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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
6/16

五滴『暗き進路に足音響かせて』

 夜目の効くツヴァイの能力を持ってしても、森に逃げ込んだエインとアシリレラの姿を捉えることは出来なかった。

 すぐに追跡を再開すべきだ。しかしドライに刻まれた傷のダメージは予想以上に大きく、部隊としての行動は大幅に制限されることとなった。動けるツヴァイがクローンアーミーを率いて夜通し森を捜索したものの、エインとアシリレラの足取りを掴むことは出来ず、いつしか朝を迎える結果となった。

 キャンプは森の片隅の切り立った崖の麓に張られていた。屋敷から一里ほど離れた拠点には三つのテントが並んでおり、そのうちの一つに、ドライとツヴァイ、そして三人のクローンアーミーが集結し、卓を囲んでいる。

「事は急を要します。直ちにアシリレラ様の奪還に向かいます」

 黒いコートを無造作に脱ぎ捨てたドライの腰に巻き付けらた包帯に滲んだ血が、戦いの痕を思わせる。一見痩身のドライだがその肉体は硬く柔軟な筋肉に覆われている。ドライは元来指揮者として誕生したホムンクルスだが、前線での戦果はツヴァイにも遅れを取ることはない。

 今回屋敷に同行させたクローンアーミーの人数は五人。うち二人は既に別働隊として行動しており、現在手元で扱えるのは、索敵能力の低いamn002とamn003、そして004。全て戦闘用のクローンアーミーだ。クローンアーミー隊の司令塔であるamn001は、昨夜のうちに伝令として本部へ向かわせており、索敵能力の高さから遠方監視役として待機させていたamn005にはツヴァイをキャンプに帰還させた後も、引き続きエインとアシリレラの捜索に当たらせている。しかし未だ連絡のないところを見ると、どうも成果は芳しくないらしい。

「けどよ、この森を闇雲に探したってまず見つからねえぞ」

 ツヴァイに諭され、ドライは自らの勇み足を自覚する。しかしここで手をこまねいているわけにはいかない。これ以上時間を掛け、あまり遠くに行かれてしまうと追跡は一層困難になる。

「指令、進路予測です」

 卓上に、amn002が屋敷を中心とした広域地図を広げた。周囲の施設、地形を指差し、一つずつ現状と照らし合わせる。

「ここから最も近い森の出口は北西ですが、その先は背の高い草原と、遮蔽物の多い高原、それから古代遺跡の塔があるのみです」

「隠れるには絶好の場所ですね」

「しかし、そこを抜けると本部へと辿り着くことになります」

「わざわざ近付く意味はねえな」

「反対に、東に進路を取った場合、丘陵地帯の先にテラコッタの跡地があります」

「廃墟化した街に行くメリットがあるとすれば、逃亡に必要な物資の補給といったところですか。テラコッタの状況は?」

「はい。住民の処置を終えたのが約七十年前。ですので、現在は風化し始めの生活雑貨と僅かな保存食がある可能性がありますが、マルタイがその情報を持っているかは不明です」

「エインがいるなら街の場所は把握してんじゃねえか?」

「恐らくは。……ではツヴァイ、あなたにはテラコッタ周辺の捜索をお願いします」

「あいよ。二人を見つけたら、どうすりゃいい?」

「amn004はツヴァイに随伴して下さい。002は005に合流後、同行して索敵を。003は私に続いて頂きます」

「了解」

「なあ、見つけたらどうすんだよ」

「うるさいですよツヴァイ。002はもし二人を発見した場合手出しせず、私に連絡後、距離を取って監視を続けて下さい」

「了解」

「では行動を開始して下さい」

 指示を受け、amn002はテントを出て行く。

「なあドライ、どうすんだって」

「喧しいですねツヴァイ。あなたは子供ですか」

「指示してくれりゃすぐに動けんだろーが!」

「監視ですよ。決まっているでしょう。あなたが二人を説得したり、力ずくで連れて来ることが出来るのですか?」

「ムリだな」

「……随分と潔良い返事ですね」

「見てりゃ分かるだろ。……エインは『特別』だからな」

「そうでしたね」

 戦闘用として生み出されたツヴァイは、戦いに於けるプライドは人一倍強い。

 そのツヴァイが手放しに白旗を揚げる相手、それがエインだ。

「相手は一人と言えど『世界種』です。行動には最大限の慎重さを持って頂きたい。良いですね?」

 ドライの指示に、静寂の中、全員の首が縦に動く。その口から発せられた『世界種』の意味を、その場の誰もが理解していたからだ。当然、それは先に出発したamn002も同様である。

