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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
8/16

七滴『東雲の風、死の風』

 瓦礫と化した屋敷の影で寄り添うように、エインとアシリレラは、火を起こして温めたスープを啜っていた。

 夕闇の沈殿した鉄のマグに、まじまじと覗き込んだアシリレラの顔が映り込む。少し異様な香りは、例の粉末特有の土のような臭いだ。強い香りこそしないものの、雑草の根を食むような鼻に染みる臭いに、慣れないアシリレラは口にする度少し顔をしかめては呼吸を整えていた。

「飲める?」

「は、はい……。でもやっぱり独特ですね。少しずつ慣れてはきましたけれど……」

 不快感というよりは、未知の刺激に身体が戸惑っているような感覚だ。体内に取り込む度に、異臭とは正反対の、身体が中から温まるような心地良さがある。

「エインも慣れるまでは大変だったんじゃないですか?」

「そうだね。けど戦地ではまともな食料が手に入らないこともあったから」

 こうしていると、エインの中で眠っていた大戦の記憶が少しだけ目を覚ます。

 戦争では、エインの力は戦略的な価値すら持っていた。

 たった一人で一個中隊すら撃破する力……『世界種』の力。

 世界樹のハーブを加えて精製されたホムンクルスである世界種は、その殆んどが成長の過程で命を落す。仮に成長しても、重度の疾患や短命で、天命を全う出来ない個体も沢山いた。

 元来『不自然な命』であるホムンクルスに、最も自然的な存在である世界樹の一部を混ぜるのは、例えるなら火と水を同じフラスコ内で観測するようなものだ。不可能ではないにしろ、ハーブの採取に掛かるリスクを含め、生育は極めて困難である。

 だがエインは、数少ない成功例として生き延びた。

 そして、生き延びるためになんでもやった。

 その頃には、虫を齧り切ることなどなんでもなくなっていた。

「それに、慣れれば意外と美味しいなんてこともあったよ」

「そ、そうなんですか……?」

「……うん、まあ、非常食の中ではね」

「何事も慣れ、ですかね」

「嫌だったよ。虫にも、戦争にも慣れてさ」

 殺生と虫食に慣れれば一端だった。

 アシリレラとの生活はエインにとって、はたまた世界にとって、戦後用無しとなったその力を押し込めておくには理想的な場所であった。

「良い世界に来られた、この世界がずっと続くなら……そう思ってたんだけどな……」

「エイン……」

 機関に裏切られたとは思わない。元より大して信頼など置いていたわけでもない。

 だが、まさか世界がこんな風に変わっていくだなんて、あの時のエインには想像することさえ出来なかった。

 それでも、まだこの世界に生きる理由を見出せる。それがある以上、エインは迷うことなく足を進められる。

「行こう、アシリレラ。カルモーは少し遠いから」

 テラコッタからカルモーへの道のりは平坦で、女性の足でも三日程で辿り着くことが出来る。それもテラコッタの南の森を迂回しての距離であるから、直線距離を行けば二日も掛からないだろう。

 空っぽになったマグを綺麗に拭き取って、火の処理をする。

 エインは立ち上がるとなにも言わず、アシリレラの手を取った。


 となると、まず決めなくてはならないのは、カルモーまでの道のりである。

 確かに直線距離を行けば目的地に着くのはぐっと早くなる。しかし迂闊に森に入ればそこはツヴァイの領域だ。一対一で対峙するならともかく、アシリレラを背にどこまでやれるか分からない。それにツヴァイの言っていた小隊の規模も不明だ。もしツヴァイ以外にも隠密に長けた敵がいたとしたら、それこそ自ら火に飛び込むようなものである。

 だがここで、正直に迂回路を行けば、遅かれ早かれ、合流したドライを同時に相手取ることになるだろう。

 ただ、ドライの現在地は分からないが、もしツヴァイと分かれて屋敷周辺の捜索を続けているのだとすれば合流するまでもう少しだけ時間があるだろう。それまでにどの程度先に進めるかは分からないが、少なくとも当面の安全は確保される可能性がある。これはあくまでエインの希望的観測だが、ツヴァイは、正面からの戦闘を行えるだけの戦力は保有していない。もしそれが出来るなら、ここで既に襲撃を受けているはずだからだ。

