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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
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八滴『そのために賭すもの』

 唯一返事をしたのは指先だけだった。

 握ろうとした拳に力は入らず、最大にして最小の力が辛うじて末端の神経を動かす。

 顔に擦り付くじゃりじゃりとした砂の湿り気は冷たい。体温が長いこと失われていた証左だった。

 蛍火よりもか弱い意識が、残っていた生存本能を刺激する。

 徐々に意識がはっきりとして来る。聴覚が音を捉え出し、土の臭いが嗅覚を刺激する頃には視覚もはっきりと色味を取り戻していた。

「うっ……」

 すると、途端に強い吐き気に襲われる。

 だが吐き出す物などない今は、胃液だけが鼻腔を突く。

「げほっ……」

 四肢の力が徐々に戻るのを確かめると、両腕を畳み込んで身体を押し上げた。今まで無意識に行っていた動作ですらこの消耗し切った身体には難しい。湿度の高い土に払われたように、腕が滑る。まるで地面に吸い付けられるように顔面を強打した。

「ぐ、あ……!」

 吐き下した胃液と真っ黒な土に塗れながら、エインは仰向けに寝返りを打った。

 すっかり晴れ渡った青空がエインを見下ろしている。陽光が眩しい。雲一つない快晴は今のエインにとっては不気味でしかない。

「まだ、生きて……る……」

 投げ出すように伸び切った手足を動かす。力など殆んど入らない。それでも、無造作に転がった剣の柄に手を掛けることは出来た。

「行かな……きゃ……!」

 そこから先は執念だった。

 はっきりと戻った意識、感覚が、自身の使命を思い起こさせる。

 こんなところでひっくり返っている場合ではない。自分には行くべき場所が、迎えに行かなくてはならない人がいるのだから。

 上体を突き動かす。震える腕で地面を押して起き上がった。膝を立てるための力はこれまでの比ではなかった。それでもエインは言うことを聞かない全身に鞭を叩き込むようにして、剣を杖のように突き立て、ふらふらと立ち上がった。

「今行くから……待ってて……アシリレラ……」

 歩き方などとうに忘れた両足を引き摺って、エインはその跡を這い出した。

 誰よりも小さい歩幅で地面を掘りながら進む。数メートル引き摺っては前のめりに倒れ、また時間を掛けて立ち上がり、進み、耐え切れず、倒れる。着物も身体も泥に塗れて、何度も嗚咽を漏らしながら、頻りに名前を呟いて。

 立っているだけで精一杯だった。少しずつでも前進出来ていることは奇跡に等しい。

 それでも、髪紐だけはエインの後ろ髪をしっかりと抱き止めて離さなかった。


 複雑に絡み合った木々の姿は歩く度に違う姿を見せる。だがそれら自然の背景はドライには一様にしか感じられなかった。

 001からの連絡はないところを見ると、どうやら本隊への通達は行われていないらしい。

 『アシリレラの同行を持って、分隊は世界樹の元へ直行されたし』

 ドライがアインスより与えられた指令がそれだった。道中での合流は想定されていない以上、基本的に、緊急事態への対応はドライの指示に委ねられている。

 一時は肝を冷やしたものだったが、自身に引き連れられているアシリレラを確認する度、ドライの心情も平穏を取り戻そうというもの。

「お疲れではありませんか?」

 両脇をツヴァイとamn003に挟まれて以来一切口を開くことなく歩き続けている。目線を落としたアシリレラの表情を窺い知れる者はいない。

 ドライの問い掛けにもアシリレラは応じなかった。ただ前をゆくドライの踵の辺りに視線を当てているだけで、その実、瞳が捉える光景が踵であるわけがなかった。

 しかし、その黙々と歩く姿に、疲労に足を取られる様子はない。それなら、今はこのまま歩き続けて問題ないだろう。予定では後二時間程で昼食の頃合いだ。休憩はその時で良い。

「ツヴァイ。もう身体の方は大丈夫なのですか?」

「んあ? ああ、まあな」

 ツヴァイは請け負う任務の特性上、毒や薬物には強い耐性がある。毒矢を受けた腕がすぐに腐敗しなかったのもそのためだ。

「まあ腕にまだちょっと痺れがあるし、身体はだりぃけどな」

 ツヴァイは、矢を受けた右手を挙げる。手のひらを二、三握り直してみるも、やはり反応の遅れを感じた。

「ま、二日酔いよりはマシってところか」

 あっけらかんと言い放つ辺り、体調に不備はないようだ。

「まったく信じられません。なにせムラサキトリカブトですよ」

 amn003が、ツヴァイを見て呆れたように言う。

「一滴垂らせば大木が枯れ、マグ一杯を気化させれば街が滅びるような毒です。それを体内に入れるなんて……想像するだけでも背筋が凍ります」

「鍛え方がちげーんだよ。鍛え方がな」

 とはいえ、ツヴァイも解毒剤がなくては、後数分も持たなかっただろう。

「それに、俺はあんなところで死ぬわけにはいかねえからな」

 この『計画』に、何かを求めてその身を投じる者達。生きる道を、望みを、より高みを。携わる人数こそ少ないが、その理由は様々だ。

『世界再配置委員会』

 彼らが行う世界再配置計画に於いて非常に重要なファクターである『処置』という行為。これは、錬金術の基本原則の一つである等価交換の原則に基づいて施される行為である。

 原理こそ誰も理解していないが、希代の錬金術師である故パラケルススが開発したこの技術は、生物を肉体と魂に分離し、一方を世界そのものに保存するというというものだった。

