一滴『これからのことと綺麗な世界』
『一滴』
そこでは誰もが同じ服を着ていた。
光沢のある漆黒のロングコートに、賑やかしのようにぶら下がった銀のチェーン。
顔以外見えない彼らの背格好はまちまちだが、無機質な彼らは、皆一様に見える。
ひとつ、ふたつ、みっつ……ななつ。コートを着た七人の構成員のうち、唯一左肩に記章が縫われた男が前に出て、その右手を差し伸べて来た。
「よく来てくれた」
背の高い、線の細い男だ。男は柔和に微笑んでいたが、彼が胸の内をほんの少しでも見せているようには見えなかった。
「我々は、世界の向こう側を目指す者だ」
柱のように切り立った崖の上に、その屋敷はあった。
瓦屋根を被った、木造平屋の古い屋敷。俗世間から切り離すかのように作られた、隔絶された小さな世界。
そこに行くためには当然、特別な手段を講じる必要がある。周辺付近の山々から延びたワイヤーがその手段だ。だがそのワイヤーも、ここ最近では滅多に動くことのないゴンドラをただ待つだけの物となっていた。
彼女は今日も縁側に腰掛け、屋敷の庭園で鳴くスズメを見て微笑んでいた。
彼女の元を訪れるのはいつもの時間、いつもの歩幅、いつもの足音、歩調と歩数。いつも同じだ。
だから彼女は、背後からの気配を感じても安心して振り向き、いつもの笑顔を向けられる。
「おはようございます」
たおやかな笑顔で迎え入れたにも関わらず、その来訪者はいつも無愛想で、視線だけを向け、ただ
「おはよう」
と返すだけ。
ほっそりとした四肢に、裾だけが滲むように赤い黒髪の来訪者は、縁側の少女の斜め後ろに立った。するとスズメが飛び去る。いつものことだが、逃げられているようで複雑だった。実害はないが、不服であるといつも思う。
縁側の少女は目だけを走らせスズメを追い掛けていた。
「きっとあなたの顔が怖いんですね」
少女の砂のような声でさらさらと言われ、来訪者は少し考える。
「スズメに警戒される程の殺気など、出してはいないが……」
「そうですね。あなたはいつも優しいです」
少女は来訪者の手から湯飲みを受け取った。
二人で縁側に腰掛けて、何も起こらない庭園の時間だけを眺める。日が昇り切ると同時に、屋敷の戸が開く音が響いた。
「”今日は”アンタか」
振り向くと、黒いコートの男が立っていた。
「そうだね。会うのは”あの日”以来かな?」
コートの左腕に記章を付けた男は襖の仕切りに爪先を合わせ、縁側の少女を注視した。
「変わりないかい?」
「ええ」
気を配るというよりは、確認するような、素っ気ない口振りだった。
少女は少し表情を抑え、置くように返した。
屋敷には週に一度だけ、黒いコートの『構成員』が少女の様子を確認に来る。表のゴンドラはその時だけ動く。そして構成員は物資だけを置き、夕刻前に向かいの山々の中に戻って行くのだ。
男が縁側に足を踏み入れる。
「おやおや……そう警戒しないでくれ、エイン」
ざわつく。
----駄目だ。
他の『構成員』の中には、多少気を許せる者もいた。だがこの男だけは”何もないこと”ですら危険であると感じてしまう。
言われ、『エイン』は知らず沸き立っていた警戒心をぐっと静める。心臓が早鐘を打っているようだった。
そんなこと、知ってか知らずか、男は座ったままの少女の隣に立ち、庭園を一望する。
「美しい世界だ」
そして、そう呟いた。少女はそれに「そうですね」と小さく返す。表情は変わらなかった。
「君はこの庭園が好きか?」
「ええ」
「ではもし、この庭園より大きく、より明美な世界を目にしたとして、それでも尚この庭園こそが美しいと言えるか?」
「何かと比べなくては、物の価値とは図れないものでしょうか?」
「少なくとも、人の目を魅了するのはより美しい物ではある」
「きっと花々や鳥や蝶だけが、美しさの本質ではないでしょう」
「では、君は何を以って美しさを垣間見る?」
「この縁側での時間こそが、美しさを着飾る美しい景色ではないでしょうか」
