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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
4/16

三滴『その花に奉るは』

『三滴』


 淀みない白で統一された本部の外壁に唯一はめ込まれた、長方形の窓。

 高層部の一室の壁を丸ごとくり抜いたその窓からは、見渡す限りの外界全てを見下ろすことが出来た。

 本部塔をぐるりと囲む青々とした深い森と、鬱蒼と茂る山々。人の手のように揺れる木々の中に、無音の世界を駆ける大きな風の流れが見えた。

 しかし、窓際に立つアインスの目には、景色など映ってはいなかった。

 遥か遠く、本部の中庭を抜けて行く二つの影には覚えがあった。

 エインとツヴァイの物だった。

 少し先を歩いていたエインの影が一瞬立ち止まり、ツヴァイの方を振り向いた。

 何かを話しているようだ。二人の声がアインスの元まで届くことはない。ただ、ぴたりと静止したその影の表情は分かるような気がした。

 アインスはドライを呼び出した。

 そして、二言三言告げる。ドライの表情が一瞬、その言葉に慄いた。

 アインスが指示を出すと、ほんの少し、深く息を吐き出して、ドライはすぐに動き出した。


 かたかたと揺れるゴンドラの挙動が、酷く懐かしく感じる。

 エインが本部を発ってから約一日。休みも取らずほぼ歩きっぱなしで屋敷に辿り着いたエインは、ゴンドラの小刻みで心地良い揺れにすら焦燥感を覚えていた。

 高く上がった日光がやけに強く感じる。

 自分でも落ち着いているのかいないのかはっきりしない。ゴンドラの内壁に寄り掛かった身体と腕は平静を保っているが、爪先は絶えず足元の床を叩いていた。

 気持ちは、少しばかり先走っているのかもしれない。

 エインは道すがら、何度も何度も、アシリレラへの質問をシミュレートしていた。

 何から聞けば良いのだろう? 率直に言葉にするなら「どうして黙っていたのか?」と聞きたくなるところだ。

 だがこれは却下した。久しぶりに帰るというのに、いきなり糾弾するような真似はしたくなかった。それにアシリレラに苛立ちをぶつけてしまいそうで少し怖くもあった。

 しかし、膝を突き合わせて「聞きたいことがある」とでも言い出すべきだろうか? それもやはり、逃げ場を抑えて否応なしに吐き出させるようで、互いに心地の良いものではないだろう。

