四滴『激動は激情と共に来たりて』
抑えを知らない、心臓を射抜くような殺気がドライを貫いた。
「っ!!」
咄嗟に飛び退く。一瞬だ。後ほんの僅かでも判断に躊躇していたら、アシリレラを掴んでいた腕は悉く持っていかれていただろう。
「やはり……そう来ましたね」
自身が飛び退いた位置を睨み返す。やはり、いた。
予想通り……否、それ以上の剣圧が、未だ空間にひり付くような陽炎を残している。
「エイン!!」
ドライとの間に、ツヴァイが割って入った。エインの神速の始動にツヴァイは反応し切れず、二撃目がいつ放たれようかという瀬戸際にようやく参戦に漕ぎ付けた。
「何やってんだエイン! 冗談はよせ!」
ツヴァイが咆える。
聞く耳など持たない。空間ごと切り裂かんばかりの剣圧の陽炎のヴェールに、エインはその身を映して立ちはだかる。
振るわれたはずの剣は既に鞘に納められている。右手は柄に添えられたまま。それはエインにとって、「いつでも抜く用意がある」ことのサインだ。
「……渡さない」
エインの傍らにはツヴァイから開放されたアシリレラがいた。
剣を握らない左手でその肩を抱き寄せ、まるで所有権を主張するかのように、ツヴァイとドライに眼光を叩き付ける。
「エイン!!」
「ツヴァイ、今は何を言っても無駄です」
一時の気の迷いがエインをこのような凶行に走らせているのだと、ツヴァイはあくまで対話を望んだ。だがエインの殺気を肌で感じていたドライは、それが如何に無意味なことであるかを理解していた。
エインはアシリレラの肩を離すと、瞳を覗き込み、そっと語り掛けた。
「死なせない……絶対に死なせないから」
エインの覚悟が、アシリレラの中に突き刺さる。
厭世的になることで受け入れさせていたような、けれど、どこか浮付いていた感情が、焼け付く鉄板を押し当てられたように、皺一つなく伸ばされてゆくのが分かる。
「エイン……私は……」
「後で話そう? ……走れる?」
「はい」
間髪入れずに、アシリレラは背中を押された。
ここからはもう走り続けるしかないことを示唆するように、アシリレラは一人ゴンドラに向かって駆け出した。
「マズい! ツヴァイ、アシリレラ様を追って下さい!」
咄嗟にドライの指示が飛び、ツヴァイがアシリレラに迫る。
刹那、跳躍したはずのツヴァが撃墜され、その場に叩き伏せられた。
「ガッ!?」
ツヴァイは地面に顔面を強打し、這い蹲りながら、エインを見上げた。
背中からドライの驚嘆の声が聞こえる。ここから一歩も動くことが許されなかったということだ。
「出鱈目な……高速戦闘はツヴァイの専売特許のはずなんですがね……」
「バカ言ってんじゃねえよ……! 俺はこいつとゼクスの戦いを目で追うことすら出来なかったんだぜ」
額から血を流しながら立ち上がるツヴァイを尻目に、ドライが深い構えを見せ、エインににじり寄る。対し、エインは一歩も動かなかった。ただ剣に右手を添えるだけで、ドライが距離を寄せるのをただ黙って見ていた。
やがて、一定の間合いに達したドライの足が止まる。
「利口だね」
舞い上がるような風を感じ、ドライは足元を見る。
精確に切り彫られた線が、爪先が触れるか触れないかという所を横断していた。
エインの切り口が、知らないうちにドライの足元を駆けていたのだ。
「後一歩入ってたら、足がなくなってたかもね」
次元が違う。
二人は、この一瞬のやり取りで悟った。
自分達ではエインの足を止めることは愚か、勝負にすらならない。それほどに、歴然たる力の差があるのだと。
「知っちゃいたが、マジでトンでもねえや」
味方でいる間は頼もしくもある。しかし、敵となるとこうも見え方が変わるものか。
「エイン、もうやめようぜ。俺達が戦う理由なんて……」
「理由なら、機関が持って来たよ」
「エイン、いい加減にしなさい!!」
「アシリレラは渡さない」
ゴンドラが動き出す。搭乗者が、窓に張り付くように三人を見つめていた。
アシリレラのことだ。きっとツヴァイの傷を心配していることだろう。もしくはこのような凶行に出たエインの身を案じているのかもしれない。
