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世界輪廻のアシリレラ  作者: 道峰ユヤ
12/16

十一滴『崩れぬ先の地へ』

 暗がりが怖かった。

 誰かの手が離れていって、なにも見えない冷え切った闇の中に放されるのが、とても怖かった。

 ほんの十余年に過ぎない。輪郭さえ朧になるには短過ぎる時。それは、まるで何百年も昔の思い出のように瞳の奥で霞み掛かっていた。

 沢山の霞の先に光があった。

 手を伸ばす。暖かい光だった。

 だが掴んだ光は、やはり光であった。光は気付かぬうちに、自分の中に拭えない影を潜ませていた。

 影の形は様々であった。

 不意に胸を打ったのは、ずっと目の前にあって、目を背け続けていた影だった。

 胸を打たれて、思い知らされた。

 そうだ、この人はずっと風に当たり続けてくれていたのだ、と。それは、自分のためであり、私のためであった。故に傷を増やし続けてきたのだ。

 霞の先の、光であるために、心と身体を燃やし続けて。

 熱を享受するのは、自分一人。否、それは二人の光。

 一人で作る、二人の光。

「……ぁ」

 闇が瞼の裏に変わる。

 薄らと照らされる灯火に開いた目を細めて、アシリレラは知らない天井に見下ろされていることに気が付いた。

「ここ……は……?」

 直近の記憶を探る。

 確かエインを追い掛けて、岩の巨人に襲われて、それで。

 そうだ、エインはどうなった?

 アシリレラは反射的に身体を起こした。

「っ……!」

 咄嗟に動かした身体の各所が悲鳴を上げる。

 背中、腕、腰部に足に。痛みのないところを挙げた方が早いかも知れない。

 自分の身体を抱き締めるように、腕を回す。

 衣服も変わっていた。着ていた和装と羽織は姿を変え、薄くて軽い、白い浴衣のような寝巻きを身に付けていた。

 そして自分が今、柔らかいベッドの上にいるということに気付く。

「あら、目覚めたのね」

 人の声がした。

 顔を向ける。

 部屋の入り口に、見覚えのない、妙齢の女性の姿があった。

「あ……え……?」

 白い壁とくっきりとした明暗を付ける、床を擦る程に長い、真っ黒なローブ。その裾から覗かせる足は白く、枝のように細い。アシリレラを刺すような眼差しを放つ深堀の瞼は細く切れて長く、引き込まれるような感覚にアシリレラを陥らせる。

 ローブの上からでもはっきりと分かる程女性的な凹凸に恵まれた体躯だが、一見すれば華奢だ。だがよく見れば、その四肢も、腰付きも、しなやかながら薄らとした筋肉に覆われていることが分かる。

 世界再配置委員会の構成員でないことは、ひと目見て分かった。相手がホムンクルスであればアシリレラは直ぐに分かる。

「ここは私の部屋」

 女性は長いウェーブの掛かった髪を揺らし、ヒールを打ち鳴らしてベッドまで歩み寄ると、アシリレラに迫るような位置に腰掛けた。

「倒れていたのよ、あなた。私の庭でね」

 女性は表情一つ変えずにアシリレラの手を取ると、その手首から肘を覆っていた包帯を徐に解いていった

「若いって良いわね」

 傷のない、真っ白な肌を一瞥すると、嫌味でもなくさらりと言い捨てる。取った手を離すとアシリレラの顔に手を伸ばし、額の包帯と、頬に貼られていたガーゼを剥がした。手際良く動く指は首筋を滑り、薄手の寝巻きの襟元に差し込まれ、肌蹴させて。