 留まれば袋小路。進むは虎穴。

 間もなく日が落ちる。そうなったらまず森は抜けられない。

 エインの思考は堂々巡りを繰り返した。

 だが今は行くしかない。ここにいては相手に時間を与えるだけだ。

「決めた」

 沈み掛けた太陽を見やる。木々の先に溶けた日差しが滲み出していた。

「森を抜けよう」

 ある種の賭けだった。

 いずれドライを含めての襲撃に合うのだ。目先の安全などというその場凌ぎでは、なんの慰めにもならない。それなら、いち早く森を抜けるか、ツヴァイの襲撃に備え、合流前に予め撃退しておく。そうすれば残るはドライのみだ。はっきり言ってしまうとドライでは脅威になり得ない程、エインとの能力に差があり過ぎる。ツヴァイはドライより腕が立つとはいえ、エインの前ではそう変わるものではない。

 だが相手が二人ではどうか。戦いと戦術のスペシャリストがいるのであれば、その戦力は何倍にも膨れ上がるだろう。

 とはいえ、少なからず不安は拭えない。不確定要素の多いこの判断が裏目に出るか否か。それはエインに掛かっているのだから。

「付いて行きます」

 けれど、躊躇しそうなその手を握る暖かさがあれば、エインは胸を張って進むことが出来る。共に行き、守ると決めたその暖かさと生き続けるために、収めた力を解き放ち振るうことに躊躇うことなどありはしないのだから。


 森はツヴァイのテリトリーだ。

 そして、沈み行く夕日がエインから明確な視界を隠してゆく。

 影が消え入る頃のことだった。

 これまでただ背中に張り付いていただけだった疎らな気配が、足並みを揃えて左右に展開した。

「走るよ」

 そよ風のような声が、エインの口から零れ出た。

 瞬間、エインとアシリレラは堰を切ったように駆け出した。

 瞬間的に五歩、十歩と飛べるエイン。対し、アシリレラの足がそれに追い付くことはない。生い茂った草花。伸び、鞭のように地を這う蔦。小枝に細い幹。森の悪路の中で、アシリレラは、走るも歩くも変わらないような速度でしか移動出来ずにいた。

「私に構わず、エイン!」

「そんなわけ……!」

 エインはアシリレラから離れることなく、その傍らを支えるように走る。

「奴らの狙いはアシリレラだ」

「けど、一緒にいてはエインが狙われます!」

「そのためにいるんだから」

 エインはアシリレラの背を庇うように立ち、腰の剣に手を添える。

「少しでも走って。すぐに追い付くから」

「駄目、一緒に……!」

「大丈夫。すぐ終わらせる」

 エインの視界の端で鋭い光が走った。

 剣を、斜めに打ち出す。金属音が弾ける。毛先程度の、糸のような針がきらめきながら地に落ちた。

「……吹き矢か」

 一度に放たれた矢は五本。どれも細く、それでいて折れることなく一直線に飛来した。

 普通ここまで質量を削ると、矢は空気抵抗に煽られ起動を逸らす。だがその様子はなかった。正確無比な射撃と言い、気配の消し方と言い、やはり使い手は相当の手練れだ。ツヴァイと小隊を組むだけはある。

 しかも、その気配は一つではない。

「一つ、二つ、三つ……四つ目はツヴァイかな」

 包囲する気配のうち、最も遠く、気配の薄い者がいる。恐らく、それがツヴァイだろう。

 他は兵隊か。機関の用いる兵力なら、クローンアーミーと見て間違いないだろう。

 どちらも直接的な戦闘であればエインの敵ではない。しかし気配も薄くされた上に、日の入り特有のこの視界だ。この状況では、接近戦に持ち込むのは容易ではない。森に入るリスクは承知の上であったが、少々骨が折れるかもしれない。

