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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
7/16

六滴『帳の鉄格子』

「無用心だな。エインはどうした?」

 暗闇を挟み、相立つ。

 数歩近寄るツヴァイ。

「なるほど。この下か」

 開口部の手前に立ち、真下を見下ろした。

「うーわ、暗すぎだろ。エインの目じゃなんも見えねえんじゃねえの?」

「駄目です」

 アシリレラは威嚇するように、少しだけ声を荒げた。

 屋敷では思い付きもしないような行為だ。それを躊躇なく出来たのは、ほんの数瞬前の、今一度決意を新たに持ったことが大きい。

「それ以上近寄らないで下さい」

「おいおい、そりゃあんまりだ」

「どうしてここが分かったのですか?」

 ツヴァイは相変わらず軽薄そうに首を振った。アシリレラは、それを演技とは思わなかった。彼が悪人でないことは重々承知していたからだ。

「どうしてかって、そりゃあ俺が優秀だからだ」

「分かっています。私も、ツヴァイさんのことは信用していますから」

「え? マジ? アホな奴だとか思ってない?」

「それも含めてです」

「あ、そっすか……」

 アシリレラが抵抗したところで、ツヴァイに敵うことはない。どうにかして逃げようにも、背後は壁、エインが降りて行った開口部もツヴァイの足元にある。仮に逃げられたとしても、あっという間に追い付かれてしまうのが関の山だ。

 強く、賢く、振舞いは強かで狡猾。それがツヴァイというホムンクルスだ。

「まあなんだ。一応、バチバチの戦闘以外にも、潜入とか偵察とかも俺の仕事だからな。夜目も効くから、このくらいの地下室なんて昼間となんら変わらねえんだわ」

 獣らしい外見はその能力にも繋がっているということだ。

 しかし、手ぶらのまま屋敷から逃げ、最短で森を抜けたらまず向かう先が最寄の村という選択肢はあまりに安直だったのかもしれない。その上で逃げ場のない所で孤立するなど、エインが少し動揺していて、自身もまた自分のことで精一杯になっていたとはいえ、少々迂闊だったかもしれない。

「……で?」

「え?」

 話の流れを断ち切って、ツヴァイが唐突に投げ掛けた。

「どうすんの?」

「どう、とは……?」

 どう抵抗するか見たいとでも言うのだろうか。否、ツヴァイは快楽的なサディストとは違う。軽薄だが実直で情に厚いことはアシリレラもよく理解している。

「見ただろ? この村の様子をよ」

 その問い掛けは、至極単純なものだった。

「はい」

 当然だった。アシリレラはエインと共に村を見て回り、この世界が迎える終わりの一部を目の当たりにしたのだ。

 忘れるはずもない。忘れられるはずがなかった。世界が終わりを迎えるという意味を、今日のその時まで実感することなど出来ていなかったのだから。

「これが世界が終わりを迎えた姿って奴だ。分かるだろ? 人間が作った物は自然に還って、ぜーんぶが元の姿に戻っちまう。文明が発達する前の状態って奴にな」

 大手を広げて蒔くように言うツヴァイ。その表情はどこか暗い。闇の中、まるで全てを諦めたかのようにさえ見える、達観しているようだが、力の失せた、無気力な表情。

「小娘……いや、アシリレラさんよ」

 今までの軽薄な態度が、すっと引いてゆく。ツヴァイはアシリレラの目を射抜くように見つめ、問いただした。

「本当にこの世界で生きる気か? だーれもいねえ、なーんもねえ、なーんも起きねえ”ただあるだけ”のこの世界で、あんたはいつまで生きる? いつまで生きることが出来るんだ?」

 ツヴァイの問いに、アシリレラは、一瞬にしてエインの姿を思い浮かべた。

「私には生きる希望も、意味も、意志もあります」

「エインがいるからか?」

「はい」

 確信を突くツヴァイの問いにも、二つ返事で答えることが出来る。

 間違いのない答え。

 エインがいればなんだって出来る。どこへだって行ける。いつまでだって生きていられる。

 なぜならエインは今の自分の全てと言っても過言ではないから。エインがいるからこの世界ですら生きたいと思えた。信じているから、これからもどこまでだって行ける。一緒に歩いて行ける。

