船乗りの少年 (5)
あんなに大きな声で叱りつけたら、ノアが泣いちゃう、とアンヌマリーはハラハラした。
けれども彼女の予想に反して、小さな弟は泣かなかった。ノアは暴れるのをやめておとなしくなり、じっと何かをうかがうようにヨゼフを見つめた。
ヨゼフはノアを一喝した後ソファーから立ち上がり、ノアの前に片膝をついた。あれほど恐ろしい声で叱りつけたというのに、その表情は少しも怒っているように見えず穏やかだ。ヨゼフは真剣な表情でノアと視線を合わせると、静かな声でこう言った。
「テーブルの上は仕事をしたり食事をしたりするための場所であって、遊ぶ場所じゃない。遊ぶのは、下にしなさい。下なら大丈夫だから。わかった?」
「うん」
「よし。いい子だ」
ヨゼフは馬をつかんでいるノアの手を引いて、その馬をじゅうたんの上に立たせた。
「見てごらん。道がたくさんあるぞ。あっちの山にはドラゴンがいるんだ。見つかると殺されてしまうから、音をたてずに静かに行こう。できるか?」
「うん。だいじょうぶ。しー!」
じゅうたんの模様を道に見立ててヨゼフが話しかけると、すぐにノアはおとぎの国に入り込んで行った。ヨゼフが立ち去っても、そのままじゅうたんの上で静かに遊んでいる。もう「パカラッ、パカラッ」とは声に出さない。
その変わりように、アンヌマリーはあっけにとられた。まるで魔法を使ったかのようだ。少ししてから我に返り、彼女が周りを見回すと父も母も唖然としていた。
「ヨゼフ、きみすごいな」
「え、何がですか?」
「小さい子に言うことを聞かせる手並みがだよ。恥ずかしながら、すっかり甘やかしてしまっていてね。あの子があんなに素直に言うことを聞くところは、初めて見た」
「そうなんですか? でもあの子は、話せばちゃんと聞く子ですよ」
ロベールは感心しきりの顔で、手放しにヨゼフを賞賛した。
「子どもの相手をするのに、手慣れているんだね。見事なものだ」
「まあ、孤児院じゃ最古参でしたからね」
孤児院では通常、遅くとも十二歳までにはどこかに弟子入りするなどして孤児院を離れる。だがヨゼフは、十五歳まで孤児院で過ごしたと言う。
理由はランベルトだ。
ヨゼフが十歳でランベルトと知り合うと、ランベルトはたびたび孤児院にいるヨゼフを訪ねるようになる。そしてその都度、孤児院で困窮している部分があれば支援した。孤児院の院長は、その支援は孤児院に対するものというよりは、ヨゼフ個人に対して行われているものと理解していたので、ヨゼフの就職を引き延ばした。要するに、ヨゼフがいなくなれば支援も打ち切られると思っていたので、可能な限り引き留めたというわけだ。
そんなわけでヨゼフは、他の子どもたちよりも数年長く孤児院で過ごした。
ほぼ全員が十二歳までに孤児院を離れるということは、孤児院にいるのはそれよりも幼い子どもたちばかりということになる。だからヨゼフは、小さい子どもの相手をするのには、慣れていた。
ランベルトが学院への入学により孤児院を訪ねる機会が失われたのに合わせて、ヨゼフも船乗り見習いとなって孤児院を離れることになったのだった。
「ランベルトのおかげで、うちの孤児院では食うに困ったことは一度もないんです。貧相な体格のやつがいないから、仕事を探すにも苦労しなかったらしい。やっぱり雇う側だって、やせっぽちで死にかけてるやつより、元気のいいほうを選びますからね」
ヨゼフの話を聞いていると、アンヌマリーは衝撃を受けてばかりだ。
やせっぽちで死にかけているような人にこそ仕事が必要だろうに、と話を聞けば思う。けれども自分が選ぶ立場にいたとして、その点を斟酌するほどの気遣いが自分にできるだろうか。実際に目の前に、仕事ができそうもないほど弱っている人と、元気な人とがいたら、と考えると全く自信がなかった。
使用人の採用基準とは、能力や適性、そして経験だろうとアンヌマリーは思っていた。だが、そんなのはきれい事にすぎないのだ、とヨゼフの話を聞いて思い知らされる。もっとそれ以前のところで、人は暗黙のうちにふるいにかけられてしまう。
それに、十二歳になる前に子どもたちが「就職」して孤児院を離れていくという話も彼女にとっては衝撃的だった。
平民が若いうちから働き始めるという話は、聞いたことがあり知っていた。けれども、自分がまだ初等教育を受けているような年齢からだとまでは、思っていなかった。いや、もしかしたらそれもどこかで聞いたことはあったのかもしれない。けれども、一般的な話として聞くのと、それを身をもって知る人物から実体験として聞くのとでは、まるで重みが違った。
ひととおり紹介が終わり、しばし雑談をした後、ヨゼフは執事に声をかけられて部屋を出て行った。今日から滞在する部屋へ向かうためだ。
ヨゼフに続いて、マグダレーナも応接室を出て行った。家族だけで話したいこともあるだろうと、気を回したようだ。ノアも乳母に連れられて子ども部屋へ戻る。
親子三人が部屋に残されたところで、ロベールは娘に尋ねた。
「マリーは、彼のことをどう思った?」
どう、と聞かれても、質問が漠然としすぎていて何と答えたものやら悩む。
眉を寄せて少し考えてから、無難な答えをひねり出した。
「大人っぽい人ですね。学院の先輩たちに比べても、ずっと大人に見えました」
「そりゃあそうさ。親に養われている子どもと、独り立ちして自分の稼ぎで生活している者とじゃ、意識の違いは比べるまでもないことだろうよ」
なるほど、と「親に養われている子ども」であるアンヌマリーは思った。確かにいろいろ人生に対する覚悟が違いそうだ。
そして何げなく、ふと父に問い返した。
「お父さまは、どうお思いになったの?」
「大人っぽいっていうか、男っぽいね。十代であの色気だと、あと数年もしたらどうなることやら。末恐ろしいな」
父からの答えに、アンヌマリーは内心で首をかしげた。「男っぽい」というのは、何となくわかるような気がする。「大人っぽい」というのを言い換えただけだ。だが「色気」については、彼女にはあまりよくわからなかった。
何と答えようか考えている間に、母が呆れたような顔で夫の手をピシャリと打ち据えた。父は、叩かれた手をさすりながら恨めしげに文句を言う。
「何だよ、きみだって『ママンと呼んでちょうだい』なんて言ってノリノリだったじゃないか」
「ええ、まあね。あれはちょっと惜しいことをしたわ」
今度はアンヌマリーが呆れた目をして、じっとり両親をにらんだ。
ロベールは娘の視線に気づくと、ごまかすように咳払いして話をそらす。
「あれは、人の上に立つ男だよ。たとえ一国の王となったとしても、十分にうまくやっていくだろうね。私はね、今回の予言をうまく乗り切れるかどうかは、彼にかかっていると思っているんだ」
アンヌマリーは、父がヨゼフのことをそこまで高く買っていると知って、驚いた。
ただし驚きはしたものの、同時に納得するものもあった。ヨゼフがノアを叱った場面を思い出したのだ。
いくら「今日からこの家の子」などと言われても、普通は平民育ちの者が貴族の家でいきなりあんなふうにその家の子を叱りつけたりできるとは思えない。物怖じすることなく、必要なときに必要なことのできる人なのだな、と彼女は思った。