「行きましょう」

 ドライに続き、小隊はテントの口を潜ると、深く生い茂った森の捜索に戻っていった。


 開けた丘陵地帯を歩く上で注意すべきことは、やはり追跡者からの目だ。

 見通しが良い土地ではこちらの視界も開けている分、機関の目もまた、開けた視界の中でこちらを探すことが出来る。

 森では控えめだった風が、ここでは吹き抜けるように丘々の表面を撫でる。背の低い雑草は大きく揺らぐことなく、二人の歩調に合わせ、くしゃりと静かに鳴く。

「日が沈んで来たね」

 エインはいつも、アシリレラの前を歩く。だからアシリレラはエインの声を背中越しに聞いていた。

 半分だけ振り返った顔は、いつも表情の変化に乏しい。

 だが屋敷で二人の時に見せる顔と他の人がいる時に見せる顔は、アシリレラからすると、明確に違う。アシリレラは、そんなそこはかとないエインの変化を見る度、少しだけ得をしたような気分になる。同時に、二人の間に内包された世界をじっくりと感じることも出来た。それは紛れもない、代え難い幸せな時間だった。

 二歩前を歩くエインの背中を見つめる。

 青灰色の短い髪が真っ赤な夕日に透けて、糸のように風に靡いていた。裾の赤だけが、射すような茜に同化して、まるで絹のように白く風の中を泳ぐ。

 美しい光景だった。

 アシリレラにとってエインは確かに美を強く感じさせる存在だったが、前を歩くエインの姿に煌くそれは、屋敷で見る暖かさ以外に、鋼の刃のような気高さを感じさせた。

「エイン、疲れてませんか?」

 森を抜けてから、歩き続けて既に半日。

 長距離移動に不慣れなアシリレラの疲れは既にピークに達していた。

 エインがそれに気付いていないはずはない。やはり遮蔽物のない丘陵地帯での休息は避けたいのだろう。だが日が落ちた今であれば、追跡者の目も多少はやりすごせるかもしれない。

「大丈夫だよ」

 強がりなどではない。その気になれば、三日間休まず行軍することさえエインにとっては容易いことだ。

「アシリレラこそ、もう疲れたんじゃない?」

 立ち止まり、振り向くエイン。アシリレラは釣られて足を止めたが、その額にエインの手が押し当てられると、どういうわけか身体ごと硬直してしまう。

「……うん、よく頑張ったね」

アシリレラの目の前で、夕焼けの影の落ちたエインの表情が綻ぶ。彫りの深い顔立ちに、くっきりとした陰影が浮かんでいた。

「む……」

 大事に扱われるのは嫌ではない。むしろエインの見せるその優しさは、アシリレラにとって癒しだった。

 だが自分の歩調に合わせて欲しくないとは思っていた。出掛けた言葉が頬に留まり、一瞬不服そうに膨らんだ。

「大丈夫です。村まで後少しなのでしょう? 今日中に着けるように、ほらっ」

 アシリレラは困惑するエインの肩を掴んで、ぐいぐいと前を向かせた。

「でももう結構歩いたし、今日はこの辺りで……」

「私は大丈夫ですからっ」

 空元気でエインの背中を押す。

 この道が平坦でないことが分かっているからこそ、引き摺って歩ける枷は少しでも重く、歩く足は少しでも強く。せめて歩くことだけでも、エインに付いて行けなくてはならない。