「とはいえ……」

 木を盾に身を隠せば良いものを。

 そんなクローンアーミーですら、慣れない地形にほんの一瞬、その尻尾を見せる。

「002!!」

「遅い」

 後方のクローンアーミーが叫ぶより速く、エインは、樹上の標的を射程の内に捉えた。

「ッ……!」

 瞬きが無慈悲に走る。飛び退く隙すらなく、クローンアーミーの身体を通過する。

 エインは直ちにその場から飛び降りた。続々と新たに放たれた吹き矢が、後塵を拝するように太い枝に突き刺さる。

 エインは着地するなり、吹き矢に撃たれた枝を見上げ、目を細めた。

 太く、生命力に溢れた枝が、みるみるうちに土色に扱け衰えていくのが目に映った。

「あの変色……毒か。それも生き物が腐る毒だ」

 まともに食らえば、エインでも無事では済まないだろう。

 吹き矢は一度に数本単位で飛んで来る。それらを全て捌きながら、一人ずつ、確実に仕留める。一人切り伏せたとはいえ、それが却って敵の警戒心を煽ってしまった可能性がある分、戦いはより困難を極めるものになることが予想された。

 彼らを少し侮っていたかもしれない。

 エインは木に背中を預けると一つ息を吐き、胸ポケットから一本の髪紐を取り出した。

 本部から召集が掛かった時、アシリレラがこっそり忍ばせてくれたお守りの髪紐だった。エインはそれで赤い襟足を束ね、一口に息を吐く。

「……よし」

 アシリレラの方を一瞥する。姿はない。エインがクローンアーミーに飛び掛った後、すぐにその場を離れたようだった。

 これでもう後には引けなくなったというわけだ。だがそんなことは承知の上だ。とにもかくにも、機関の追っ手から守るために、エインは必ずアシリレラに追い付かなくてはならない。

 相手は手練だ。多少の苦戦は必至。だがそのための命だと、とうに腹は決まっている。


 一方で、ツヴァイとクローンアーミーは攻め手に欠ける状況に焦れることなく、虎視眈々とエインの動きを伺っていた。

 敵に姿を捉えられれば、その時にはもう決着は付いている。残されたクローンアーミーは、合流した別働隊を含めて二人。ただでさえ隔絶された戦闘力があるというのに、戦闘特化の002を真っ先に失ってしまったのは誤算だ。

「ツヴァイ隊長、ターゲットが動きます」

「ああ、分かってる」

 少しずつだが、エインはアシリレラの逃げた先にその足を向けていた。

 させるわけにはいかなかった。

「行くぞ」

 合図に、二人のクローンアーミーが同時に返答する。

「後二時間と少し……。ドライが追い付くまで、エインをマルタイに近付けさせるな」

 先行して戦闘を仕掛けたのは、ドライの指示によるものだった。

 クローンアーミーと合流次第、奇襲を掛け、エインとアシリレラを分離させること。エインとアシリレラが森に入ったと入電があるなり、ドライは決行の時間とタイミングを直ちにツヴァイに告げた。

 森の中なら、エインは殿を務めると踏んだのだろう。大した慧眼だが、なぜ思ったのか、その根拠までは語られなかった。

「004は前衛。エインに真っ直ぐ突っ込め。プランB-2だ」


 エインの心臓が早鐘を鳴らす。

「……来るッ!」

 背後の茂みが鬱蒼と張り巡らせた鳴子を打ち鳴らす。

 エインは走る足を止め、振り返る。茂みが弾ける。今までとはまるで違うクローンアーミーの速攻がエインを襲った。

 先行の吹き矢が飛来する。エインは二振りで全てを弾き落す。糸のように細い吹き矢が宙を翻りはらはらと地に落ちた。

「大胆だ、なッ!」

 飛び出した勢いが消えない。クローンアーミーは鉄砲玉のようにエインに肉薄した。腰のククリナイフを振り上げ、エインの頭上に打ち下ろした。

 ナイフが振り下ろされるより早く、エインの剣閃が、クローンアーミーの脇を切り付けた。

 深く切り付けられた断面が吶喊の勢いで避けるように開く。クローンアーミーは直ちに痛覚を遮断した。ホムンクルスの身体には備わっていない機能だった。両手に持ち替え、ククリナイフが水平に降り抜かれる。その腕は振られる前に、エインに切り落とされていた。