「あ、あのっ」

 なすがままだったアシリレラが、はっと我に帰ったように、女性の手を諫める。

「うん」

 掴まれた手を振り払うこともせず、女性はじっとアシリレラの瞳を見つめた。

「助けて下さり、ありがとうございます」

「はい。よく出来ました」

 言われ、待っていたとばかりに、女性は頷いた。

「あなたはひょっとして、この街の方ですか?」

 一度火が入った歯車のように、アシリレラは女性との会話を試みる。思いもよらない他者との接触に、もしや自分達との交流が通じないのではないかという危惧もあった。

「そうよ」

 そんなアシリレラの不安をよそに、女性は素っ気ない態度で返した。

 エインと構成員以外の人間を見たのはいつぶりだろうか。

 もうエイン以外とは会話もままならないと思っていたアシリレラは、新たに現れた他者に強く興味を惹かれた。

「いつからここに住まれているのですか?」

「さあ? 忘れたわ」

「世界再配置委員会の人達にはバレていないのですか?」

「知らないわ」

「お一人ですか?」

「……そうね」

 やや興奮気味に迫るアシリレラの問いに、女性は当然とばかりに答える。

 やはりだ。石像を見付けた時から、無機質だったカルモーの街に、そこはかとない、人の残り香のようなものを感じていたのは気のせいではなかったのだ。

 この世界にはまだ、人間が生き残っていたのである。

 アシリレラは語り掛けながら表情を咲かせていったが、一瞬冷静さを取り戻すと直前まで自分達が置かれていた状況を思い出し、直ぐに表情を変え、焦り出す。

「あのっ、私の他に人は……この位の背の、襟足の赤い人はいませんでしたか?」

 ぐいと迫るアシリレラが慌ただしいとばかりに、女性は顔を顰めた。

「さあ? 庭に出たのはあなたを拾った時だけだから、それ以外のことは知らないわね」

 女性はすっと立ち上がると、ベッドに背を向ける。

「少し休んでいなさい」

 払うように言い残すと、女性はそのまま部屋を出て行った。

 女性の残り香だけが、アシリレラの隣に、まるで影のように浮遊している。

「……エインを探さないと」

 女性の好意は嬉しい。だが、アシリレラにはやらなければならないことがあった。

 戦いがあった。そしてエインは、また一人で戦った。

 その中で、エインはアシリレラが見たこともない顔を見せた。

 あんな顔を見てしまっては、今エインを一人にすることなど出来ない。

 立ち上がろうとベッドの柵に手を掛ける。身体を起こそうとして引き寄せた足が、激痛を帯びた悲鳴を挙げた。

「くうッ……!!」

 毛布を持ち上げ、痛みの元を見る。痛みを訴えた右足は分厚い包帯に包まれ、柱のような添木によって丸々と大きくなっていた。

 重い。これが自分の足だとは信じられない。

 何度か動かしてみる。その度に激痛が走る。これでは歩くどころか、立ち上がることさえままならない。

 それでもと重たい足を引き摺って、なんとかベッドから抜け出そうともがいた。

「ううー……! ひゃあっ!?」

 ベッドの端に手を置いた途端、不意に支えを失い床に転げ落ちた。

「いたた……」

 どしんという大きな音に戻って来た女性が不審なものを見るような眼差しを向けている。

「何してるの?」

 溜息混じりの問い。

「私、行かなくてはならないんです」

 床を押して、立ち上がる。

 自分の身体を重いと感じたことは、これまで一度もなかった。

 それが、こんなにも重い。身体を起こそうとしている筈なのに、身を捩るだけで、固定された足が痛くて仕方がない。

 痛いのは、辛い。

 戦いとは無縁の場所で生きてきたアシリレラにとって、初めて味わう痛みだった。

「……はぁ」

 女性は乾いた溜息を吐くと、アシリレラの腕を取った。

「あ、ありがとうござ……きゃっ」

