隣国の現状
評価をいただけてとてもうれしいです。
ドキドキです。
主人公が出国して、初めて隣国にいくところからです。
この国は目的地ではなく、通過地点です。
ミッテルスラムトは山地が多く、街道は谷間の平地を縫うように伸びている。
ちょうど麦秋の季節を迎えるころ。街道から見えるあたりに段々畑が続いて、太陽に照らされて金色に輝く麦の穂が、風を受けて波立っていた。
「わあ、すごい」
アルネリアは乗合馬車の窓から顔を出し、麦畑を飽かず眺めた。ミッテルスラムトで乗り換えた2頭立て8人乗りの乗合馬車には、窓にガラスがなく、後頭部で結んだ髪が風にあおられてなびいている。
やがて馬車は町に入った。アーレンのような城塞都市ではなく、街道沿いに自然に集まった人によって生まれた集落である。
塀に囲まれた城壁都市よりも通商が盛んなように思われたが、名も知らぬ小さな町に入ったとたん、にわかに陰ったようにあたりが暗くなった。不思議に思って空を見上げても、雲ひとつない青空が広がっている。そんな町をいくつか通過した。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
初夏のなかなか沈まぬ日が西に傾き始めるころ、アルネリアたち一行はたどり着いた町で馬車を降り、街道沿いの宿屋に部屋を取った。食堂も兼ね、温かい料理と酒も出す、きわめて庶民的な宿で、食堂と調理場を仕切る小窓が、宿の受付も兼ねていた。
厩に馬を預けたガリマーロが、宿屋の入り口を開けるのを待って、アルネリアは手を振りながら声をかけた。
「ガリマーロさん、こっちこっち」
食堂の大きなテーブルに着席しているアルネリア一行を見て、元傭兵は、いぶかしそうな視線を送ってきた。
「お疲れ様でした。食事にしませんか?」
ビルギッタが自分の席の左側を指で示す。
「一緒に、ということか?」
「なにか問題でも?」
ビルギッタの目が一瞬光を帯びた。
「いや、そうではない。たいてい……雇い主は、俺たち用心棒を見下している。同じテーブルで飯を食おうという人は珍しい」
「ふーん……いろんな人がいるもんですね。でも僕らはガリマーロさんと一緒に食べますよ。だって、せっかく一緒に旅をしている仲間だもの。ねえパウ兄さま」
アルネリアは話しながら周囲を見渡す。ミッテルスラムトの食事作法は、ユニークだ。固く焼きしめたパンを皿代わりにして、その上に大皿からすくい取った料理を載せ、ナイフとスプーンを使って口に運んでいる。すでにノルデスラムトでは流行らなくなった食事作法である。
「……うん……」
ほかの2人のように臨機応変な対応ができないパウラは、あいまいに応じて、スプーンでウサギ肉の香草煮を口に運んだ。
同じテーブルを囲んでいるうちに、人の警戒心は少しずつほどけてくる。その機会を捉えてアルネリアは、ガリマーロから情報を引き出そうと考えているのだ。元傭兵なら、ノルデスラムト国境付近の警備の話や周辺諸国の動きなど、アーレンの中にいては入ってこない話を耳に入れてくれる可能性がある。
もっとも、その収穫がなかったとしても、最小限、珍しい食べ物の話だけは、食い下がってでも聞くだろう。それがわかっているパウラは、余計なことを言って邪魔をしないように、黙っているのである。
「お酒、頼みましょうか?」
給仕を呼び止めようとしたビルギッタを、ガリマーロがとどめた。
「いらん。酒は身体能力を下げる。少なくとも、ミッテルスラムトを通過している間は、控えておく」
「治安が良くないからですか?」
アルネリアは声を落とした。
「10年前のソレイヤールとの戦で負けたからな。巨額の賠償金のせいで国が貧しく、税金も重い。国民も食っていくだけでやっとで、盗みを働くものも多いようだ。仕事にあぶれた元兵士で盗賊になった連中もいる。お前も油断するな」
「あんなにたくさん麦畑があるのに?」
「ノルデスラムトやエステスラムトに比べて収穫量は多くない。平野が少なく山の斜面で耕作をしているからだ。それに運よく豊作になると買いたたかれる。凶作になるとパンにもありつけない層がでてくる。どのみち潤うということがないのだ農民は」
「このウサギ肉なんか、かなりおいしいですけど」
「金を落としてくれる外国人向けだからな。そのかわりずいぶん割高なんだ。一般の人たちは食うだけでやっとだろう」
市街地に入ったとたん、あたりが暗くなったように感じたのはそのせいか、とアルネリアは得心した。
確かに窓辺に花を飾る家も少なく、板で入り口を打ち付けている街道沿いの家も何軒か見かけていた。ノルデスラムトにも貧しい地域はあるが、少なくとも街道に面している建物をみすぼらしいまま放置しておくことはない。
ソレイヤールはそこまで過酷な賠償金を課したのだろうか。王家はそれほど冷酷なのだろうか。