 血潮が吹き荒れる。一瞬、エインの視界が血の噴水に覆われ前方を見失った。

「こいつ、わざと……!?」

 その血の幕の向こうから、別の影が飛び込んで来た。

「もらったぁ!!」

「ツヴァイか……!」

 咄嗟に剣を納め、飛び退く。だがツヴァイは更に踏み込んで、エインを猛追する。

 ツヴァイの武器である大柄なダブルブレードが、エインの鼻先を掠める。

 速い。いつもであればなんてことないツヴァイの一撃が、追撃が、クローンアーミーの太刀筋の直後もあって、圧倒的なスピードをエインに感じさせた。

 それだけではない。焦燥感。アシリレラを一人にしてしまっているこの状況が、エインの知らぬところでその精神を僅かに揺るがせている。

「逃がさねえぞ……! エイン、お前はもう!」

 エインは踵を地面に突き刺すようにして、後退するエネルギーを相殺させた。ほんの僅かに開いた間合いがエインに応戦の余地を与えた。

 正面からの戦いであれば、その場から動かなくとも充分対応出来る。ツヴァイとの能力の差はそれ程までに大きい。

 しかし、ツヴァイは冷静に、狡猾に、エインの視界から掻き消える。

「ッ……!」

 その予期せぬ動きに、一瞬だが、確かにストレスを感じさせられた。

 その精神の揺らぎが、急接近するクローンアーミーの動きを見落とさせた。

「ぐっ……!」

 両腕を失って尚、クローンアーミーは残された足をエインの腹部に捻じ込んで来た。

 だが、やはり力がない。常人ならそれだけで弾け飛ぶ程の衝撃がエインを襲う。だが両腕という重要なバランサーを失ったクローンアーミーの蹴込みでは、エインに決定的なダメージを与えられない。

「邪魔だ!!」

 エインの回し蹴りがクローンアーミーの側頭部を捉える。まるで抵抗すら感じさせることなく、クローンアーミーはそのまま吹き飛び、木々を薙ぎ倒し、地面に叩き付けられるとそのまま動かなくなった。

「隙ありぃ!!」

 背後からツヴァイが飛び掛る。蹴込みの衝撃の緩和。回し蹴りで崩れた体勢。不用意に上がった左足を地面に付ける暇などない。エインは不安定な体勢のままツヴァイの斬撃を剣で受け止めた。

 ダブルブレードは身体を軸にして回転するように振り回すことで、その重量を余すことなく相手にぶつける、両の柄に刃を持った大型の武器だ。対しエインの剣は、あくまで切ることに特化しており、受け流すことは出来ても、大きな衝撃を受け止めるような設計はなされていない。薄く、繊細な武器だ。そのような武器で、この重量を受ければどうなるか、それはエインが一番よく分かっているだろう。

 あまりの重量の一撃に、エインの剣は、白刃が欠け、今にも砕けそうな程たわみ、金属板をしならせたように反響していた。

「初めてだな」

 今にも弾け飛びそうな刃の向こうのツヴァイは、余裕そうに見えて、その額には汗が滲んでいた。

「お前に剣で防御させてやったぜ!」

 エインは鎬を強く押し付けるように、ツヴァイの圧を打ち払った。

「そんなこと……!」

 押し退けられたツヴァイはいなすように下がる。後ろ足で踏ん張ると、ダブルブレードをエイン目掛けて真っ直ぐ捻じり込む。

 だが、直線的な動きにエインは即座に反応した。

 僅かに傾げるだけの首の動き。その動きだけで、ツヴァイの打ち込みは大きく逸らされたかのように、エインの遥か後方へと流れて行く。

 ツヴァイの胸元が無防備に開く。ツヴァイのダブルブレードは未だエインの後方目掛けて突き伸ばされている。踏み込む。柄を握る手に余計な力感はない。逆袈裟に一閃――――いつもの斬影がエインの視線の先に過ぎる。

 ほんの数瞬だった。

 これまでのこと。屋敷で見てきたツヴァイとの記憶。それを、エインの理性が呼び起こし、振り抜く筈だった剣の始動を僅かに遅らせた。

「ッ……!」

 多くの敵対者を屠ってきたエインの剣に、初めて戸惑いが絡み付く。

 それは実時間にして刹那。数えることすら叶わない、凝縮された記憶が分厚いページの本のように、エインの刃を通さなかった。

「隊長!」

 その一瞬の隙を突いて、最後のクローンアーミーが奇襲を仕掛けた。

「ッ!」

 一歩に満たない距離から吹き矢が放たれる。

 エインの反応は早かった。そして速かった。

 放たれた矢が散弾のように襲い掛かる。飛び退く。剣を振るう。規則的に散る矢が一本、ツヴァイの腕に突き刺さる。ツヴァイの顔が歪む。それと同時にエインの剣が二本の矢を打ち払った。その剣閃を、残った矢がすり抜けて、エインの顔の横を通過した。