 そしてそのまま、アシリレラをベッドに押し込んだ。

「なっ、何をするんですかっ!?」

 強引に女性に押さえ込まれ、思わず抵抗する。

 だが、抵抗虚しくアシリレラは両手首を掴まれ、華奢な腰を両足で挟み込まれて身動きを封じられる。

「……え?」

 一瞬、時が止まったかのように感じた。

 女性の翡翠のような瞳が、アシリレラの瞳を覗き込んでいる。

 鼓動が早鐘を打ち、支配権を奪われた恐怖に萎縮した膝が爪先を引き寄せた。

 そんな緊張などお構いなしに、女性は、アシリレラの瞳を覗き込む。

 透かすように。探るように。そこから、奥まで入り込むように。

 目を逸らせない。捕食者に睨まれているような緊張感が、視線を離すことを許してくれない。

 けれど、その瞳から悪意が降りて来ることはなかった。

 一切の穢れを廃された宝石のように、そこに埋め込まれたように、黒々と湛えられている。

 けれど、その瞳はどこか渇いていて、何かで淀んでいるように見えた。

 まるでその奥にある、澄んだ宝石を隠すように。

「ごめんなさい」

 ぽつりと溢した女性の一言に時の流動を感じて、アシリレラは抵抗を止め、四肢を弛緩させた。

 女性はシルクのシーツのようにアシリレラから離れると、ベッドから降り、柵に触れ、ベッドの中央に正対する。

「いえ、私が無理するから……。ごめんなさい」

「折れているのよ」

「え?」

「その足」

「あ……」

 言われ、自身の怪我の程度を知る。

 アシリレラは骨折など一度もしたことがなかった。

 とても痛い。エインから聞いてはいたが、実際に味わうのは初めてだった。確かに、これは痛い。

 こんなこと、エインが知ったらきっと顔を青くするだろう。

 これ以上エインに心配を掛けたくはなかったが、知らなかった痛みを一つ知れたことは、決して悪いことではないように感じられた。

 

 女性が煎れてくれた薬草茶が喉を通り過ぎる。

「ありがとうございます」

 強い薬草の臭いが始めは鼻を突くようだったが、舌に触れると自然な蜜のような甘味が鼻腔に昇り、味覚を柔らかなものに変えた。

 アシリレラの知らない香りだった。しっかりと甘いが、後に残らずすっと引いていくような味わい。

 薬草茶を味わう余裕がある自分に驚きつつも、今は兎角居直ることしか出来ないことをアシリレラは理解していた。

「あの……私、アシリレラと申します」

 おずおずと切り出す。敵意がない上、機関の人間でもないことこそ分かるものの、まるで接点のない相手との理解を深め合うのは、アシリレラにとって初めての体験だった。

「聞いてないわ」

「あぅっ」

 そんな緊張の面持ちを容赦なく切り捨てられ、アシリレラは少しだけ凹んだ。

「ミネット」

 そんなアシリレラを拾い上げるように掛けられた声は、アシリレラには少しだけ柔らかく聞こえた。

「ミネットさん」

 瞬時にぱっと表情を咲かせて、アシリレラは女性、ミネットを見つめた。

「ミネットさん」

 もう一度、名前を呼ぶ。

「何?」

 用などなかった。ただ本当に呼んだだけ。呼びたかっただけ。

 初めて自分から得られた交流に、アシリレラの胸は踊っていた。

「なんでもないです」

 弾む声に拍を付けて、アシリレラは屈託なく笑った。

 ミネットは目の前の厄介な拾い物に頭を悩ませながら、少しでも話を進めようと、切り出す。

「それで? あなたはどうして私の庭で倒れていたのかしら?」

 問われ、アシリレラは溢れ出る声を、納めた。

 忘れていたわけではない。ただ少し浮かれていたのは確かだ。とはいえ、居直るしかないと分かりつつ今にも駆け出しそうな気持ちを抑えるには、いっそこうするしかなかったのも事実だった。

「実は……」

 思い出す。

 崩れ落ちるカルモーの街で、遮られた姿に手を伸ばしながら、視界の端に過ったあの時の顔を。

 

