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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
3/16

二滴『美しい花とそのための黒い雛』

何もない世界に行くとしたらどうしますか?

何もないの定義から考えたくなります。

木々があって、山があって、水が流れているだけの世界です。

もしそんなところに、一生を誓い合えるだけの人と一緒に行くことになったら、果たしてそれは何もない世界のままなのでしょうか?

『二滴』


 屋敷を発ってから、二度の朝焼けを見た。その日の昼。

「着いた……」

 突如屋敷を訪れたツヴァイとドライに召集を受けたエインは、予定通りの道程をこなし、無事彼らの待つ本部へと辿り着いた。

 真上を見上げる。

「相変わらず、無駄に大きい」

 垂直に見上げても、巨大な本部の全容に、空がほとんど隠れてしまうほどだ。装飾もないただただ真っ白な天を突かんばかりの塔は、眼下のエインを見下ろすことすらなく静かに空を突いていた。

 視線を戻す。エインは、本部の正面の扉を見た。

 待ち受けるのは、門も花もなく、浅い雑草だけが整列する、がらんどうな広場。あの時と同じだった。

 広場を進む。見張りの一人もいないのは、余裕の表れだろうか。それとも、襲撃や侵入をする可能性すらないと考えているのか。用途すら不明な広場を通り抜け、エインは扉の前に立った。

「……あれ?」

 入り口の扉は、十メートルにも及ぶ大きさだ。押しても引いても開くはずがない。

「待ってたぜ」

 どうするかと途方に暮れる前に、エインに背後から声を掛ける者がいた。

 振り向くと、見覚えのある炎のように真っ赤なたてがみが、風に吹かれ、陽炎のように揺れていた。

「ツヴァイ、おはよう」

「なーにがおはようだ。太陽はもうてっぺんだぞ」

「遠いんだよ、ここは。馬の一つでも寄越して欲しいね」

「馬? 何言ってんだお前」

 ツヴァイは怪訝な表情を見せるとエインを押し退け、扉に手のひらを押し付けた。すると扉は軽い開錠音を鳴らし、押し手に従順になりその重々しい口を開けた。仕掛けがあると分かっていてもこれだけの質量物が軽々しく開く光景は、なかなか慣れないものだ。

「あ、そうか。お前は一人で入ったことねえんだったな」

 エインは黙って頷いた。

 前回ここを訪れた時は、あらかじめ構成員が二人、扉の前で待ち受けていた。顔を隠すように深くコートを被り、何も言わず、粛々と扉を押し開ける構成員に不信感を覚えたのは記憶に新しい。

「確か半年前か……早いもんだな」

「あの時、ツヴァイもここに?」

 目の前にいるツヴァイと、当時感じた構成員への印象の違いは著しい。人員の入れ替わりがあるかは定かではないが、もしそうなら機関の見えない部分が多少は垣間見れるかもしれない。

「ああ、いたぞ」

「本当に?」

 つい聞き返す。疑うわけではないが、本当にそうなら印象と現実のあまりの差異に自分の目が信じられなくなりそうだった。

 ツヴァイもその辺りは察したらしく、いぶかしむエインを見て、からからと笑いながら応えた。

「お前の前にも護衛は来てんだぜ? いちいち興味持ってられっかよ」

 ツヴァイは手当たり次第に噛み付くような真似はしない。どちらかというと流動的な関係を好まない性質で、特に、すぐにいなくなる相手に興味を示すようなことはない。

「……ふーん」

「なんだよ……」

「何でも」

 つまり、自分はツヴァイに興味を持たれている、ということだろうか。

 彼らとは、つまらない、ビジネスライクな関係なのだとエインは思っていた。しかしツヴァイを始め、ドライや他の何人かの構成員との時間はそう悪い物ではないと感じている自分がいた。

 エインは彼らの人格に触れる時、少なくない歓心を得ていた。故に今の時間をもう少し大切なものに出来るのあれば、それはエインにとって喜ばしいことだ。

「変な奴だな」

「からあげのマネとかやり出す人に言われたくないかな」

「おめーからあげ馬鹿にすんなよ!?」

 馬鹿にしてはいない。そんなツヴァイの見せる反応が少し楽しみなだけだ。

 エインはツヴァイに続いて、押し開けた扉を潜った。

 その先にあったのは、真っ白な空間だった。

「相変わらず殺風景だね」

 汚れの一つも見当たらない、舞踏会場のように広いエントランス。一面鏡のように真っ平らな床には、切り立った壁の先の、終点が霞んで見えないほど高い天井から、確かな光源が均等に射し当たっている。床と壁との境界はぼんやりとした光に隠され、遠目には判断しかねそうなほど曖昧だった。

