同じような思いをしない子どもが一人でもいなくなればいいなって言ってたわ…」
朱音「『未来』って…素敵な名前よね…」
朱音「本当に彼女に相応しい名前…」
朱音「私はメアリさんとネムさんとの新生活を迎えた」
朱音「メアリさんはあの後、自分から気持ちを伝えて今はお付き合いしてるって…」
朱音「嬉しかったな」
朱音「とても幸せそうだった」
朱音「ネムさんも元気そうで…」
朱音「でも、ずっとあの人を気にしてた…」
朱音「そして、色々なことがあったけどあれから十年が経ったわ…」
朱音「ようやく、私たちの努力が報われた日が来たの」
朱音「私の小説が遂にコンテストで選ばれた」
朱音「私の小説はね。初め国内でそこまで有名にはならなかったのだけれど」
朱音「なぜか海外でとても有名になって、その波が日本にも来たわ」
朱音「とっても嬉しかった…」
朱音「本当に嬉しかった…」
朱音「未来ちゃんにも報告したの」
朱音「未来ちゃん。ちゃんとお医者さんになってた」
朱音「初めは苦労したけど」
朱音「今は患者さんに『ありがとう』って言われることが何よりもの生き甲斐だって言ってたわ」
朱音「そして、メアリさんはお母さんになっていた。よく赤ちゃんを見せに来てくれたわ」
朱音「とってもね。可愛いのメアリさんの赤ちゃん」
朱音「そして、ずっと待ち望んでいた日が来たの」
朱音「そう。再びあの世界が彩られるのかをね…」
朱音「私たち三人は遂にジャックの絵本の前に立った」
朱音「みんなで一緒に絵本を開いたわ」
朱音「でもね…」
朱音「絵本には何も描かれていなかったの…」
朱音「それに各ページは全て白紙だった」
朱音「絵本が再び光り出すことはなかった…」
朱音「彩られることはなかった…」
朱音「とても、落ち込んだわ…」
朱音「私は二人にずっとずっと謝り続けた」
朱音「選択は誤りだった…」
朱音「私をひたすら信じてくれた二人にはどうしても頭が上がらなかった…」
朱音「でもね…」
朱音「二人は土下座して謝る私の手をとって、こう言ってくれたのよ…」
朱音「謝る必要ないよって。頑張る姿をずっと見て来たからって…」
朱音「その日はね…」
朱音「ずっとずっと三人で抱き合いながら泣き続けたわ」
朱音「それから、また暫くが経った…」
朱音「私もね。好きな人ができた」
朱音「小説家繋がりで…」
朱音「その人と結婚をして子どもに恵まれた」
朱音「みんなにも祝福された」
「チリンッ…チリンッ…」
鈴の音が鳴る。
朱音「ごめんなさい…もう少しだけ。もう少しだけ待って…」
朱音「最後にどうしても伝えたいことがあるの」
朱音「ごめん。なんだかんだで長くなっちゃった…」
作者「いいや。僕は構わないよ」
作者「キミの全てを僕は伝えたい」
朱音「ありがとう…」
朱音「続き…話すね」
朱音「そして、私が四十歳になったある日、ジャックの絵本を見ていて気づいた」
朱音「絵本には奥付があることを…」
朱音「でも遅すぎた…」
朱音「絵本を発行した会社に問い合わせたんだけれど…」
朱音「絵本の著者さんは亡くなっていたの…」
朱音「これをもっと早くに見つけていればって、ひどく自分を恨んだ…」
朱音「でも、私には今の幸せがある」
朱音「今の幸せがね…」
朱音「そして、そこから三十年が経った」
朱音「私はおばあちゃんになった」
朱音「そして、私は死の間際、家族みんなに囲まれながら人生の最後を迎えたわ」
朱音「ただ、後悔はしている」
朱音「またみんなに会えなかったこと…」
朱音「二人の願いを叶えられなかったこと…」
朱音「ネムさんはね…」
朱音「ずっと彼のことを思いながら一人最後を迎えたわ…」
朱音「だから、私は生前に過去の自分に向けてあるメッセージを残した」
朱音「ジャックの絵本は時空を超えるそうなの…」
朱音「絵本の著者が残した資料をその親戚の方から見させてもらって知った」