「つまり場所が違えど、同じ時を過ごせれば、そこが美しい世界になると」
「ええ」
「それは庭園ではなく、人と時こそが、美しさの源流ということになる」
「庭園も、その時の中にあります。人も世界も美しいと感じる心も、時の中に流れる一つのものです」
「なるほど」
男は踵を返し、縁側を後にした。
「アインスさん」
少女の声が、男の背中を呼び止める。
「ズィーベンさんは、お変わりありませんか?」
「相変わらず……といった具合かな」
慈しむような少女の問いに、曖昧な返答がなされた。
「……そうですか」
「あなたが気を病むことではない。彼は彼の運命を全うしようとしている」
「人は、やはり人のことを気に掛けるものですから」
「伝えよう」
「ありがとうございます」
「エイン」
唐突に話し掛けられ、引き戻されたようにはっと顔を上げる。
なぜだろう。この男はとことん苦手だ。初対面の時から近付くだけで緊張が走る。
「な、なに……?」
「外に今週分の物資が来ている。搬入を手伝ってくれるか?」
「あ……ああ、分かった」
まるで人が変わったように話し出すのを見て、こういうところかもしれないと感じる。
「ではまた、アシリレラ」
運び込まれた物資は、二人が暮らす分にしては少々多いように思える。
「警護の君にこのような仕事まで手伝わせてしまってすまないね。何せこちらも人手不足でね」
「……構わない。警護だけじゃ身体が鈍ってしまいそうだから……」
「助かる」
アインスは話す相手に合わせて会話のレベルをコントロールしているのだろう。縁側でアシリレラと話していた時と、こうして作業員にテキパキと指示を出している時とではまるで別人のようだ。
どちらが本当のアインスで、どちらが取り繕った姿なのか。
エインはその得体の知れなさが、彼を警戒してしまう理由なのかもしれないと思った。
だがそれ以上に、どちらも偽者に感じる自分がいる。そして嘘の奥にある”何者か”が、まるで深海で口を開けている怪物のように見えて仕方がないのだ。
小一時間ほど作業を続けて、ようやく荷の搬入を終えた。先週充足させた倉庫は半分程度に中身を減らしていたが、今日再び食料と消耗品でいっぱいになった。
「すまないね。お陰で日の高いうちに終わったよ」
「いいって」
こうして他愛のない会話や仕事を共にすると、アインスの異常性などいつしか意識の外へと消え去っていた。話すだけなら、言葉自体は柔らかで人当たりはいいし、面倒見もよく会話も明瞭で冗談も言うし、棘のある言葉も程よく吐く。おまけに聞き上手で、部下の話にもよく耳を傾けている姿が目に映った。
「君が警護で良かったよ。アシリレラも、歳の近い者が近くにいると安心してくれるだろう」
「……そうかな。全然話とか、しないし」
「それでいいんだよ」
アインスはそれで会話を切った。部下の作業員にゴンドラに乗るよう促すと、自らも乗り込み、ハッチを閉めた。そして窓を少し開け、一言
「また会おう」
とだけ言い残し、ゴンドラを出させた。
何となくだが、エインはアインスに対する警戒心が薄れたような気がした。軽作業に従事する彼の姿は、怪物でも何でもない、人間そのものだった。
エインの朝は屋敷の外から聞こえる、スズメの鳴き声と共に始まる。
「……なんだ?」
だがこの日は違った。小気味よく刻まれる木と金の音と、くつくつと何かが煮えるような音、そして、鼻を擽る香りが、エインに香ばしい目覚めを迎えさせた。
音と香りを辿ってみると、やはり台所に出た。ひらりはらりと舞うアシリレラの髪が、エプロン姿の背中で踊っている。
「おはようございます、エイン」
「おはよう……」
「この……オトウフ……? というのは美味しいですね。ひんやりとしていて、とても繊細なお味ですよ」
「とうふ? ああ、とうふね……」
どうやらアシリレラは初めて味わうその白いぷるぷるにえらく感心しているようで、朝から干物を使ってスープを作っていた。どうやらエインが起きて来るのを待っていたらしく、すぐにでも仕上げの香味を投入しようとしていた。