 魂を失った肉体は破棄されるが、新たな世界樹の植樹後、生まれ変わった世界で新たな肉体を経てあらゆる生物が、そこで復活する。

 理論では記憶も保持され、身体だけが若く、健康な物に取り替えられるというのだ。

 死後の世界。それがどういったところであるか、答えることが出来る人間はいないだろう。だが今回、この世界に於いては、その価値観が一変する可能性が見えていた。

 技術の革新は人に様々な希望を抱かせる。新しい世界に様々な望みを託す者は実のところ非常に多い。ツヴァイもその一人だ。

「……やはり、忘れられませんか」

「当たりめーだ。俺はそのために……」

 ドライに問われたツヴァイは、その先を言おうとして、やめた。

 取り戻そうと足掻いた結果奪い取った命は、これまで数え切れない。最も身近な者を目の前で失った者も何人も見てきた。これ以上無闇に誰かを曇らせる必要などないのだ。ましてや、それが自身の友であるなら尚更だ。大切な者達を天秤に掛けたことに気付いては、決意も揺らぐ。

 目を背けて、ひらひらと手を振りながら、ツヴァイはドライの背中を押した。

「あーもう、やめだやめ。この話はここまでだ」

 目的というものはぺらぺらと人に明かすべきではない。

 望みを吐き出せば、それは僅かながらに心の片隅を満たす。そうやって少しずつ欲望を摂取することで、強い決意は風化し、やがて欲そのものを忘れてしまう。満足してしまう。

「けどよ、ドライ。お前はどうなんだよ」

 不意にツヴァイの矛先が自身に向かい、ドライはつい聞き返す。

「何がでしょう?」

 そもそも話の趣旨も大幅に脱線してしまっていて、具体性のない質問に反応しづらい流れになっていた。

「最後はお前も処置を受けて、新しい世界に飛ぶんだろ? そしたらお前は、その先で新しい人生を始めなきゃなんねえ」

「……そうですね」

「どうすんだ?」

 単純な質問だった。だがその単純な疑問がアインスのために生きてきたドライにとってどれ程の難題であるか、奔放に生き、戦い、明日のためにまた戦い続けてきたツヴァイには想像もつかなかった。

「考えたこともありません」

「じゃあこの期に決めちまえよ」

「今ここで、ですか?」

「人生なんてノリと勢いだろ」

 いかにもツヴァイらしい物言いをドライは鬱陶しく思いながらも、同時に一里あると感じていた。

 明日の風が知れぬのなら、乗るも逆らうも心に決める必要は確かにある。

 ドライは逡巡し、まとまりがないまま口を開いた。

「そうですね……。ひとまず、アインス様の許可が出るのであれば、しばらく旅に出てみようかと」

「お、良いじゃねえか」

「長いこと一つの計画に携わってきましたからね。ここらで見識を広げるのも悪くはないでしょうから。003、あなたはどうされますか?」

「はっ?」

 まさか話しを振られるとは思ってもいなかったamn003は、任務中とは思い難い素っ頓狂な声を上げた。

「あなたも処置を受けるのであれば、決めておいた方が良いかもしれませんよ」

「私は……いえ、自分はクローンアーミーです。正規の生命ではありません。ですから恐らく、新しい世界には、行けないのではないかと」

「随分悲観的ですね」

「お前らってみんなそうだよな」

「そうでしょうか?」

「慎重というよりはネガティブというかよ……」

「とはいえ、我々も真理は分かりませんから……」

 言い掛けて、amn003は唐突にその場で足を止めた。

 数歩先を踏んだツヴァイとドライ、そして、押し黙ったままだったアシリレラも一瞬遅れて立ち止まる。

「どうしました?」

「どうやら001が本隊と合流したもようです」

 これまでの会話の色めきが、水に乗るように、一瞬にして流れ去った。

「指示は?」

「本隊はエインをトレイターと認定。直ちに増援を送る、至急合流ポイントに向かわれたし……以上です」

 簡素な指令がドライの分隊に行き渡るとツヴァイは一人、踵を返すように三人に背を向けて、一歩前に歩み出た。

「どうやら増援が無駄にならなくて済みそうだ」

「ツヴァイ?」

 この時、ツヴァイだけが気付いていた。急速に接近する存在に。

「行けよ。俺はあいつとケリ付けるからよ」

 あいつ、と聞いて、重く閉じたままだったアシリレラの口が開いた。

「エイン……?」

 その名に疑問を持つのも致し方ないことだ。ドライもamn003も、エインの死因がムラサキトリカブトの毒であると認識していたこともあり、再来などあるわけがないと確信していた。