 そんな風に考えながら道中を進むうちに、気付けばゴンドラに身を任せていた。

 前に乗った時は、目の前にアシリレラがいて、これからどこに行って何を見ようかなどと考えていた。

 エインは、殺風景な向かいの座席に視線を向けた。今は、挙動不審に外とこちらを見比べるアシリレラはいない。

 次に二人で向かい合わせで座る時、自分はどういう顔をしているだろう。アシリレラは、どんな表情で笑ってくれているだろうか。

 屋敷が見えて来た。あそこに着けば、ゴンドラは止まる。そして、永らく停滞していたこの屋敷の時間が動く。動き出してしまう。

 ゴンドラが止まる。結局エインの口に言葉は浮かんで来なかった。唇はいつものように固く結ばれたまま、陰鬱に、溜息を一つ通した。

 尤も、最初に言うことは一つだ。

「ただいま」

 屋敷の戸を潜り、しんと静まり返った屋敷に向けて言い放った。

 嫌な予感がした。

 このままアシリレラが顔を出さなかったら、どうすれば良いのだろう。

 だがエインの悪寒は、ぱたぱたと響く軽い足音に押し退けられた。

「エイン!」

 廊下の奥から、アシリレラがひょっこりと顔を出した。

 水場で作業をしていたのだろうか。アシリレラは袖をたくし上げたまま、エインの元へ真っ直ぐ駆け寄り、その胸に飛び込んだ。

「お帰りなさい……。良かった、怪我はありませんか? 病気もしていない……?」

「大丈夫。どこも怪我していないよ。アシリレラのお弁当のお陰で体調も良いよ」

 とんと寄り添うように胸に顔を埋めるアシリレラの身体にエインはそっと腕を回した。

「あ……」

「うん?」

 顔を上げたアシリレラの目に入ったのは、エインの頬に残ったほんの僅かな切り傷だった。

「エイン、傷が……」

「ああ……これね」

 ゼクスに付けられたものだ。もう完治したと思っていたが、まだ僅かに傷が残っていたらしい。

「もうほとんど治ったよ。大丈夫、何も心配することなんてないよ」

 エインに頭を撫でながら慰められると、アシリレラはすぐにいつもの表情に戻っていった。

「きちんと消毒しましたか?」

「してないけど、大丈夫だよ」

「ダメ。きちんとしておかないと」

 アシリレラはぱっとエインから離れると、背負った背嚢を受け取ろうと肩紐に手を掛けた。だがエインに「重たいから」と制されると「分かりました」と申し訳なさそうに言い残し、廊下の向こうにぱたぱたと走って行った。

 屋敷に帰ると、エインはいつしかほっとするようになっていた。

 背嚢を降ろし、腰の剣を壁に掛ける。

 向かったのは、縁側のある部屋。屋敷にいる時は、二人共決まってここで時間を過ごしている。

「エイン、塗り薬ですよ」

 荷を降ろすと同時に、アシリレラが軟膏の缶を持って戻って来た。

 フタを開けると正座して、床を指差して座るよう促した。

「とってもよく効きますから。はい、そこに座って下さい」

 軟膏を指先で少しだけ掬い取り、エインが座るのを待ち構えた。

「い、いいよ、自分で出来るから……」

「いいんです。さ、早く座って下さい。お薬が乾いてしまいますから」

 いつになく押しの強いアシリレラに困惑しながらも、エインは膝を向かい合わせるように腰を下ろした。

「動かないで下さい」

 アシリレラの指先が、エインの頬に触れる。

 冷たい。けれど不思議と柔らかで、撫でるように優しい指先の感触。

 水場にいたから冷たいのか。軟膏が柔らかいのか。その境界が何となく掴めない。

「エイン」

 しっかり塗り込んでくれていたアシリレラの指が、唐突に止まった。

「どこまで聞きましたか?」

 どくりと、心臓が鳴った。

「それは……」

 計画のことか。それとも。

 何も聞きたくなかった。けれど、話の真偽を知るためには、アシリレラに直接聞かなくてはならない。

 聞きたくない。何も知りたくない。アシリレラの口からツヴァイと同じ言葉を、真実を語って欲しくなかった。聞いてしまえば、僅かに残っていた希望すら指の間をすり抜けて行ってしまうから。

「あ、食事にしましょう、エイン?」

 アシリレラの指が、エインから離れて行く。

 先を誤魔化すような、はぐらかすようなアシリレラの仕草が、エインにとって決定打になった。

 アシリレラはこの先、きっと……。


 アシリレラの作る食事はいつも美味で、出来立ての湯気が食卓中に立ち上ると、エインの箸は止まらなくなる。

「エインが屋敷を発ってから、ずっと考えていました」

 けれど今日だけは、アシリレラを前に、箸を手に取ることさえ出来なかった。

 アシリレラは沢山の食事を用意して待っていてくれた。帰りの時間など伝えていないのに。

「いつまでも隠すことなんて出来ない。分かっていたはずなんです」

 アシリレラも、エインの向かいに座ると、俯き気味に語り出すだけだった。

「けど……それを言ってしまったら、知ってしまったら、エインはどんな顔をするだろうと考えると、怖かったんです……」

 仕舞い込んで来た想いを丁寧に紐解き、発露させる。

 時間が経てば経つほど打ち明けるのも辛くなる。どうしてこんなタイミングにならなければならなかったのだろう。けれど、あるがままに打ち明けて、残された時を鬱屈としたまま過ごしたかもしれない可能性に未練を感じることもない。

 どうして、こんなことにならなくてはいけないのか。

 アシリレラは、自分の運命がここまで恨めしいと感じたことはなかった。

「エイン、私は……」

「もういいよ、アシリレラ」

 制され、アシリレラは顔を上げた。エインの微笑みが、アシリレラの不安を包み受けた。

 辛いのは自分だけじゃない。失うのも、失わせるのも、きっと同じくらい辛い。それが分かっただけでもエインは楽になれた気がした。

「ありがとう、話してくれて」

 その勇気だけがエインにとっては嬉しかったのかもしれない。

 失うための覚悟か。それとも、真実を話してくれたことへの独占欲に似た心地良さか。

 アシリレラの瞳に少しでも残るために、そして、運命を抱え込もうとした小さな体のために、エインは、せめて自分は笑っていようと思った。避け様のないその時に見せる表情を、泣き顔にはしたくなかった。今から泣いていては、これから先笑顔になれる自信はなかった。