 小屋の外は、まるで窓のない蔵のように暗かった。

 アシリレラは、杖を支えに少しずつ、暗闇の中を進んで行く。

 一歩。引き摺る足が、じゃりじゃりと砂を擦る。

 杖の先が柔らかい地面を捉える。先端がぐっと沈むと、圧縮された土がアシリレラの体重を受け止めた。

「どうしてこんな所で暮らしているのですか?」

 光さえ満足に当たらない、地下に作られた空間。

 少し前を歩くミネットの細い背中に、アシリレラは語り掛けた。

 ごく自然に抱かれる疑問に逡巡しながら、ミネットは

「さあ?」とだけ返した。

「忘れたわ。どうでも良いことだったんでしょうね」

 どうでも良いような理由で、人はこのような場所に居を構えるだろうか。

 硬い小石がアシリレラの足裏を押し付ける。

 決して快適とはいえない空間。

 明かりは、ミネットの灯した蝋燭のみ。ほんの僅かな太陽光すらない、常闇の世界。

「私、ミネットさんに聞きたかったことがあるんです」

「何度も聞いてるじゃない」

「確かに……そうですね」

 言われて質問だらけだったことに気付き、アシリレラは苦笑した。

「街に、沢山の石像がありました」

 ミネットの足が止まる。

 釣られてアシリレラも、杖を突いて身体を支えた。

「……それで?」

「ひょっとして、あれはミネットさんが作られたのではないかと思いまして」

 アシリレラは無邪気だった。真に好奇心のままに、ミネットに質問をして、その足を止めている。

「なぜ、そうだと思うの?」

「作られた日付が刻まれていましたから」

「いつだったの?」

「そう昔ではありません。ここ数十年の……あ」

「そういうことよ」

 少なくとも、ミネットの年齢に相応しい年月は刻まれていなかったように思う。

 では、ミネット以外の生存者がいるということだろうか。少なくともミネットは、自分は一人であると言っていた。つまりこの街全てを見ればその限りではないのかもしれない、ということなのかもしれない。

 二人はしばし無言のまま歩き続けた。

「ここよ」

 不意に、ミネットは足を止めた。

「ありがとうございます」

 そこは、崩落する地面にアシリレラが飲み込まれ落ちた場所だった。

 思い右足を引き摺って、ミネットの前に出るアシリレラ。

 崩れた天井から、ほんの僅かだが太陽の光が射している。

 そこには、かつて天井であった物の残骸が、山のように、高々と積まれていた。残骸の山は今にも崩れそうな程不安定で、時折、頭上から枝垂れ落ちる砂の滝を受け、迷惑そうに砂埃を舞い上げている。

 そんな残骸の中に、見慣れた履物が、一足だけ残されていた。

 それは、アシリレラのブーツだった。

 残骸と砂埃を受けたブーツは既にボロボロになっていた。

 それでもアシリレラは天井の残骸からブーツを掘り出そうと、膝を屈めた。

「ッ!?」

 体重を受け止めた足に、激痛が走る。

「当たり前でしょう……」

 ミネットは悶え苦しむアシリレラの脇を抱えると、ゆっくり立ち上がらせた。

「あ、ありがとうございます……」

「慣れてないんだから、無理しない」

「は、はいぃ……」

 患部は引き続き痛みを訴えていた。乱れた呼吸を整えようと、深呼吸。

「ミネットさん?」

 するとミネットは、徐に、アシリレラの傍にしゃがみ込んだ。

 足を見てくれるのかと思い、動かぬようじっと待つアシリレラ。だがミネットはそれを知ってか知らずか、天井の残骸を一つずつ、そっとかき分け始めた。

「あ、あの……」

 小さな残骸から、少しずつ、黙々と剥ぎ取るように。

 作業的な手付きで、ミネットは山を切り拓いた。

「はい」

 すっと立ち上がり、アシリレラに差し出す。

 ブーツだった。

「あっ……」

 アシリレラなりにミネットの分析を進めていく中で、彼女は、どこか冷めた印象の女性だという印象を持つに至っていた。

 故にミネットの行動はアシリレラにとっては予想外で、その意識外から覗かせた優しさの一端は、前提にあったひんやりとした印象を覆すには充分であった。

「あ、ありがとうございますっ!」

 覆った印象は、アシリレラの表情を引き出していた。

 勿論、大切なブーツが帰ったこともあるかもしれない。だがそれ以上にアシリレラを咲かせたのは、砂だらけになったミネットの両手と、白く汚れた真っ黒なローブの袖口だった。

