旅立つ王女
肖像画家ルーナス・ナバラが突然の呼び出しに応じ、シュバスト城にやってきたのは翌日のことであった。最初は仕事が忙しいと渋面を作っていたようだが、次期女王直々の呼び出しと聞いて馬車で駆け付けたようだ。
謁見室でユシドーラの前で額づくナバラは、緊張のせいか、雨の日の雲のような顔色になっていた。
「そなたに聞きたいというのは、他でもない。ソレイヤールの王太子のことだ」
謁見室でユシドーラの厳しい表情を前にした画家は、その言葉に身体を硬直させた。
「そなたがこの絵を描いたのはわかっている。それでソレイヤールの王太子は、どのような人物だったのか? 本当にこんな顔なのか?」
画家は唇を震わせながら、小刻みに何度もうなずいた。
「さ、左様でございます」
「私には、人間の顔に見えないのだが」
威圧するユシドーラに恐れをなしたらしい画家は、派手な襟飾りの中に首をひっこめた。
アルネリアはそんな姉を見ながら、彼女の肖像画の背景に描くならカラーの花がぴったりだと思う。気品があり、りりしく、融通が利かなそうな姉の雰囲気をよく表している。
ふと視線を感じて右手を向くと、部屋の隅からすがるような視線を送ってきているフロレーテと目が合った。大きな瞳に憂いをためている。
フロレーテなら大輪のバラが似合う。それでいて雰囲気は砂糖菓子のように、ふんわりと甘い。ドレスや胸のリボン飾りなどを、自分なりに工夫してみるのが得意で、フロレーテの新しい着こなしを、貴族の子女たちが競って真似している。
フロレーテには笑顔が似合う。しかし、縁談以来、姉の辛そうな顔しか見ていない。アルネリアはそんな姉を直視できなかった。
ちなみにアルネリアは路傍のスミレのようだとよく言われる。地味だがよくみるとそれなりにかわいい。
「アルネリア」
呼ばれて顔を向けると、ユシドーラがアルネリアをまっすぐに見据えている。
「何か質問は?」
「あ、はい。では、肖像画を描いたときの状況を教えてください。どのような場所で描いたのですか? そのときの様子をできるだけ詳しく説明してください」
アルネリアに促されたナバラは、遠い目をして、ぽつぽつと語り始めた。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
ソレイヤール王室の宮殿であるベルヴィール宮は、豊かな森を背にして建てられていた。白鳥が翼を広げた姿を連想させる宮殿は、王権を誇示するような豪華さというより、設計施工者の趣味の良さがうかがえる、曲線を多用した瀟洒なフォルムが評判であった。
しかし、ルーナス・ナバラが到着した日は、あいにくの嵐。昼間のうちから空は暗く、稲光が宮殿をなぶるかのように舞っていた。
ナバラは、当初青の間と呼ばれる客室に案内された。部屋には灯りがなく、瀟洒で贅沢な窓ガラスを通して、時折雷光が走る。ナバラは震える手で絵具や絵筆を準備したものの、なかなか王太子からの呼び出しがない。
「これはどうしたものだろうか」
ナバラが思ったとき、白い扉が叩かれた。返事をすると、黒い服をまとった召使が開いた扉から顔をのぞかせた。
「お待たせいたしました。お食事でございます」
「え、でもまだ、仕事が」
「お疲れでしょうから、先に食事をとの仰せにございます」
案内されて食堂に向かう。テーブルの上には、キジの丸焼き、鴨肉の包み焼き、木の実油漬けの野菜、季節の果物、ネクタル酒などが並べられている。給仕のものが付き添ってくれているが、ひとりで摂る食事は味気なく、旅の疲れと緊張もあって、食が進まない。
部屋に戻り、ガラス窓を滴る雨を眺めていると、再びノックの音がした。
「お待たせいたしました。王太子がお待ちです」
え、今から? ナバラはいぶかしみつつ、先導する召使の後について、暗い廊下を進んでいく。まもなく大きな扉の前に出た。王太子の居室らしい。
「おはいりなさい」
招かれて入った部屋の中には、惜しげもなく蝋燭が並べられ、すべて灯されていた。