「エイン……エイン……! ああ、生きて……」

「おい、ドライ! とっとと行きやがれ! あいつ、お嬢さんを前にしたら何しでかすか分かんねえぞ!」

「っ……!」

 ツヴァイの一言は、ドライの背筋を凍らせるのに充分な説得力を持っていた。

「分かりました、後は頼みます。003、アシリレラ様を」

「はっ」

「離して下さい!」

 僅かな抵抗を見せるも、amn003に抱えられ、アシリレラはドライに連れられ森の奥へと消えて行った。

「……さて」

 これで最低限の足止めは叶うだろう。

「よう、顔色が悪いぜ」

 なぜエインに居場所が突き止められたかは定かではない。だが、ツヴァイにとってそんなことはどうでも良かった。目の前にいる最大の難敵を、どう足止めしてやろうか。

 否、手負いの獣一匹仕留められずにいて、それを己の意地が許せるか。

「流石に、死ぬかと思ったよ」

 己の足で直立する獣は、血の気の戻った顔で、敵意を剥き出しにしてツヴァイと対峙する。

「返せ」

 ただ一言だけ。

 そのたった一つの言葉こそ、他の何物でもない宣言。

 剣を握る手に力が篭る。

「悪いが行かせるつもりはねえぜ」

 だから、ツヴァイもそう返す。

 エインもそれを望んでいた。

 だから、エインは躊躇なく踏み込んだ。

 ダブルブレードを握る手に、心臓の早鐘が顕現する。

 剣閃が跳ねる。交錯した刃の破片が火花となって、二人の斬線で弾けた。

「退かないなら、力尽くで……!」

「やってみろよ、死に損ないが……!」

 エインの斬撃の突進を受けたツヴァイの両手が、かつて味わったどの衝撃よりも強い力に押し戻される。

 ムラサキトリカブトの毒。これはこの世で最も強い毒の一つだ。その毒に犯された上、解毒剤も使わずにその翌朝にこれ程の力を発揮出来る生物など、この世のどこにいようものか。

「オオオオオオオオラァッ!!」

 だが所詮は結びの一番。いなせば死ぬ勢い。

「ついでに死ねえ!!」

 ツヴァイはエインを押し返した。それはお互いにとって初めてのことだった。単純腕力でも、エインがツヴァイに劣ることはない。

 エインの衰弱を察したツヴァイは、真後ろへの崩しに向かって踏み込む。エインは、小柄な身体で空中を舞いながらも、ツヴァイの追撃を全て見切っていた。

 最長の間合いからの突き。稲妻のように速く、鋭い切っ先がエインを襲う。

 手応えはない。変わりに、風が白刃を擦り抜けた。槍襖のようなダブルブレードを縫うように、エインが低い姿勢のままツヴァイの懐まで潜り込んだ。

 死相を味わう。血の気の引くようなざわつきに、ツヴァイは、咄嗟にダブルブレードをかち上げた。

「っ!!」

 背中まで伸びる後刃が昇り、エインの鼻先を掠める。

「っし!!」

 たらりと、一筋の血がエインの眉間を流れた。

 反射的に振り上げたダブルブレードの切っ先は、エインの額に浅い傷を負わせていた。

 始めからツヴァイはこの一太刀のみを望んでいた。

 傷の深さはいらない。エインの皮下組織まで刃が届けばそれで良い。

「悪く思うなよ」

 エインの視界が揺れる。

「また……毒か……!」

 劇毒の重ね掛け。

 どうしてあの状況から生き延びられたのかは定かではない。それが世界種なのだと言われようとも、そして、如何に世界種であろうとも、二度目の毒からは決して。

 エインの身体がぐらりと傾ぐ。力を失い、ツヴァイの足元目掛けて前のめりに沈んでいく。

 そしてなんの前触れもなく、エインはツヴァイの片足を切り付けた。

「なっ……!?」

 勝ったと、ツヴァイは勝利を確信していた。

 これで終わるのだと、ようやく世界は作り変えられるのだと、ほんの一瞬だけ先のことに目を向けたその瞬間だった。

 ツヴァイは身体の制御を失った。倒れゆく身体を維持出来ない。右足の膝から先の感覚がなかった。咄嗟にダブルブレードを杖の代わりに大地に突き立てた。

 やられた。そう思った時には、もう既に、エインの足の甲が横面を捉えていた。

 景色が流れる。天と地が地平線を中心に回転する。

 二度、三度、四度と、強かに大地に叩き付けられる。身体が木に埋没していることに気付き、その意識を取り戻した。跳ねる途中で意識を失ったことにすら気付けなかった。

「がっ……ハ……ぁ…………!!」

 呼吸が覚束ない。激痛は痛覚を麻痺させ、吐き気と共に視界を明滅させる。

 混濁とした意識の中、未だ衰えることのない殺気が、矢のように放たれたのをツヴァイの本能が察知した。

 ――――死。

 身体は勝手に動いていた。

 死を意識する合間に垣間見た希望だけが、動く筈のない身体を動かしていた。

 さっきまでめり込んでいた木が縦断され、左右に倒れる。まるでバターでも切るように、エインの斬撃はなんの躊躇もなくツヴァイを狙って正確無比に放たれていた。

「抗体か……畜生……!」

 極少量の毒は、却って感染者に耐性を齎すことがある。それは如何なる毒でも同じことだ。昨夜打ち込まれた毒は、量にして一滴にも満たない程僅かだ。その極めて少量の毒を得た結果、エインは一晩のうちに、ムラサキトリカブトの毒に対抗しうるだけの免疫力を体内に作り出していた。