「アル?」
パウラに声をかけられ、アルネリアは我に返った。スプーンを持つ手が止まっている。いけない、と香草で煮込まれたウサギ肉を口に含む。肉の色は白いが、思ったよりも味が強く、脂がある。肉もなかなかだが、滋味がしみこんだ豆の風味がたまらない。アルネリアは夢中になって食べ始めた。
不意に視線を感じて顔をあげる。見つめていたのはガリマーロだった。旅のさなか、馬車の窓から外を見ていると、ときどき彼と目が合う。浅黒く日焼けした、逞しい顔。黒い髪と同じ色の目は、馬上からもあらゆる動きを観察していたのだろう。
「なにか?」
「いや。おまえ、女の子みたいに細いだろう。それで体力がもたないかと心配だったのだが。やはり子供でも成長期の男。立派な食いっぷりだ」
ガリマーロはぎこちなく微笑んだ。アルネリアはビルギッタとパウラに目で救いを求めたが、さっとそらされてしまった。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
ソレイヤール国境方面に向かう乗合馬車が出発するのは2日後だった。そこでアルネリアたちは翌日、その宿屋で逗留させられることになってしまった。
とはいえ、前日1日じゅう衝撃吸収が悪い乗合馬車に揺られていた身体を休めるいい機会でもあり、手持ちの金貨を両替したり、宿屋の下働きの者に洗濯を頼んだりもできる。
思いがけない休日を楽しみ、店先の果物を眺めたりして過ごす彼女たちを、ガリマーロは離れた場所から眺めていた。
彼が気にしているのは、自分が護衛している少年たち。とりわけ弟の”アルベルト”のことだった。
意志が強そうな眼をしているが、華奢すぎる。体力のなさを気力で補おうとする性質の人間は、支えがなくなったとたんに崩れてしまうことがあるから油断ができない。傭兵時代に、そういう人間をいやというほど見て来たガリマーロである。
隣国との小競り合いがなくなり、仕事にあぶれた彼が次についた仕事は護衛だった。
人々は野盗や盗賊を恐れて、護衛を雇う。しかしガリマーロが恐れるのは、暴漢ではない。むしろ恐慌に駆られて我を失う、世間知らずの素人である。刃物を甘く見てたたき落とそうとする無分別な者、逃げる方向を誤って崖から落ちる不注意な者などは、苦労を2倍にも3倍にも増やしてくれるのだ。
子供ふたりと母ひとりの護衛。そんな旅を依頼されたとき、面倒に巻き込まれたくないガリマーロは断った。だが、ミッテルスラムトやソレイヤールの事情に明るく、腕っ節が強く、そこそこの実績もある人物がほかにいなかったために、そこを押して、と頼まれた。前金も弾んでくれた。ちょうど仕事にも困っていたこともあり、引き受けざるを得なかったのだが……。
「む?」
ガリマーロは眉間に力を込めた。用心深く顔を傾けると、小柄な男が少し後ろを歩いている様子がうかがえた。別段あやしい動きはない。しかし問題なのはその男を、両替所や食料品店の前でも見かけたことである。
ガリマーロは歩調を緩めた。小柄な男はそのまま歩き続け、ガリマーロを追い越した。
追い抜きざまに、男は濁った一瞥をガリマーロに投げかけ、そのまま通り過ぎて行った。
その夜。
ガリマーロが部屋で休んでいると、だれかが扉をほとほとと叩く音がする。
そっと隙間を空けてそこから覗くと、さっき追い抜いた男が顔色を変えて扉を閉めようとした。
「おっと失礼、部屋を間違えた」
「貴様、どこに行こうとするつもりだ!? 」
ガリマーロが相手を捕まえようと腕を伸ばすと、小柄な男は、思い切り足で扉を蹴り、ガリマーロの行く手を塞いだ。
「待て」
ガリマーロが扉を再び開くと、男はすでに宿屋の廊下を走り去っていた。彼は男の後を追い、宿の裏口に追い詰めた。壁で囲まれた狭い中庭には、樽や木箱などが放置されており、その中で先刻の男が、薄汚れた壁にもたれて息を切らしていた。
「もう逃げられないぞ」
ガリマーロは声を潜めた。男は間合いを計るように顔を動かすと、数歩ばかり歩み寄ったガリマーロに囁きかけた。
「兄ちゃん。まあゆっくり話さねえか」
「貴様の話など聞く耳は持たない。夜警に突き出す!」
「まあそうはいうな。兄ちゃんを呼び出すところまでが俺の役目ってわけだからな」
ガリマーロは弾かれるように建物の2階を見上げ、絞り出すような声で答えた。
「しまった!」
建物の中に引き返そうとしたガリマーロの腕を、男が背後からつかむ。
「まあ待ちな。あの親子、しこたま持ってる金の臭いがするねえ。まあ、兄ちゃんもいいように使われてるんだろ? なあ、いっそ俺たちと組まない? ちょいとガキの首をひとひねりするくらい簡単だろ? 女は売ったっていい。若くはねえが、需要はあるだろ」
片方の唇を歪めた。それがこの男の笑い顔なのだろう。
「よくわかった」