「じゃあよ、あんたはいつまで生きられるんだ?」

「どういう意味でしょう?」

 質問の意味が変わった。呆れたように溜息を吐くツヴァイに、アシリレラは問い返す。

「エインも俺と同じ、ホムンクルスだ」

 黙っていたわけではないのだろうが、それをエイン本人から直接聞かされてはいなかった。だがアシリレラは直感的に、エインが何者なのか察することが出来ていた。それが確信に変わっただけだ。他はなにもない。

「あんたが寿命を迎えた時、エインはその後どうするのかっつー話だ」

 アシリレラは、思わず息を呑んだ。

「それは……」

「俺らとあんたとじゃ寿命が違い過ぎんだよ。人間と違って老衰なんてもんはねえ。俺たちは老いとは無縁なんだ。そもそもホムンクルスの生成自体が、この計画に向けて開発された技術だ。寿命なんてあっちゃあお勤めにならねえ、ってな」

 寿命。

 アシリレラは未だ、自身の寿命など考えたこともなかった。世界樹の巫女としての役目から解放され、目の前の死から逃避したことで死という概念が自身の中から消え去ったような錯覚に陥っていた。

 そんなこと、絶対ありえないはずだと分かっていても。

 否、心のどこかで分かっていたのかもしれない。それとただ向き合いたくなかっただけか。

「考え直せ……なんて言わねえよ。けどな、よーく考えるこったな。このまま逃げ続けていれば、その先になにが待っているか……分かるだろ?」

 アシリレラはなにも言わない。言えなかった。

 その先は駄目だ。自分が一番よく理解していることだ。けれど、エインといる時間だけは、それさえも超越してくれるような、そんな時間だと思わせてくれるのだ。

「世界の終わり。破滅だよ。なんもかんもパー、ってな」

「……やめて下さい」

「言いたかねえが、これが現実だ。これ以上は言わねえよ。あんただって……」

「あなたには、世界を捨ててでも選びたいなにかはないんですか!?」

 聞きたくない。分かっているから。

 アシリレラは、遮るように叫んだ。

「……っせーな。んなもんはとっくに……!」

 言い切る前に、ツヴァイは大きく後方に跳んだ。

 爪先を掠めんばかりのところを銀閃が切り裂き、数瞬遅れて床が破砕し破片が天井に突き刺さる。

「ちょっと喋り過ぎたな」

「油断も隙もないね」

 床を切り裂いて飛び出したエインが、ツヴァイとアシリレラの間に割って入った。

 ツヴァイを射程圏内に捉えつつもエインの手は剣に添えられており、いつでも抜刀しツヴァイをその刃に掛ける用意がある。

「アシリレラ、大丈夫?

 視線でツヴァイを釘付けにしたまま、意識だけがアシリレラに向けられる。

 先程までのエインとは明らかに違う。そこには多くの死線を潜り抜けて来た、恐れを知らぬ剣士の姿があった。

「違います、エイン。ツヴァイさんは……!」

「いーって。……エイン、わりーけどお前とだけは戦いたかねえんだわ」

 そんなエインを前にツヴァイは武器に触れることすらせず、一歩、また一歩と、警戒態勢のまま後退りする。

「正直がっかりした。ツヴァイは味方だと思ったのにね」

「よく言うぜ。これが仕事だろ。俺達のな」

「逃がすと思う?」

 ツヴァイの任務は二人の捜索と監視だ。小隊の指示を無視した上に殉職など、命令違反の報いにしては少々重い。

「俺がこのまま逃げるだけと思ってんなら大間違いだぜ?」

「へえ、やる気なんだ」

「まさか! 俺なら気配を殺して隠れることも出来るってわけだ。追い掛けるも探すも自由だが、その隙に、指示一つで小隊を突入させることも出来る。分かるな?」

「卑怯者」

 この程度のはったりですら、ツヴァイの登場で一層神経質になっている今のエインには充分過ぎる効果を見せた。

「お前のそのデタラメな強さの方がよっぽど反則じゃねーか。とにかく、俺はここらでお暇させてもらうわ。お前も、自分の身の振り方をよーく考えな」

「は?」

「一人で生きるには、この世界は寂し過ぎるってんだよ」

「……そんなこと」

 構わない。エインにとって大切なのは、アシリレラと過ごす今と、次の瞬間瞬間を少しでも長く積み重ねることだ。短い啖呵がその意志をアシリレラに表明し、ツヴァイに突き付ける。