「よく分からないけど、怪我の功名……かな」

 しかし渾身の斬撃は、確かにエインの体力を奪っているようだった。

 免疫力を得たとはいえ、その間奪われた体力は甚大。一時は生命の危機にまで瀕していた程である。戻らない力は自由な活動を許してはくれない。呼吸こそ乱れることはないが、変わりにその身体は今も鉛のように重たかった。

 それでも、だ。

「あがっ……!」

 立ち上がることすら出来ないツヴァイ一人を屠ることなど、造作もない。

 首を掴まれ、身体を持ち上げられる。左足のつま先だけが地面を擦ったのを感じて、ツヴァイは自身の足の状態を察知した。

 ここで、終わりか。

 自由を奪われた上、決定打となる筈だった切り札の毒さえも、エインの前では充分な効力を発揮しなかった。

 もう打つ手はない。精々ダブルブレードを握る手にいくばくかの力が残っているだけだ。

 そう、まだ残っている。

 浅い傷では駄目だ。今度こそ、この死に損ないを確実に切り付ける。

 雄叫びのように振り上げた気力とダブルブレードが、太刀筋より早く後退したエインの残滓を撫でる。

 エインの手に突き放され、身体が宙に浮いた。

 片足が着地するまでの時間がやけに長く感じる。

 最後だ。もうこれで戦う必要などなくなる。

 ツヴァイは最後の一歩を、この先にいるエイン目掛け、目一杯に踏み込んだ。

 獲物の視線が、ぶつかりゆく炎のような意志と交錯する。

 獲物は、怯えたような目をしていた。

 そう見えただけかもしれない。もしくは、エインの問い掛けるような眼差しが、ツヴァイにとってそう映っただけなのかもしれない。

 それなら、『生きたい』と、たった一つ、愚直にそう考えるこの意志こそが、この一撃を貫き通す、最後の切り札になる。そうしてみせる。最後の最後で貫く意志に揺らぎを見せるような奴に、そんな弱い覚悟に、ツヴァイは負けるわけにはいかなかった。

 声にもならない咆哮に任せて、ツヴァイはダブルブレードを突き出した。

 押し込む。これで終わりだ。二の太刀はいらない。元よりそんなものはない。だから、目一杯捻じ込む。もっと、もっと奥に。そこにエインはいないと分かっていても、ツヴァイは残された全てでダブルブレードを前方へと放った。

 やがて、それは意図しない指向性をツヴァイに伝える。

 まるで水が流れるようだった。小川のように静かで、それでいて、逆らうことの出来ない奔流に自分の全てが取り込まれるようで。

 エインの剣が、ツヴァイの突き出したダブルブレードの刃の側面に、そっと宛がわれていた。

 剣による軌道の修正はほんの僅かに過ぎない。だがその僅かなズレが、ツヴァイの願いを大きく逸らした。

 やがてその力は失われ、力なく倒れ込む。

 地面に打ち付けられるより早く、瞬速で腹部を貫く感覚が、ツヴァイの消え掛けた意識の最後の記憶となる。

 終わった。

 瞳の力は消え、うつ伏せに倒れ伏した身体からまだ熱の冷めない血液がゆっくりと広がってゆく。

 口だけが、ゆっくりと言葉を発した。一言、二言。自身が生き続けた理由を確かめるように。

 その言葉がエインの耳に届いたのかは分からない。

 誰に向けたものかすら分からぬその言葉は、この風に乗って、やがて届く場所があるのだろうか。

 ただ一言だけ、残されたツヴァイの想いだけが、エインの口を自然と動かしていた。

「…………アリス……?」


 合流地点はここから約三里先にある、放棄された小屋が点在する原野であった。

 拘束してからのアシリレラは静かだった。移動を開始してしばらくはエインの生存に希望を取り戻したかのように暴れたものだったが、今では抵抗の色を見せず、棺の中でその身を静かに横たえていた。