「そんなに大切な物なの?」

「そうですね……大切、なのかもしれません」

 初めてミネットの興味を引くことが出来たのは、アシリレラの表情だった。

 ミネットはブーツを引き金に感じているかもしれないが、その相反する捉え方こそ、ミネットの中にある暖かさの証拠であるように、アシリレラは感じた。

 ブーツを少し強く抱き締める。

 楽しかった頃の、言わば思い出だ。残された物は少ない。少しでも大切にしようと思った。

 その時だった。

「誰?」

 残骸の山に降り立つ気配に、ミネットは咄嗟に声を出していた。

 僅かな陽光の隙間に、人影が揺らめいていた。

 その影を見上げたアシリレラの脳裏に、フラッシュバックするものがあった。

 初めて見る、その表情はまるで怒りを湛えた鬼神のようで、それでいて、焦りと

どこか怯えるような目をしていた。

「エイン!?」

 目視したエインの表情は、地上で見た時のそれとは違っていた。

 ただ、砂埃と血液に濡れたその姿は疲労に浸かっており、今にも崩れ落ちそうな程弱々しい。

「アシリレラ……無事、だった……」

 エインから、力が抜ける。膝が折れ、糸の切れた人形のように、残骸の山に倒れ伏した。

「エイン!」

 直ぐにでも駆け寄ろうとするアシリレラを、ミネットが制する。

 軽快に残骸の上を跳ね渡るとエインを抱き上げ、口元に耳を寄せた。

「……寝ているわね」

「へ?」

 

 白い部屋に窓の一つもないことに気付いたのは、気を失ったエインをベッドに寝かせた後だった。

「すみません、またお世話になってしまって」

 二度も救ってもらい、まさに頭の下がる思いであった。

 アシリレラはなにか形で例を示したいと考えていたが、向かいに座るミネットの反応は、変わらず静かなものだった。

 エインの単調な寝息を聞きながら、ソファに腰を沈める。時計すらない部屋で流れるのは、空気と刻と息遣いだけ。

 アシリレラは、両手で包んだ湯気立つマグをそっと口元に運び、一口。

 美味だ。

 茶を煎じるのは、ミネットの趣味なのかもしれない。来客のないこの小さな小屋で茶を煎れる理由があるとすれば、それは彼女の趣向に他ならないだろう。

「構わないわ。どうせ、一人だから」

 感慨もなく、ミネットは明後日の方へと雑に放った。

「で?」

 だがミネットは、エインを注視すると表情を渋らせた。

「誰なのよ、あれ」

「私の、大切な人です」

 あれ、とは当然、エインのことだ。

 まだ出会って間もない相手に足掛かりを求めるミネットに、アシリレラは恥ずかしげもなく言い放つ。

 それは自然な歩み寄りだった。

 ミネットが、ミネット自身とアシリレラを中心に、エインとの間に境界線を設けている。その僅かな態度の変化を、アシリレラは見逃さなかった。

「ミネットさん」

 何気ない所作だったが、アシリレラにはそれがミネットから送られる糸のように思えて、つい口角が緩んだ。

 尤も、ミネットの真意は分からない。だがもしそうなら、そんな望みと根拠のない確信に、仄かな温かみを感じる。

「実は私達、旅をしているんです」

 それなら、こちらも誠意を見せなくてはならない。

 元々恩のある相手だ。身元を隠すのは道理ではないだろう。

「追われる旅です」

 立場も、どういう状況であるかも、詳細に話さなくてはならない。

「ミネットさんのお庭の天井を破壊した人達から、私達は逃げています」

「逃げる?」

 罪人には見えない。そう言いたげなミネットの表情も、アシリレラの発した言葉で変化を見せた。

「世界再配置委員会」

 その名を口にした時、どこか張り付いたようだったミネットの表情が、少し曇った。眉を潜ませ、視線が強張る。

「私達を追っているのは、この世界を変えた人達……そして、新たな世界へと導こうとしている人達です」

 恐らく、ミネットは知っている。それはこれまでの表情から窺い知ることが出来る。そして、彼女が機関に対して、どのような心象を抱いているかも、そこには顕在化しているように思えた。

