港町の夜
少し穏やかな章です。
昨夜は雷がすごかったため、用心のために更新が遅れました。
夕方から風の音が強くなった。
ソレイヤールの西の先端にあるヒシの町は、海からの風が強く吹き付ける土地である。宿泊施設のないバンドールから木馬車を飛ばしてこの町に着いたときには、夕暮れの気配が濃厚になっていた。
そしてすでに日は落ち、蒼い闇の中に町の灯がぽつりぽつりと灯り始める頃。
宿屋も兼ねている食堂の中で、戸口が風に震えるたび、アルネリアは驚いたように視線を彷徨わせる。さらに、宿の主人から、「晩鐘が鳴った後には、町に出ないように」と釘を刺されたことも、神経を研ぎ澄まさせる原因のひとつでもあった。なんでも、この港町には、たまに密入国のミッテルスラムト人が入り込むことがあるからだという。
先の戦で負債を背負わされた恨みが、若者をそのような行動に駆り立てるのだというのだが……。
「心配ですか? 賢者君。でも安心してください。町の中は、鎧の兵士が巡回していますからね。鎧の騎士はすごいんですよ。密輸入国者には容赦がないけど、この国の国民や、客人を襲いません。そういう法律があるのですから」
ヴァレリウスが心配そうに顔をのぞき込んだ。
「大丈夫です。それよりこの魚のスープはおいしいですね。生臭いかと思ったら、まったくそんなことはない。この国は、香りの使い方がとても上手だ」
テーブルの上には、大きな瓶いっぱいに湛えられているスープと、6皿のスープ皿。魚のアラを煮込んだ濃厚な料理で、乾燥したパンを浸して食べるから、スープだけでも満腹になる。
「もともと漁師町だから、漁師料理が多いので……だ。香草や野菜をいろいろ加えて、食べやすいように工夫されていま……る」
ガリマーロは大変言いにくそうに口を開く。無理もない。目の前にいるのは身分を隠したソレイヤールの王太子と、ノルデスラムトの王女なのである。普通に話そうと思うほど、口がもつれてしまうようだ。
「それよりティリアーノ。例の神官の名前はわかりそうか?」
「うーん……」
ティリアーノは、ネクタル酒のグラスから唇を離してため息をついた。
「見えませんでした。やっぱり大神殿に帰って名簿を見るしかないでしょうね」
先刻、ティリアーノは飛んでいる鳥の目を借りて、ボレムまで意識を飛ばそうとしていたが、暗くなって鳥が飛べなくなったため、それ以上どうにもならない。
「ツニ、とかツリ、だけじゃわかりませんよ。だいたい僕はあなたと年が同じなんですよ。その頃はまだいたいけな美少年でした。神官になる修行を始めたばかりなのに、その頃の神官なんて知りません」
「修行してたなら、指導してもらった神官がいるんじゃないですか? その人がツニとかツリとかそんな名前だったってことはないですか?」
「指導したのは父なんだねー。パストレーユというのですよ。覚えておいて損はないよ。なぜなら当家は代々神官職を受け継いでいる名家なのだから。彼の身に異変が起こったとき、父が近くにいたことからもわかるでしょう?」
「ところでこの町に神殿はないんですか?」
アルネリアにバッサリと自慢話を打ち切られたティリアーノは、一瞬だけ顔を曇らせたが、瞬時に立ち直ってみせた。
「あるよ。教区長と一般神官がいる場所なんだ。なるほど、そこで聞き込みをすればいいんだね。僕、こういうこともあろうかと思って法衣も持ってきてるから、話もしやすいでしょう」
「用意がいいですね」
パウラがぽつりと言うと、ティリアーノの顔がぱあっと輝いた。
「パウハルト君だけだよ、わかってくれるのは。僕ら神官は、確かに優秀だけどね。だからって、気が回って当たり前、仕事ができて当たり前だとみんなが思っているからね。こんなふうに普通の人が考えないところまで気を回しても、感謝もされないんだ。それで、神官はいけ好かないとか、感じが悪いって言われるんだよねえ」
「私はそんなこと言ったことはない」
「あなたはないでしょうけど、聞いたでしょう、さっきバンドールで。そりゃ、鍛冶屋さんたちより高い給料もらっているかもしれませんけど、それだけ神経を使う仕事してるんですよ」