 だがエインの意志を受けて尚、ツヴァイは言葉を投げ掛けることを止めない。

「それに処置を受けずに世界の終わりを迎えた命がどうなるか、お前分かってんの?」

「知らない、そんなこと」

「まあそうだろうな。そいつは再配置された世界には行けねえんだ。だから終わり。意識だけあって、後は無限になんもない空間を漂うことになる」

 ツヴァイが突き付けているのは、紛れもない未来の話だ。エインが望んだ先にやがて訪れる、未来のない未来の話。

 それでも、エインは動じることなく、ツヴァイに突き刺した視線を逸らすことはなかった。

「世界種のお前は最後に”戻れば良い”だけかもしれねえが、そっから先どうなるかは分かんねえぞ。とにかく、そこんとこちゃんと考えろ」

 それだけ言い残すと、ツヴァイは後方の闇に消えて行った。

 残されたのは、エインと、アシリレラだけ。

 再び訪れた静寂に、二人の息遣いだけが響いていた。

 ツヴァイの気配も殺気も明確に消えたことを確信すると、エインは構えを解き、アシリレラの方を振り返る。

「アシリレラ……大丈夫?」

 見上げたままのアシリレラの目線に合わせ、そっと肩に触れた。

「はい……」

 追い詰められ、ここまでかと諦め掛けていたアシリレラは、すぐにエインと瞳を合わせたかった。

 エインの瞳を見ていると、どんな不安でもたちまち消えてなくなる。どんなことより、誰といるよりも心が安らぐ。

 だが今はエインの目を見ることが出来なかった。

「何かされなかった? 怪我は? 無理矢理連れて行かれそうになったり……」

 うろたえるエインの優しさが痛い。

「私は大丈夫です。大丈夫ですから……」

 エインに取られた手が引き寄せられ、立ち上がる。

 ふら付きそうになる足を支えながらも、エインには寄り掛からなかった。寄り掛かれるわけがない。アシリレラの耳に残ったツヴァイの言葉が、エインの胸元に置かれた手に力を込めさせる。

 今でこそ対立する立場にあるものの、ツヴァイは女子供を無理矢理連れて行ったりする不埒者ではない。エインもそれを理解しているからか、アシリレラの声一つで平静を取り戻した。

 静かに胸を撫で下ろすと、エインは意を決したように、アシリレラの目を真っ直ぐ見た。

「ここも見付かってしまったから、早く移動しないと」

「そう、ですね……」

 移動して、どこに行こう。

 誰もいない世界。なにも起こらない世界。そしてエインに待っているのは、自分がいなくなった後の、なにもない未来。

「それで、さ……」

 はっきりとした言い出しに対してエインの歯切れは悪かった。

 そんな不安を抱いたようなエインの迷いが、一瞬、アシリレラに掛かった雲に切れ間を作る。

「地下に保存されていた物が、いくつか見付かったんだ」

「本当ですか?」

 それが本当なら、喜ばしいことだ。が、エインのその煮え切らない表情が、上手いことばかりでなかったことを示唆している。

「塩漬けの野菜と干し肉がいくつか……それから果物もあったよ」

「そんなに沢山?」

「うん。まあ殆んど腐ったり、カビが生えたりして駄目になっていたけど……」

 村がここまで荒れ果てる程の月日が経っているのだ。食料が傷むのも致し方ないことだろう。となると大事なのは残りの、殆んどに含まれない物資についてだ。

「それで、その……無事だった物もあってね」

「そうなのですか?」

「けどそれが、その……」

 言いよどむ。

「エイン?」

 アシリレラが、その先を促す。例え言い出し辛いことがあろうと、受け入れる用意がアシリレラにはあった。

「……し、なんだ」

「え?」

「虫」

「むし?」

「そう……。虫」

 予想外の答えに、流石のアシリレラも一瞬怯み、

「むし……が、どうかしたのですか?」

 一応確認する。あまり想像を先走らせる気にはならない。

「塩漬けとか、干物とか……よりによって、樽に沢山」

 エインは見た物をありのまま、具体的な加工方法を交えて紹介する。

「あ、ああー……なるほどですね……」

 昆虫食はそれなりにメジャーな食品ではあるものの、人気があるとはお世辞にも言えない。その理由は察しえるところだろう。

 それが地下で大量に発見されたというのだ。確かに今の二人にとって簡単に手に入る食料は天恵とも言える。だがよりによって虫とは。栄養素も豊富とはいえ、よりによって虫とは。