「さあ、もう出来上がりますよ。顔を洗って来てください」
「分かったよ」
エインは促されるまま洗面台に向かい、顔を洗い、台所に戻った。二人分の食器とお茶を用意し、二人で配膳をして食事に掛かる。
エインはアシリレラの料理が好きだ。特別な調理方法など用いるわけではないが、ほのかに柔らかいような、大地のように温かい香りがする。
そして今日の朝食はここ最近の中で特に美味しいものだった。少し多めに盛られた食事は、気が付くと、あっという間になくなっていた。
「ごちそうさま」
「いかがでしたか?」
「美味しかったよ」
「そうですか!」
アシリレラは心底嬉しそうに、ぱっと、咲くように笑った。
エインは片付けようと立ち上がると、アシリレラに止められた。
「片付けは私がやりますから、エインは座っていてください」
「いや、アシリレラが作ってくれたんだから……片付けくらいするよ」
「いえ、構いませんから、エインは座ってて?」
やけに頑固なアシリレラにエインはいぶかしむ。
「じゃあ、変わりにお茶を淹れるよ」
「はい、お願いします」
エインは戸棚から新しい茶葉を取り、湯を沸かして湯飲みを満たす。
「どうしたの?」
「?」
アシリレラがこうして朝食を作るのは今に始まったことではない。前触れもなく、ほんの気まぐれに料理をしたくなることがあるのだそうだ。今日もきっと例外ではないのだろう。強いて言えば、例の白いぷるぷるがアシリレラの料理欲を促したのかもしれない。
だが、エインが聞きたいのはそこではなく、いつもより少し頑ななエインの制し方について。
「いつもなら、分担して片付けるのに」
面と向かい合い、エインはアシリレラの目をじっと見た。
エインの目力は強い。紙のように繊細な肌を切り込んだような、先鋭な目尻。泉のように湛えられた眼の中に浮かぶ瞳は、まるで湖面の月のように相手を見据える。
そんなエインの瞳は、いつも無意識にアシリレラに吸い込まれる。まるで瞳が望んだように、彼女の瞳を射抜いて放さない。そしてアシリレラもそれは同じだった。矢のような視線を受けて尚、常に同じように柔和に微笑み返す。
「えっと……」
だが今日は少し違っていた。エインの訴えかけに、アシリレラはおずおずと視線を逸らした。
「言いにくいこと?」
エインはまた少しいぶかしみ、問う。
「その……少しだけ、お願いがあるんです」
少だけと置く割りに、妙に遠慮がちな態度を見せるアシリレラ。
「なに?」
促す。すると、更におずおずと、まるで緊張で閉じかけた口を綻ばすようにゆっくりと続ける。
「……外の世界を、見てみたいんです」
とは言え、アシリレラは保護された身である。
世界政府指定の最重要保護対象。セクションは【ヌール】とされているが、エインがそのセクションレベルを聞いたのは初めてだった。
「ごめんなさい、エイン……わがままを言ってしまって」
静かな風に揺れるゴンドラの中で、エインとアシリレラは向かい合うように座っていた。
「いいよ、別に。謝らないで」
エインはぼんやりと外を眺めて、アシリレラの謝罪を聞き流した。
アシリレラは悪いことなどしていない。あの狭い屋敷にずっといたのではストレスが溜まってしまうだろう。最重要保護対象とはいえ、危険が及ぶからと、一切の外出を禁じるようなことはしないはずだ。
それに、仮に危険が及ぶとしても、彼女を守る者がそばにいれば問題ないはずだ。エインはそのためにいる。
「でも、驚いた」
自分とゴンドラの外を、そわそわと見比べるアシリレラに、エインは出来る限り穏やかな声で語り掛ける。
「そんなにお願いするのが嫌だった?」
「いえ……そうではないんです。だって、エインの負担になってしまうんじゃないかって思って、なかなか言い出し辛くて……」
それで、少しでも負担にならないように、食事の後片付けをしたのだろうか?
