オスタリアからの留学生 (1)
ある日、アンヌマリーは隣国の留学生からとんでもないことを耳打ちされた。
「きみ、このままだと一年後に婚約者から断罪されて婚約破棄された上に、一家そろって死ぬことになるよ」
それは学園の食堂ホールの片隅でのことだった。
彼女は隣国オスタリアからの留学生たちと交流がてら、ともに昼食をとっていたのだ。その食事が終わった後に、留学生のひとりランベルト・フォン・ハーゼから声をひそめてとんでもない言葉をかけられたというわけだった。
これは何と返すのが正しいのだろう。礼儀作法や常識などの知識を総動員しても、答えがわからない。
しばし逡巡したのち、アンヌマリーはにっこり微笑んで会釈してからその場を離れようとした。
つまり、何も聞かなかったことにした。
ランベルトはそれに焦ったのか、すがるような情けない声を出した。
「あ。ねえ、呆れないで。待って。お願い、話を聞いて」
* * *
アンヌマリーはシーニュ王国の国立学院に通う十六歳の少女である。
国立学院は、主に貴族の通う上級学校だ。寮もあるが、全寮制ではない。自宅から学院まで馬車で十分ほどの距離に住むアンヌマリーは、寮には入らず自宅から通学していた。
通学が許されているとは言え、大半の学生は寮に入る。
特に領地暮らしを基本としている貴族の子女は、王都に屋敷を持っていたとしても寮に入っていた。だがアンヌマリーの父は財務大臣という政府の要職についているため、領地の運営はほぼ家令に任せっきりだ。領地には一年のうちほんのひと月ほど滞在するのみで、大半を王都で過ごす。だから彼女は、わざわざ家族と離れてまで寮に入ろうとは思わなかったのだ。
つい先日新学期を迎え、アンヌマリーの学年はひとつ上がった。
毎日あまり代わり映えしない学園生活を送ってきた彼女だが、今年はいつもと違う出来事があった。隣国オスタリアから二人の留学生がやって来たのだ。
ひとりはなんとオスタリア王国王太子のリヒャルト。
もうひとりがリヒャルトの友人だというランベルト・フォン・ハーゼだった。ランベルトはシーニュ王国との国境に接した領地を持つ伯爵家の長男だ。
実を言うと、アンヌマリーはランベルトのことは彼がシーニュに留学してくる前から名前だけは知っていた。なぜなら彼の婚約者マグダレーナが、アンヌマリーの文通相手だからだ。彼女はアンヌマリーのひとつ年上で、子どもの頃に知り合った。それ以来ずっと文通を続けている。
マグダレーナと知り合ったのは、海辺にある、とある小さな町でのことだ。
アンヌマリーが十歳のとき、避暑地として貴族に人気の高いその町に家族で遊びに行った。そして見晴らし台のある丘にのぼったとき、彼女は両親から少し離れた場所にある手すりから身を乗り出して、眼下に広がる海の景色を眺めていた。その背中に、声がかけられた。
「マリー!」
母の声とは少し違うような気がしたが、名前を呼ばれて振り返ると、隣にいた背の高い少女も振り返った。その少女は声をかけたとおぼしき夫人に向かって手を振って、オスタリア語で返事をした。
『お母さま、こちらです! 海がきれいですよ』
呼ばれたのが自分ではなかったことに気づいたアンヌマリーは、きまりが悪くなってうつむいた。そしてひとり言のように「あなたもマリーなのね」とつぶやいた。
その言葉を拾った少女は、アンヌマリーを振り返ってにっこり微笑んで話しかけた。
「わたくしはマリーではなくて、マギーよ。マギーは愛称で、本当の名前はマグダレーナ。あなたはマリーとおっしゃるの?」
「……マリーも愛称です。両親はそう呼ぶけど、名前はアンヌマリーよ」
マグダレーナの話す発音のきれいなシーニュ語に驚いて、アンヌマリーは目を見開き、一瞬返事が遅れた。けれどもそんなことは少しも気にしていない様子で、マグダレーナは快活に会話を続けた。
「マリーとマギー。わたくしたち、名前がそっくりね!」
「ほんとね」
マグダレーナのくったくのない笑顔につられて、アンヌマリーも笑顔になった。名前を聞き間違えて振り返ってしまった気まずさは、すっかりどこかへ消えてしまっていた。
マグダレーナは両親と姉と弟の五人でこの町を訪れているのだと言う。
彼女はシーニュとの国境に面した領地を持つ子爵家の次女で、育った場所が国境に近いおかげでシーニュ語に堪能だった。姉と弟にはさまれて育ったからなのか、マグダレーナはハキハキと自己主張をしっかりする。ひとりっ子としておっとり育ったアンヌマリーには、そんな彼女がまぶしかった。
ほんの短い時間の交流だったにもかかわらず、すっかり打ち解けた二人は連絡先を交換した。
それ以来ずっと、手紙のやりとりが続いている。お互い外国語の勉強がてら、アンヌマリーはオスタリア語で、マグダレーナはシーニュ語で書く。そして言い回しに不自然な点があったり気づいたことがあれば、返事の中で指摘した。
手紙のやり取りが始まって間もなく、マグダレーナは婚約した。婚約者は隣の領地の伯爵家長男で、彼女よりひとつ年上だそうだ。それがランベルト・フォン・ハーゼだった。
マグダレーナの手紙の中には、ランベルトがときどき登場する。
普段は姉や弟の話が多いのだが、ランベルトの家とは婚約前から家族ぐるみでの交流があったらしく、社交シーズンで王都に滞在するとき以外にも、一年に何度か、互いの家を訪問し合っている様子だった。
一方で、アンヌマリーの書く手紙の中に最も頻繁に登場するのが、弟のノアだ。
マグダレーナと知り合った翌年にノアが生まれ、アンヌマリーはひとりっ子を卒業した。アンヌマリーは、この歳の離れた弟がかわいくてしかたがない。一日中、何かあれば弟をかまっているので、手紙の内容が弟の話題に偏るのは自然なことだった。
実を言うと、アンヌマリーにも婚約者がいる。彼女の婚約者は、二歳上の第二王子シャルルだ。国内の政治的なバランスをとるために、彼女が物心つく前にすでに結ばれていた。完全に政略的な婚約だ。
婚約者はいるものの、しかし彼女の書く手紙にその話題が出ることはほとんどなかった。何しろあまり交流がない。交流がないので、書けることがない。というか、意識にのぼることさえなかった。隣同士とはいえ別の領地に暮らしているマグダレーナとランベルトとは違い、同じ王都内に暮らしているのに不思議だな、と思ったことはある。けれどもほとんど会ったことのない男の子のことなど興味がなかったので、そんな疑問さえ頭の中からすぐに消えてしまっていたのだった。