 避けたかに見えた矢の軌道に、僅かな傷みが走る。エインはクローンアーミーの方へ身体を投げ出した。懐まで飛び込んで、剣を振り上げる。断末魔と血飛沫が上がる。クローンアーミーはその場に崩れ、血溜まりの中で落ちた。

 一瞬の静寂が訪れる。

「……へへ……やっぱ、ダメかよ……」

 ツヴァイが血の抜けたような青白い顔で、血溜まりに沈んだクローンアーミーを一瞥する。

「マジで……多少知恵を絞って戦術……戦略……考えたってムダってことかよ……」

「観念……した……?」

 だが、どうやら顔の青白さは自分も同じらしかった。エインはふらつく視界に、自分も毒を受けたことを察していた。とはいえ、矢は頬を掠っただけだ。ツヴァイのようにまともに受けたわけではない。

「まさか……! 俺はこんなところで……こんな風に……くたばれや……しねえ……!」

 震える手で、ツヴァイが握り締めているのは、円筒状のガラス容器……注射器だ。

 ツヴァイはそれを自らやを受けた腕に、叩き付けるように突き刺した。

 内部に満たされた液体が、ゆっくりとツヴァイの体内に注入される。

 それを止めるべきだったのだろう。だがそうしている間にも、エインの視界は徐々に光を失いつつあった。頭痛が始まり、吐き気を催す不快感がエインを体内から浸蝕する。

「ううぅっ……!」

 足がくず折れた。喉元から口内に酸の異臭が押し込まれ、堪らず吐き下す。

「勝負あったな……! 俺の勝ちだ……!」

 ツヴァイの荒い息遣いが聞こえる。腕に打ち込んだ薬品は解毒薬だった。だがその顔色は青白い。どうやら処置をしても、直ちに万全に至るようなことはないらしい。

「お前は良い奴だったよ……。けどな、俺にだって、負けられない理由がある」

 聴覚さえ曖昧になり始めていた。何やら言葉が降り注いでいるが、ぼんやりと音が聞こえるのみでその輪郭ははっきりとしない。

「もう少し……もう少しでまた会える……ぜ……」

 思考が奪われる。意識レベルが急激に低下していくのが分かった。

 何も考えることさえ出来ないまま、やがてエインは意識を手放し、その場に倒れ伏した。

 月の端を、一枚の木の葉が横切って行く。


 森は深く、その深層はより暗く。夜の闇に失われていく視界が、一人逃げ惑う非力な少女の不安を一層増幅させる。

 差様らない足場。それでも一歩でも先へ、遠くへ。エインに与えられた時間を無駄にしないためにも、アシリレラは、歩くような速さで必死に走った。

 後方より轟く破壊音に追い立てられるうちに、辿り着いたのは、人為的に切り開いたかのような森の切れ目だった。

 そこには寂れた小さな社があった。朽ちた灯篭。崩れ落ちた鳥居。それら文明の痕跡に目をくれる余裕すらなかった。アシリレラは肩で息を切りながら、社の本殿を開け放ち、夜闇とも谷底とも取れぬ暗闇の中に転がり込んだ。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 本殿の扉は、もう一度開閉しようものならアシリレラでも引き剥がせてしまいそう程に風化していた。扉を立て掛けるように閉める。外界との接点が隠された本殿の隅で、アシリレラは風通しの良い内壁に背中を預けると腰が抜けるようにその場に崩れ落ちた。

「はっ……はっ……」

 エインが教えてくれたことを思い返す。

 始めは大きく息を吸って、お腹の底に溜め込み、少し息を止めてからゆっくりと吐き出す。

 ずっと弾んでいた息が、徐々に静寂を取り戻した。

「どうして……どうして、こんな……!」

 あまりに強い意思に支えられてここまで来られてしまったことに、アシリレラは思わず、言葉を叩き付けた。

 エインは、アシリレラを逃がすためにあそこに留まった。その意志に従ってここまで走り、辿り着いたこの場所で、走りながら有耶無耶になっていった自責の念が、今になって強く疼き出す。