「……ごめん」

 変に生まれた沈黙に耐えかねたエインは思わず謝罪していた。

「な、何でエインが謝るんですか?」

「だって、アシリレラ虫なんか食べたことないし……もっとまともな物を見付けられていれば……」

「そんなこと、なんでもありませんっ。私は大丈夫です。なんでも食べます!」

「え? 虫だよ?」

「うぅ……。い、いえっ。だってエインが見付けてくれたんですから、なんだって……食べます……!」

 砕けた床の下に梯子を伝って降り、現実を見る。

「…………」

「ア、アシリレラ……?」

「こ、こっちには干し肉がありますね……」

「傷んでるね」

「あ、あれは果物でしょうか……」

「カビだらけだよ、アシリレラ」

「…………」

「ほら、意外といけるから。み、見た目に慣れれば食べられるよ」

「だいじょぶ……たべれます……」

 生気のない瞳で、ぎっしりな樽を覗き込む。

「これはえびこれはかにこれはしゃここれは……」

「アシリレラ、無理しない方が……」

「大丈夫です! 怖くなんてないです!」

 勢い良く樽に突っ込まれた指先にちくりとした感触が走る。

「いなごぉ……」

 おずおずと引き抜かれた空の手を握り締めて、アシリレラは崩れ落ちた。

 その場に膝を付いて肩を震わせると、さめざめと泣き出してしまった。

「……アシリレラ、もう良いよ。よく頑張ったね」

 アシリレラはエインに「あまり虫は得意ではない」と言ったことがあったが、ここまで苦手だとは予想外だった。確かに屋敷で虫に触れるところを見たことがなかったが、なるほどこれなら納得であった。

「大丈夫、これは持ち出さない。二人で他の食料を探そう」

 エインの申し出に、アシリレラは首を振った。

「だめです、それじゃだめなんです……」

 この期に及んで食料にわがままなど言っていられるわけがなかった。

 アシリレラは自身の情けなさに嗚咽が走り、思わずエインの襟首に顔を埋める。

「ごめんなさいエイン……ごめんなさい……!」

 吐き出された物が、エインの胸に染み込んで来る。

「アシリレラ……」

 あまりに沢山の色をしたその雫は濁流のようで、エインに取り込まれゆく中で混ざり合って、より鮮明に濃度を増していった。

 だからだろう。ろうそくの火が消えたことすら忘れたように、軽くて重い、アシリレラの決壊した感情のため池を、空っぽになるまでエインはその場で受け止め続けた。


 深く被ったフードに当たる雨の音が、反響して、断続的に鼓膜を擽る。

「指令。amn001、帰等しました」

 これで、フードを被った人物が三人、一所に集まったということになる。

 薄暗い森の中、顔を隠し、円になって言葉を交わす一団は傍から見ると異様な集団に見えるだろう。だがこの世界では、そんな彼らを異常な集まりと見る者はいない。誰一人として。

「ご苦労様でした。……一人で帰還したところを見ると、やはり?」

「はい。本隊は既に本部を発ち、世界樹に向かっているもようです。現在地は不明」

「そうですか……」

 フードの中身が、少しだけ地面を傾ぎ見た。だがその顔はすぐに上がる。今は、下を見るだけの余裕などない。小隊の脳は自分だ。本隊への迅速なリカバリーを行えなければ、数百年に渡る計画も、人類、引いては世界の未来も水の泡となる。

「せめて一人、本隊に残しておくべきでした。アインス様もエインの動向には気を配っていたのですが……失策でしたね」

「アインス様が?」

「良いのです。001、あなたは目の前の仕事に集中を。世界の未来は我々の手に掛かっています」

「はっ」

 袖に中程まで隠れたドライの手が、もう一人のクローンアーミーを促すように振られた。

「して、ツヴァイの方は?」

「はっ。ツヴァイ隊長は現在、旧テラコッタ跡地に到着し、周辺の捜索を続けているもようです」

「そうですか」

 ドライは腕を組んで、一瞬思慮に入る。

 テラコッタまでは、歩き続ければ一晩と経たずに辿り着ける。旅に慣れていないアシリレラが一緒とはいえ、物資を補給して発つだけであればそう長く滞在することはないだろう。

「とはいえ、もう二日も経ちますからね……まだ見付からないというなら、これ以上テラコッタを捜索する意義は薄いでしょう」

 そもそもツヴァイの知覚がなんの痕跡も捉えないのであれば、二人がテラコッタに向かった可能性は極めて低いと考えて良いだろう。その時点で帰還すればこのような”手間”を掛ける必要などなかったのだ。