 それでも、アシリレラは続けた。ミネットが現状をどこまで理解しているかは分からない。けれど、それぞれの分かること、認識を互いに提示し合う必要があると思ったからだ。

「……そう」

 ミネットは、アシリレラの言葉に素っ気なく切り返して、残った茶を飲み干した。

 依然として鋭く引かれた目元が、アシリレラの洞察を肯定していた。

「あの、ミネットさん」

 それっきり語る舌を治めたミネットを揺さぶるように、アシリレラは続けた。

「迷惑を掛けるつもりはありません。エインの目が覚めたら、私達はここを発ちます」

 どこか諭すような、言い聞かせるようなアシリレラの語り掛けを、ミネットの耳は緩やかに包して一つ一つ立てて並べてゆく。

 心地良いものではない。

「こんなにことになってしまって、当事者の私達が言うのはおかしいと思います。けれど……」

 それ以上は言わないで欲しい。ミネットの耳が軋む音に、その眉間には一層深い皺が走る。

「けれど、ここもいずれは彼らに発見されてしまうかもしれません。時間の問題です」

「だったら?」

「一緒に行きませんか?」

 やはりだ。

 これ以上掻き乱されるのはごめんだ。

「……時間だわ」

「え?」

 このタイミングで訪れた時間は、まるで便利な言い逃れのように働いた。

「少し外すわ」

「どちらへ?」

 嫋やかに立ち上がると、ミネットは部屋を出て行った。

「好きにしていなさい」

 そう言い残し、小屋を後にする。

 

「だからって付いて来ることないのよ」

「ふふ……ごめんなさい」

 ランプを下げて洞窟の中を歩くミネットの傍を、アシリレラは狭い歩幅で歩いた。

「もっと知りたいですから」

「は?」

「ミネットさんの煎れてくれたお茶、とても美味しかったです」

「そう」

 声色の落差が、どことなくミネットの感情を映しているような気がした。

 一見すると考えていることが分からないようで、少し観察すると、表情以外のところに感情が現れるのがよく分かる。

 気難しそうに見えて、漂う香りのような感情を受け取るのは意外な程簡単だ。

 そう思うだけでミネットという人物が分かるような気がしてくる。

「言っておくけど、付いて来たって面白くなんかないわよ」

 薄壁一枚から投げ掛けられる彼女の警戒心に、アシリレラは愛らしさを覚えた。

「はぁ……あのねぇ」

「何ですか?」

「私、何かおかしなこと言ったかしら?」

「いえいえ」

「あなた、意外と性格悪いわね」

「えっ!?」

「自覚なかったの?」

「そ、そんなことないですよ!? 私、真面目ですし」

「そうね」

「そ、それにですね」

「うん」

「優しいんですから」

「……ふっ」

「ああっ! わ、笑った! 笑いました!?」

「だって、そこは自覚してるのね、って……やっぱり性格悪いじゃない」

「ど、どうしてですかっ!?」

「あのね……」

 言い掛けて、ミネットは言葉を切った。今日はつくづくタイミングに恵まれる日だ。

「着いたわよ」

 仄かに、囁くような音が、洞窟中に反響していた。

 音の正体はすぐに分かった。

 柔らかな粒子の擦れ合うような、押し合い、引いてゆくような、ゆっくりとしていて、それでいて大きな流れのような柔らかな音。

「わ……凄いですね」

 音に引き寄せられて、アシリレラは歩を進めた。

 ミネットに無防備に背を晒して、閉塞的な洞窟の壁が開けた先に広がる、広大な景色に目を光らせた。

「私、海って初めて見ました!」

 くるりと振り返ったアシリレラの目は、大きく見開かれ、ガラスのように爛漫と輝いていた。

「そうなの?」

「はい。小さい頃からずっとお屋敷にいましたから、遠くまで行ける機会なんて殆どありませんでしたし……」

「意外ね。良いところのお嬢さんみたいに思っていたわ」

「良いところ、ですか」

 あながち間違いではない。扱いは国賓級、否、国家のあらゆる機密の中でも最上位に置かれていた自分は良いところの、と称されて差し支えないだろう。

 それにしても、カルモーがここまで海に近いとは夢にも思わなかった。乾いた気候に頑強な岩肌。本来海辺の近くであればそのような環境にはなり得ないのが通例ではないだろうか。