「そ、そう……?」

「心配しないで、エイン。エインが思っているより、私は強いですよ」

 押し出した背中を追い掛けるように、アシリレラは呟いた。

「……強く、なりますから」


 体力は気力でカバーできる。だが足に走る痛みだけは誤魔化し切れそうになかった。

「いたっ……」

 月がすっかり昇り、青い光が一面を暖める頃、アシリレラは、突然右足を押さえくず折れた。

「アシリレラ!」

 すぐに異変に気付いたエインが駆け寄り、アシリレラのブーツを脱がせて白い足を取った。

「やっぱり……」

 慣れない過負荷に、アシリレラの足は酷い靴擦れを起こしていた。

「無理してた」

 歯痒い。

 エインに続いて歩くことすらままならない自分の情けなさに、アシリレラは歯を噛んだ。

「ごめんなさい……」

 もしあの時エインに従って休んでいれば、怪我などせずに済んだのだろう。けれどそれを受け入れなかったのは自分のわがままだ。

 自愛に気を向ければ足を引っ張り、無理をすれば、やはりこうして足を引っ張る。

「見せてごらん」

 だがエインは、咎めることもなく、自らの裾を少し破って傷口に巻いた。

「とりあえず、これで痛くはないかな」

 迷惑を掛けたのは自分なのに、エインは穏やかな所作で包んでくれる。その優しさがアシリレラの傷に染み込む。

「ごめんなさい……」

「そればっかりだね」

「ごめんなさい……」

 何に対して繰り返し謝っているのか自分でも分からなくなりそうだった。

 罪悪感よりも、エインに支えられていることに強い負い目を感じる自分も、何だか嫌だった。

「エイン、私……」

 言い訳をしようとはしなかった。何を言い出すのか分からなかったが、その先は、エインがそっと止めてくれた。

「なにも言わないで」

 エインの手が頭の上を通り過ぎて行く。そしてまた戻って来て、何回か繰り返して、アシリレラの中に甘い幸福感を植え付けてゆく。

「ありがとう」

「え?」

 エインの言葉が、弱ったアシリレラに一抹の冷静さを取り戻させた。

「頑張ってくれたんだよね。自分で、自分の足でもっと歩かなくちゃ、って」

「あ……」

 エインの瞳がアシリレラの心の中をいとも容易く見透かし、しっかりと捕らえていた。

「自分が連れ出しておいて言うのもなんだけど、いつかは言わなくちゃいけなくなるかもしれない、って思ってたから……。きっと、楽な旅にはならないから」

「エイン……」

 エインはまだどこか迷っているのかもしれない。

 気持ちは通じた。だがエインの言う通り、これは楽な道のりではないのだ。どこに続いているのかも分からない、終わりがどこかも分からない、そんな旅だ。

 アシリレラは、ただの女の子だ。だからこそただの女の子として生きるための道を探さなくてはならない。そのために長いか険しいかさえ分からない旅に連れ出し、困難を与えた自分に、エインはまだ躊躇いがあるのだ。

「楽しいですよ」

「え?」

 だからこそ、エインはアシリレラの言葉一つで、その迷いから脱却出来るとも言えた。

「エインとこうやって、沢山歩いて笑って、見たことのない物を見られるかもしれない……そんな旅です。きっと、今まで生きて来て一番楽しい思い出になる気がします」

 エインが自分の行いに抱えた想いがあるのなら、そんな素直な気持ちがきっと一番通じる。

「そんな旅だから、少しでもエインに歩幅を合わせたくて、ちょっと無理しちゃいました」

「うん」

 お互い同じ道を歩く気持ちを持っていたことが分かった。エインにとってはそれがなによりも嬉しかった。もし独り善がりと独占欲染みた凶行に走ったのだとすれば、さぞ滑稽な自分が映っていたことだろう。

「やっぱりエインは凄いです。こんな距離、私一人じゃとても歩けません」

「一人じゃない。これからは、一緒だから」

「ずっと……ですか?」

「そうだよ。ずっと一緒」

 迷いない瞳でそう答えたエインは、アシリレラの腕の下に手を回した。

「ひゃっ」

 視界が一気に打ち上がって、見たことがないくらい高い景色が見えた。

「テラコッタまではまだ少しある。もう休もう。場所を探さないと」

「あ、あのっ」

「なに?」

 アシリレラはぶらついた手足の行く先に戸惑いながら、エインの腕の中で抗議する。

「だ、大丈夫ですから! 歩けます! お、降ろして下さい……!」

 いわゆるお姫様抱っこというものだった。

「駄目。悪化したら大変だから」

「は、恥ずかしい……ですから……」

「誰も見てないよ」

「そ、それはそうですけど……」

 しかし誰かの腕に抱かれている状況というのは、理屈はどうあれ恥ずかしいものだ。

 相手がエインだから余計にそう感じるというのもある……かもしれない。

「あそこの茂みまで行くからね」

「は、はい……」

 アシリレラは、いつもより少し強引なエインに流されるまま、今宵の寝床までエスコートされた。真っ赤な顔を伏せたつもりが、エインの胸元に鼻先が埋まる。そんなことにも気付けないくらい余裕はなかった。ただ宵闇の中揺り篭に揺られるように、エインの腕の中は温かかった。