その中で、豪華な衣装に身を包み、椅子に腰かけている青年がひとり。
「お待たせしました。さあ、私を描いてください」
ナバラを出迎えた王太子の笑顔。それは、人を取って喰うといわれる、伝説の怪物を思わせる、恐ろしげなものであった……。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
「その方が、ヴァレリウス王太子でございました……」
画家は、両手のこぶしを握り締め、アルネリアをまっすぐに見つめた。
「で、そなたはこの絵を王太子に見せたのか」
「はい。もちろんでございます。出立の前日、この絵を進呈いたしましたところ、王太子は『そうか』とひとことおっしゃっただけでした……」
ナバラの声は消え入りそうだったが、長い間胸に秘めていた秘密を打ち明けたせいか、かすかに安堵の響きがうかがえた。
「あの画家の話、どう思う?」
謁見室から離れ、居室に戻ったユシドーラはアルネリアの耳元に口を寄せた。
「聞いてますます混乱しました」
「そうだな。この縁談をどうしたものか」
「結婚の打診を断るにしても、受けるにしても、調べないといけないのは確かです」
「その通りなのだが。それにしても、誰に調べさせたものか……」
ユシドーラがため息をついたとき、中庭から勇ましい掛け声が聞こえてきた。
とぉー!
えーい!
高く潔い声が響く。
見習い騎士たちが、中庭で鍛錬をしているようだ。
パウラもあの中にいるはず。アルネリアは壁龕に上がり、窓を押し開いて、中庭を見下ろした。
華やかな赤い甲冑をつけた騎士が、見習い騎士たちを前に剣を掲げている。
「もう1回! 構えっ」
赤い甲冑の主である、ビルギッタ・クーラルハイゲの声が響いた。訓練中らしい見習い騎士の少女たちが、2人1組になって、一斉に木剣を構えている。
ノルデスラムトには、国家が統制下においている軍隊の他、王家の人々を守るという目的をもって結成されている近衛騎士団が存在する。飛距離がある武器の開発・発展により、騎士自ら騎馬で戦う機会も減ったが、伝統を誇る近衛騎士団の名前はそのまま残されていた。その中に女性だけで構成される騎士団があるのは、女性が王位を継承することもあるノルデスラムト王国の特色ともいえる。表向きは女騎士であれば、男子禁制の場でもそばで仕えられるからという話になっているが、実際のところは王位継承権を持つ女性と騎士とのスキャンダルを未然に防ぐ意図もあるようだ。
「はじめ!」
ビルギッタの号令がかかる。
「やあ!」
見習いたちは皆真剣な面持ちで、お互いに向かって剣を打ち合った。
ビルギッタは、かつてノルデスラムトでもっとも名が通った女騎士長だったが、夫を早く亡くしてからは、騎士長の座を退き、専ら見習い騎士たちの指導にあたっている。とはいえ未だ剣さばきの見事さは健在、いやますます腕に磨きがかかっているとの噂だ。
騎士長をやめる際、当然ながら周囲はかなり慰留に努めた。しかしそれを押し切ったのは、後進に道を譲るためでもあるが、娘のパウラを早く一人前の騎士にしたいという思いが強かったかららしい。
同時にアルネリアにとってビルギッタは乳母でもある。女騎士が乳母になることは珍しいが、たまたまアルネリアと同じ時期にパウラが生まれたことと、アルネリアの母親である前王妃がビルギッタを信頼していたこともあって、これ以上の適任者は考えられなかったのである。
しばらく無心に騎士見習いたちの訓練を見ていたアルネリアが、雷でも受けたような勢いでユシドーラに向き直った。
「姉上! 急いで、ここ数か月の間に、ソレイヤールで行われることになっている催しを調べてください。外国人が物見遊山で行けるようなものがいいです」
「それはかまわないが、いきなりどうしたのだ?」
「いい考えがあります。私に行かせてください。ソレイヤールと王太子を探ってきます」
「なっ……!」
奇天烈な申し出に、ユシドーラはぽかんと口を開けたまま、答えに窮した。
「防具が有名なのですよね? 私、行ってきます。パウラとビルギッタと3人で、物見遊山のついでに防具を買いにきた騎士見習いの客を装って!」