「森を抜けますよ」

 ドライは棺を抱え直しながら、003に伝える。それとほぼ同時に視界が開け、背の低い草木地帯が二人の目の前に広がる。

 まるで手入れでもされたかのように切り揃えられた足元の草葉が脛を擽る。

 違和感を覚えたのはドライだけではない。amn003も、そのあまりに整えられた都合の良い『道』に思わず首を傾げる。

 だが今はそんなことを気にしている余裕などない。走りやすいに越したことはないのだ。このまま一気に駆け抜けて増援を受けられれば、今のエインであれば撃退が可能な筈だ。

「003」

 だが決して首尾良く運ばないことは、ここまでの流れで理解している。ドライに呼び止められたamn003は足を止め、振り向いた。

「指令、どうかされ……うわっ」

 ドライがその腕に押し付けて来たのは、ずっと抱えたままだった棺であった。

「あの、これはどういう……まさか」

「はい。そのまさか、です」

 その力を理解しているからこそ、amn003は疑いを持つことなく事態を受け入れることが出来た。

「病み上がりも良いところの筈ですが……まったく、実にデタラメだ」

「では、直ちに迎撃の準備を……」

「なりません。あなたは合流地点へ向かって下さい」

「しかし、迎撃であれば二人の方が可能性が」

「仮にあなたが死ねば、増援との合流は絶望的となるでしょう。今必要なのは戦うことではなく、アシリレラ様をお連れし、増援と合流することです」

「御意」

「頼みましたよ」

 なんの感慨も迷いもなく出立するamn003。ドライは、クローンアーミーを見ていると、不思議と安らぎを覚える。先程まで同行者だった、あの聞かん坊のせいだろうか。

「お久しぶりですね」

 断続的な風が気流を生み出す。気流は草葉を乗せて上昇し、また新たな気流となって空へと帰ってゆく。

 ただ黙って相対するその規格外の怪物が、屋敷で同じ時間を過ごした者と同一人物であるとは到底思えなかった。

「まったく……本当に来るとは」

 だが変わってしまった過去は、今目の前にいる。現実となって立ちはだかる。

「ドライも?」

「愚問」

「出来れば……これ以上は」

「それが私の役目です。存在意義なのですよ」

「…………そう、か……。そういう奴だったよね、ドライは」

「はい」

 俯き、確かめるように、呟く。

「変わらない、か」

 エインが何を思い出しているか想像するには、少し歯痒さがある。

「嘘ではありませんでしたよ」

 そして、それは幻想や取り繕うようなものではなく、正しく自身であったと。

「それでも?」

「そうです」

「それじゃあ」

 ふらりと垂れ下がっていたエインの右手が、ゆっくりと腰元に移動する。

 柄に触れる。その瞬間、エインの瞳がドライを捉えた。

「っ!?」

 背筋を擦り込まれるような怖気に、ドライの身体がほんの一瞬硬直する。

 これだ。かつて何度か味わったこの感触だけが、六百年経った今でも消えず残っている。

 一度目は初対面の手合わせ。二度目は逃亡当日、屋敷で。そして、今。

 ツヴァイと自分の差を痛感する。彼はこれ程の圧に屈することなく打ち合い、一度とはいえ手傷を負わせたのだ。

「ッ!?」

 エインの瞳がより大きく見えた。まるで、相対する自分の全てを包括するように大きく、高圧的で、真っ直ぐに見透かして。

 否。

「くっ!」

 近い。間合いがエインの支配下に置かれたことに気付けなかった。

 速過ぎた。弾き出すように肉薄するエインの移動速度はドライの反射神経を大きく上回る。

 それでも、トライブレードでその剣閃をいなすことが出来たのは、エイン身体ガが未だ万全でないことの証か。

 足元から顎先をこぞぎ上げるような太刀筋が紙一重のところを通過して行く。土が、葉先が、コートの切れ端が花びらのように、寸断されて、ドライとエインの視線の間を横切る。

 躊躇のない一撃。一瞬でも対処が遅れていたら死んでいた。

 土の一粒。葉脈の造形。コートの繊維。はっきりと目に映るそれらがこの死線の深さを物語る。

 思考が早まるのを感じる。

 二手、三手。……温まった。

 二十二手。エインは詰む。この戦いが、終わる。

 初手。

「っ!」

 二の太刀から五の太刀がほぼ同時に打ち下ろされた。

 重なるように、しかし全て違う侵入角での四の切り下げ。時に袈裟掛けに、時に垂直に。

 ドライはそれら太刀筋を全て受け流した。反応で受け流せるものではない。全てはエインの初動を見ての推理上にある予測に過ぎない。

「受け流しはお家芸、か」

「そうですね……戦いは先ず生きてこそ、ですから」

 ドライは堪らず二歩間合いを取り、両手にトライブレードを持ち出した。腕を下げ、肘を伸ばし、広げるような構えを見せる。

「さあ、どこからでも来なさい」

 再三打ち込まれた腕が痺れを訴える。受け流したとはいえその衝撃までは打ち消し切れない。

「随分自信があるんだね」

「……まさか」

 ドライは鼻で笑った。自信など、誰が持とうと世界種の前では過信でしかない。

 一方で、エインに警戒心が芽生えたのをドライは見逃さなかった。

 そして、単なる予測でしかなかった道筋が、それによって確信に変わる。

 最も懸念されていた不確定要素。

 僅か四時間という猶予はエインの身体をどの程度癒したのか。

「……それなら」

 ――――来る。

 その瞬間、エインの斬撃はドライを襲っている。

 何度も言う。

「デタラメなッ……!」

 五感が狂うようだ。

 取った筈の距離が視界から唐突に消える。

 手に痺れが走り、遅れて、金属のぶつかり合う音が鼓膜に捻り込まれる。

 出血する程食い縛られた奥歯からは鉄の臭いがして、その生臭さが舌に流れ込む。

 それが僅か一度の攻撃のうちに起こる現象だ。

 そう、これはたった一撃放たれただけ。

 同等の銀線が矢継ぎ早に打ち込まれる。今度は一方向からではない。袈裟に、胴に、刺突と手首への軽打が不規則な速度と角度を持って鞭のような軌跡を描き、ドライに襲い掛かる。