 茂みの縁にエインは腰を下ろした。だが、どうしたことか、アシリレラを降ろすことはなかった。

「エイン? 降ろして? このままでは眠れないでしょう?」

「茂み、予想以上に狭くて……。二人一緒には入れそうにないから」

「そうですね……なら、また場所を移さないと」

「ここでいい」

「え?」

 エインの膝の上で、アシリレラはぽかんと表情を固め、じっと見下ろして来る眼を見入る。

「座ったまま眠るなんて、ちょっと久しぶりだけど……」

「エ、エイン……?」

 膝を抱えた腕から、徐々に力が抜けてゆく。アシリレラの足が解放され、地面に伸びる。

「アシリレラ」

「はい」

 膝から抜けた腕が、アシリレラの身体に巻き付いた。

 よほど疲れが溜まっていたのだろう。よく見るとエインはうつらうつらと船を漕ぎ始めていた。無理もない。ここまでの道中、色々なことがあり過ぎた。

「……おやすみ」

「はい。おやすみなさい」

 ぬいぐるみをまるまると抱くように、エインは顔をアシリレラの亜麻色の髪に埋めると、一度深く息を吸い込み、そのままゆっくりと寝息を立て始めた。

 途端に静まり返る夜空の下。

 虫の声も、小動物が動く音も聞こえない。世界の一切が異様な静寂の中、耳元にたった一つの鼓動が息衝いている。

 それは、アシリレラにとっての幸せの音。

 この音さえ聞こえるのなら、なにがあっても不安になんてならない。乗り越えて行ける。自分を抱くこの腕がある限り、生きて行ける。いつまでも、生きて、生きて、そして……。

「テラコッタに着いたら、何をしよう……かな……」

 エインの吐息に耳を立てていたアシリレラの現実も、やがて虚ろに溶け始める。もやの中にいるような意識の中に、テラコッタでの茫漠としたいつかの風景が浮かび上がる。

 まず、二人の家を探そう。リビングがあって、大きな暖炉も欲しい。

 それから畑を耕して、野菜を育てて、お花も植えたい。

 落ち着いたら、お庭を綺麗にして、部屋を飾り立てて。暖炉の上には、綺麗なキャンドルを立てよう。お庭で採れた花を使った、落ち着いた香りのするキャンドルが好き。

 お料理は、自分がしたい。帰って来たエインが喜ぶ物を、いつも作って待っていたい。

 晴れた日は洗濯物を干して、太陽が沈むまで、エインと一緒にお庭を綺麗にしたり、編み物をしたり。

 でもたまには、エインの手料理も食べたい。屋敷でたまに作ってくれることもあった。どこか大味で雑身も多いけど、いくらでも食べられそうな、そんな味だった。

 そういえば、エインは普段何をするんだろう? 屋敷にいる時からあまりしたいことはないように言っていたけれど、もし、二人で住んだら、エインの見られなかった顔が見られるかもしれない。