「ふふっ」
なんだか発想が、小さな子供のようでおかしかった。
「わ、笑わないで下さい」
「ごめん、ごめんって」
拗ねたようなアシリレラの表情も、どこか子供のようだった。
エインの前で見せる、歳相応の表情。アシリレラの飾り気のない顔。政府の最重要保護対象という堅牢な檻から時折垣間見える少女の一面。エインは、そんな本当のアシリレラが好きだった。
ゴンドラは十五分程度の空中遊泳を終えると三重の鉄扉を裂いて、二人を大地まで案内した。
「大丈夫。おいで、アシリレラ」
ゴンドラは地にはしっかりと着かず、降りる際は半メートルほど飛び降りる必要がある。
エインは先に飛び降りると振り返り、そっと手を差し伸べた。
アシリレラはその手を取り、一瞬躊躇したように足元を見てから、視線を上げてエインをじっと見つめる。そしてエインが微笑んだのを見ると、やがて、ふわりと舞い降りた。羽毛のように軽い少女はエインの胸にすとんと収まると刹那動きを止め、ほっとしたように、自身を受け止めた温もりの中からその顔を見上げた。
「ありがとう」
「怖くなかった?」
「大丈夫です。だって、エインが支えてくれるもの」
エインも細身だが、アシリレラはそれより一層華奢で、手足などまるで絹糸のようであった。
それでも、腕の中に収まったアシリレラの体温は、エインには熱いくらいに感じられた。
「さあ、どこへ行きたい? あまり遠くへは駄目だけど……」
エインはしな垂れたままのアシリレラはそっと立たせ、御用を伺う。
だがアシリレラの返事は意外なものだった。
「ごめんなさい。実は私、外のことは全然知らないんです。だから、行きたい場所も、見たい物も分からなくて……」
「困った人だ」
「やっぱり、ただのわがままでした……」
「いいよ」
「え?」
いつから屋敷にいたのだろう。物心付く前か。それとも、ずっとあの屋敷で暮らしているのか。
今まで疑問に思いながらも口にしていなかったことが、エインの中でふつふつと湧き上がって来る。
「行こう」
屋敷の外の世界を知らない少女。鳥篭のような世界に閉じ込められた、穢れのない白い雛鳥。エインはそれを、悲しい白さだと思った。彼女には美しさがあるようで、その輝きは、ただの未使用のキャンパスの色なのだ。
「近くに綺麗な湖がある。今の時期は湖面の虫を食べるために魚が飛ぶんだ」
それなら、分からないなら、自分が何か見せて上げればいい。
「……はいっ」
純白のアシリレラのページに書いていくなら、何がいいだろう?
美しい白鳥? 四季折々の山々の彩り? 花か? 蝶か? そよ風の描く波? それとも月だろうか?
果たして、その中から彼女が望むものは何だろう? エインはアシリレラの手を取って、木漏れ日の中を進んで行った。
ぬかるみを避け、倒木を越え、半刻も歩くと、木々のカーテンを抜けた先の窪んだ大地が鏡のように輝くのを、アシリレラの心が受け止めた。
「わぁ……」
波のように押し寄せる、一面の銀世界。深みのある極彩色の森に抱かれた、大きな湖。
「凄い……凄いです、エイン! お屋敷より広い!」
「そうだね」
子供のように駆け出すアシリレラを、エインはゆっくり追い掛けた。
「アシリレラ、走ったら……」
「見て、エイン! 魚ですよ! 今跳ねた、跳ねました!」
「アシリレラ」
「あ、虹が……魚の飛沫が虹に変わりました! ほら、エイン、見てますか? 落ち葉の船もありますよ。紅葉があんなにたくさん……」
「アシリレラ」
「ひゃあっ」
「アシリレラ!」
無防備に転んだアシリレラの元に、エインは慌てて駆け寄る。
「アシリレラ、大丈夫? どこか打たなかった?」
しかし、アシリレラは突っ伏したまま、エインの問い掛けに応えることはなかった。代わりに、呻くような声を上げ、背中を丸めて動きを止めた。
「アシリレラ! 見せて、どこを怪我して……」
アシリレラに触れようとエインが手を伸ばした。瞬間、アシリレラの手がそれを掴み取って、強引にエインの身体を引き込んだ。
「えいっ」
「えっ?」
あまりに唐突な行動にエインは反応出来ず、雪のように積もった落ち葉の中のアシリレラに、覆い被さるように倒れ込んでしまった。
「ふふふっ……あははっ……!」
やられた。エインは目下にて笑うアシリレラの笑顔を見て安心しながら、まるで解き放たれたようにはしゃぐ姿に目を奪われそうになった。心配させたことへの注意など、もうどうでもよくなってしまいそうだった。