「うん。美味しい」

 エインは笑うために箸を動かした。

「やっぱりアシリレラの作る料理が好き」

 味が、ほとんど分からない。

 今は時すら惜しむように、その声を聞いていたい。顔を見つめていたい。柔らかな頬に触れていたい。少しでも長く。いつまでも、どこまでも深く、アシリレラを感じていたい。

 ずっとこうしていられると思った自分は浅はかだっただろうか。アシリレラのこれからについて一度でも考えたことがあったなら、もっと違う形でアシリレラのことを知ることが出来たのだろうか。知ったところで、どうすることが出来たのか。

 アシリレラは何も言わなかった。食事と共に黙々と進む時間が、無為に反された砂時計のように流れ落ちてゆく。

 こんな時間を過ごしたいわけではない。エインは、こんな時間をいつまでも過ごすことを望んでいた。


 食事中、アシリレラはそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。

 眠れぬ夜の帳。空虚な風の音を聞きながら、エインは布団の中から星空を眺める。

 屋敷の外で見た空と同じ空だった。

 自分がいない間、アシリレラも見ていた空。

 散りばめられた星々の配列は、屋敷内に外界と同じ時が流れていることを示唆している。

 意図的に時間の流れを戻したのだろうか。もし、彼らがこれ以上屋敷の時間を遅らせる必要がなくなったと判断したのであれば、アシリレラを迎えに来る時が近いのかもしれない。

 それは明日か。それとも……。

「……どうしたいんだ。いったいどうすればいい?」

 エインの自問は星空に届くことなく霧散していく。

 世界樹の倒壊までの時間を考えると、エインの望みであれば別れのための猶予は与えられるだろう。

 しかしそれが終われば、確実に別れはやって来る。それはアシリレラを連れて、もうエインの手の届かないところに去って行く。

 アシリレラの死。

 エインは今まで多くの命をその手で奪った。傭兵の仕事。殺し屋の仕事。用心棒の仕事。魔獣の狩猟。そのどれもが、剣を振るうことを本懐としたものだった。

 奪われる者の気持ちが分かるなどと言うつもりはない。因果と悟り、納得することなど出来ようはずもない。一番辛いのはアシリレラなのだ。

 鬱屈とした夜が更けてゆく。

 日が昇るより早く、旅の疲労が圧し掛かる瞼に重みを感じて、エインは眠りに就いた。


 小鳥のさえずりで迎える朝を久しく感じた。

 朝が来る。当たり前のことに強い恐怖を感じたエインは跳ねるように飛び起き、部屋を飛び出すとアシリレラの寝室のドアを開け放った。

「アシリレラ!」

「ひゃっ」

 酷く焦燥したエインの眼に、着替え中のアシリレラの艶やかな肢体が飛び込んで来た。

「あ、ご、ごめん……。閉めるね」

 無意識に意識を手放した焦りは、エインの行動を軽率な方向へと征服した。

 これ程の焦りを感じたのはいつ以来だろう。大戦時に所属していた部隊が吹雪の山中で敵に奇襲を受け、負傷者を出しながら洞窟に逃げ延びた時も、エインは強い睡魔に落され、同じような状況に陥ったことがある。あの時は確か、焚き火で出来た影を敵と勘違いして、起きるや否や全力で切り付けた記憶がある。