 それは、凄く楽しみだ。きっと楽しい、いつまでも続く日常が始まって、そして……。

 行き着く思考に追い付くように、夢のまどろみがアシリレラを包んだ。

 身体を抱く暖かな腕にそっと手を添えながら、アシリレラはエインと同じ夢の中へと溶け合っていった。


 世界の終わりに歩き出す世であっても、新しい朝は来る。

 二人の寝顔を見守るものもその朝日だけ。小鳥の鳴き声も虫のさえずりも届かない、たった二人の隠れ家で動き出す最後の人影があった。

「ん……」

「おはよう、アシリレラ」

「エイン……おはようございます……」

 昨夜と変わらぬ格好のエインが、アシリレラの真後ろから声を掛けた。

 ぼんやりとしたままの思考が、まどろみから意識を放そうとしない。目を二、三擦ると、その手をエインがやんわりと取った。

「擦っちゃ駄目だよ。傷が付く」

 その通りなのだが、開き切らない瞼をこじ開けるために顔を洗おうにも、ここには屋敷と違って洗面台もない。

「でも、眠くて……目が開きません……」

「じゃあ目が覚めるまで、少し待つよ」

「はい……あっ」

 少しだけ戻りつつある意識の中、アシリレラは、自分が今エインの腕の中にいることを思い出した。

 身体はエインの膝の上。しかもエインは正座を崩していない。夕べから微動だにしないままなのではないか。

「エイン、ごめんなさい! 私気付かなくって……」

「アシリレラ?」

 急いで立ち上がると、しつこかった眠気もすぐさま吹き飛んでしまった。

「もしかして、一晩中その体勢だったのですか?」

「そうだよ」

「そんな……! いけません、すぐに横になって下さい!」

「大丈夫だよ」

「駄目です!」

 言うなりアシリレラはエインの肩を掴んで押し倒した。

「うわっ」

 エインも少しは抵抗しようとした。だが下半身にまるで力が入らず、簡単に仰向けに倒されてしまった。

 快活さはあれど、アシリレラは非力な女の子だ。そのアシリレラに容易くひっくり返された事実にエインは戸惑いながらも、両足に走るくすぐったいような痛みに感服して、自身を覗き込む抜けるように青い空と、アシリレラの少し怒ったような顔を見上げながら、心地良い脱力感を体いっぱいに吸い込む。

「ちょ、ちょっと痺れた……かな……」

 のしかかりながら、エインがすぐに大人しくなるのがなんだかおかしくて、アシリレラは笑いをこみ上げさせた。

「ふふっ」

「わ、笑うことないと思うけど……!」

「あははははっ、ごめんなさい。こんな弱々しいエイン、初めて見ました。あはははっ」

 むっとしたが、あまり悪い気はしなかった。自分の表情でアシリレラが笑っているなら、それで良い。楽しそうに笑うアシリレラの頬を指で摘み、ふにふにと揉み解す。

「もう笑うの禁止」

「ふゅぅ……うふふっ、エインも恥ずかしがったりするんですね……あふぁあああ!?」


 エインの足の痺れがすっかり抜けると、二人は茂みをそっと抜け出した。

 エインが顔を出し、危険がないことを確認すると、アシリレラの手を引いて、また丘陵地帯を歩き出した。

 テラコッタまではそこから歩き続けて数時間。障害の一つも起こることなく、太陽が頂点に達するまでに辿り着けた。

 テラコッタは大きな製材所があることで発展した村で、特産品はないが都市間を繋ぐ位置にあるため、旅人や商隊が立ち寄る宿場としても栄えた長閑な村だ。エインも過去に立ち寄ったことがある。その時飲んだキノコのスープが美味しくて記憶に残っていると、アシリレラは何度か聞かされていた。

 しかし『それ』を前にした時、アシリレラは、改めて現実を直視することになる。

「ここが……テラコッタ……?」

 草木と区別の付かなくなったその姿を見て、立ち尽くす。

「ずいぶんと変わってしまったみたいだ」

 二人を出迎えたのは、村をぐるりと囲う柵だった物と、天井が崩れ、入ることすら困難な廃墟と化した家々だった。

「行こう」

 それは、村の亡骸だった。

 人がいなくなってしばらく経つのだろう。今や家と識別できる物すら殆ど残っていなかった。直立する板が時折散見される。それこそ、かつて人の生活の拠点としてそこにあった、家と呼ばれていた物である。

 エインの記憶では大きな畑もいくつかあったように思う。だがあるのは均等に生え茂った雑草と落ち葉、そして、砕けた壷やガラス瓶の破片だけ。

「参った。これじゃあ流石に食料も残ってないね……」

 小一時間あまり歩き回るも、遺留品はおろか、村の境界すら越えていることにも気付けなかった。

 当然、今エインがいる足元にかつて畑があったことなど、誰も知りうる由もない。

「アシリレラ?」

 歩き回る間、アシリレラは一言も言葉を発しなかった。

 ただエインに淡々と続いてはいるものの、今朝のような笑顔もなければ気配すらどこか希薄に感じられる。

「大丈夫? 足、まだ痛い?」

 エインはそっとアシリレラに歩み寄った。

「いいえ……ありがとう、大丈夫です……」

 村の跡を見つめるその瞳に、いつもの活力は宿っていなかった。

「エイン」

「なに?」

 アシリレラは朽ちたテラコッタを見つめながら、ぽつぽつと言葉を零した。

「他の村や街も、このようになっているのでしょうか……?」

 エインが自分とアシリレラの温度差に気付くのに時間は掛からなかった。少なくとも、エインとは違い、アシリレラはテラコッタに何かを期待していた。淡い希望を持っていたからこそ、そこに襲い掛かった現実の重みも大きい。