だが、彼女の手のひらで踊ってしまっては、エインの護衛としての沽券に関わるというもの。
「まったく」
「ふわっ」
だから落ち葉を一枚、アシリレラの額に押し当てる。本当は一掴みほど掛けてもやりたいところだったが、それだとこの笑顔が見えなくなる。
「走ったら危ないし、あまり遠くに行っても駄目だ」
「ごめんなさい……」
我に帰ったように、アシリレラはしおらしく俯いた。
少し強く言い過ぎただろうか。エインはそんな顔が見たくて言い聞かせたのではない。
「少し歩こう。湖畔に生えている木の実はそのままでも食べられるから、探しながら……」
「はいっ」
そうやって見せてくれる、屈託のない笑顔が好きだからだ。
二人は落ち葉を踏みながら、特に会話のない時間と共に、湖畔を一周した。
途中で摘んだ小振りな赤い木の実を食べながら、風に揺れる水面に耳を澄ます。
穏やかな時間だった。屋敷での時間とは違う、流れるような時間。時間はまるで風のように二人の間を撫でて行って、アシリレラの心をくすぐる。
「不思議ですね」
「何が?」
「お屋敷の外に出たの、初めてのように感じます」
「そうなの?」
「いいえ。ちゃんとありますよ、お屋敷に来る以前の記憶……」
「確かに不思議だね」
「お母様と、お父様の記憶……。もうずっと、声も聞いていませんけれど……」
「……アシリレラは、いつから屋敷にいるの?」
「いつなんでしょうね」
「分からない?」
「物心付く頃には、お屋敷が世界の全てになっていましたから。もう両親の声も、思い出せないくらい」
ずっとあそこに……? エインは押し黙り、アシリレラの境遇を思う。自分なら耐えられるだろうか? 否、きっと逃げ出すに違いない。今はアシリレラと寝食を共にしているものの、あの屋敷での生活の本質は、まるで永遠の浮遊の中に身を置くようなものだ。何にも触れられず、何にも触れられることのない、そして何にも不自由しない、圧倒的な停滞と虚無。
「一人でいる時はどうしてたの?」
「一人の時はありませんでした。常に護衛の方はいらっしゃいましたから」
「そうなんだ……」
考えてみれば当然のことだった。自分より以前に、誰も護衛がいないことなどありえない。エインは何だか複雑な心持ちになった気がした。
「護衛の方というのは、寡黙な方が多いのですね」
護衛の方。
事務的な物言いが、エインの知らないところにちくりと刺さった。
「エインは違うみたいですけれど」
「え?」
「エインが何だか、一番……」
悪戯っぽく覗き込んで、アシリレラは言葉を切った。
「なに?」
「何でもありません」
すっと、離れた。触れそうになっていた心が温もりだけを残して、二人の間に優しく糸を引く。
「気になるよ」
「ねえ、エイン……」
落ち葉の音が一つ止んで、エインの背中を引き止めた。
「なに?」
ほんの少しだけ開いた距離のまま、エインは振り向いた。
「エインは……いつまでお屋敷にいてくれますか?」
引き戻そうか、このままでいようか。縮めるのを躊躇うようなアシリレラの言葉が、エインの鼓膜に触れる。
「任期は一応、あと半年くらいかな」
「半年……」
長いようで短い時間だ。まともな神経の持ち主であれば、あの屋敷での生活を続けようなどという者は早々いないだろう。訓練された護衛や兵士であってもそれは同じことだ。とはいえ、エインはまだここにいてもいいと思えるくらいには、今の環境が気に入っていた。尤も、環境というよりは……。
「契約更改すれば、延長も出来るよ。機関の打診次第だけど……」
「違うんです」
「違う?」
「……任期とかじゃないんです。私は……!」
言い掛けて、アシリレラはその先を飲んだ。エインから目を逸らして、落ち葉に視線を落す。
「…………私、わがままですよね……」
言葉の先がエインには分からなかった。けれど、アシリレラのわがままならいくらでも聞ける。そう思った。
「言って」
「え?」
視線が帰って来る。
「大丈夫だから」
不安があるなら、何とかして上げよう。
エインにだって先なんて見えない。けれど、アシリレラ一人のわがままくらい聞けるつもりだ。
「だめです。きっと迷惑になっちゃうから……」
「いいから」
それに、今のアシリレラの欲しいものが何なのか、エインはちょっとだけ分かったような気がする。
今にも泣き出しそうな一人ぼっちの女の子が、差し出した手を取ってくれるのを、エインはじっと待った。それは、アシリレラという少女には分不相応な奥ゆかしさと、優しさが詰まった時間だった。