「びっくりしました」

 しばらくすると着替えを終えたアシリレラが部屋から出て来て、エインを見上げて微笑んだ。

「エインのあんな顔、初めて見たかもしれません」

 口元を隠しながらくすくすと笑うアシリレラ。

「ふふふ、ごめんなさい、エインの顔を見ていたら、また思い出しちゃって……」

 普段の姿からは想像も付かないエインの表情に、アシリレラは笑いが止まらない様子だった。

「はぁ……」

 ひとしきり笑い切ると、アシリレラはエインを見上げ、じっと目を見た。

 安堵の跡がじんわりと滲んだエインの瞳に、自分の姿が映っているのがはっきりと見える。

「ありがとう、エイン……」

 内心、エインは、デリカシーを欠いたことで叱られるのではないかと、今の今まで覚悟を決めていた。

 そんな中出て来たアシリレラの不意の言葉に、エインは肩透かしを食らったようになり、きょとんとした眼差しで見つめ返してしまう。

「大丈夫。私はここにいますよ」

 ゆっくりと伸びた手が、エインの手を包む。抱き寄せられ、柔らかな温もりに包まれると、不安が紛れるようだった。

 いつもと同じ暖かさだ。春の日差しのように穏やかで、降り掛かる羽毛のようにどこかこそばゆく、少しだけ乾いた、皮膚の感触。

「それと……ごめんなさい」

 エインの手を握る力が、ほんの少しだけ強くなった。

「隠すつもりはなかったんです。エインも最初は、すぐにいなくなるのかなって思っていたから、言うつもりもなくて……」

 エインの前に屋敷を警護していた者は、皆すぐにいなくなってしまった。

 だからこそ、アシリレラはエインのことを信じていなかった。そんな相手に自身の境遇を話せば、屋敷の任を解かれた後の人生に重たい荷を背負わせることになるからだ。

「けど、エインは一緒にいてくれました。何となくですけど、きっとエインは、最期の時まで、私の傍にいてくれるって分かったんです。けど、そう思うと、今度は言えないって思うようになって……」

 縋るように、アシリレラはエインの手に顔を寄せる。

「自分を呪うこともありました。誰も回りにいなければ、きっと楽な気持ちで最期を迎えられたのに、って……。けれど、エインとの出会いだけは否定したくありませんでした。大切な人に出会えるのを、私はきっと、待ち続けていたんです。」

 アシリレラの眼差しが、エインの瞳と交錯する。

 澄んだ瞳が、エインの見せた悲しみを受けて、朝日の中で乱反射した。

「だから、後ほんの少し……ほんの少しだけ、私のわがままに付き合ってくれますか、エイン?」

 嗚呼、この子は、理想を見せて、現実を突き付けて……。それこそが、お互いが最良の幸せを享受出来る最後の方法なのだと理解している。なんて残酷な子だろう。世界の終わりまで一緒にいて欲しいなどと言える幸福の不幸さを理解していて尚こうして手を握り、エインの瞳を、糸を引くような眼差しで釘付けにする。

 酷く美しい世界を繋ぎ止める鎖を共に付けて欲しいと強請るアシリレラの願いの行き場は、エインの心に停泊所を見付けて、ゆっくりと錨を下ろした。

「当たり前だろう?」

 エインはアシリレラを見つめ返して、少しだけ笑みを浮かべた。

「大丈夫。ずっと君の隣にいるって、約束したから」


 しかし最後の時はいつまでも待ってはくれなかった。

 中庭の手入れをしていたエインとアシリレラの元にドライが訪れたのは、その日の昼下がりだった。

「私がここに来た理由、察しの良いあなたならお気付きでしょう」

「はい」

 挨拶も介さず、水が流れるかの如く、ドライは自然に話を進めた。

「明後日、ここを発ちます。世界樹までの道のりは一週間程になりますので、明日中に身辺の整理を。それから……」

「承知しています。わざわざご苦労様でした」

 通達が、無慈悲にも最後の幕を切って落した。

 エインの約束が終わるその時を目指して、屋敷の時間が静かに動き始める。

 だが、エインの中にある時計の針は、未だに時を叩くことをしなかった。

 それどころか、細剣のように鋭い秒針が警戒心を塞き止めるように小刻みに揺れる。確実に動き出したこの時に対し本能が強い不快感を示したのを、エインは見逃さなかった。

(どういうことだ?)

 頭の中で、考えを巡らせる。

 屋敷を囲む四方の山々から感じる、こちらを覗き込むような視線の正体が分からない。

(確かに機関は、処置を終えて後は時を待つばかりだと)

 アインスの計画に狂いがあったということだろうか。

 本部での議題にも上がっていた抵抗勢力の存在が脳裏を過ぎる。

 だとしたら、ドライがこうも簡単に包囲網など敷かせる筈がない。開けたこの崖の上で包囲され孤立することなど、誰であっても避けなくてはならない。

 となると機関にとっての敵対勢力ではないのか。となると、随伴の構成員だろうか。

 しかし、エインは直ちにその可能性を否定した。それならなら屋敷に入って来ないことへの説明が付かない。機密面での規制はない筈だ。物資搬入の作業員ですら何人もの人物がかつてこの屋敷を訪れたのだから。

(まさか……)

 考えられる可能性は、一つ。

(見張られている……?)