「いや、ここは木材が建物の材料になっているから……きっと早くに風化してしまったんだと思う」

 分かるものか。エインはなけなしの希望的観測を、辛うじて搾り出す。

「石造りの大きな街なら、きっと物も残っているはずだよ」

 確かに、石材を用いた建造物であれば、木造の物より長く風雨にも耐えられるかもしれない。尤も、物資が健在であるという保障はどこにもないが。

「そう、ですか……」

 せめてテラコッタに村の営みの形跡が僅かでも残されていれば、アシリレラもここまで唖然と立ち尽くすことはなかったかもしれない。

「……そうだ、地下」

「え?」

 思い付いたように口走るエインに、アシリレラは小首を傾げた。

「地下になら、貯蔵された食料がまだ残されているかもしれない」

 アシリレラの手を取り、エインはそれを引き寄せた。

「行こう。宿か村長の屋敷か……きっとそこなら、地下室があるかもしれない」

「エイン……」

 希望を持ち続けているのは、アシリレラではなく、エインの方なのかもしれない。

「はい、行きましょう!」

 引かれる手に導かれるまま、アシリレラはテラコッタの中を走り出した。向かうべき場所……屋敷の場所など分かるはずもないまま、ただただエインの道に同調するように、自身の向かう先を決め出していた。


 かつてテラコッタを統べた屋敷も今や瓦礫が飛散するのみとなっていた。

 ここもやはり、屋敷の跡地というより、庭園に突き立った木造のアートの群生に近い。

 辛うじて残されているのは屋敷の大黒柱と、比較的厚みのある壁のみ。だがそれさえ殆どが消失してしまっており、屋敷の形跡が跡形もなくなるのも最早時間の問題だろう。

「足元、気を付けて」

「はい」

 大昔訪れたとはいえ、エインにはテラコッタに対する思い入れはない。ただ長閑で料理が美味しかっただけの村だ。それでも人々の営みの跡を足で踏み抜くのは少し気が引けた。一面植物が生い茂って見えるが、崩れた建材はまだそこら中に散らばっている。

 遠目に見るより足場は悪い。

「靴擦れはもう大丈夫? 痛いなら、アシリレラはここに座ってて」

「もう大丈夫です。エインがきちんと処置をしてくれたお陰です」

 アシリレラの自然な微笑みにエインは安堵した。今度は無理をしている様子ではない。

「それじゃあ、二手に別れて探そう。アシリレラはこの辺りを」

「はい。地下の入り口を見付けたら、声を掛けますね」

 エインは小さく頷くと、アシリレラから少し離れた場所で探索を再開した。

 敷地からして、そこそこ大きな屋敷であることが伺えた。テラコッタという村の規模を考えると本来もう二周りほど小さいくらいが標準的な規格になる。

 しかしそれは却って好都合だ。屋敷が大きければ大きいほど、部屋の数も比例して多くなる。木造の屋敷なら縦に大きくするのは限界がある。となると、地下室を設ける可能性も必然的に上がるというわけだ。

 黙々と敷地内をかき回す二人。

 これまで身体を使った労働などあまりしてこなかったアシリレラは、自分と同じくらいの大きさの木の板をひっくり返す度、妙な楽しさを覚えつつあった。

 まるでやんちゃな子供のように、持ち上げては投げ、持ち上げては投げを繰り返す。

「……あら?」

 すると突然、目の前の地面が大きく剥がれた。草の絨毯ではなく、ぽっかりと開いた穴と、その先に続く階段が現れたのだ。

「エイン!」

 慌ててエインを呼ぶ。エインは即座に反応し、アシリレラの元に駆け付けた。

「見付けた?」

「はい! たぶんこの先が地下室じゃないでしょうか!」

 興奮気味にまくし立てるアシリレラ。

「そうみたいだね。じゃあ早速……」

 行こうと声を掛けようとして、エインの言葉が止まった。

「はいはい。ありがとう、アシリレラ」

 破顔して、アシリレラの髪に手のひらを沿わせる。

 満足げそうに笑うアシリレラの擽ったげな顔を見ると、エインはもういっそ、保存食など手に入らなくてもいいのではないかという気にさえなる。

「さあ、中は暗いから気を付けてね。躓いて転んで、怪我でもしたら……」

「大丈夫です! さあ行きましょう、エイン」

「そうだね。物資が残っていると良いんだけど……」


 今にも抜けそうな階段を一段一段慎重に降りて行く。踏み出す度に踏み板がぎしぎしと軋む。エインはアシリレラの手を取って、極力踏み面の縁に足を置きながら次の段へと足を下ろす。