ガリマーロは捕まれていた腕を振りほどきながら、右手で男の顎に強烈な拳を入れた。
「舐めてもらっては困るな」
声にならない音を発し、男が後ろに倒れると、ガリマーロは素早くその身体をうつ伏せにした。さらに両手を後手で重ねると、腰に巻いていた縄で素早く腕を縛り、大声で建物の中に向かって叫んだ。
「おい、誰かいないか、夜警を呼べ」
言われて出てきた宿の亭主たちは、一目で状況を察したらしく、
「てめえ、人の宿屋で何を企てやがった」
ののしりながら男の胸ぐらをつかんで、表に引き摺って行った。
そのままガリマーロは2階に駆け上がり、雇い主が泊っている部屋の扉を強く叩いた。
だが返事がない。
「大丈夫か!?」
「どなたです?」
落ち着いたビルギッタの声が聞こえ、ガリマーロは安堵のため息をついた。
「俺だ、ガリマーロだ」
「お入りなさい」
ビルギッタの答えを聞いて、ガリマーロは扉を引いて開いた。
「うっ……」
部屋の中に足を踏み入れた途端、ガリマーロは瞬時に身体に緊張を走らせる。薄暗く、壁も床も板張りの質素な宿屋の一室。
その床の上で男がふたり、うつ伏せになって倒れていた。
彼らはすっかり意識をなくしているように見えたが、口や手足はハンカチや靴下などの衣類で縛られている。
室内にはまだ、痺れるほどの殺気が残っていた。
彼の傍らに立つビルギッタがスカートの陰に隠したものは、片手剣抜身の刀身。ガリマーロは乾ききった唇を動かした。
「あんた……何者なんだ?」
ビルギッタは顔色も変えずに答える。
「詮索するな」
「あんたがひとりで倒したのか」
「僕もいます。騎士見習いでーす」
パウラが手を上げた。
「……商人の妻なのにあんたは無双。息子は騎士見習い?」
「悪いか?」
「いや……この手際なら、護衛は必要ないだろう?」
ビルギッタは、刀を鞘にしまうと、空いている椅子を勧めた。
「それでも私が倒れたときには、子供たちを頼むつもりで雇った」
ガリマーロはゆっくりと腰を下ろす。アルネリアは、窓を細目に開けて、裏庭の様子を探っていた。
「夜警さーん、こっちにも賊がいまーす。捕まえてくださーい」
ガリマーロはそんなアルネリアたちの様子を眺め、ふと顔を緩めた。
「なにがおかしい」
「いや、チンピラに命を狙われる体験なんてしてこなかっただろうから、怯えて声もでないんじゃないだろうかとか、国に帰るとか言い出すんじゃないかとか思っていたんだが、杞憂だったようだ」
ガリマーロの言葉に、ビルギッタはうなずいた。
「その程度の覚悟ではきていませんよ」
「ソレイヤールも、ここのように治安が悪いのですか?」
窓から離れたアルネリアが、落とした声で尋ねる。
「いや。治安はいい。女の子のひとり歩きだって大丈夫だろう。……問題はそこじゃない」
「問題?」
アルネリアの声に、ハッと我に返ったガリマーロは、
「なんでもない」
首を右に振って話を打ち切った。
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同じ夜。
丘の上に厳かにたたずむソレイヤール大神殿の中は、ひっそりと暗かった。
大理石の冷たい床には、敷物もない。両側に円柱形の柱が並ぶ、人気のない長い廊下を、手にろうそくの明かりを掲げたひとりの青年が歩いていた。頭から全身を覆うマント姿は、夜を通して大神殿に籠もり、祈りをささげる隠修士のいでたちである。ろうそくの光が揺れ、壁に映る青年の影も揺れる。青年は顔を上げ、対面から歩いてくる若い神官の姿を認めた。
「大地の精のお導きがありますように」
青年が声を掛けると、神官も同じように「大地の精の」と唇を動かそうとしたが……
「ひっ」
代わりに出たのは押し殺した悲鳴。その声だけがさわさわと大理石の廊下を走り抜けた。
「なにごとですか」
廊下の奥、祈祷室から人影が現れた。長く白いローブは、大神殿の最高位である大神官を表している。
白く長いひげを蓄えた大神官は、隠修士の装いの青年を認めて頷いた。
「お許しください。あの者はここに来てまだ日が浅いのです、ヴァレリウス王太子」
「バレムイーダ大神官」
ヴァレリウス王太子は、恭しく首を下げた。
「王太子よ。ティリアーノが予言したという賢者ですが。その予兆はみられませんか?」
「はい。残念ですが……」
うつむく王太子に、バレムイーダ大神官は、慈悲深いまなざしを向けた。
「嘆くことはありません。あなたの望みはきっと叶えられます。心に愛を失わずに生きていきましょう。そうすれば、必ず光明が見えてきます」
「私も、それを信じております」
ヴァレリウスの言葉に頷くと、大神官は手を伸ばして相手の額に手をかざした。
「大地の精の祝福がありますように」
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