「ツヴァイ! 行って下さい! ここは私が!」
「はあ!? お前本気で言ってんのか!?」
「何とかしてみます!」
蹴り出されるように、ツヴァイは、動き出したゴンドラに向かって走り出した。エインは迷わずそれを追撃する。
だがエインが相手とて、予めそう動くと分かっていればドライにも対処は出来る。
「通しませんよ!」
ツヴァイとの間に割って入り、エインの足を止める。
「退いて……!」
「残念ですが、これも仕事でしてね」
短い呼吸と共に、ドライの手が垂直に跳ね上がる。
エインは直ちにその動きを見切り、体を逸らしてかわした。毛先が僅かに散り、風に流され消えて行った。
「トライブレード?」
ドライの手には、中心に持ち手の付いた、三股の手裏剣のような刃物が握られていた。刃渡り凡そ一尺ほどの稀有な斬撃武器に、エインは一瞬戸惑う。
「何を用意したところで……!」
その右腕ごと切り落とすのみ。邪魔をするなら、容赦するつもりはない。
戦場で隻腕となった兵士やホムンクルスなど、嫌というほど見た。今更知り合いの一人を切ろうと変わることなどない。アシリレラを守る。ただそのためだけに、断ち切る。
鞘から剣が刀身を見せる。その瞬間、エインの耳を風のような音が通り過ぎようとした。
「っ!?」
咄嗟に飛び退く。袖口から嫌な感触が伝わって、エインの喉を低く鳴らした。
回転するトライブレードが、エインの頬を浅く切っていた。
「こんな芸当も出来るのですよ」
手間取る。しかし、武器が回ろうが増えようがエインにとって問題ではない。しかしこれ以上抗おうとするのなら、ドライの命の保障は出来ない。
「さあ、まだもう少しだけ遊んでもらいますよ」
ツヴァイがゴンドラに追い付く時間はもう充分と言えるほどに稼いだ。しかし、エインの速さを加味すると、もう数秒、否、十数秒多く時間を稼いでも余るということはないだろう。
「クソッ! ゴンドラが逃げる!! ドライ、先に行くぜ!!」
しかし、エインがツヴァイを叩いて稼いだ時間は予想以上のようで、その脚力を持ってしてもゴンドラに取り付くことは出来なかったらしい。
エインからすれば、これで少しだけアシリレラが奪われる心配をしなくて済むというもの。
「オラァ!!」
しかしエインはツヴァイの破天荒さを考慮に入れていなかった。
「何を……!」
ツヴァイはゴンドラの辿ったロープに、取り出した大柄な武器を引っ掛けて身を投げ出し、ロープウェイのように一気に崖を下り出した。
滅茶苦茶だ。しかも、それでいて速い。あれでは遊覧用の速度しか出ないゴンドラなどすぐに追い付かれてしまう。
「やられた……!」
エインはドライから視線を切り、一目散にツヴァイを追う。
「逃がしませんよ、エイン!」
ドライはトライブレードを振り上げ、エインに向かって投擲した。大柄な手裏剣と化したトライブレードは、風切り音を撒き散らしながら一直線にエインに飛来する。
エインはそれを振り返りもせずに剣で巻き込んで掴み取った。
剣におかしな慣性が掛かる。この武器の重心がぶれている証だ。もし打ち落とそうものなら直前で軌道を変え、エインの首を切り落としていただろう。だがエインの聴覚に拾われた派手な風切り音が、直感的に違和を与えた。
「くっ……!」
ドライの脇腹を、投げ返されたトライブレードが通過して行く。
反応が遅れ、ドライは腰に浅くない傷を受けた。
ドライはその場で膝を付き、エインの追撃を諦め、その背中を噛み千切るほどの力で歯軋りを立てた。
一気に掛けを下るツヴァイの視界にゴンドラが入る。
「追い付いたぜ……!」
取り付いてしまえばこちらのものだ。アシリレラに抵抗する力などない。となれば、後は多少力ずくでも本隊に連れ帰るだけだ。流石のエインでも、あれだけの人数相手に無謀な戦いを仕掛けるとは思えない。
ゴンドラが地上に着いたら、アシリレラを降ろす。そして二人には申し訳ないが、ロープは切断させてもらうことにしよう。
流石のエインもあの掛けを下り、追い付くまでは時間が掛かる。潜伏してやり過ごしても良いが、アシリレラがいる以上、それは難しいだろう。
「……何だ?」