 それとも、アシリレラに自覚がないだけで、いつの間にかなりの距離を歩いていたのか。

「不思議そうね」

「はい」

「ポータル……なんて言っても分からないわよね」

「ぽー……?」

「まあ良いわ。そういうものよ」

「はえー……」

 まるで分かっていないアシリレラは一旦置いて、ミネットは、壁の向こうをそっと覗き込んだ。アシリレラも、隣に並び、一緒に下を覗き込む。

「!?!?!?!?」

 そこは、一切の支えのない、垂直に切り立った崖であった。

 あまりに吹き抜けた空間に、アシリレラは思わず飛び退いて尻餅を突く。

「さ、先に言ってくれても良いじゃないですか……!」

「そんなに怖かった?」

「び、びっくりしました……!」

「三十メートルはあるから、たぶん落ちたら助からないわよ」

「き、気を付けます」

 アシリレラは、差し出された手を取り、立ち上がった。付着した砂を手で払いながら、今一度呼吸を整えて、ミネットを見やる。

 ミネットが、崖から飛び降りた。

「えええええええ!?」

 あまりに唐突な行動に、アシリレラの口からかつてない程大きな声が出た。

「ミネットさん!?」

 崖っ淵に齧り付いて、眼下に広がる断崖絶壁を覗き込む。跳ね上がった鼓動は、より早く脈動を繰り返していた。

「何かしら?」

 覗き込んだ直ぐ先に、ミネットの顔があった。

「……へ?」

 眼下の世界から響き渡る波音と潮風に髪を踊らせて、ミネットは、身を乗り出したアシリレラと鼻先を突き合わせる程の位置に立っていた。

 勿論宙に浮いているわけではない。切り立った崖の岩肌に、僅かに突き出た足場の上にミネットは着地したのだ。

「何よ……変な顔して」

「あ、いえ……え? 待って下さい、普通驚きますよ?」

「そう?」

「そうですよ」

 ミネットは風貌や言動から一見真人間に思えるが、どうやら極端に常識に沿わない面を持ち合わせているらしい。

「何をされてるのですか?」

 じっと覗き込むアシリレラをよそに、ミネットはその場に屈むと人差し指で地面を撫でる。

 慣れた手付きで真円のように滑らかな囲いを描き、更にその内部を装飾してゆく。

 幾何学的で、法則性の強い図形が、ミネットの白い指先によって歪みなく描かれる。

 時には三角形を、時には歯車のように凹凸のある幾重もの小さな円を。

 これまでいったい何度同じ工程を繰り返したのか。想像に難くないミネットの見事なまでの指捌きが外円を埋め尽くすのに、そう時間は掛からなかった。

「気になるの?」

 一連の流れを見つめ続けていたアシリレラを上目で見返して、ミネットは問うた。

「はい」

 当然の返事だった。ミネットが指を走らせた軌跡は、地面に見たこともない陣のような物を描き出していた。

「降りてらっしゃい」

「え? だ、大丈夫なんですか……?」

「たぶんね」

 自身の隣に誘うミネットは酷くいい加減であったが、見たところ足場は厚みもあり、強度としては充分に見えなくもない。

 アシリレラは意を決して、覗き口に腰を掛けて、慎重に、極力真下に落ちられるよう身を放った。

 大袈裟なまでに膝を折り曲げて、崖に背中を預けて着地する。ごつごつとした岩盤が擦れ、少し痛い。

「そのまましゃがんで」

 ミネットもやはり膝を曲げたままで、戦々恐々としたアシリレラとは自然と目線が合った。

 足元が暖かい。潮風の冷気の中に生まれたほんの僅かな温もりは、アシリレラとミネットの下肢に灯火のように微熱を染み込ませていた。

「魔法陣よ」

「魔法陣?」

「そう。聞いたことくらいはあるかしら?」

「名前くらいですけど」

「そう。魔法陣は、例えるなら世界の設計図のようなもので……って、どうでもいいか、そんなことは」

 アシリレラが僅かな好奇心を見せるより早く、ミネットはその身を更に屈めて、二人の足元の、岩盤の隙間に開いた僅かな空間を覗き込んだ。