 誰を? なぜ?

 アシリレラを? この山々を下り、広い世界を一人逃げ歩くことを危惧したとでも言うのか。否。

 ドライを? アシリレラに危害を加える可能性を危惧しているのだとすれば、そもそも彼を寄越すことなどしない。

 つまり。

 不快感の正体が、エインの腹にすとんと落ちた。

 とは言えそれをアシリレラに告げることなどしないし、増してやドライを詰問しようなどとも思わない。

 ただ薄っすらと抱えていた掴みどころのない、それでいて、例え蓋をしても激しい熱を感じる程の、心を揺り動かす鼓動だけははっきりと捉えられた気がする。


 これで良かったのだろうか。

 エインは気付いていたかもしれない。数百メートル程度の距離など、エイン程の力を持った存在にとっては有効射程内でしかない。木々も隠れ蓑としては一切役に立たないだろう。自然が教えてくれると言ったら滑稽かもしれないが、何せ彼は六百年もあの屋敷で暮らしてきたのだ……そんな笑えない冗談すら、今は現実味を帯びているように思える。

「amn005はここに残るように。後は私に続いて。キャンプへ引き上げます」

 日の落ちた山の中で、ドライは五つの影を従えていた。

『クローンアーミー』

 かつて、機関の実行部隊である師団を構成する戦力の要となった、一個体のクローンからなる人口生命体だ。

 クローンアーミーは意思を持たない。機関に与えられた指示を実行し、任務を遂行するためだけに生み出された、命ですらない人の形をした駒である。

「動きがあり次第鷹笛で伝えます」

「そうして下さい」

 そう言うと、amn005と呼ばれた個体は山を駆け、夜闇へと消えた。こうなってはドライですら探し出すのは困難だ。

 それでも、エインは気付くのだろうか。

「行きますよ」

 ドライが歩き出すと、クローンアーミーは隊列を乱すことなく一様に後に続いた。

 機関は、エインの動向を監視している。

 その事実をエインが知ったらどう思うだろう?

 姑息だと怒るか? 軽蔑するか? むしろ、だからこそ、いっそのこと……。

(余計なことをしなければ良いのですが……)

 無意識に、ドライの歩幅が大きくなった。感情に影響され所作すらコントロールを失うなど、ドライにとって初めて出来事であった。

 遠巻きに見える屋敷は煌々と暁色を湛え、山々に満ちたとこしえの暗夜の中で穏やかな眠りを迎えようとしていた。


 特別なことなど何も出来なかった。

 エインは出発に備え整理を続けるアシリレラをただ見つめることしか出来なかった。

「エイン、裏口の壷に入れておいた山菜漬けを取って来てくれますか?」

 世界樹までの旅に必要な荷をまとめるアシリレラの様子は、いつものそれと何ら変わりなく見える。いつものようにてきぱきと、おっとりした性格からは想像も出来ない程手際良く、保存食や水分を背嚢の底に詰めていく。

「ああ、ちょっと待ってて」

 アシリレラの作る山菜漬けは美味しいが、かつて街中などで口にした漬物と比べ、漬けが浅いのか少し塩味が薄い。だがその味についてエインがアシリレラに物申すことはなかった。いつも、「美味しいよ。しょっぱ過ぎなくて、優しい味がする」と言い、箸を止めることはなかった。

「はい。これだよね」

「ありがとうございます」

 エインが抱えて来た小振りな壷を床に置くと、中で響くような軽い音が鳴った。蓋を空け、二人して中を覗き込む。

「もうあまり入ってないね」

 壷の底に転がされた、残り香のような山菜達。

 エインが来た時、中にはまだ沢山の糠があって、沢山の山菜が漬かっていた。終わりが見えたら、きっと新しい糠を追加して、新しい山菜を漬けてのだろうと思っていた。そうやって何度も何度も繰り返し、いつかは壷も新しくなって、やがて、この山に知らない山菜などなくなって。

「そうですね。旅の途中、皆さんに食べてもらおうと思ったのですが……」

「また漬ければ、いいよ」

「エイン?」

 自分でも何を言ったか分からなかった。気付けばただ思ったままの言葉が口を衝いて出ていた。

 唇が震える。熱くなった頬を、思わず指を添えて押さえた。

「そうですね……きっとまた一緒に、ね」

 そんな自分を見上げて微笑むアシリレラは、何よりも強く思えた。

 怖くはないのだろうか?