 入り口の正面には階段が降りていて、登った先にはエントランスを見下ろすような踊り場が壁に沿って突き出ている。

 まるで生気のない、氷のような空間。一段々一糸乱れぬ階段も、彫刻のような踊り場の手すりも、まるで陶器細工のように精巧に削り出されていた。

「あれは……」

 だがその中にある一つの黒い影が、エインの目を奪った。

 新雪に煙が立つかの如く佇むその影は、エインの隣の青年ツヴァイと同じコートを身に纏い、微動だにせず、文字通り影のように二人に視線を突き付けていた。

「お、ゼクス。お前が出迎えとは珍しいじゃ……」

 ツヴァイは気さくに声を掛けるが、それを途中で遮るようにその影は語り始めた。

「貴様がエインか」

 若い男の声だった。

 男は仮面で顔を隠していたが、刺すような視線はひしひしと感じる。

「そうだけど」

 自身の表情は見せず、一方的に相手を値踏みするようなその姿勢。卑劣な性根を感じざるを得ない。エインは少々の不愉快さを感じていた。

 男はツヴァイには目もくれず、エインただ一人にその視線を向け続けていた。

「おいおい、無視かよ……」

 不服そうに零すツヴァイを更に無視して、ゼクスと呼ばれた男は続ける。

「抜け」

 あまりに不躾な申し出だった。

 ゼクスはエインの腰に帯刀された剣を示して、ずけずけと要求を続ける。

「嫌だと言ったら?」

 当然エインに挑戦を受ける気などない。相手が無作法を望むのなら、同じように、その挑戦を床に投げ付けてやるつもりで目を細めた。

「その程度の腰抜けでは『巫女』は守れぬ、と今後進言させてもらうまで」

 その口から『巫女』という言葉が吐かれた途端、エインは顔色を僅かに曇らせ、静かに剣に手を添えた。

「それでいい」

 それを合意と見るやゼクスの姿が踊り場から掻き消えた。

「ぬあ!?」

 消えた。確かにツヴァイの目にはそう見えていた。

 エインの視線が左方に滑る。瞬間、エインは剣を刀身の半ばまで鞘から抜き出した。

 火花が散るのは一瞬。半身で受けたエインの身体が開く。発光の如く閃いた剣閃を後方に流し受けた。

 手元から気配が消える。だが視界の端で動く男の姿をエインの目は逃しはしなかった。

 上方。ゼクスの軌跡を抜刀したエインの切っ先が追撃する。

 速い。ゼクスはコートの裾を掠めたエインの太刀筋を、見切ることこそ叶ったものの、的確にいなすことは出来ていなかった。

「なるほど……。伊達に”力”を与えられてはいないということか」

 ゼクスはエントランスの中央へ。エインは踊り場の手すりへ、それぞれ着地した。

「は……? …………は?」

 一太刀目の金属音に反応したツヴァイがきょろきょろと左右を見やって、いつの間にか二人の位置が大きく移動していることに気付いたのは、二人が再び白刃を交える瞬間だった。

 短く弾ける斬撃音が、エントランスの四方で散発する。音を追い掛けると、首が回るより早く反対から音がする。あまりの転回の早さに思わずツヴァイの足が竦む。数多の音の正確な発生源すら、ツヴァイには掴むことが出来ない。

「……マジで?」

 エインは護衛だ。それも、最重要護衛対象であるアシリレラをたった一人で守るべく派遣されたのだ。実力に関しては優れたものがあると、それとなく理解しているつもりではいた。とは言え自分も戦闘に長けた存在であることは自負していたし、構成員として採用された以上それなりに自信はあった。エインが特別強いということは分かっていても、それでも、頑張れば拮抗出来るくらいの実力差だろうと、個人的には踏んでいた。が……。


