001 捕まったピクシー
ピクシーは困惑していた。
森の中では木の実をかじり、日が昇ったら空を飛び、虫の姿で人間の街に紛れてみる。
それはピクシーにとっては、まったく何の危険もない、日課のようなものだった。
それがどうしてこうなっているのだろう。
細工の美しい虫籠は、光を反射して目に痛い。
籠の置かれた部屋には誰も居らず、遠くから甘い楽器の音色がした。
できることなら籠の格子よりも小さな姿に変身して、さっさと逃げ出してしまいたいが、捕まえた者の様子を思い出す限り、とりあえずは当たり前の虫のフリをしていたほうが懸命な気もする。
遡ること半日、扇状に広がる城下は朝から賑やかで、石造りの家々からはスープやバターの香りがした。
いつもの通り、碧いカザキリの姿で噴水の隙間をくぐり抜け、市場に架けられた色とりどりの幌布の上を行く。
要へ向かって曲がりくねる路地を道なりに、時折は樽に溜まった朝露で喉を潤した。
街の要に当たる要塞は、別に皇城とも呼ばれており、その城壁は樹齢数百年の木々よりも高い。
険しい雪山の麓、もともとは崖であったところに造られたらしく、城壁を越えても同じだけ降下する必要はない。城下からも城の半分は見えていた。
城壁の左右とも繋がっている皇城の他にも、そこには面白い建造物がいくつかある。
ピクシーが忍び込んだのは、そのうちのひとつ、要塞の塔が三つ繋がったような城だった。
それは中央の皇城や、城壁の内側にあるその他の城よりはやや小ぢんまりとしたものだったが、開け放たれた窓が多く、内部へ入り込みやすかった。
皇城や城には人間の皇族が暮らしており、彼らは大抵鉱晶の力を使えるという。話には聞いたことがあったが、その強さは魔獣とどっこいどっこいだとも聞いていたため、それほどの脅威とは考えていなかった。
ピクシーという種族に争う力はあまりないが、逃げることだけは得意であったし、実際に住処としている樹海ではしょっちゅう大きな魔獣から逃げていた。
そう、ピクシーは、まさに今自身が思考のために使っている言語を生み出したのが、他ならぬ人間だということを失念していた。
鳥や獣、魔獣の言葉は単純なものばかりだし、ピクシーも本来、言葉というものを必要とはしない。
熟考できる生き物が如何に怖いものなのか、それをピクシーは今日の今日まで知らなかった。
カザキリの姿でいる限り、開いてさえいればどの窓からでも忍び込むことは可能だったが、ピクシーは無難に人気のない二階の窓枠で羽を休めた。
しかし、それからほんの間もないうちに、音もなく人間が現れたのだ。
それは、子どもではなく大人だった。
しかもその行動は明らかに、ピクシーを探しにきたという風であった。踊り場をただ通り過ぎるうちに見つけたという様子ではなく、はじめからそこに何かがいることをわかって探しにきていたようだった。
城下でも子どもに追いかけられた経験は一度や二度のことではないが、大人に追いかけられたことなどほとんどない。
大抵、大人は驚き怯えるか、その場から軽く追い払おうとする程度で、冷たい圧を叩きつけられることなど、これまでなら有り得ないことだった。
正直死ぬかと思った。それはもう、怖かった。
その人間の手元からでてきたのが包丁でなくて本当によかった。
包丁だったら人目も気にせずユミノバメに変身して全力で逃げるところだった。
いや、でてきたのが薄いショールであっても、あのときは全力で逃げるべきではあったのかもしれない。
ピクシーを捕まえた人間の手際は、ちょっとそこらではお目にかかれないもので、思わず呆気にとられてしまったが、そうはいっても反撃の隙はあったのだ。
兎に角、そのような経緯で捕まってしまったピクシーは、虫籠の中で大人しく人間の次の行動を待っていた。
そうして、そこから更に半日ほど経っただろうか。
結局、人間が虫籠の部屋に来たのは夜も更けてきた頃だった。
「大人しいわね」
籠ごと連れてこられた明るい部屋には、5人の人間が待っていた。扉の前にいる2人はお仕着せ姿のようなので、ピクシーの処遇に関係するのは恐らくその他の4人だろう。
唯一椅子に腰掛けた人間が、穏やかな声で感想を述べると、その後ろに控えていた人間が首を捻った。
「これはコスイカザキリではないのかい」
コスイカザキリ。ピクシーはその呼び方を初めて知ったけれど、涼やかでいい名だと納得する。しかし問題はそこではない。ピクシーは問いかけられた人間から目を背けることができなかった。
「ええ、違うわ」
ピクシーはふるりと薄く煌めく羽を揺らした。
椅子の上の小さな人間は、簡単な肯定の返事だけでピクシーが虫の偽物であると断言したのだ。
なぜ、どうして、と頭の中がぐるぐるする。ピクシーにとっても今の自分はカザキリであるのに、彼女にとっては違うらしいことが不安だった。あからさまな敵意が見つからないことだけが、唯一の安心要素だった。
「それでしたら、この対応は些か不用心なのではありませんか、殿下」
窓際にいた人間は、冷たく咎めるような声をあげた。
「大丈夫よ、虫籠はヴィーが改造したのだもの、ドラゴンでも3秒は破れないわ」
「ですがそれでも、5秒後には城ごと吹っ飛びます」
「そうであっても儚く散りはしないでしょう。それにシュゼット、ドラゴンなら交渉が成り立つわ、仮にそうでなくとも……」
椅子に腰掛けた皇族は、柔らかな微笑みを浮かべてピクシーを見つめた。ふわふわと波打つ髪の色と同じ、瞳はとても澄んでいた。
『少しなら』
ピクシーは素直に言葉を共有した。カザキリの姿では発声ができないので仕方がないのだが、やはり人間たちはそのやり方に驚いたようだった。
ただ、瞳孔を揺らした3人の手がそれぞれ、懐やら腰やらに伸びているのは何というか見なかったことにしたい。
一方の皇族は、まさにびっくりといった表情から、手のひらを合わせて破顔した。
「ありがとう。私はファラール。貴方は」
『私はピクシー、ピクシーに名前はありません』
それで今度こそ、部屋の空気が固まった。
目の前の皇族は笑んだまま首を傾げ、困ったわねと声を漏らす。
「皇国の知らない種族だわ」
「薄々わかってはいたんだろう」
「ドラゴンか、もしくはマートルの可能性もあるかと思っていたのよ。皇国にはいないはずだけれど、変化が得意なのだもの」
皇族の視線が横に逸れ、さらに会話が続くのだろうと思われたが、籠を持っていた人間がそっと退出したせいで、ピクシーがその後の話を聞くことはなかった。
「その姿のまま休みますか」
人間の言葉に、ピクシーは首肯を返した。
わかったことは少ないが、ピクシーがピクシーでなければ皇族の城に忍び込んだ罪は考えるまでもなく即時適用されただろう。であれば籠に入れられていることくらいはわけもない。今後のことを思えばこそ、甘んじて受け入れておくべきだ。
「そう、では、何か食事は必要ですか」
今度は首を横に振る。コスイカザキリの姿なら、3日は食べずとも生きられる。お腹は空くので明日には何かしら口にしたいと思うものの、今日はもう食べる気にはなれなかった。
星明かりも、月明かりも、眩しくはない夜だけれど、明るい部屋から森の様子はわからない。一日神経を張り詰めていたピクシーは、人間がいなくなりほどなくして夢の世界へと落ちていった。