「そんなことができるわけがないでしょう! あなたは王女なのですよ!」
「でも、まだ半人前です。舞踏会にも出ていない今なら、私の顔を知っている人はいません。半人前の今だから、自由に動けるんです! この時期を逃してはいけません」
ユシドーラはなおも妹の短慮を咎めようとしたが、言葉を飲み込んだ。不意に4年前の出来事が思い出されたからである。
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アルネリアが11歳のときのことだ。名産品であり国民食でもあるポルラン茸が採れる山に、形がよく似た毒キノコが群生したことがあった。
ノルデスラムトでは春と秋になると大勢の人が山に入り、籠いっぱいのキノコを抱えて下山するのが常である。そのキノコを調理する煙で、国中が芳ばしい匂いに満たされる様子が詩にも歌われていた。
そのため、毒キノコが群生した年には、間違えて命を落としたり、なん日間も死の苦しみを味わったりした人々が相次いだ。山に入って勝手に採る者がほとんどだったが、市場で野菜と一緒に売りさばいた者も現れたため、大騒ぎになったのである。
官吏から報告を受けたとき、ちょうどユシドーラの後ろにいたアルネリアが、しばらくうつむいていた後で、おもむろにこう言ったのだ。
「姉上、毒キノコの見分け方を学んだ薬師に、食べる前のキノコを見極めさせてはいかがでしょう。そして国民は、薬師が鑑定したキノコだけを食べるようにする制度をつくってもらう。そのように陛下に奏上してください。そしたら、キノコを狩ってきた人も、お店で買う人も、安心して食べられます」
「子供が大人の話に口をはさむものではない!」
ユシドーラは妹を厳しくたしなめた。だが、アルネリアはひるまず、同じことを繰り返す。結果、その熱意に負け、ユシドーラが進言したところ、父王および議会に受け入れられ……結果的にノルデスラムトの臣民の命と食文化は救われたのである。
以前、3人の姫を教育した教師も、アルネリアのことはこのように評価していた。
「お勉強は、ユシドーラ様やフロレーテ様のほうがおできになりますが、アルネリア様には、一風変わったところがありますな。なんと申しますか、世情に通じており、大地に根差した考え方をなさる方でございます」
以来、ユシドーラは本来なら耳に入れないような政治向きの話でも、この妹には話しておくようにしていた。
◆◆◆‡◆◆◆‡◆◆◆
ユシドーラは、15歳になった妹の顔をじっと見つめた。
宮廷の作法に従い教育された上ふたりの王女と違い、末妹アルネリアだけは、女騎士で乳母のビルギッタの元で、たくましく、かつ雑に育ってきた。少しでも目を離せば城から抜け出し、町人の子供たちとも平気で遊ぶ。目についた食べ物はなんでも口に入れる。そのせいで口さがない貴族たちの間では、「庶民系王女」などと陰口をたたかれる始末。つまり、目立ちにくく、潜入にはうってつけなのである。
さらにこの国では、社交界に顔を出せるのは16歳からと決まっている。その日からは、結婚相手を意識する毎日が続くことになる。子供時代は舞踏会に憧れ、大人になれば自由になると信じていたものだが、大人になってから、もっとも自由だったのは大人になる前だったのだと知らされるのだ。子供でもなく、大人でもない。真の意味で自由に動けるのは、少女時代という短い期間だけである。
最適な人材を、最適な時期に動かせる機会ともいえる。
「あなたの着想は、以前この国を救ってくれました。今回もその提案がよい方向に向かうかもしれませんね。よろしい。陛下に、あなたの旅の許可をいただけるように、お願いしてみましょう」
ユシドーラはアルネリアを、力を込めたまなざしで見つめる。
「お任せください姉上。私がヴァレリウス王太子の正体を必ず探って参ります」
アルネリアは、上気した頬で力強く答えた。