 ムリだこれ。

 ぽかんと開いた口が塞がらないツヴァイの視界のうちに、二人は降り立った。

「そうか。これが貴様の”力”か……」

 エントランスの中央で対面して立つ、エインとゼクス。吹きずさむ風が引いたように静寂が戻り、時と共に滞留していた。

「流石だ」

 ゼクスが何かに納得したように剣を鞘に納めると、エインも腰元の鞘から手を離し、構えを解いた。エインもゼクスも、呼吸一つ乱すことはなかった。

「どうも」

「と言いたいところだが……」

 ゼクスは自身の胸元を、指で袈裟掛けになぞった。エインは、ゼクスの指の軌跡を自分の胸元に照らしてみる。

 着ていた服が浅く切られ、インナーのシャツが見えていた。

「鈍っているようだな」

 それを合図に、頬に痛みが走った。指でなぞる。滲み出た少量の鮮血が、エインの指先に付着していた。

「抜いた太刀筋は速いが、私の剣に身体が追い付いていない」

 避け切ったと思った。反応はしているし、ゼクスの太刀筋も見えている。しかしながら、少々長い停滞は思いのほか技を錆び付かせていたらしい。

「まあ、屋敷は平和だからね」

「技も持ち腐れよう」

「護衛の仕事としては、いい環境だと思うけど?」

 エインがアシリレラの護衛に就いてから、敵意を持った者が訪れたことは一度もなかった。それ以前のことはエインには分からないが、屋敷には争ったような形跡もなければ、そういった話を聞いたこともない。尤も、エインがアシリレラに質問していないだけではあるのだが。

「腑抜けられては有事の際に困る」

「有事……ね」

「鍛錬せよ」

 言い捨てるように、ゼクスは踵を返し、踊り場に飛び乗り、扉の奥へと消えていった。

 ゼクスは有事の際と言ったが、本当にそんな時が訪れるというのだろうか。そもそも、アシリレラの襲撃を目論む者がいたとしてそれが何者で何が目的なのか、詳しい事情をエインは一切伝えられていなかった。

 それに、共にいながら、エインはアシリレラが何者なのかすら分からないままだった。唯一教えられたのは、彼女が『巫女』と呼ばれる存在であるということだけ。

 着任当初は心の隅にあった疑問も、屋敷での生活の心地とアシリレラの暖かさにいつしか雪のように溶かされ、山彦のように滲み消えてしまっていた。

 アシリレラのことを知るということ。単純だが、大切なことを忘れているのかもしれない。

 しかし今更アシリレラに問いただすことなどしないだろう。アシリレラはアシリレラだ。エインにとってはその事実だけでよかった。今ある現実さえ続けば、それでいいのだ。

「お、おい、エイン……」

 忘れていたこと。見落としていたこと。そしてこれからのこと。エインがぐるぐると考えていると、不意にツヴァイが声を掛けられ、はっとする。

「なに?」

「お、お前……だ、大丈夫なのか? 切られたんじゃないのか? う、腕とかくっついてるか?」

 おどおどと、狼狽するツヴァイ。エインは彼のそんな姿を見るのは初めてだった。

「……びびってる?」

「び!? びびび!? びびびびってねえよ!? ふざけんなよ!?」

 腕をぶんぶん振って否定しているが、まるで説得力がない。

 しかしツヴァイはツヴァイなりに気を使っているのだ。邪険にされたとまでは言わなくとも、差し出した手をくすぐられたようで釈然としない。

 だがエインは一向に怪我など気にする様子もなく、依然として飄々と振舞うばかり。

「大げさ」

 それどころか一息吐いて、呆れたとばかりに返した。

「な、なんだよ切られたみたいだから心配してやってんのによ! 腕の一本でもくれてやりゃあ良かったんだ!」

「大丈夫。もう治ったから」

「は?」

 切り傷は、傷口が綺麗であればあるほど治りが早い。とはいえこんな短時間で治る傷などあるものだろうか?