風が吹いたのかと思った。不意に揺れたロープに、ツヴァイは思わず周囲の山々を見渡した。
木々に動きはない。風一つない、穏やかな景色だった。
だがツヴァイが感じた揺れは次第に大きくなり、遂にその身を大きく揺らされることになる。
「何だってんだ!?」
ぞわりとした寒気のようなものが、ツヴァイのうなじを撫でた。
出所は分からない。だが、怖気だって後ろを振り返る。
「ウソだろオイ!!」
空を駆ける影が一つ、ツヴァイに向かって急接近していた。考えるまでもない。エインだ。ゴンドラは愚か、ツヴァイのように武器を使うでもなく、まるで空中を駆け下りるように、真っ直ぐツヴァイ目掛けて疾走しているエインの姿が見える。
飛んでいるのかと錯覚したが、違う。ロープの上を直接渡っているのだ。元々エインはゴンドラに乗る必要などなかったのだ。
「ヤバい!!」
今のツヴァイは、ぶら下がったままの非常に無防備な状態にある。この状態のまま追い付かれれば、間違いなく、一方的に殺される。だが逃げ道などどこにもない。ゴンドラに追い付くのが先か、エインが追い付くのが先か……。
「ダメだ、逃げ切れねえ……!」
振動するロープが抵抗になり、ツヴァイの速度を減衰させる。このままではゴンドラに追い付くどころか、途中で停止してしまう。
「ツヴァイ」
気付けば、エインはツヴァイに追い付き、足でその動きを完全に御していた。
「退いて。出来れば、殺したくないから」
殺生与奪を握ったエインから発せられたのは、意外な言葉……忠告だった。
「オイオイ……随分と甘っちょろいこと言うじゃねえか。命乞いして来た相手を何人も殺して来たくせによ」
「拒否権はないと思うけど」
エインが足を少しだけ打ち付けた。それだけでツヴァイの身体は、空中で大きく弾む。
下を見る。高さにして、凡そ八十数メートル程度の吸い込まれそうな絶景がツヴァイの足元に広がっている。
ツヴァイはホムンクルスだ。それも戦闘に特化した個体であり、頑丈さには自身がある。とはいえこの高さだ。落ちればただでは済まないだろう。
「ドライはどうした?」
「さあ? それより、質問してるのはこっちなんだけど?」
甘っちょろいと言ったか。自分は。
ツヴァイはその自分の考えこそが浅はかであると思い直す。
きっとエインはやる。今のエインはアシリレラを守るために、迷わず相手を殺すだろう。
ツヴァイは舌を打ち、唾と一緒に吐き捨てた。
「……どの道ここから落ちたら助からねえ。行けよ、エイン。俺はもうちょい景色を楽しんでから行くことにするわ」
「……ごめん」
「謝るなら最初からやるんじゃねえよ! とっとと行っちまえ! クソッタレ!」
聞き慣れたツヴァイの悪態が、エインには心地良い。
「ありがとう」
「バーカ!! 面目丸潰れだぜ、ちくしょう!!」
ツヴァイの拘束を解放し、エインは軽快な足取りで、再びロープの上を駆け出した。
「あ、そうだ。一つだけ」
「あん?」
エインは一瞬立ち止まり、振り向いて。
「この時期は、この山の固有種の植物が、夕方になると有翼種を飛ばすんだ。綺麗だから、見てみて」
そう言い残して行った。
「お、おう……?」
気の抜けるエインの言葉に、ツヴァイはぽかんとして、駆け出して行くエインを見送った。
その背があっという間に見えなくなると、次第に、ツヴァイを圧倒的な生の充実感が包む。
常軌を逸したエインの殺気は、今までツヴァイが体験したもののとは比較にならないほどの冷たさと、まさしく鬼気迫る圧力があった。それから解放された今、眼下に広がる一面の森林地帯を見ていると、柄にもなく乾いた喉が潤う気分だ。
「……たまには、自然観光も悪かねえかもな」
見渡す。
山々の上に乗った日が首を傾げているようで、まるで、奇妙な体勢のままでいる自分を覗き見ているように感じられた。
森を駆け抜ける。
幾度なく通った木々の道は、来る度に大きく姿を変えている。
エインは包囲磁針を頼りに森を渡っていたため気付かなかったが、今になって見ると、確かにその変わり方は長い時間を経た末のものだと思えなくもない。
ゴンドラ乗り場から走り続けてしばらく経つ。