 なぜ彼女は、終わりを前にしてエインに微笑み掛けられる?

 エインの膝は怖気づいたように笑っていた。彼女を守るのは自分の役目であるというのに。

「さあ、エインもお部屋のお掃除を済ませて下さいね。来た時よりも綺麗にして、出発に備えましょう」

 これではまるで、泣き虫の児童をあやす母親だ。楽しかった時間は終わり、夕暮れ時を迎えた親子の姿のよう。勿論、エインが子供で、アシリレラが母親だ。

「そうだね。物らしい物なんてほとんどないけれど……」

 持ち込んだ物も、剣と、着替えと、装備の手入れ用具一式。それから白紙のノートと羽ペンとインク瓶。仕事の記録を付けようと思ったがとうとう使うことなく、日々を心の中に留めたままこの日を迎えてしまった。

「エインは、あまり好きも嫌いもありませんからね」

 アシリレラの言う通り、エインには趣味らしいことも、日課にしているようなこともない。

 けれど、好きなものがないかと言われるとそうでもない。

「そうかな?」

「無関心を装っているけれど、本当は沢山周りを見ていて、沢山気を使ってくれるんです」

 エインの前を先導するように歩きながら、アシリレラはエインに言い聞かせるように続ける。

「そう……かな」

「はい」

 そしてエインの部屋の前で立ち止まると、扉を開け、二人は一緒に室内へと足を踏み入れた。

「まあ……」

 とことん散らかった部屋の様子に、アシリレラは静止した。

「これは片付けに時間が掛かってしまうかも……」

 そんな子供じみたエインの部屋を眺めながら、アシリレラはこの世で最も愛おしいものを見つめるように柔和に微笑んでいた。


 二人っきりの部屋の整理もいつしか終わりを告げる。

 すっかり何も無くなった部屋の隅。投げ出された人形のように項垂れて虚空を見つめるエインの隣で、水面の波のように肩を上下させたアシリレラが、エインに寄り添いながら、深く、静かな寝息を立てている。

 高く昇っていた太陽も黄昏て、黒く長い影が部屋の真ん中を横断し、二人の足元まで伸びていた。

 野鳥が鳴く。二人の世界の時間で、音だけが動いていた。アシリレラの静かな寝息が耳を擽る度に、エインに残された時間が少しずつ削られていくのが分かる。

 ずっとこうしていられたらどれだけ幸せだろう。何もない時間を過ごすのは贅沢だ。残された時間をどれだけ贅沢に使って良いのかエインには分からない。これまでずっと使い潰して来た時間が、今のエインにとっては無常の宝物に感じられる。