「…………エインは」
押して、練って、気持ちが捻り切れるほど回して、ようやく紡ぎ出す言葉。
「……ずっと一緒にいてくれますか……私とずっと、一緒に……」
きっと、一世一代のわがままだったろう。
一人で過ごす屋敷での時間。停滞と虚無の中にあるのは、苦痛。矢継ぎ早に繰り返される後任の護衛。そのサイクルこそが、慣れてしまったアシリレラに、屋敷に滞留する苦痛を実感させていた。
後悔しただろうか。まるで、他人を縛り付けるようなその言葉にどれほどの魔力があるかを、エインは分かっていた。
それでも、エインはその言葉がアシリレラの口から発せられるのを待ったのだ。
「ずっと一緒にいて下さい……私の隣に、ずっといて欲しいんです……!」
アシリレラは気丈だった。涙だけは流すまいと固く結んだ瞼の変わりに、搾り出した声が震えていた。
「もう一人にしないで……! 一人になるなら、優しさなんて教えられたくないの……!」
知ってしまった優しさは、きっと彼女を縛るだろう。一度海に零れた水は、二度と器に戻れないのと同じように。
「目を開けて」
エインは取ってくれた手を、包み返した。
そっと歩み寄り、視線をアシリレラに合わせて、震える肩に優しく触れた。
「ありがとう……アシリレラ」
その答えで以ってエインが何を示したかったのか、アシリレラには分からなかった。
傾く日に秋風が冷える頃、二人は屋敷までの道を歩き始めた。
ゴンドラ乗り場で二人を出迎えたのは、ここにいるはずのない男だった。
「ようやく戻られましたか……待ちくたびれましたよ」
「ドライ? どうして……」
浅黒い肌に、束ねられたオールバックの黒髪。特徴的な黒いコートを着た痩身の男。糸のように閉じられた目から感じられる刺さるような視線。遠目からでも正体はすぐに分かった。
「困りますね、勝手に出歩かれちゃ。何かあったらこっちの責任になるんですよ」
アシリレラはその詰問するような物言いに、思わずエインの影に入った。
「許可が必要だなんて聞いてないけど?」
エインは押し返すように言い返す。そんなにアシリレラを拘束していたいのかと思うと、構成員『ドライ』がここにいる理由などどうでも良くなった。
「あなたもそれなりのエージェントなら、そのくらい弁えていると思ったんですが」
「湖を見に行ってただけ。別に何もないよ」
とは言え、あまり問題を大きくしたくはない。
「じゃあ、今度からはちゃんと許可を取るから」
後ろに隠れていたアシリレラの手を「行こう」と取って、ゴンドラに乗り込む。エインが先に飛び乗って、アシリレラの手を取って引き上げる。ドライも、二人に続いてゴンドラに飛び乗った。
「まあ、二人で来てるよね」
ゆっくりと動くゴンドラに揺られ、屋敷に到着する。そこにはもう一人のコートを着た男が、律儀にも、降り口で胡坐をかき待機していた。
「なんだよその顔は! せっかく来てやったってのによ!」
長身のドライに比べると小柄な男。あまり知性的でない物腰や言葉遣いも、まるで正反対だ。だが二人は普段からペアで動いていた。今日も今日とて共に屋敷を訪れたようだ。
「まあいいか……。でも少し静かにしてよ、ツヴァイ」
「まあって何だ!」
「ツヴァイ、我々は喧嘩をしに来たわけではない」
「あーってら!」
エインとアシリレラは、ひとまず二人の構成員『ツヴァイ』と『ドライ』を連れたって、屋敷へと入って行った。
来客ということでアシリレラはすぐに夕食を作ろうとしたが、ドライが率先して台所に立った。
「あなたは座っていて下さい」
「で、でも……」
「構いません。新しいレシピを仕入れましたから、誰かに食べてもらいたいのです」
「そうですか……」
「おう小娘、こっち来いよ!」
敷居を跨いだ食卓から、実に品のない声で呼び付けられる。
「おいで、アシリレラ。ツヴァイが一発芸するから見て欲しいって」
「は? しねえよ!?」
「本当ですか? うわぁたのしみですー」
「おいおいおい、棒読みも大概にしとけよ! しゃーねーな、とっておきのやつ見せて分からせてやる」
「ああ、あれね。から揚げのマネだっけ」
「は!? 先に言うか普通! ハードル上げてくれんなよ!」
「から揚げだけに」
「先にネタ言っちゃう辺りフライングとも掛かってますね~……ふざけんな!」