「いかが致しましょう、指令」

「ツヴァイ達に合流指示を。一度森の出口周辺を徹底的に洗い出します」

「指令、追伸です」

 003の遮るような一言が、ドライの身に緊張を走らせる。

「004より内通。ツヴァイ様が独断でマルタイに接触したもよう。戦闘行為は行われていないようですが、接触理由は不明です。現在は合流し、両者の追跡を続けているとのこと」

 二度目の失策だ。奴に隊の指揮を委ねたのがそもそもの間違いだったのだ。

 ドライは頭を抱え、深い溜息を吐く。頭が痛い。心なしか胃に刺されるような感覚が走る。

「あの阿呆……」

「指令、顔色が……」

 生物の脳筋より、画一的だがクローンアーミーの方が忠実で気が利くというものだ。こんなことなら始めから彼らをテラコッタに向かわせるべきだった。広域索敵だからと適役を送り込んだつもりだったが、どうやら適切な人選とは言えなかったようだ。

「全く……仮にも”原本”がこれではね」

 しかし、これでやるべきことは決まった。

「行きますよ。001、003。002と005へは、テラコッタに直行するよう伝えて下さい」

「はっ」

 一糸乱れぬ返答が届く。

 雨は降り止まず、三人の頭上を打ち続ける。森を抜けても、この澱色の雲は薄暗いまま彼らを包むだろう。そこは薄暗い森ではない。かつて森であった、倒木の絨毯に置き換わったただの荒野に成り果てていた。


 ひとしきり泣き果たしたアシリレラは、やがて涙も枯れたように大人しくなった。

 今までにない錯乱したようなアシリレラの様子にエインは困惑したが、彼女が強く抱いていたらしい罪悪感の正体を察すると、すぐにその肩を抱き寄せた。

「優しいね、アシリレラは」

 確かにエインとアシリレラの間には埋め切れない寿命の差がある。アシリレラが天命を全うしたとして数十余年の歳月が過ぎようとも、エインはアシリレラ亡き後の長い年月をたった一人で生き続けなくてはならない。

「分かってた筈なんです……私がエインを一人ぼっちにしてしまうかもしれないなんて……」

「良いんだよ」

 エインはそれを分かった上でアシリレラを連れて出奔したのだ。いずれ一人になろうとも、あそこでアシリレラと離別するよりずっと良い。

「アシリレラと引き離される方が、ずっと辛いから」

「でも、私はいずれいなくなります」

「その時は、笑ってお別れしよう」

 最期まで一緒にいられるなら、きっとそれだけで幸せなことだ。

 最期を見届けられるのが自分であるなら、それは誇らしいことだから。

「エイン……」

 それでも、エインはいつか一人になってしまうのだ。

 その後はどうする? アシリレラのいない世界でエインは……。

「一人になったら、そうだね……。ツヴァイでも連れて観光にでも出掛けようかな」

 はぐらかし、それでもと、前に進むためにエインはアシリレラの手を取る。

 エインがどう振舞おうと、それはアシリレラが抱いた気持ちを払拭したことにはならない。払拭する言葉も未来も、エインは持ち合わせていなかった。

「さあ、行こう。いつまでもここにはいられない」

 気付けばろうそくも消え、辺りは暗闇にどっぷりと漬かっていた。どれくらいここにいたのだろう。アシリレラの涙を抱き止めるのに必死だったエインは時間の感覚を失っていた。

 それでも来た道を辿れば良いことに変わりはない。僅かな記憶と足の感覚を頼りにエインはアシリレラを導くように、地下の暗闇の中少しずつ前進して行く。


 夕の空は世界がどんな姿に変わろうとやがて訪れる。

 琥珀を煮詰めたように濃厚な茜空からの射光が、地下から抜けた二人の頬を射す。

 暖かくてしなやかな光が、アシリレラの網膜に突き立つ。思わず手で遮ると、三歩先を行くエインの背中が、いつもより遠く見えた。

「宿の方は諦めよう」

 ツヴァイの追跡を受けた以上ドライに報告が行くのも時間の問題だ。そうなったら、嫌でも戦いになる。エイン一人ならどうとでもなるが、アシリレラを守り続ける以上戦いは極力避けなければならない。