「見る?」

「はい」

 目を凝らして覗いても、内部の様子は殆どと言っても良い程分からなかった。

 ただ、そう深くない隙間の中に、薄らと浮かび上がる物があった。

「あ……」

 枯れ草で組み上げられた、受け皿のような土台。簡素だが、複雑で頑丈に結び付けられた“巣“の中央に据えられた、小さな楕円の班目球体には見覚えがあった。

「たまご……?」

「ええ、卵」

 強風から守られるような場所を選んで生みつけられた、手のひら程の卵が三つ。

 ミネットによって描かれた魔法陣より生じた暖かな風を受けた亀裂の内部は外気に比べ、確かに暖かい。

 ミネットがここに赴いた理由が、これだった。

「昔のことよ」

 二人で卵を見つめていると、ミネットがゆっくりと、その口を開いた。彼女から自身のことを聞かされるのは、アシリレラにとってはこれが初めてであった。

「カルモーが世界再配置委員会を名乗る連中から、襲撃を受けたことがあったわ」

「襲撃?」

 アシリレラからすると、あまり聞き慣れない言葉であった。

 特に、機関との関連性は、アシリレラの中では今のところ低い。その筈だった。

「機関に対して、武力を持って徹底抗戦の構えを取った組織があったのよ。レジスタンスとか、そんな風に呼ばれていたわ」

「戦争、ですね」

「厳密にはクーデター……内紛、と言った方が良いのかもしれないわね。どちらが先に武力行使に走ったのかは、今となっては分からない。けど、少なくとも、レジスタンスの連中はその殆どが過激派だったのよ。争いは長期化して、最後の方なんて、お互いまともな精神状態じゃなかったと思うわ」

「そのレジスタンスが、カルモーにいた……?」

「そう言う人もいるわ。人知れず隠れ、どこかに潜んでいるなんてね。だけどね、カルモーはレジスタンスを支持しているなんて論調もあったのよ」

「それでカルモーを……」

「今となっては、もうどっちでも良いわ。もう、なにもかも……」

 しかしながら、ミネットは今もこうして、卵の面倒を見ている。

「襲撃は突然だったわ。逃げ惑う人達はなにも出来ず、ただ軒並み捕われ、どこかへ連れて行かれたのよ」

「助かったのは、ミネットさんだけだった……?」

「いいえ。なんとか逃げようとして、街の連中は私に縋ってきたわ。見知った人間、区議会の役職者、果ては市長。実に都合の良い話ね。いったい何のために、私を地下なんかに……」

「ミネットさん?」

「なんでもない」

 思い出して、吐き捨てる。ミネットは顔を上げ、アシリレラと視線を合わせた。

「このポータルはその時のものよ。脱出に使ったの。この子達を見付けたのは、もう少し後だけどね」

「じゃあ、街の人達は……」

「お生憎様。殆どは地下まで辿り着くことさえ出来なかったみたいね。ぎりぎり間に合って、ここまで来た連中もいたけれど……ここから逃げても、無事とは思えないわ。大方近くの漁村にでも逃げ込んで、一網打尽……そんなところね」

 ミネットは徐に立ち上がり、アシリレラに手を差し出した。

「冷えてきたわ。そろそろ行きましょう」

 少し傾いだ日を背中に受けながら、二人は帰路に着いた。アシリレラにとって、エイン以外の人とどこかへ帰るのはこれが初めてだった。

 

「ミネットさん」

「何?」

「ありがとうございました」

「何よ、急に」

「良いですよね、って、思いまして」

「何が?」

「なにもかも、ないことはないんだなって、思えましたから」

「何なのよ、意味が分からないわ」

「この世界には、まだ私達がいる。だから、どこまでも行けます」

「……そうかもね」

「だから、ね?」

「は?」

「一緒に、いきましょう?」

「……考えておく」

 良い笑顔だ。

 お互いがいて、笑い合えるなら、きっと明日も。

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