「ぐッ……!」

 見えていたのはどこまでか。太刀筋など途中から殆んど見えていなかった。ドライはエインの放つ斬撃の後塵を拝するがまま、その軌跡に向けてただただトライブレードを差し出していたに過ぎなかった。

 変わりに見えたのは、走馬灯か。屋敷の中、仲睦まじく時を送る四人の姿を、今は、視界の隅に追いやる。

「…………フフッ……フフフ……」

「……狂った?」

「いえ、ね……らしくもない、と思いまして」

 要領を得ないドライの言葉に、エインは小首を傾げた。

「こうしているとますます分からなくなる」

「何が?」

「アナタという人物が、ですよ」

「人間観察? 随分と悠長だね」

「そうでしょうか? 戦いで相手を観察するのは基本ですよ」

「……考えたこともない」

「だからでしょうね」

「?」

「相手の動きが読めていない……アナタの負けだ」

 瞬間、エインの視界の端を鋭い光の線が走った。

 斬撃ではない。ドライの腰部から、蜘蛛の糸のようにぴんと張り詰めた光線が四本、自身の後方へと伸びているのに気付いた。

 鋼糸だ。

 鋼糸は微細な振動を放ちながら、その先に、高速で回転する手のひら程のトライブレードを待機させていた。

「トライブレードが二本だけだと思い込んだのが、アナタの敗因です……!」

 エインが剣を振るう。

 ドライが腕を引き、鋼糸を引き寄せる。

「無駄です!」

 鋼糸は剣風を受け、エインの反撃をひらりとかわした。

 引かれた鋼糸がトライブレードをエインまで誘導する。

 だが実体の掴みにくい鋼糸と違い、トライブレード本体は大きな質量を持っている。故に、剣で防ぐのは容易。

 エインは咄嗟に剣を納めた。そして、直進するトライブレードに相対し、最長の間合いに向けて打ち出した。

 一つ、二つ、三つ。

 残りの一つが頬を掠める。

 その瞬間、トライブレードはその場で速度を失う。

「なっ――――!?」

 目を疑う。

 鋼糸が、まるで意志を持つ蛇のように、エイン目掛けて直角に折れ曲がって見せた。

「っ……!」

 肩口に浅く食い付いたトライブレードが再び回転を始める。エインはトライブレードを掴んで引き抜くと、地面目掛けて腕を振り下ろし、叩き付けた。

 そして、ドライを見据え、眼前に迫った七本目のトライブレードに、瞳孔を見開く。

 咄嗟に左手で遮った。最速で飛来したトライブレードが前腕を貫き、眉間の寸前まで突き出したその凶刃を閃かせる。

 痛みはある。だがこの程度の傷なら、支障を来たすことはない。

「回れ」

 ドライの言葉に総毛立つ。

 裂かれてしまえば、その腕は今後使えなくなる。

 故に、エインは、獲物を握り締め、振るう。

 それは思い付きの行動であった。

「大したものですね」

 左の肘関節から先を、エインは自ら切り落とした。

 自由を得たトライブレードはその場で回転し、エインの左腕を振り落とし、ドライの手元へと戻って行く。

「アナタをどうにかするには、初見殺ししかありませんからね……。さあ、三対一ですが、どうしますか? まだ続けますか?」

 ドライは舞い戻ったトライブレードを腰部に納め、両手を広げたまま、エインの元にじりじりと歩み寄る。

 ただでさえ消耗した身体に、止まらない出血。

 状況は、エインにとってあまりに不利だった。

「どういう意味?」

 だがエインは、表情一つ崩すことなく剣を納め、構えを取った。

 ドライの足が止まる。そして、少しずつ、踵の先で地面を掘りながら進む。

 睨み上げるエインのその表情から伺えるのは、まるで衰えることのない、獲物に食らい付くような闘争心。

 腕を落せば、少なくとも有利に立ち回ることが出来る。

 だが、額からは大粒の汗が滲むばかり。ドライの確信が僅かに揺らぐ。

 未だ揺らぐことなく燻りを見せるのは、むしろ――――。

「主導権でも握ったつもりでいたのかな……それはちょっと」

 掻き消える。

「ッ!!」

 ドライは、眼前目掛けて水平にトライブレードを振るう。空を切り、開けた先にいたのは、文字通りの狩人。真下から睨み上げるその二つの眼が、ドライから離れることはなかった。