「はっ……はっ……」
手を引いて来たアシリレラの呼吸が荒く、浅く、弾むような息遣いを見せ始めている。
「アシリレラ、大丈夫?」
エインは足を止め、限界を向かえ前のめりに倒れそうになるアシリレラの身体を支えた。
「だ、大丈夫です……私、こんなに走ったの……初めてですから……」
アシリレラはぐったりと頭を垂れて、忙しい呼吸の中、途切れ途切れに言葉を吐き出した。
そろそろ限界だろう。足の速いツヴァイやドライから逃げるためとはいえ、少々無理をし過ぎたかもしれない。
「少し休もう。ごめんね、無理をさせて」
細い身体を木に寄り掛からせると、アシリレラはその場に崩れ落ち、膝を畳んで座り込んでしまった。
「息を吐いて。ゆっくり……そう。それからゆっくり吸い込んで……まだ吐かないよ。うん、いいよ。ゆっくり吐いて」
アシリレラに視線を合わせ、深く呼吸をさせ、息を整えさせる。浅い呼吸は却って過呼吸を起こしかねない。
「はぁ……ふぅ……」
「落ち着いた?」
「はい、もう大丈夫です」
落ち着きはしたが、身体の方はそうもいかないだろう。日暮れも近い。走るにしても、今日はここらが潮時だろう。周囲に追っ手の気配は感じられない。この森なら、一度撒けば見付かることは早々ない。
「あそこで休もう。歩ける?」
見渡すと、大きく盛り上がった土に、あつらえたように開いた横穴を発見した。
エインの手をアシリレラが取り、立ち上がる。不安定な足元にふらつくアシリレラをエインが支え、二人はゆっくりと歩き出した
穴の内部は入り口の狭さとは違い予想以上に広く、進めば進むほど暖かくなっていた。
平坦な地面に均等な大きさに拡張された天井。側面の擦り跡に何度か行き来した形跡が見られることから、ここがかつて野生動物の巣穴になっていたことが伺える。
とはいえ人が通るには少々手狭で、エインとアシリレラは手を取り合ったまま、頭上に注意を払いつつゆっくりと奥へ進んで行く。歩いて行くと数メートルと進まず、ドーム状に広げられた最奥の空間に辿り着いた。
「行き止まりかな」
「そうですね」
僅かな太陽光を頼りに、二人はその小部屋を見渡した。
ここも地面は平坦に整えられており、充分に足を伸ばして休めるだけのスペースもある。休息を取るにはうってつけだ。エインはアシリレラを小部屋の奥に座らせると、歩いて来た通路を背にし、自身も腰を下ろした。
ようやく気を休めることが出来そうだ。エインは剣を手元に横たえて、これからのことを考えようとして、ふと我に返る。
「……やっちゃったね」
しでかしたことを反芻する。
今この世界がどうなっているのか。これから世界はどうなってゆく予定であったのか。
アシリレラが背負う運命について。そして、自分の取った行動について。
「やっちゃいました、ね……」
そして、行動に移した時、アシリレラの気持ちを少しでも考えていたか、という点。
あの時エインは、少なくとも自分に向けられたであろうアシリレラの手に、身体が情動的に反応して、気付けば剣を抜いていた。ドライに切り掛かり、ツヴァイを叩き伏せ、二人に傷を負わせてアシリレラの手を奪い返した。
そんな感情的で身勝手に思えるエインの行動をよそに、アシリレラは、思いつめたようなエインを見つめ、笑い掛けていた。
この暗がりでは表情もあまり伺えない。しかし、アシリレラが微笑んでいることだけは声色ではっきりと伝わった。
「凄いこと、してしまったかな」
「はい」
「アシリレラ……あの」
何か言い掛けたエインの唇に、アシリレラの指先が止まる。つい零れそうになった言葉を言わせなかった。それ以上先をアシリレラは言わせたくなかった。
「何も言わないで下さい」
洞窟内はどこまでも静かで、一瞬、二人の口が閉じると、風の音すら聞こえなくなる。
「エイン……ありがとうございます」
手広な空間にいながら、手を伸ばせば触れられる距離に、エインとアシリレラはいる。離れることもなく、これ以上ないほど近く、それでいて自然な距離で構築される世界が心地良い。
「嬉しかったんです」
「……え?」