 無限の先に見えて来た、有限の壁。今一度剥き出しになった部屋の壁は無機質で、散らかされた部屋の無意味さをエインに語り掛けているようだった。

 もうこの部屋で見る夕日もこれが最後だ。特別美しい景色ではない。深い山々を展望出来るのは特権だが、世界にはもっと沢山の山があるのをエインは知っている。

「このまま、誰もいない世界へ行けたら……」

 エインの精一杯のわがままが、濃い夕日の中で思考に攪拌され霧散していった。

 閉じられた口から溶け出した呟きは、がらんどうの部屋に於いて、大音量の音楽の如く鳴り響く。

「アシリレラ……」

 変わらず穏やかな寝息を奏でる主奏者の髪の間を、エインは撫でるように梳いた。

 このままアシリレラの一部に溶けてしまえれば、いつまでも一緒か。

 もう、そんな荒唐無稽なことしか考えが浮かばない。

 髪を撫で、頬をなぞり、顎に指を添える。

「アシリレラ」

 それでも起きないアシリレラが心配になり、エインはアシリレラの細い肩をすすきのように揺らして、覚醒を促した。

「ん……はふ……」

「こんなところで寝たら風邪を引くよ」

 海面を目指すクラゲのように、アシリレラの意識がゆっくりと戻って来る。

「えい……ん……すぅ……」

 疲れていたのだろうか。今日は随分と寝起きが悪い。

「起きられる?」

「えい……」

「今夜は大きなサラダを食べよう。海産物はまた今度に……っと」

 エインの身体に寄り添っていたアシリレラが、倒れ込むようにエインの膝に頭を落した。

「かなり疲れが溜まっていたのかな」

 しな垂れるアシリレラの頭を撫でる。とても小さくて、綺麗な形の頭だ。

 この中に、自分はどれくらいいるのだろう。

 きっとアシリレラにも思い出があって、エインの知らない人や、会ったことのない人達との繋がりがあるのかもしれない。

 その中に、少しでも沢山居場所があれば、嬉しいと思う。

 エインはアシリレラの身体を溶け合うように抱き止めながら、傾ぎ、暗くなってゆく陽を見送り、いつしか自分もうとうとと船を漕ぎ始めた。溶けていく意識。消えて無くなりたくない。残された時間を、せめて繋ぎ止めるように、エインはアシリレラの細い身体にしがみ付いた。絶対に離さない。この子は自分が守る。そう何度も決意するように。


 固い床の上での目覚め。

 体中が石になったように痛い。

「……朝」

 あのまま眠ってしまったようだ。

 アシリレラは依然として、エインの腕の中で静かに寝息を立てている。

 穏やかな寝姿だ。一晩中身動き一つせずに眠り続けていたというのに、アシリレラは安寧そのものを抱いたような寝顔を浮かべ、髪も衣服も一糸乱れず、まるで人形のようにこんこんと眠っていた。

「アシリレラ」

 眠ったままのアシリレラに、エインは呼び掛けた。起こすでもなく、ただ静かに、名前だけを口ずさむ。

「アシリレラ」

 寝息を立てる少女が愛おしくなって、その首元にエインは鼻筋を埋めた。

 ひたりと吸い付くような質感の肌。暖かくて、少し汗の残った温もりが気持ちが良い。

 このまま眠り続けてしまおうか。エインがそう思った矢先、寝息を立てていたアシリレラの口から吐息が一つ漏れた。

「んっ…………あ……? えいん……?」

 深い眠りから浮上したアシリレラの意識が、ぼんやりとした光を見付ける。

「あ、ごめん。起こしてしまったね」

 エインは押し当てていた顔を上げ、アシリレラの目覚めたばかりの瞳を覗き見た。

 焦点の定まらない瞳は薄惚けた視界の中、エインの顔を捉えようと、一生懸命にその目を見つめ返している。

「いいえ……ああ、いけない、眠ってしまいました……」

 なんとか意識を取り戻したアシリレラはきょろきょろと部屋の中を見渡して、青い空から差し込む光を拾い上げると、はっと顔を上げた。

「うそ……あのまま朝まで眠ってしまったのですか……?」

「そうみたいだね」

 滅多に転寝などしないアシリレラは、その事実に驚きを隠せない様子ですぐさま身体を起こした。

 抱き止めていた温度が、エインの腕の中から、不意に遠くに行って。

「私ついうっかり……。ごめんなさいエイン、痛くないですか?」

「大丈夫だよ。アシリレラは?」

 アシリレラを追い掛けるエインの瞳は、いつもより遠くを見つめていた。

 アシリレラはこんなに近くにいるのに。

「私は大丈夫です」

 本当は体中のあちこちが凝り固まって痛かった。

「すぐにご飯にしましょう。今日は沢山精を付けないと、ね?」

 アシリレラは、エインに手を差し出した。

 これではまるで、アシリレラがエインを支えているようだ。

「そうだね。今日は何を食べようか?」

「昨日のうちに纏めた荷物の他に、朝食用の道具を纏めておいたんです。だからそれと、あ、ベーコンも焼きましょう。後は……」


「お待たせしました、アシリレラ様」

 ゴンドラの揺れが、鋭敏に張り巡らされたエインの五感に届いたのは夕方になろうかという頃だった。

「ドライ……。今日は一人なんだ」

 がらんどうになった屋敷の中、唯一今までと変わらない景色を保ち続けていた庭園を、縁側から見つめていたエインとアシリレラ。その二人の背中に、よく聞き慣れた声が掛かった。