 肉薄。

 空虚となった鞘の暗闇が、ドライの目に映った。

 瞬間、その視界に、熱いモノが掛かった。

 飛散したそれは粘度が高く、臭く、そして新鮮で。

「がッ……!」

 それが自分の血液であることは、直ぐに分かった。

 そしてドライは血液の出所を確認するより早く、著しい機能不全を感じることになる。

「……ところで」

 その手でしっかり握り締めたままのトライブレードが一つ、二つ、足元に突き刺さる。

「これは、何手目?」

 反り返るような姿勢で剣を振り上げたエインの顔が、目の前にあった。

「まだ続ける?」

 あくまでエインの目は冷静であった。

 覗き込むように迫るその瞳がドライの心の底を捕えて、ここからの先への行く末すらも、身動ぎ一つで決めてしまえる。

「…………私……は……!」

 だがそれでも、否、それだからこそ、ドライにはやらなくてはならないことがあった。

「アインス様は私に……お任せ下さったのです……! 必ずや……アシリレラ様を……ご無事に……と……!」

 唯一の執着心は、ある種の信仰心さえ生む。

 ドライは折れ掛けた心を震わせた。その目的を思い出して。

「故に……! 私はアナタをここで……!」

「諦めない気、か……」

「不可能ではない……! なぜなら私の目的はッ!」

 ドライはその口を大きく開くと、エインの右手目掛け、飛び掛った。

「こいつっ……!」

 初めて見るドライの思慮のない行動に、エインは一瞬反応が遅れた。

 歯の間を擦り抜けた手首の先にあったのは、連戦を潜り抜けたエインの剣。その白刃に、ドライは獣のように歯を立て、食らい付き、猛獣が獲物の息の根を止めるようにその首を振り回した。

 口角が裂け、舌が落ち、歯が砕け、頚椎が拉げても、ドライは全力で首を振った。

 やがて、がたんとくず折れる。

 ドライが力尽きると同時に、エインの剣は中程から折れ、共に地へ倒れ伏した。

 引き千切るようにエインから剣を奪い去ったまま、ドライは事切れていた。

 その首は、自らの力に耐え切れず大きく曲がっている。エインが止めを刺すまでもなかった。

「…………そこまでして……」

 まるでなりふり構わないと言わんばかりのドライの行動。その姿はエインの知っているドライではなかった。その瞬間だけ、まるで他の何かが乗り移ったかのようだった。執念に似た、どこか妄執染みた目的意識に突き動かされていたようだった。

 だが、エインはドライの本当の姿を知らない。

 少なくとも、近しい距離にいた彼。だがそう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。

 知らないドライ。知らないドライの思惑、思想、執心。それが最後にエインを捨てて、獰猛な本性となって隠していた牙を向けたのだ。そう思わなければ、その命を捨てた行動すら理解出来てやれない。理解したくもないが、その奥底こそが、ドライの最後の心なのだとしたら、エインはそれを受け止めなければならないだろう。

 それが、少なくとも近しい距離にいた者に出来る最後の役目なのだから。


 このままなら後数日で合流地点に辿り着けるだろう。

 大きな棺を背負ったまま、amn003は目的地への進路を直進する。

 記憶が正しければ、この辺りには小さな村があった筈だ。これといった特産物も産業もない、ただ人々が暮らすための、小さな村。処置が済んだのも凡そ三百年程前のこと。今や面影も残されてはいないだろう。

 だがamn003がそれ以上その記憶を引き出すことはない。行軍に不必要であるからだ。補給の当てにすらならない通過点など、風の音の足しにもならない。一時的に姿を隠し、エインの追走を免れるくらいなら役立つかとも思ったが、ここまでのエインの動きを見るにそれも期待出来そうになかった。

 どういうわけか、エインにはアシリレラの居場所が分かるらしい。

 それがどれ程の精度なのか、そもそも本当に分かって行動しているのか、それすらも定かではないがその傾向が見受けられるのは確かだ。でなければ一足先に森を抜けた小隊にこうも簡単に追い付ける筈がない。追跡術の類も疑ったが、小隊の面々は勿論、アシリレラにさえマーキングの兆候は見られなかった。

 となると、やはりアシリレラ個人に対して追跡能力を発揮してるという推測に行き着く。

 そして危惧すべきは、ドライが作った時間だ。はっきりとは断定出来ないが、そう長くは持たせられないだろう。消耗した状態での連戦とはいえ相手は世界種だ。最悪相打ちにでも持ち込めていればという願望がないでもないが、生憎、司令塔であるドライは戦闘に特化した個体ではない。