珍しくヴァレリウスに絡んでいるティリアーノは、聞こえないブツブツ言いながらテーブルに突っ伏してしまった。
「ティリアーノさん、どうしたんですか?」
アルネリアがそっと背中を揺するが、答えはない。その代わり返ってきたのは安らかな寝息だった。
「言い忘れてた。この地域のネクタル酒は度数が強いんだ」
だが、そういうガリマーロは平然とした顔でグラスを傾けている。
「こんなティリアーノは初めて見たよ。彼もいろいろ気苦労が多いようだねえ。今度から少しねぎらってあげなくてはね」
ヴァレリウスがティリアーノの手首を持ち上げて、そっと離すと、その手は力なくテーブルの上に落ちた。
ティリアーノが正体なく酔い潰れてしまったため、アルネリアたちも自分たちの部屋に戻り、早めにやすむことにした。
「いろいろと聞いておきたいこともあったのに、しょうがないなあ」
アルネリアがベッドの上で伸びをしていると、ビルギッタが意味ありげに片目をつぶって見せた。
「あれは、殿下がガリマーロに頼んでいたのですよ。あえて強い酒を出すようにって」
「それはまたなんで?」
「ティリアーノさんぬきで、話を聞きたかったようです」
同じ頃、ベッドで高いびきをかいているティリアーノをよそに、ガリマーロはヴァレリウスと向き合っていた。
「では、ガリマーロさんも、先ほどカリエさんの家にあった鋼鉄の仮面に見覚えがあるのだね?」
ガリマーロは首肯し、目の前にいる王太子の顔を失礼のないように見つめた。
醜いとか恐ろしいといわれることもあるようだが、彼にはそうは見えない。むしろ、やりきれないほどの絶望で歪んでいるように見える。
「そうです。あれは戦が終わったときでした。『ミッテルスラムトに入るなら、仮面をつけろ』と言われました。鋼鉄ではなく、皮革だったと思います。鼻の所には、涼しい香りの干した香草が入っていました」
「なんのために?」
王太子の問いに、ガリマーロは視線を落とした。
「悪魔が放たれて、大勢の死傷者がでたので、魔除けときいております……」
ガリマーロの喉の奥で、言葉が固まり、それ以上は出てこなくなった。脳裏によみがえるのは、シャベルで大きな穴を掘り、その中にたくさんの遺体を埋葬していた暗い記憶だ。パルトス、銀狼騎士団の騎士たち……。苦い思いでガリマーロの鳩尾が重くなっていく。
「……そういうことか。すまなかった」
「ご心配いたみいります……。それから犠牲になった騎士や兵士たちの亡骸を埋葬してから、私はミッテルスラムトを超えてノルデスラムトに向かいました。そのときには、仮面は持って行きませんでした。ソレイヤール人であることを、なるべく隠しておきたかったので……」
「ではなにか聞いていないか、仮面を発注した神官を。あなたの家は……」
「おっしゃるとおり、メイラル家です。しかし、父オーリヤス、兄レオーニスとは違い、私は魔法が使えず、神官の世界のことは全く知らされておりません」
「そうだったな……すまない、いろいろと」
「あなたがお気に病まれることはありません。もっと厳しく問い詰めてもいいくらいです」
「それはできません。私は王太子として、国民を傷つけることだけはしてはいけない」
「私の兄は神官ですが、平気で人を傷つけることをズケズケと言っていますよ」
ヴァレリウスの口元がふ、とゆるんだ。
「なかなか手厳しい神官ですよ。でもとても優秀だ。今から大神官候補といわれているほどで……」
「それはお気の毒に」
「みっ……」
そのとき、うめき声とともにティリアーノが起き上がった。
「水か?」
ガリマーロは水差しをとると、水をカップに注ぎいれ、ティリアーノに渡した。ティリアーノは勢いよく飲み干すと、驚いたような顔であたりを見回した。
「ああ、殿下、眠ってしまったんですか僕は? ああ、どうしよう、なにか問題はありませんでしたか?」
「だいじょうぶだ。それよりも明日は頼む。我々は、そうだな。有名な岬にでも行ってみるとするか」
ヴァレリウスはそう言うと灯を消し、ベッドに横になった。