 こうするしかなかったのだ。思い返す度、あの場で自分に出来ることなどなにもないと反芻する。それでも、エインを置いて逃げるくらいなら、自分もあの場に残り、せめて行く末を見守ることくらい出来たのではないかと思う。

 足手纏いになるかもしれない。それでも、エインを置いて逃げるよりよっぽどマシではないか。自分を責める痛みにいつまで耐えられるというのか。

 あの時だってそうだった。屋敷で引き離されそうになった自分を、機関に逆らってでも連れ出してくれたエインに背中を押されて走り出したのは紛れもない自分だ。

 押し寄せる不安と恐怖と、そして後悔に締め付けられるように、アシリレラは自然と膝を抱き寄せた。

 しんと静まり返った本殿の中に、ぽつんと置き去りにされた人形のようだった。

 アシリレラは頑なに動かず、膝に顔を埋めて、ただひたすらにエインを待った。

 エインはここが分かるだろうか。待ち合わせ場所など決めていない。ただ走れと押し出され、遮二無二走り、隠れられる場所を見つけて閉じ篭った。しかし不思議とそういった不安はあまり感じなかった。エインならここを見つけてくれる。この社ではない。例えどこにいようと、必ず、自分がいる場所まで掛け付けてくれる。だからここから動かない。エインなら必ず、追っ手を退けて、無事に。

 そう、ツヴァイを退ける……否、彼を『殺害』することで、アシリレラの危機を打ち払うことだろう。

「ツヴァイさん……」

 エインにとっては、なんてことないのかもしれない。

 見知った顔を切る。

 アシリレラには想像も付かない行為。

 それを、エインはやろうとしてるのだろう。それが守るということに直結するのであれば。

 考えたくもなかった。だからアシリレラは考えるのをやめた。それでも、独りでに涙が流れた。それが頬を擽るまで、アシリレラはその雫に気付くことはなかった。

 溢れるようにはらはらと流れ出る涙が、膝を濡らす。声を塞き止めるので精一杯だった。さめざめとした啜り泣きが、嫌なものを呼び寄せてしまわないようにするために。

「エイン、どうか無事でいて……。それだけで、それだけで良いから……」

 エイン、エイン、と、何度その名を口にしただろう。たった一つ望むその呪文の名を、この空けぬ夜の中で、アシリレラは必死に唱え続けた。

 汗が引いてゆく。

 慣れない旅。追われる立場という重荷と、追い詰められ、ひり付くような緊張感。初めて体内に取り込む野生的異物感。必死の逃走劇。

 アシリレラの体力はもうとっくに限界を越えていた。そんな中で、全身に纏わり付いた汗が乾き、体温が奪われることにより、急速に意識が薄れていくのを感じる。

 なんて緊張感のなさだろう。自分がそんな大物だと感じたことはないが、それでも生理現象だけは誤魔化せない。

 無意識だった。ふと静かになるのを感じて、一瞬だけ、自分に空腹感を訴えた瞬間に、アシリレラの意識はまどろみの中に垂直に落下していった。

 風の音だけが境内に流れる。一枚の木の葉が千切れ、夜空を舞いながら月に向かって流れて行った。


 日の出を待つことなく、ドライとamn003は森へと足を踏み入れていた。

 ツヴァイの局地戦での行軍にも長けた能力を持ってすれば、クローンアーミーを全て失っていても、味方と合流することは容易い。

「随分とやられたようですが……」

 一晩掛けて毒の中和を待ったツヴァイの顔は、酷くやつれていた。元来の猛禽や野獣のように鋭い眼光は鳴りを潜め、まるで寝床から這い出して来た病人のようだった。

「そりゃおめえ……高濃度のムラサキトリカブトだぜ……」

「無茶をしますね。あなたにだって、死ねない理由があるでしょうに」

 呆れたとばかりに嘆息する。ドライは、ツヴァイの身の上を多少なりとも聞かされていた。それだけに、彼が今ここで『生物らしく死ぬこと』がどういった結果を齎すのかも分かっている。