「エインに手を伸ばそうとして、私は思い留まりました。けど、エインは私の目を見て、私を救おうとしてくれた……まるで心が通じたみたいで、それが本当に嬉しかったんです」
アシリレラが内面を吐露することなど、エインも数えるほどしかなかった。いつも相手のことばかり気にして、あまり自分の喜怒哀楽を表に出すことをしない。誰かの笑顔のためにそうしているのだとかつて語ってくれたことがあった。それでも溜め込んだ感情はある。アシリレラは人間なのだ。
「本当は、死ぬことなんて怖くなかったんです。ずっと、ずっと昔に覚悟は出来ていました。新しい世界のためにこの命が必要なら、喜んで差し出すつもりでした。だけどエインのことを考えたら、途端に、まだ生きていたいって……」
本来願いの叶う人生ではなかったのかもしれない。それでも、これで彼女の願いはほんの少しだけ叶えられたのだろう。
「私はまだ、エインと一緒にいたいんです。死ぬことが嫌なんじゃない。エインと離れたくない。誰よりもそばにいてくれる、優しいあなたを失うのが嫌……」
「アシリレラ……」
アシリレラは、エインの手を握った。その指は細く、手は弱々しく震えている。けれどこの世界の誰よりも強い力でエインの手を掴んで離さなかった。
「変です」
「変かな?」
「変です。私最近、エインの前だとわがままになります」
「そうかもね」
「……いやですか?」
「そんなことない」
エインは誇らしげに笑む。
「もっとわがままになって。言いたいこと、なんでも言って欲しい」
エインはそう言って、アシリレラの心を求める。独占欲を含んだ被支配感が、エインの心理下にあったものに満足感を与える。
「全部叶えるから。絶対に」
アシリレラが望むことなら、如何なる犠牲もリスクもエインは厭わない。
いつからだろう。エインがアシリレラに抱く慕情が、この色に染まったのは。
差し込む陽光が赤み出す頃、エインは食料と薪を拾いに外へ出た。といっても周辺数メートルを物色するのみで、ものの数分もせずアシリレラの下へ帰還した。両手には山菜と数本の薪が握られており、エインはすぐさま準備に取り掛かった。
洞窟内で火を焚くと中毒症状を起こしかねない。特にこのよう奥まった洞窟ではなおさらだ。とはいえ外で火など起こそうものならあっという間に見付かってしまう。だから火は山菜に熱を通すほんの僅かな時間しか使えない。恐らく今夜はここで越すことになるが、充分な暖を取ることは出来ない。
以前に比べあまりに質素な食事が二人の中に収まると、外は少しずつ夜の帳を下ろし始めていた。
「静かだ」
やがて洞窟の中は完全な暗闇に包まれ、いつしか二人はお互いの姿すら見ることが出来なくなってしまった。
「虫の声もありませんね」
「そうだね。不思議な感じ……」
虫や動物ですら、機関の処置の対象であったのだろうか。人間であればいざ知らず、無数に散らばった野生の生き物を、どう処置したのだろう。
エインにはそのおぞましい想像すら浮かばない。どうでも良いとすら思った。そんなことより、握り合ったアシリレラの手を離したくない想いの方が強かった。
「エイン」
「なに?」
「これからどうしましょう?」
「そうだね。まずは街に向かおう。ここから近いのは東にあるテラコッタかな。まだ残っているなら、だけど」
「人は……もういないんでしょうか……」
「……かもしれないね」
希望を抱いていなかったわけではない。だがそれはあまりに希薄で頼りない、所詮は下手な望みだ。だから縋るわけにはいかない。アシリレラの不安を二つ返事で肯定したのもそのためだ。
「けど、まだ残っている食料や必要な物があるかもしれない」
「そうですね。もっと生きて……いきたいから」
「生きよう。少しでも長く」
「はい」
アシリレラの返事が途切れ途切れになり、やがて静かな寝息を立て始めた。
今日は少し、頑張り過ぎた。エインもあまりの出来事にこれ以上は疲労を隠し切れそうにない。
エインにしな垂れ掛かるアシリレラと支え合い、エインもやがて眠りに落ちた。
そこでは時間の感覚すら掴むことが出来ない。