急に賑やかになった食卓に、アシリレラは思わず笑みを零した。エインの口角も少しだけ上がっているように見える。
ドライの作った料理はあっという間に片付けられた。食卓には空になった皿が仰向けに散乱している。
「で? 晩御飯を食べに来たわけじゃないんでしょ?」
一息付いた頃、エインが唐突に口を開いた。
「定期監査以外で、それも突然現れるなんて……。急な用件?」
ドライは食事中と変わらず背筋を伸ばしたまま。ツヴァイも食後はごろごろと過ごしていたが、エインの一言を受け顔色を変えた。
アシリレラも、空いた食器を片付けながら、奥の流し台で聞き耳を立てている。
「そうですね。ではまず、結論から申しましょう」
不可思議な、突然の訪問。エインは食事中の他愛ないやりとりの最中、言葉の節々にあるピースを探りながら、彼らの目的について推測していた。尤も、これと言えるような答えは出なかったのだが。
「予定にはなかったのですが、エイン、あなたには一度、我々の本部に来て頂きます」
「本部に?」
本部とはかつて彼らに会い、初めて生物を無機質だと感じたあの部屋のことだ。そこから、契約締結時依頼の召集が掛かった。呼び出されること自体は、想像していなかったわけではなかった。だが目的が分からない。契約の期間はまだ残されているし、不手際について注意喚起を受けるにしても、まるで身に覚えがない。
「そこで今後の契約内容と、それから、最終段階に進む計画についての内容の確認をして頂きます」
ドライから『最終段階』という言葉が出た瞬間、食器の片付けをしていたアシリレラの手が止まった。
血の気が引いていく。硬直した身体は、まるで時が止まることを望むかのように動こうとしなかった。
「計画?」
「詳しい内容については本部でお話しします」
エインが契約を交わす際、機関には護衛任務ということ以外何も伝えられていなかった。
その計画が何を目的としたものなのか、エインには想像も付かない。契約内容に大きな変更を齎すものなのか、それとも、このアシリレラの護衛そのものが……。
「今は、あなたの任務そのものがこれから始まる計画の一部だった……それだけしか言えません」
それはつまり、計画にはアシリレラ自身も関わってくる可能性があるということだ。
「なるほどね……」
「よく考えて下さって結構です。また数日中に答えを伺いに……」
「いや、いいよ」
エインはドライの申し出を遮り、続ける。
「行くよ。交代が来次第、本部に発つ」
となると、エインには断る理由がなかった。むしろアシリレラが動く以上、エインはどこへだろうと向かう気構えでいた。例え不要と言われようとも、例え地の果てまで向かうことになろうとも。
「エイン!」
だが、即答するエインに、アシリレラの声が衝突した。
滅多に聞くことのないアシリレラの大きな声が、屋敷に響く。エインは勿論、ツヴァイもドライも思わず目を見開き、三人の視線は一瞬にしてアシリレラに集まった。
「そんなに簡単に決めてはいけません! 危険なことかも知れないのに……!」
食い付くようなアシリレラの物言いにエインは一瞬たじろいだ。ここでアシリレラと過ごすようになって一年近く経つが、ここまで取り乱す姿を見るのは初めてだった。
「どうしたの、アシリレラ。そんな心配するようなことなんて……」
「駄目です、私が許しません!」
アシリレラは迫るような足取りでエインに迫った。まるで親が子を叱り付けるように、エインが口を開こうものならその度に。
「大丈夫だって。きっと契約の話で、すぐに帰って来るから……」
「違うんです! 駄目なんです! 行かないで、お願いですから、エイン……」
だがやがて弱々しい口調で縋るように、エインに行かないでと何度も懇願するように、アシリレラはその勢いを失っていった。
ここまで強く言われ、正直動揺していた。人に何か頼み込まれ、たじろぐことなどエインにとっても初めてだった。
けれど行かないわけにはいかない。アシリレラにどんな理由があろうと、それが彼女を守ることに繋がるのなら、それがエインの望みになる。エインは泣き付かんばかりのアシリレラの肩にそっと触れ、慎重に言葉を選びながら諭してゆく。
「アシリレラ、聞いて」
「嫌です……」
「今日はわがままだ」
「ごめんなさい」
「いいよ。今日は、二人でわがままになろう。おあいこ」
「エイン、私は……」
「ドライの言う計画にはきっと、いや、間違いなくアシリレラ自身も関わらなくちゃいけないんだと思う」