 ツヴァイはいぶかしんでエインの頬を注視した。そこには言葉通り傷など既になく、元のエインの白い肌に戻っていた。

 少々信じがたい光景だが、ツヴァイはこれと同じ光景を、以前見たことがあった。

「こりゃすげえ……。ズィーベンも治りが早かったが、エインも同じか」

「同じかどうかは分からないけど」

「どういうカラクリなんだ?」

「カラクリではないでしょ。生きてるんだし」

 まじまじと顔を見続けられるのはどうにも気恥ずかしい。エインは顔を背け、ゼクスが潜った扉を見ると少しだけ押し付けるように会話を途切らせた。

「そろそろ行こう。みんな待っているかもしれないだろう」

「お、おう」

 ぐいぐいと歩いて行くエインの後を、ツヴァイが追い掛ける。どちらが案内役であるか分かったものではない。

 二人はゼクス同様、扉を潜り、本部の奥へと進んで行った。


 本部の景色はどこも代わり映えしない。

 エントランスも、長い廊下も、地下の個室も、最奥の大広間も。どこまで走っても単一で、見えてくるのは白、白、白だ。傷も汚れも、この建物の中には存在しない。原理は分からないが、彼にとってそれはどうもでもいいことだった。

 急く気持ちを抑えることなど出来なかった。今はただ、一刻も早く敬愛する『あのお方』の下に辿り着くことしか考えられなかった。

 エントランスほどもある円柱の壁から生えた螺旋階段を駆け上がる。

 手すりもけこみ板もない階段の下は、まっさらな空間がどこまでも広がっている。覗き込めば吸い込まれそうになる恐怖を感じる余裕すらないほどに、童顔の少年『フィーア』は階段を一段抜かしで駆け上がり続けた。

 フィーアの表情は吹き抜けのような階段への恐怖などとは無縁であった。

 まるで風が駆けるかのような速さで、階段の上をうさぎのように跳ねる。鼻歌すら混じる。フィーアに恐怖など芽生えようはずもなかった。なにを隠そう、この階段を抜ければ自分の到着を待っている『あのお方』に会えるのだから。