深遠に浸ったような洞窟内に白い朝日が差し込むことはなく、エインとアシリレラは、体内時計にたゆたうように目覚めた。
「エイン……エイン」
肩を支え続けていた温もりは、目覚めても離れることなくそこにあった。
これ以上ない安心感だった。朝起きて、エインがいる。今はたったそれだけのことが、アシリレラの一日の始まりを強く支えてくれる。
夜闇に比べればいくらか明るくなった洞窟内でなら、辛うじてエインの顔を視認出来た。
屋敷以外で見る初めての寝顔。変わらないはずの、陶器のように膠着した無表情もどこか新鮮だ。
アシリレラが肩を揺らすと、エインは小さく喉を鳴らして瞼を開いた。
「アシリレラ……? ほぁ……おはよう……?」
屋敷では見たことのない顔をしていた。エインは目覚めの良い方で、粘っこい眠気に囚われることは早々ない。職業柄、睡眠からは引っこ抜くように目覚める必要があるため、起きてすぐ行動出来るよう訓練したらしい。しかし、今アシリレラの肩で寝息を立てるエインは、まるで布団に包まり愚図る子供のよう。
「朝ですよ~?」
未だ鋭さの残る日差しに時間の感覚を委ね、アシリレラはエインを眠りの揺り篭から揺さぶり落した。
エインは何度か頬を突かれたり肩を揺さぶられたりしているうちに、はっと意識を取り戻し、アシリレラを見つめ、静止する。
「あ……」
何か言い掛けて、口を噤んだ。
「あ……?」
「あ、いや……ごめん」
アシリレラの促しに、エインは目を逸らして零すように言った。
「あ……って?」
そのおかしな様子が気になって、アシリレラは迫るように覗き込んでもう一度問う。
「な、なんでもないよ! 気にしないで……?」
「気になりますよ?」
追求すると、エインは観念したようにアシリレラと目を合わせた。
「……なんか、安心してさ」
それだけで、アシリレラにはそれとなく伝わった。
「私も」
「え?」
その言葉と一緒にじんわりと染み込んで来たことが、嬉しくて少しくすぐったい。
「ふふっ」
こんな真っ暗な洞窟で朝を迎えても、小さな幸せは綻び出るものなのだと思うと、今よりちょっとだけ大きな幸せも後に続くようで、アシリレラの胸を明るい未来が満たすようだった。
先にエインが洞窟から出た。周囲に生き物の気配はなかったが、それでも、細心の注意を払って一歩踏み出す。
「大丈夫みたいだね」
森には風の音だけが響いていた。木々の会話が波のように引いては返して、二人の出発を迎えた。
「さあ、行こう」
エインは手を差し伸べた。
「はい」
アシリレラがそれを取って、新たな一歩が始まる。
時刻も方向も、太陽の角度を見れば概ね察しが付く。
エインもアシリレラも時期ごとの太陽の位置は把握しているため、東への舵取りは滞りなく進んだ。
屋敷からは夢中で走っていたため、現在地は分からない。だがそれが却って追っ手を欺く結果に繋がったと捉えることも出来る。現に今こうして、森の中を散歩でもするように歩けている。
苦もなく二時間ほど歩き進めると、やがて小さな清流が二人の前を横切った。
「アシリレラ、足元……」
「きゃっ……!」
冷たい清流に片足を突っ込んでしまい、アシリレラはか細い声を上げた。
「見せてごらん」
エインはアシリレラを倒木に座らせると、ブーツを脱がせ、持っていたハンカチでその白い足を綺麗に拭う。
「あはっ、くすぐったい」
「こら、動かない」
「はい」
窘められたアシリレラはどこか嬉しそうだった。
「綺麗な水みたいだ。少し休もうか」
ここまで順調に来られたが、この先もこう旨くいくとは限らない。エインはともかく、アシリレラは旅の経験など皆無だ。休める時に休んでおいた方が良いだろう。
ほんの少しの休息で、二人は喉を潤し、足を解して再び歩を進めた。なるべく早く森を抜けたいというのが正直なところだ。夕べは都合良く身を隠せる場所を見つけたが、そう何度もこの森で夜を明かすのは多大なリスクを背負うことになる。
食べられる木の実をいくつか見つけ、それをポケットに捻じ込み、或いは口に含みながら、二人は森の出口を目指して歩き続けた。
木々の切れ間から緑の平原と丘陵地帯が顔を覗かせたのは、その日の昼下がりのことだった。