「どこへ向かったら良いのでしょうか……」

 先の見えない旅は、アシリレラにとって、未来のない旅に変わっていた。

 いずれ終わりの訪れるアシリレラの旅と、終わりのない、永遠に続くエインの旅。道の先にあるのは別れと孤独。辿り着く場所がない旅だから、エインにとっての未来は、ない。

「当てのない旅行じゃ意味がないからね」

 肩に担いだ皮袋を背負いなおして、エインは沈み掛けの太陽の方を注視した。中身は、屋敷内で見付けた虫の干物だ。砕いて粉末にすれば、アシリレラでも飲みやすいスープに出来るだろう。そして幸運なことに、他にも毛布や布巾や食器など、多少汚れはあるものの、必要な雑貨も一通り揃えることが出来た。

「向こうが西ということは、南はこっちか」

 エインは視線を右に移動させた。

「南……ですか?」

 南といえば、世界樹とは反対方向になる。機関の目的からなるべく遠ざかり、少しでも危険を減らそうとしているのだろうか。

「石の街『カルモー』だよ。聞いたことない?」

 屋敷では外の世界とは無縁に近かったアシリレラには、あまり多くの知識はない。

「カルモーですか?」

 それでも、どことなく聞き覚えのある名前に、思わず街の名を復唱していた。

「聞き覚えはあります。確か、とても大きい街でしたね」

「そう。正解」

 エインは柔和に微笑むと、続けた。

「そこならきっと、ここより多くの食料が残されているかもしれない。何より雨風を防ぐための家がある」

 カルモーの家屋はその殆んどが石と切り出された岩盤で作られており、テラコッタの木造の住宅より遥かに高い耐久性を誇っている。風雨にも強く、意図して壊さない限り何千年も残り続けるだけの信頼性があるのだ。

「追っ手を撒いたら、しばらくはそこを拠点に、これから必要になる物を少しずつ用意していこう。食料のための畑に、衣類の確保。それと……」

 エインは一瞬言い淀むとアシリレラから目を離し、ばつが悪そうに鼻先をかいた。

「二人の家も作らないと、さ……」

 初めて見るエインの表情は、少しだけ、夕日に紛れた赤みを忍ばせて見えた。

 時が時なら、手持ち無沙汰から腰元に止まった手を取るだけの心持ちはあった。

 だがその時とはいつのことだろう。どんな状況であれば、はばかることなく、エインの手を取って歩けたのだろう。

「エイン……」

 アシリレラは考えて、少し戸惑って、夢想したその答えがエインの顔に書いてあることに気付いて、その無愛想な仮面から綻び出たエインなりの言葉に優しく導かれて、そっと、その手を握った。

「エインはずるいです」

 取り返しの付かないことをしてしまった。

 エインを止められるのは自分だけ。ずっとそう思っていた。けれどそれは間違いであると、今になって気付かされる。

「もう、止まらないから」

 そう。真っ直ぐ見つめ返すその眼差し。杭のように心に突き刺さす眼差しが、意志の強さをありありと伝えて来る。

「長い寿命の中では、短い時間かもしれない。けど、この旅は絶対に終わらせない。アシリレラと、アシリレラといる自分のために」

 アシリレラの心を突き刺したその杭は、これからも、アシリレラの人生を蝕み続けるだろう。まるで呪いのように。

 その呪いは死ぬまで続く、とても強い呪いだ。呪いはアシリレラの魂に鎖を掛け、幸福の折に永遠に閉じ込める。そして、鍵のないその檻から抜け出す者はいない。

 あなたの見つめるその檻こそが、足枷の自分に与えられるにはあまりに大きな愛情だと知っていたから。

登場人物紹介

『ツヴァイ』

 戦闘用ホムンクルスとして大戦時に生み出された存在。

 逆立った髪に鋭い犬歯、頑丈な四肢と引き締まった体格は野獣的であり、戦い方も激情的でありながら狡猾なまさに狩人のそれである。

 ダブルブレードを得物としており、時には奇襲、時には白兵戦と、状況に合わせて使い方を変えるなど器用な一面もある。

 また気配の扱いにも長けており、その特性上潜入工作なども行う。そのため有事に備えてた訓練も受けており、尋問の毒に耐えうるだけの非常に高い耐性力も併せ持つ。

 エイン同様外部から世界再配置委員会に登用されたホムンクルスであり、機関の目的とは違った本意を持って計画に臨む。

 好戦的な性格だが人格的には常識人の域を出ておらず、無愛想なドライやエインの間に立ったり、引いては奔放さの目立つ機関のメンバーを諌めることもあるなど、数少ない、この世界に残された人間らしさの最後の残り香とも言える。

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