 そして彼が突破された場合、その更なる下位互換である自分はどうなるか――――。

 ――――捉えた。

 瞬間、剣が振るわれた。

「あっ、がっ……!」

 前を行くクローンアーミーの反応が遅かったわけではない。

 目視、最高速度、接撃、それらを最効率で行った。

 結果、クローンアーミーの背中に一太刀を浴びせた。

 それでも棺を離す様子はない。そのために生み出された存在であるという言も吝かではないということだ。

「馬鹿な……早過ぎる!」

 出会い頭に受けた、浅くない傷。不意のダメージにクローンアーミーの足が止まる。

 悪手だ。機動力を捨てることは戦いを投棄することに等しい。

「……返せ」

 離すまいと棺を抱えるその姿を、しっかりと捉える。

 それが、まるで自分の物だと主張しているように映って、それが、堪らなく不快で。

 ツヴァイ、ドライと見てきたからこそ断言出来る。

 なんと緩慢な相手だろう。

「アシリレラを……!」

 好機を逃すエインではない。

 一瞬でケリを付ける。

 継戦するにはあまりに重いダメージを負ってしまった。この腕もいつまで繋がってくれているか分からない。

 加速する。体勢の整わないクローンアーミーを肩口から切り付ける。

「その手を離せ!」

 刀身を殆んど失った剣の、ほぼ断面のような白刃で殴り付ける。

 切れ味も大きく落ちた剣では、例えクローンアーミー相手であっても致命傷に至る傷は与えられない。

「化け物め……!」

 クローンアーミーの手が腰部に伸びる。咄嗟に夕べの悪夢を想起させ、エインは身を逸らした。

 円筒から飛び出した吹き矢がエインの後方に飛び去り消える。

 流れるままに二度、三度、エインはクローンアーミーを切り付けた。

「おの……れ……!」

 鋼の円筒が一度だけ、エインの太刀筋を遮った。

 金属が弾ける。円筒は裂け、剣はその最後の刀身を著しく砕き、柄だけが、唯一エインの手に残った。

 砕け散る破片にエインの視線が移る。本来なら難なく切り抜ける筈の鋼の円筒に、ここに来て、初めて打ち負けた。

「おおおおおおおおお!」

 それは、クローンアーミーにも分かる隙として、エインの行動を縛り付けた。

 時の止まるような感覚。腰まで絞り込まれた拳が、エインの眉間に打ち出される。

 視界一杯に拳が迫った。握り締められた五指。均整の取れた無駄のない筋肉。毛穴の一つ一つまでしっかりと見えるようだった。

 その拳が、額を押し込む。首が回り、衝撃が伝わり、そしてそれを、眉と鼻で引き込み、胸元へ巻き込み。

「っ!?」

 いなした。直撃した筈の攻撃を、エインは手も足も使わずダメージをほぼゼロにまで軽減した。

 狙っての行動か、それとも咄嗟に取った行動か。

 クローンアーミーが拳を受け流されたと思った時、エインの右手が、ぶらりと垂れ下がった左腕から離れた。

 その人差し指と中指の間には、砕けた剣の切っ先が挟み込まれていた。

「こ、こんなっ……!」

 すとん、と。

 エインの指が果実に包丁を通す程容易く、呆気なく、クローンアーミーに根元まで差し込まれ、その心臓を突いた。

「ああ……」

 呻き声を残し、物言わぬ屍となったクローンアーミーが、エインにしな垂れ込む。

 切っ先から指を離すと、エインはそれを横倒す。そして、手首に撒き付いた真っ赤に染まった髪紐を見つめ、呟く。

「ごめん、アシリレラ……。汚しちゃった……」

 手に付いた血液を裾で拭い、エインは棺の戸を開け放った。

 アシリレラは眠っていた。汚れ一つない姿で、人形のように、棺の底に横たわり、静かに寝息を奏でている。

 棺にどういった仕掛けがしてあるのか分からない。暴れた形跡もないところから、恐らく戸を閉めると同時に内部に催眠効果が作用する仕組みになっているのだろう。

 だがそんなことはどうでも良い。エインは眠るアシリレラをそっと抱き起こして、その身を片腕で引き寄せた。

 もう離さない。

 そう誓った時より幾分頼りなくなった自分に、もう賭けるものは一つしか残されていないと刻み込みながら、愛おしいその身体を抱き上げる。


 世界が終わるまでの僅かな暁の刻。

 エインとアシリレラは、その姿をこの世界のどこかへと消した。

登場人物紹介

『ドライ』

 アインス同様、世界再配置委員会を発足するに当たり生み出されたホムンクルス。

 ツヴァイとは違い、戦略や戦術を得意としており、常に最前線でその扇を振るってきた。

 アインスに強い忠誠を抱いているが、その実アインスそのものではなく、組織とその計画への義務感や使命感に突き動かされている嫌いがある。そのため、時にアインスの取る行動や指令に驚愕の色を見せることもあり、狂信的なフィーアとは明確な違いがある。

 一見紳士風を装ったいでたちだが性格は冷淡で、使命のためなら命でさえ自他問わず躊躇なく投げ出す。

 黒髪をまとめたオールバックに長身痩躯で肌は浅黒い。すっと閉じた糸目から感情や思考を感じ取ることは難しく、胡散臭い紳士と形容されるのは茶飯事。

 トライブレードという大型の手裏剣のような得物を多数隠し持っており、それを自在に操ることで敵対者を葬る。身体能力こそツヴァイに劣るものの、その頭脳から来る戦い方は実質ツヴァイと同等かそれ以上の戦果を齎すと言われている。

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