 ものの数分もしないうちに、階段は終着を迎えた。壁にぽっかりと開いた横穴目掛け、駆け上がる勢いそのままに、フィーアは勇んで飛び込んだ。

「アインス様! 僕が! ズィーベンに伝言を届けて参りましたよ! アインス様、僕が……!」

 飛び込んだ先の部屋こそが、この本部の中央に当たる大広間である。警護の者を召集し、来るべき『計画』ついての話を進める会議を行う予定の広々とした空間だ。

「ああああああああああ!」

 アインスは大広間の中央に置かれた円卓の上座に腰掛けていた。

 下座には、仮面の男が自分より先に腕を組んで鎮座している。

「ゼクス! ゼクスお前! 僕より先にアインス様の御前に顔を出すなとあれほど!」

 半狂乱になりながら、フィーアは黙すゼクスに食って掛かった。しかしゼクスは気にも留めず、ただ静かに座したまま嵐が過ぎ去るのを待った。

「フィーア」

「アインス様!」

「いいから座りたまえ」

「はいアインス様!」

 見かねたアインスに促され、フィーアはアインスの隣席に飛び付き、どかりと腰を下ろした。

 ゼクスのことなどもうどうでもいいのか、フィーアはゼクスの表情を伺うと満足げに溜息を吐いた。

「おかわりございませんか?」

「ああ。フィーアもいつも通りのようだ」

「もったいないお言葉でございますアインス様! このフィーア、例え地の果てであろうとアインス様のためを思わば!」

「ゼクス」

「っっっっぎぃ!? ゼクス! アインス様がお呼びであるぞ! 返事をしろ返事を!」

 やり取りをぶった切られた挙句、またしてもゼクス。

 フィーアは苦虫を口いっぱいに頬張ったように端正な顔をしかめ、ゼクスに向かって咆えた。

「は」

「また辻斬りのような真似をしたようだが、ずいぶんと切られたらしいな?」

「なにを」

 アインスが指を縦に横に三度振る。

「まさか」

 ゼクスが胸元に目をやると、覚えのない切り口が三箇所、それも全て急所を狙った太刀筋が残されていた。

 元々あったものではない。全てエインとの立会いによって刻まれたものだ。

「気付かなかったのかね?」

「……不覚で」

「精進だな?」

「面目ない」

 ゼクスの声が少し曇ったのを、フィーアは聞き逃さなかった。不敵な笑みを浮かべると、満足気な表情で襟元を正した。

「ところでフィーア、ズィーベンの様子はどうだ?」

 アインスはゼクスから視線を動かし、フィーアに向けた。

「やはり、思わしくないようです」

 ゼクスの失態を見て気が晴れたのか、フィーアは冷静になっていた。失態といっても実害があるわけでも、フィーア本人がゼクスの鼻を明かしたわけでもないのだが。

「僕が部屋に入った時も、ベッドから出ようとはしませんでした。意識ははっきりしているようですが、身体の方は……」

 直ちに危機が迫るわけではないが、今回の集会をも欠席するということは、今後も予断を許さない状況が続くことを示唆している。

「やはり、彼抜きで進めざるを得ないか……」

「ご安心下さいアインス様! ズィーベンが動けずとも、このフィーアが必ずやアインス様の計画を成功させてご覧にいれます!」

 鼻息荒くまくし立てるフィーア。ゼクスはそれを鼻で笑って見ていた。

「貴様がズィーベンの代わりに、な」

「何か言いたいのかゼクスゥ!」

「鳩は鷹にはなれぬぞ」

 ゼクスにあざ笑われ、フィーアは直情的に、椅子を蹴って立ち上がった。

「いい度胸だ! 前々から貴様の態度は気に食わん!」

 ゼクスは座ったまま、今にも掴み掛からんばかりのフィーアの視線に応じる。

 その時だった。

「だーからそこで俺が言ってやったってわけよ! この分度器マニアが! ってな!」

 ツヴァイと、エインだった。アインスから見て正面に位置する扉を押し開けて、二人は険悪な空気の真ん中に分度器の話題を持ち込んだ。

「おう、アインス。エインを連れて来たぜ」

 あっけらかんと言い放つツヴァイ。鈍い男だが、張り詰めた空気が自分に向いていることを察し、一瞬戸惑いながらも気の抜けた態度は崩さなかった。

「おい、野良犬」

「おう、早いなフィーア」

 蛇のようにじろりと睨むフィーアにへらへらと手を挙げ、のん気な顔で返す。

 既にゼクスの視線はフィーアから離れていた。その仮面の下の眼差しがどこに向けられているかは分からない。しかし、その鋭い眼光を感じたエインの手がほんのわずかな時間、腰の剣に伸びようと動いたのは確かだった。

「……もういい」

「は? なんだおめー?」

 もやもやと胸中のまま、フィーアは椅子にどかりと腰を下ろした。

「相変わらずよく分からん奴」

 フィーアに呆れられつつ、ツヴァイはフィーアから少し離れたところに座り、誰にも聞こえないような溜息を吐いた。入室しただけなのに、勝手に怒られても困るのだ。

 一方エインはというと、想像通りに殺風景な大広間を見渡しながら、その場で立ち往生していた。

 エインは本部の大広間に入るのは初めてだった。

「エイン」

「な、なに?」

 宙を駆けていた視線が、ぐっと引き寄せられる。アインスの言葉に強制力を感じ、エインは見渡す瞳をアインスに吸い込まれた。

「空いている席に座ってくれ。集会を始めたい」

「分かった」

 さほど意味のある言葉ではなかった。だがエインは未だ、言い知れぬ不安感のようなものをアインスから感じていた。

 先日、屋敷でアインスの違った一面に触れたエインだったが、それで彼に対する苦手意識が抜け切ったわけではない。

「フンフとドライはどうした?」

「ドライは資料をまとめているようです。すぐに来るでしょう。フンフは……」

 フィーアがアインスの隣で説明をし始めると、丁度その向かい側の縁に、ミミズのように細い指が掛かった。

「呼ンだかね……?」

「のわぁ!?」

 卓の下から、しゃがれた声と共に、薄汚れた小人が顔を出した。

 深い皺が何本も引かれた顔に、ほとんど抜け落ちてしまった毛髪と歯。ドラム缶のような寸胴の体躯は低く、椅子の上に起立したところで他の者の座高にすら届かない。ずるずると引き摺られたコートの裾はぼろ雑巾のように破れ放題で、袖には蛍光色の染みがいくつも付着していた。