朱音「それで、どうすれば当時の私は信じるのかって考えた」
朱音「そして、思いついた…」
朱音「大好きなお母さんの字ならって…」
朱音「私はお母さんの字を真似して、修正液で『奥付』って表紙に書き入れた」
朱音「真似られたかはわからないのだけれど…」
朱音「きっと…過去の自分なら信じてくれるはずって私は祈るばかり」
朱音「私には選択できなかった未来を歩んでほしい…」
朱音「心からね」
朱音「だから、託した」
朱音「私のバトンを…若かりし頃の私…グレーテの私に…」
朱音「だから、もしかしたら別の私があなたにまた話しかけてくるかもしれないわ…」
朱音「ごめんね…」
朱音「あなたにはとっても迷惑をかけたわ…」
朱音「死後、誰かに伝えたいと願った時、なぜかあなたに繋がった」
朱音「そして、若いあなたの時間を沢山使わせてしまった…」
作者「ううん。そんなことはない…」
作者「そんなことないよ」
朱音「ありがとう…」
朱音「あなたならそう言うと思っていた」
朱音「実はまだ私、自分の人生諦めてないの…」
朱音「あなたの世界で私の物語を多くの人に知ってもらうことで、奇跡がおきるんじゃないかな…なんて…」
朱音「少しだけ思っている」
朱音「だって、逢いたいんだもん!」
朱音「どうしても…どうしてもまた逢いたい!」
朱音「みんなに…」
朱音「お父さん…お母さん…お兄ちゃんに…」
作者「それでこそキミだ」
作者「今のキミも十分グレーテらしいと僕は思う」
作者「今でもキミは果敢に立ち向かっているじゃないか」
朱音「フフッ…」
朱音「そうなの…かな…」
朱音「はい…」
朱音「私の語りはもう終わり」
朱音「私に付き合ってくれてありがとう」
朱音「私もう…行くね…」
作者「ごめん。キミに伝えたいことがあるんだ」
朱音「ん?」
作者「キミに感謝したくて…」
朱音「え…?」
作者「キミと初めて通じた時、僕は親元から離れて一人で遠い地に住んでいたんだ…」
作者「でも、キミと出会って気付かされたんだ」
作者「家族との時間がいかに大切なのか…貴重なのか…」
作者「僕はその地での仕事を辞めた」
作者「そして、親元に帰って別の会社に勤めながら働いているんだ…」
作者「今は、家族と貴重な時間を一分一分噛み締めながら、日々を過ごしてる」
作者「未来には自分の将来の姿がある」
作者「だから僕らは進む…」
作者「でも、それと同時に親が生きる時間は日々、擦り減っていく…」
作者「いつ何時何が起こるかわからない…」
作者「自分も含めてね…」
作者「だから、僕は今を全力で生きてる」
作者「未来の自分にできるだけ近づけるように」
作者「後悔のない人生を歩みたい…」
作者「キミに出会えて僕はそう思えたんだ…」
作者「ありがとう…グレーテ…」
作者「キミには感謝しきれないよ…」
作者「僕は必ずキミの記憶を…そしてキミの体験を多くの人に伝える」
作者「約束する」
朱音「ありがとう…」
朱音はそっと右手の小指を差し出した。
僕も小指を差し出して、指を組み合わせた。
朱音「ありがとう…」
朱音「過去の私を…グレーテを頼むわね」
作者「あぁ…」
「ゴーンッ」
重い鐘の音が鳴り響く。
朱音「それじゃあ…」
作者「うん…」
彼女の姿は薄くなり、私の目の前から姿を消した。
作者「グレーテ…」
作者「これまでよく頑張ったね」
作者「キミは変え難い現実に常に抗い続けた」
作者「そして、自分の幸せよりも周りの人の幸せをキミは望んだ」
作者「それは、そうそうできることではないよ…」
作者「僕もね。キミと同じでまだ諦めてはいないんだ…」
作者「キミがみんなといずれ再会できることを望んでいる…」
作者「別のキミではなく今のキミがね…」
作者「僕は書き続けるよ」
作者「この世界の多くの人に知ってもらえるように…」
作者「僕は書き続ける…」
作者「グレーテ…それまで、しばし安らかに…」
作者「キミに幸在らんことを…」