「良いんだよ……こうやって生きてんだから」

 太い幹に寄り掛かりながら笑うツヴァイの笑みは軽い。

 ともあれ、ドライは時間が惜しくもあった。

「毒ももう殆んど抜けたのでしょう? 歩けますね?」

「ああ……お前らに着いて行くくらいなら、なんともねえよ」

 ずりずりと背中を幹に擦り付けながら、ツヴァイは立ち上がった。

「さて、行くか……お嬢さんは向こうに走ってったぜ」


 笑い声も、人の願いも抜けることのなくなった本殿に通るも今や風だけだった。

 アシリレラははっと目覚めると、すぐに身体を起こし、自分の周囲を見渡した。

「眠ってしまったのですね……」

 目が覚めれば、傍らにはエインがいる。眠りから覚めた瞬間微かに抱いていた希望は、隙間風に連れ去られてしまった。

 変わりに本殿の裏手の空がうっすら白み始めているのが、壁の向こうに伺えた。

「…………エイン……」

 届かぬ声を零して、再び壁に背を預ける。

 今にも抜け落ちそうな床が、ぎしと一つ唸る。

 膝を抱えるように丸くなると、一層不安が増すような気がした。

「どうか無事でいて……。あなたさえ無事なら、私はなにもいらないから……どうか……」

 しかしいつまで待てどもエインの姿は見えなかった。

 自分から探しに行こうかとも思ったが、それが如何に危険であるかは昨日の時点で証明されている。

 朝が来る。エインは来ない。屋敷では、このくらいの時間に小鳥達が鳴き始める。あの子達は今どうしているだろう?

 日が高くなる。エインは来ない。少しずつ気温が高くなるのを感じる。アシリレラは昨日の夕方からなにも食べていないことを思い出した。だが今は空腹を感じる余裕すらない。

 太陽が昇り切る前のことだった。

 ふと本殿の外に気配を感じ、アシリレラは顔を上げた。

 エインだろうか? 感覚がそれを否定するのに時間は掛からなかった。

 規則的でゆっくりとした足並み。一つではない。複数だ。その中に一つ極めて不確かな歩調が混じっている。

 気配が鮮明な足音となって、アシリレラの耳に届いた。

 頭が真っ白になるとはこういうことなのだろう。

 真っ先に浮かんだことは、エインのこと。

「おや……」

 本殿の扉が開く。

「こちらにいらっしゃいましたか」

 アシリレラは本殿の片隅で蹲ったまま、顔を上げることすらなく、その声を聞かされる。

「探しましたよ。まったく、あなたがそんなお転婆だとは知りませんでした」

 返事など、向こうさえ期待していないだろう。礼も儀もなくただ膝に埋めた顔だけをゆっくり離して、何時間ぶりかすら分からない声を、泥のように吐き出した。

「エインは、どうしたのですか……?」

「死んだよ」

 そんな答えは聞いていない。

 真面目に答えて欲しかった。

「濃縮されたムラサキトリカブトの毒は少量でも死に至る猛毒だ。いくらエインだって……」

「ムラサキトリカブト……!? そんな物を、人間相手に使ったというのですか!?」

 それは、一滴を気化して散布するだけで、吸い込んだ周囲の生物を皆殺しにしてしまう通称『悪魔の血毒』本来数十メートル級の獣に使うような劇毒の名が挙がったことに、アシリレラは戦慄する。

「そうでもなけりゃ、あいつに毒なんて……」

「そんな! それじゃあ、エインは? エインはどうなったのですか!?」

「だから死んだんだよ! あいつは! 仕込み矢が掠っただけだが、それだけで充分だ!」

 食って掛かるように言い放って、相手がツヴァイだと初めて気付いた。

 毒の名こそ恐るべきものだ。だがそれよりも、彼がこうして生きて目の前にいることに、アシリレラは大きな絶望を感じていた。

「そんな……! それじゃあ、エインは……」

 それからのことは覚えていない。

 ただ三人に手を取られ、よたよたと本殿を出て日差しを浴びた辺りまでは覚えている。皮肉なくらい蒼く抜け切った空を恨めしく思ったのは、この時が初めてであった。

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