「お、脅かすんじゃない! いつから来ていた!」

 突如現れたシワだらけの手に一際驚いたのはフィーアであった。

「ゼクスと同じくらイだろウ」

「僕より前じゃないか!」

「そウなるな」

「ええい! どいつもこいつも!」

 誰よりも早くアインスの前に立つ。重要なのかそうでもないのか。そんな己の信条を続け様に封殺され、フィーアにはもはや怒鳴る気力もなかった。

 それからほどなく、ドライも大広間に入室した。ドライは脇に抱えた資料をまずアインスに、それからフィーアとフンフ、そして、ツヴァイ、エイン、ゼクスへと手渡していく。

 配られたばかりの資料に目をやる。表紙に書かれた計画の題目は、エインが初めて目にするものだった。

「全員、行き渡ったかな」

 整理する時間も、理解する時間すらも、エインには与えられなかった。

 アインスが資料を手に、円卓に付いた者の顔を見渡し、告げる。

 さぞかし滑稽な顔をしていたことだろう。目を細め、資料と睨み合い、表紙に触れて、エインの無意識の所作は不審を極めていた。

「これより『世界再配置計画』は最終段階へと移行する」

 それがアインスの口から出された途端、感じたことのない悪寒がエインの首筋を走った。

「現在、世界樹の生命活動はその余命をほぼ終了しており、このまま推移すれば凡そ五百年で完全倒壊すると見られている。これを民間に悟らせることなく、彼らの処置を順調に執り行えたのは、偏にフィーアとドライの功績と言えるだろう」

 悶絶するフィーアをよそに、アインスは続ける。

 エインは、未だ状況を理解出来ずにいた。

「ただやはり、民間には伝わらずとも、情報を嗅ぎ付けた勢力は少なくなかった。そして抵抗勢力となった組織を人知れず、時に公に権力を以って駆逐出来たのは、やはり師団員達の力によるところが大きい。皆、よく働いてくれた」

 世界樹の完全倒壊。

 近年、この世界を支える世界樹の活動が徐々に弱まりつつあるという話は、エインも聞き及んでいた。結果世界では土壌や水質の汚染が深刻化しており、その対策として、研究者が日夜代替となる浄化機構の開発に取り組んでいるという話もよく耳にしていた。

 だが世界樹が完全に倒壊するなどという話は一度も聞いたことがない。それほどまでに、事態は深刻であったのだろうか。

 しかし順調に『処置』とは?

 抵抗勢力、師団員。聞き覚えのない言葉ばかりが、エインの理解を立て続けに通り過ぎていく。

 そして、再配置とは何か。

 一瞬、アシリレラの警備の配置に関する変更事項かと思った。だがそんなはずはない。それならわざわざ、屋敷からエインを招集する必要などない。通達なら、エインに直接伝えるだけで良いのだから。

 それにアインスは『世界』の再配置と言ったのだ。恐らく汚染の進んだ環境を立て直すための事業と思われるが、それにしても、復興という言葉を言い換えたにしては、再配置という言葉選びに違和感を覚えざるを得ない。

「結果的に少々遅れが生じてはいるが、それも誤差の範疇。計画は順調と言っていいだろう」

「ようやく不純物を廃したのです。この光景、少々惜しくはありますが、あまり次の王を待たせず実行に移した方が良いでしょう」

 ドライの提案に、アインスは首を縦に振った。

「……ところでだ」

 エインは粛々と進んでいく話に付いていけなかった。整理しようにも頭は情報で混線し、考えれば考えるほど、分からないことが思考の先を塞ぐ。

「エインはずっと屋敷にいたため、この六百年、外のことは知らないだろう」

 エインは押し黙ったまま、アインスの言葉を自然に受け入れた。

 受け入れたところで、それまでの混線を掻き分けるように、あまりに大きな疑問がエインの思考の乗っ取った。

「六百年? 歴史の話?」

 古くから続いてきた歴史が、この件に関係しているのかと思った。そうとしか思えない。エインの常識的な思考が素直にアインスに返される。だがアインスは少し驚いたように目を見開き、まるで新たな発見でもしたかのように言った。