「エイン。短くない時間、お屋敷での任務、誠にご苦労様でした」

 資料片手に屋敷を訪れたドライは二人を睥睨して、軽く頭を下げた。

 しかしドライの口ぶりに違和感を覚え、エインは首を傾げた。屋敷での任務には、少なくともドライ自身も関わっていたはずだし、ここから世界樹までの任も残っている。にもかかわらず、まるでエインだけを労うような物言いに感じたのだ。

「これから我々と共に世界樹へと旅立つことになります。アシリレラ様、準備はよろしいですね?」

「はい……。あの、その前に聞きたいことが……」

 相変わらず、アシリレラはドライに苦手意識を抱いていた。一見紳士的な風貌から醸し出されるドライの高圧的な空気感に、アシリレラは居心地の悪さを感じているのだ。

「計画についての話もあります。外で話しましょう」

 屋敷の外で待っていたのはツヴァイだった。

 いつ通りゴンドラの降口に座ったまま、ツヴァイはいつになく眉間に皺を寄せた表情で、屋敷から出て来た二人を見つめていた。

「おはよう」

「おう」

 エインと短い言葉を交わし、ツヴァイの表情は再び動かなくなった。

 大仕事を前に気を張っているのかもしれない。エインはそれ以上話すことなく、アシリレラの隣にそっと寄り添った。

「先日も話したとおり、ここから北へ約二週間。馬車や汽車もありませんので、長い距離を歩いて頂くことになります」

 馬車もないということは、きっと人間一緒に処置が完了しているということだろう。となると動かす人間もいないので、当然汽車もなければ人力車もないということになる。

「アシリレラ、大丈夫? 長い距離なんて慣れてないんじゃあ……」

 エインはアシリレラを覗き込んだ。これから始まる旅への緊張感に加え、ドライに対する緊張感もあるようで、その表情は極めて硬い。

「はい。ご迷惑をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願い致します」

 それでも、行かなければならない。それがアシリレラに課せられた使命であり、世界を救う唯一の方法であって、そこに迷いや至上を持ち込むわけにはいかないのである。

「それでは、アシリレラ様はこちらへ。我々と共に行動して頂きます」

「……え?」

 ドライの手が、アシリレラの手首を掴んだ。

 ぐいぐいと手を引かれ、エインの元から離れて行く。

「え、ちょっと待って、ドライ?」

 エインは思わず、ドライの名を呼んだ。

 それでも、ドライの足が止まることはない。

 アシリレラはそれの力に抗うことなど出来ず、エインの方を言葉もなく振り返ることしかしなかった。

「エインの任務はここまでです」

 ドライは引く手を休めず、アシリレラをゴンドラの方まで連れて行く。

 途中、ただ一言だけ、エインの方を振り返り、告げた。

「あなたも早く処置を受けて下さいますよう。ご苦労様でした」

 その表情は、相変わらず何も語らぬままで。

「は……?」

 世界樹まで警護するのが、エインの役割だと思っていた。

 いつかは訪れる別れなど、今はまだ考えていなかった。だからまだ彼女に何も言っていない。別れの言葉も、伝えたかった言葉も。

 そして、約束もまだ残っていた。湖畔で誓った、最期の時までアシリレラのそばにいるという約束。

 それらが今、エインと、そしてアシリレラの目の前で、引き千切られようとしている。

「聞いてないんだけど……」

 エインの眼差しからどんどん遠くなる、ドライの背中と、アシリレラの瞳。

 アシリレラの瞳は、何かを伝えようとしていた。怯えるように、不安に蝕まれた少女は、言葉なく、必死にエインに訴え掛け続けている。

 きっとアシリレラも何も伝えられていない。不条理にも、ドライに手を引かれ、一人連れて行かれようとしている。

「ドライ……ドライ……!」

 エインの語調が強まる。

 しかし、それを聞いたドライの歩調が、始めからこうなるのが分かっていたとでも言わんばかりに早まった。

 アシリレラの足が縺れる。僅かに体勢を崩したアシリレラが転ぶのを堪えると、中にあったものが、堪え切れず、ほんの僅かに顔を見せた。

 アシリレラ手が、エインを求めて、伸ばされた。

 それは情動だった。

 アシリレラを守ると誓ったエインの覚悟。

 ずっと一緒に、そばにいることを誓ったエインの想い。

 それに応えたのは、エインの中にずっと燻っていた情動に他ならない。

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