アシリレラは黙って耳を傾けていた。
「もしそうなら、その計画にどこまでも乗るよ。一人だけ置き去りになんて、しないで欲しい」
アシリレラを守るために必要なことなのだ。
「分かりました」
言葉をきつく噛み千切らんばかりに、アシリレラは頷いた。エインと目を合わせようとはせずに。
「ごめん」
「いえ……」
しかしエインはこの時、アシリレラがこのことについて何か知っているということに既に気付いていた。そしてそれをあえて言わずにいるのだということにも。
アシリレラは悪意を持って隠し事をするような人ではない。それを知っているからこそ、何か事情があるのだとエインは飲み込んで、本部にそう伝えるよう二人に言い付けた。
静かな夜が更けていく。小鳥の寝息さえ聞こえそうな夜闇の静寂が、今日はやけにうるさく感じられた。
東の大地にある本部までの行程は、屋敷から凡そ三日。馬車もなく、船もないエインは、屋敷を囲む山々を下りて、ただただ広がる真っ青な草原を、空から吹き降ろす風と共に歩いた。風は追い抜き様にエインの髪を撫で、赤い襟足を靡かせる。膝元まで伸びた草花が木霊のように高鳴って、草原を波立たせた。
半日かけて草原を抜けると、岩盤が反り立つ霧の高原へと入る。岩盤の中には時折、文字が刻まれた物を発見出来る。とはいえエインには読めない文字であった。そもそもこれが本当に文字なのかすら断言出来ない。ただ一度、屋敷まで送り届けられる際、構成員の一人である男が仮面の下でそう言ったのを覚えている。
その日は高原に入ってすぐ、日の落ちないうちに岩盤の影で火を起こし、アシリレラの用意してくれた保存食を食べ夜を過ごすことにした。
背嚢を置き、その脇に、帯刀していた剣を立て掛ける。
揺れる火を眺める。夜になると凡その時間も判別し辛い。
エインは明日のルートを確認しようと、背嚢に手を伸ばした。背嚢に指先が触れた途端、柔らかい何かにくすぐられ、エインは思わず手を引っ込めた。
「これは……?」
背嚢を回し、その柔らかな何かを視認する。背嚢の横に、見慣れない紐がぶら下がっていた。
青と桜の毛糸で編まれた紐だった。紐の先には、また別の紐が輪になって括り付けられている。アシリレラが家事などをする際使っている髪紐だった。
「お守り、かな」
まだ離れて二日と経っていないというのに、ずいぶん長いことアシリレラの顔を見ていないような気がした。出立の時、屋敷の外で「ご無事で」と見送ってくれた泣き出しそうな顔が、エインの脳裏をよぎる。
髪紐を手の中で揉む。不思議と暖かく感じる。アシリレラは今頃何をしているのだろう。ちゃんと食事を摂っているだろうか。しっかり眠れているだろうか。
エインはアシリレラと同じ星の下、一刻も早く夜を明かすべく、仰向けになり、瞼を下ろした。
翌朝、エインはすぐに寝床を発った。
高原を抜け、最後の丘を越えた辺りで見えてくるのは、空に届かんばかりに隆立した何本もの柱だ。
尤も、例え見えていても、柱はここから凡そ一里半の距離にある。それだけ離れていながらこうもしっかり視認出来るのだ。近くで見れば如何なる大木より太く頑強であることが分かるだろう。
誰が建造したのか、いつの時代に建造された物なのかは誰にも分からない。ただ一つ言えることは、その柱が紛れもない人工物であるということだけだ。
しかしながら、今は観光に割いている時間などない。
この仕事が終わったらアシリレラを連れ出そう。
エインは本部への道を、早足で進んで行った。
これから小説を書こうとしている人へ。
夕飯が美味しかったとか、自販機でジュースを買ったとか、学校で楽しいことがあったとか、嫌なことがあって腹が立っているとか。まずは何でもいいのです。筆を取りましょう。あなたの持っているその便利な端末は、あなたと原稿用紙の架け橋です。
難しい言葉なんて必要ないんです。卓越した描写も、上品な表現もいりません。
喋り言葉と語り口調が行ったり来たりしてもいい。本文に草生やしたっていいのです。なぜならそれが、今のあなたの言葉だからです。
とにかく楽しめなんて浮付いたことも、勉強して研究して苦しめなんて野暮なことも言いません。
どこかの何かに対して、あなたの中の何かを書き表す。筆先から落ちた一滴が作る様々な道。それがあなたの人生の中にある、知らないところを歩く一歩になるのです。
このあとがき、本編とはあまり関係ないんじゃないかなぁ……。