「そうか。確かに我々がして来たことには、そういう見方もある。というより、これは歴史そのものと言えるだろう」

「あの」

 理解の限界を超えた話の内容に、とうとうエインは声を上げた。

「さっきから分からないんだけど、その……」

 円卓中から視線が集まる。

 だがエインは、どこから質問をしていいかのかすら分からなかった。

「計画について、きちんと説明して欲しいんだけど」

 エインが聞かされていたのは、アシリレラを守るということだけ。何から守れとも誰から守れとも伝えられず、とにかく屋敷にて彼女を守るよう指示されただけなのだ。

「フィーア」

「はいアインス様!」

「エインにはどこまで?」

「分かりかねます!」

「ドライ」

「すみません、私も把握しておりません」

「なるほど」

「俺も分かんねえや」

 ツヴァイには質問すらせず、アインスは一瞬押し黙ると顔を上げ、エインを見た。

「すまないエイン。どうやら私の手違いだったようだ」

 アインスはさほど悪びれた様子もなく言い、つらつらと計画の全容について話し始めた。


 エインが本部から出ると、高かった日は落ち始めており、少しずつ、太陽は茜色の陽光の準備を始めていた。

「エイン」

 エインが甘くなった日の光に頬を染めると、追い掛けて来たツヴァイに声を掛けられた。

「すぐそこまで送るぜ」

「ありがとう」

 ツヴァイに素直に礼を述べる自分など珍しいと思う。それほどまでに、今回突き付けられた事実は、エインの精神力を消耗させるものだった。

『世界再配置計画』

 この世界は、最北端の最果ての地にて時を過ごす『世界樹』によって支えられている。

 世界樹は樹齢二千年にもなると伝えられているが、その生誕については、どの歴史書にも文献にも一切記されていない。

 世界を循環する水、風、そして大地のあらゆる要素は、その循環の中で世界樹に戻り、浄化され、再び世界を巡る。

 世界樹は生命を生み、育て、その死を迎え入れると同時に、この世界に生きる生命でもある。故にいずれは朽ちる時が来る。その時に備え、今から六百年前、七体のホムンクルスを中心として構成されたのが『世界再配置委員会』だ。

 世界再配置委員会は、今この世界を支えている世界樹を儀式によって人為的に解体し、新たな世界樹の下に世界を再び配置することを目的とした機関だった。その儀式と新たな世界樹を生み出すのに必要な力を持っているのがアシリレラである。

 世界樹という支えを失った世界は、文字通り支柱を抜かれた積み木ように崩壊するという。しかし疲弊した世界が示唆するように、世界樹の寿命は現実のものとして迫っており、待つも進むも世界の崩壊は避けられないものとなっていた。

 そこで人類は、一度肉体を捨て、魂の保管処置を行うことで、再配置された世界に再び生れ落ちる道を選んだ。

 否、正しくは、そうすることを余儀なくされたと言った方が正しい。

 結果として大きな軋轢が生まれることとなる。それがアインスの言っていた抵抗勢力である。

 それらを様々な手段で沈静化させたのが師団員。機関に於ける武装勢力だ。エインの目の前にいるツヴァイもその師団員の一員だった。

 師団員は武力で抵抗勢力を、ドライとフィーアは国政に働き掛け、人々の処置を続けていった。その処置計画を始めたのが、今から六百年前のこと。

 エインはアインスに問うた。なぜ彼らが六百年もの間生きていられるのかと。

「ホムンクルス、ね……」

 エインは、噛み締めるように呟いた。

「要するに、俺以外はそのために生み出されたってわけ。哀れだよなぁ」

「ツヴァイは?」

「俺は以前の大戦で生き残ったんだ。何でも、その大戦がきっかけで世界樹の寿命が本格的に縮んだとか何とか」

 戦争では大量の廃棄物が、そして、死が世界中に溢れる。それらを一手に受け止めた世界樹は、その身を著しく蝕まれることになったという。

 エインはアインスの説明を受け、計画について薄っすらと理解することは出来た。

 しかし、分からないこともあった。

 エインがアシリレラの護衛に着任したのは、今から凡そ半年前。その頃は確かに、街は人で溢れていた。少なくとも、何千何万という人が世界では暮らしていたはずだ。つまり構成員はそれだけの人々の魂を僅か半年で保管処理し、抵抗勢力すら鎮静化したというのか?