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それから満月が2度巡り、城塞都市アーレンをめぐる城壁の傍らに、新緑が萌える季節になった。城壁や地面に落とす樹木の陰は日に日に色濃くなり、細かい砂塵を巻き上げる風も肌に心地よい。
そんなある朝。1台の馬車が、城壁の門の外で待機していた。2頭立て屋根付きの貸し切り馬車である。4人乗りで、座席は濃紺の羅紗張りだ。
その馬車の中に、渋面を隠そうともしない、旅支度の女騎士ビルギッタが乗り込み、いまいましそうにスカートの裾をさばいた。
「まったく、私が王命には逆らえないと知っての所業でございますね!?」
ビルギッタの旅装は、目の詰まった地味な緑色の木綿の上着と、共布のスカート。それに同色の帽子。首に巻いたスカーフは黄色と、いかにも多少金銭に余裕がある市民の妻が好みそうないでたちである。女騎士の習いとして、ずっと男装で過ごしてきた彼女にとって、スカートでの行動は制約が多すぎて、許しがたいものがあるようだ。
続いて馬車に乗り、彼女の向かいに座っていたパウラは、いつも通りの少年のいでたちである。白いシャツに、焦げ茶色の胸当て付きの半ズボン。至る所に山岳地方に咲く花の刺繍が施されている。
ビルギッタは、いまいましそうにアルネリアの手を取り、馬車に引き上げた。よりにもよって、王女までが少年の服装をしている。昨今のノルデスラムトの男性が好む、髪を後で結ぶスタイルがよく似合う。
年若く、まだ女性らしい身体のラインが形成されていない少女ふたりの男装には、まったく違和感がない。旅の安全のためには、それも致し方ないところではあるが、なにも王女自ら……しかも、自ら乳母になって接してきた大切な姫君が……と思うと、情けなくてため息ばかりが出てしまうのである。
アーレンを離れた馬車は、間もなく街道に入り、涼しい馬鈴の音と規則正しい蹄の音を響かせながら進んでいく。
アルネリアにとってなじみ深い王領を離れると、牧草地や畑が広がる。彼方に黒い小山のように見えるのは、森林地帯。豊かなキノコを産出する場である。
窓のガラスに額を当て、景色を眺めるアルネリアに、パウラがそっとささやきかけた。
「それで本当のところ、姫様はその画家の話に出てきた、鴨肉の包み焼きやらキジの丸焼きやらが、食べたくて食べたくてどうしようもなくなったんじゃないんですか?」
アルネリアは振り向き、涼しい顔で返す。
「やだなあ“パウハルト兄さま”。僕のことは、アルベルト、またはアルと呼んでと言ってるでしょう。“母さま”にもちゃんと言っておいてね。護衛してるガリマーロさんが変に思わないように、気をつけてって!」
アルネリアは、騎馬で馬車に随行している、黒髪で毛皮のベストの男に目線を走らせた。 ガリマーロ。
護衛のために雇った元傭兵である。この旅の最中、最悪の事態が起こったときに、アルネリアだけでも逃がすため、馬車ではなく馬で同行してもらっている。
王室直属の騎士ではないが、諸国の事情に精通している。ミッテルスラムトを通ってソレイヤールに行くなら、彼以外の適任者はいないと、各方面から太鼓判を押された男である。着衣の下に鎧を身につけているかのように、盛り上がった筋肉。意志の強そうな顔。そんな男がそばにいると、旅の心細さも多少緩和されるようだ。ただアルネリアの素性は明かしていない。秘密を知るものは少ないほうがいいからだ。
アルネリアたちを乗せた馬車が、国土を走り続けて2日。ようやく視界に川が入り込んできた。あれが国境だ。橋を渡るところには徴税所があり、人数分の通行税を支払うことになっている。その向こうは、隣国ミッテルスラムトの王家が治める外国なのだ。これから馬車を乗り継ぎながらミッテルスラムトを縦断し、南海に突き出した半島のソレイヤールを目指す。
アルネリアは頬を紅潮させて、窓の外を眺めた。馬の蹄鉄が、乾いた街道の上に土埃を巻き上げている。
はじめての国外。はじめての冒険。
はじめて口にする食べ物。
「いよいよだ」
馬車は、国境の橋を渡り始めた。