「暗いですね……」

 階段を降り切った先で二人を待ち受けていたのは、泥と根腐れした植物の臭い。そして視界の入らぬ深々とした暗闇だった。洞窟で一夜を明かした時も、同じような暗がりだった。洞窟ほどの湿気は感じないが、変わりに、人がいた痕跡から来る気味の悪さが漂う。身体に纏わり付く非物理的なぬめりに、エインとアシリレラは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

「……さ、先に宿の方を調べるのも良いかもしれないね」

「暗くなってしまいますよ?」

「う……」

「……エイン?」

「な、なな何でもないよ? さあ行こうか早速うん」

「怖い?」

「……まさかこんなの全然殺人大熊の群生地帯で三日間丸腰のまま孤立したのに比べればなんてことないから変なこと言わないで欲しいなっ」

「その状況も凄いですけど……」

 殺人大熊といえば全長五メートルを越える獰猛な肉食の大熊で、中には十メートルに達する固体も存在する。走れば初速で時速五十キロ、最大速度は百キロ近くにもなる。皮は厚く、家屋の壁に張れることで自然災害や火事などから三世代は守られるほどの代物だ。エインとて丸腰ではそう易々と対峙出来る相手ではない。

 早口でまくし立てる青い表情のエインなど初めて見る。アシリレラの前で情けないところなど見せられないと思っているのだろう。

 良いものが見られた。アシリレラは微笑を手のひらに隠し、エインの背にぴたりとくっ付いた。

「ではエイン、先に行って下さい? 私はあなたの後に付いて行きますから」

「えなっちょっ……分かった、分かったから、押さないでったら」

 子犬が纏わり付くような力に負けたエインを先頭に、二人は、地下一面に伸びた真っ暗闇の中へと足を踏み入れて行った。


 少し進むと、あつらえたかのように、壁に固定されたろうそくを見付けた。エインが燭台を掴んで引っ張ると、痛んだ壁からネジごともぎ取れた。

 とはいえ火を起こす道具など持っていない。持ち腐れかと思い捨てようとするエイン。その手をアシリレラが止めた。

「エイン、そこの戸棚に火打石がありました」

「随分とサービスの行き届いた廃墟だね」

 箱入りのアシリレラだが、料理の工程の一つとして行っていたため、火の扱いには慣れたものだ。手早く打ち合わせると、エインの差し出したろうそくに火を着けた。

 ろうそくの先端に、薄ぼんやりとしたほのかな明かりが灯る。

 それを見て無言になったのは、エインだった。

「どうかしました?」

「あ、いや……」

 真っ暗な地下室。軋む床板。不快な臭い。ゆらゆら踊る灯りに照らされた木目の壁と、不自然に伸びた二人の影。

 余計に雰囲気が出たと言える。

「これで何も見付からなかったらどうしよう」

「大丈夫ですよ。私が付いていますから」

「な、なんのことかな?」

「ふふっ」

「あ、アシリレラ……」

「冗談ですっ」

 灯りのお陰で遥かに歩きやすくなった。しかし依然として歩き辛さは変わらず、二人の歩調は慎重さを保ったままだった。決してエインがこれ以上速く歩けないわけではない。

「あっ……」

 二人の前に、塗装の剥げた壁が立ちはだかる。

「行き止まりだね」

「そうみたいですね……」

 ここに来るまで分岐点もなかった。元々さほど大きな地下室でもなかったということだろう。

 エインは壁に背を向けると足を早めて来た道を戻り始めた。

「仕方ない帰ろう。早く帰ろう」

「あ、エイン、待って下さい」

 そそくさと退散し始めたエインの後を追おうと、アシリレラは小走りする。だが、爪先に当たった小さな取っ掛かりが金属音を鳴らしたのを耳にして、思わず踏み止まった。

「エイン。エイン、待って下さい! 床に何かあります」

 呼び掛けられたエインは足を止め、アシリレラの示した床をろうそくで照らし、覗き込んだ。

「蓋ですね」

 アシリレラの足に引っ掛かったのは、床にはまった蓋の取っ手の部分だった。もっと勢い良く突っ掛かっていたら、その場に転倒する可能性もあっただろう。

「床下? 何かな」

「きっと収納ですよ」

「だと良いね」

 幸い取っ手に目立った傷みや錆びはない。密閉された地下という環境によって風雨から守られていたのだろう。エインが取っ手を引き上げると、蓋は簡単に持ち上がった。

「見えますか?」

「……暗くてなにも見えないな」

 ろうそくの火が底まで届くことはなく、見えるのは、ぽっかりと開いた開口部から真下に伸びる梯子のみ。後は黒。一切を飲み込む暗闇のみ。

「エイン?」

 地下を覗き込んだまま固まっているエインに、アシリレラが問う。だがエインからの返答はなく、強いて言えば一瞬、時間にしてほんの数秒足らずの間こそが、エインの胸中を現す無言の返事になった。