 答えは、エインの予想をはるかに上回る方向から返って来た。

「手違いで六百年も浪費させられちゃ堪らないよ」

「だよなぁ。お前の前任の護衛も、どいつもこいつも破滅志願者みたいな連中ばっかりでよ。そのくせ堪え性もないと来た。まあ普通の神経してたら、残りの人生投げ打ってまであんなところに入るわけねえけどな」

 屋敷の時は、停まっている。

 外界から見れば、ほぼ停まっていると見て間違いないのだ。

『屋敷での一ヶ月は外界での百年に相当する』

 エインが投げ掛けた問いに対して、アインスはそう応えた。

 だがエインは、不思議と、時を奪われたとは思わなかった。

 特に現世に未練もなかった。食べたい物や見たい景色、行きたい街。興味に留まるくらいの思いこそあれど、家族もなく、帰る場所もエインにはなかったからだ。

 代わりに、そんな誰にも必要とされない六百年という未来を掛けることで、アシリレラと出会えた。

「ありがとう。もう良いよ」

 中庭を出ると、エインはツヴァイを制した。

「おう。何もないとは思うけど、一応気を付けて帰れよ」

 野生の動物すらも、この世界にはほぼ残っていないという。これも世界そのものを次の器に移し変えるために必要なことだ。

「しかし世界のために作られる人生ってのも、哀れなもんだ」

 哀れんだところで何かが変わるわけではない。

 突き進むところまで突き進んでしまったこの世界は、もう次に進むしかないのだから。

「俺らホムンクルスはなんつーか、はみ出し者だからよ……けどなぁ……」

 エインから目を逸らして、ツヴァイが珍しく口篭る。こうも歯切れの悪いツヴァイを見たのは初めてだった。

「アシリレラだけは、本当に哀れな奴だよ。良い奴なんだけどなぁ……」

 例外。どの世界にも、それは存在した。

 ツヴァイは言う。アシリレラが、彼らホムンクルスより、哀れであると。

 今日は理解出来ないことが多過ぎた。

 この期に及んで、まだエインの頭を掻き乱すのか。

「新しい世界樹を生み出すために死んじまうなんて、俺なら耐えらんねぇよ」

 この期に及んで、まだ、今度は、何を掻き乱そうと言うのか。

「…………それ、どういう意味……?」

 耳を疑うとは、こういうことか。

『新しい世界樹を生み出すために命を落す』

 何の比喩もなくそのような言葉を吐くことなど、普通では考えられない。それにツヴァイは回りくどい表現など好まないのはよく分かっている。

 それ以上に、新世界のために生み出されたホムンクルスよりも哀れな存在というツヴァイの認識こそが、エインの心に大きな質量となってぶつけられた。

 ツヴァイの耳に入ったエインの声は、かつてないほどの震えを孕んでいた。

 その震えが何を意味しているかを理解するのに、時間などいらない。

「お前、何も聞いてねぇのかよ……」

 聞きたくない。その先を聞く勇気がない。

 言うべきか否か、ツヴァイは迷った。だがここまで伝えてしまえば、後はアシリレラ自身が打ち明けるか否かだ。

 アシリレラは、あえて黙っていたのだろうか? だとしたら、どのような意図があれ、あまりに酷なのではないだろうか?

 共に過ごした時間は、エインの体感で半年。決して長い時間ではない。だがエインはアシリレラが好きだった。アシリレラも、エインを信頼し、好く思っている。気持ちの強さと時間は必ずしも比例しているわけではないのだ。

 だがもしそれが、目の前で突然失われたとしたら、どうだろう。

 ツヴァイはエインの顔色を見て、その結末の先を想像するのを止めた。

登場人物紹介

『エイン』

 世界再配置委員会に雇われ、アシリレラの住む屋敷に派遣された元傭兵。

 細身で色白、襟の赤いショートヘアに、ぶかついたオーバーサイズのぼろぼろのアウターを着ている。表情は変化に乏しく、少し降りた目じりは無用な情報を遮るためのようにも見える。

 大昔の大戦を生き延びた歴戦の猛者らしいが、一見すると年端も行かぬ子供のような姿をしており、素性はおろか年齢すら不詳である。

 腰に帯びた一振りの剣は特別な物ではないが、切れ味鋭く極めて頑丈な業物で、大岩を切っても刃こぼれ一つしない。

 寡黙でぶっきら棒な性格で、屋敷に来た当初はアシリレラともろくに口を利かなかったが、彼女の温和な性格と物怖じしない優しさに触れるうちに態度が徐々に軟化。出会って半年経った今では彼女にぞっこんである。

 他人に期待せず、他人に干渉せず、他人を気にせず、他人を傷付けずを心情としているが、戦いの場に於いては鬼神の如く振る舞い、相対した者を悉く切り伏せる圧倒的な力の持ち主である。

『力を得るために生み出された存在』であり、既存のホムンクルス達とも一線を画す特別な秘密を持つ。

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