「私が行きます」

 ならばと意気揚々に、梯子に手を掛けるアシリレラ。

「え?」

 それを見て慌てるのはエインの方。

 確かに気は進まない。そもそも機関の話が本当なら不審者やアシリレラを狙う勢力の人間などいないはずだし、厳重に密閉された地下室であるなら、危険な生物が潜んでいる可能性もほぼないだろう。

 しかしだ。

「ま、待ってアシリレラ。駄目だ」

 アシリレラの手を、エインが掴んだ。

「ここで待ってて……危険がないとは限らないから」

 精一杯搾り出す。言ってしまったと内心うろたえながら、それでもどこか嬉しそうに笑うアシリレラの顔を見つめると、いやこれで良かったのだと思い直せる。

「分かりました……待っていますね」

 エインはろうそくを片手に、梯子を降りて行った。身体が闇に飲み込まれる度に、周囲の闇がろうそくの明かりで掻き分けられる。

「気を付けて下さいね」

「ありがとう……すぐに戻るから」

 数段進むと、アシリレラの姿は見えなくなってしまった。

 心細さが加速する。一人でいるのがこんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。

 無心で梯子を降りて行くと、最奥にはすぐに到達した。

 暗くてはっきりとは分からないが、距離にすると三メートル程度だろう。下層のそのまた下層にも関わらずかなり深く掘ったものだ。

 深みもさることながら、奥行きもそれなりにあるようだ。ろうそくの明かりが壁まで到達する様子がない。

「…………あまり時間を掛けたくはないんだけど……」

 二つの意味で、ここに長居したくなかった。

 一通り調べて、なるべく早く帰ろう。エインは意を決して、頼りないろうそくを片手に、闇の中へと踏み込んで行った。


 よく調べると、行き止まりと思っていた地下室の壁にも燭台が固定されていた。突き立ったろうそくは綺麗なままで、これも火を着ければ恐らく灯りになるだろう。

 アシリレラは火打石を取り出すと、慣れた手付きでろうそくに着火させた。

「良かった……」

 エインには悪いことをしてしまった。

 あのエインの意外な一面が見られたのは良いが、やはりエインには頼もしくあって欲しいというのも本音で。

 壁に寄り掛かり、腰を降ろす。

「…………エイン、まだかな……」

 屋敷で三日間エインの帰りを待ったという事実が、今では信じられない。

 暗闇のせいもあるのだろう。エインと出会ってから今まで、一人の時間がここまで心細いと思ったことは一度もなかった。

 エインにといるうちに、いつの間に子供のような甘えん坊になってしまったのだろうか。

 知らぬ間にエインに頼り切っている自分に気付き、アシリレラは頬を両手でぱちりと押さえた。

「しっかりしないと……」

 これ以上エインの足を引っ張ってはならない。エインは自分を助けるために、全てを投げ打って旅に連れ出してくれたのだ。そんなエインを慕い、こうして共に生きようと決めた以上、せめてエインを支える存在になるのが自分に出来る役目だろう。甘えてぶら下がっているだけでは、エインの覚悟にふさわしくない。

 ならば今出来ることは何か。

 実際に出来ることなどないが、じっと待ち、せめて帰って来たエインを最大限労うことくらいはしたいと思った。

 その時だった。

 床の軋む音が、深い闇の向こうで小さく、唸るように響いて来た。

 アシリレラの身体に緊張が走る。

 聞き間違いか。違う。その音は徐々に、だが確実に、こちらを目掛けて近付いて来ている。

 声を掛けようかとも思った。だが音の主がこちらに気付いているか分からない以上無駄な呼び掛けは却って危険を招くかもしれない。

 音が、止まる。

 空気が凍り付く。

 音を立て、しかし静かに近付くその姿には見覚えがあった。

「よう、一人か」

 逆立った頭髪に、獣のような鋭い眼差し。背負った大きな両翼の特徴的な両刃剣は、彼の得物で間違いない。

「……ツヴァイさん」

 忘れるはずもない。屋敷に訪れた構成員の中で、エインと共に、最も親しい仲となった彼の顔は、忘れようとしても忘れることなど出来ないだろう。

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