十滴『崩落するカーテン』
「お久し……」
言い切るより、押し出すが早かった。
フィーアの首を掴んだエインが玄関から一直線に飛び出し、対面の家屋に突っ込んだ。
「何の用」
壁に押し付けられたフィーアの表情が歪む。
「久しぶりに会うというのに、随分なお出迎えですね……!」
「こっちは会いたくなんてない」
まるで抵抗する様子がない。否、エインに抵抗することなど、フィーアの力では不可能なのだ。
「このまま縊り殺すから」
気道を潰し、一気に力を加える。
フィーアの顔がみるみる青ざめていく。せめてもの抵抗か、フィーアの手が、エインの腕に触れる。
そして数度、手のひらで腕を叩いた。
「聞いて下さいエイン……僕は戦いに来たのでは……!」
降参を意味する、二度のタップ。
それもその筈だ。もし武力による制圧が目的であるなら、律義に訪問などする筈がない。
エインは腕に込めた力を緩めた。フィーアはその場に崩れ落ち、酷く噎せ込むとエインを恨めしそうに見つめ上げた。
「ま、まったく……! いきなり攻撃するなんて、信じられませんよ……!」
フィーアの用件がどうあれ、エインには関係のないことだ。ならば少なくとも、エインにとって脅威を齎しうる存在であるフィーアは直ちに排除して然るべきであった。
「他に仲間は……いないみたいだけど?」
「そうですよ……だから僕は、あなたと戦いに来たわけではないと……」
まだ落ち着かない呼吸で、フィーアは必死に訴えた。
弾んだ息を整えて、ようやく立ち上がる。
「ふう……。良いですか、エイン? 僕は君と交渉をしに来たんです」
「拒否する」
「せめて要件くらい聞きません?」
「知らない。アシリレラは渡さない」
相手の交渉の最終目的は、間違いなくアシリレラであると言えるだろう。エインにとってアシリレラは如何なる交換条件を提示されようと譲渡し得る存在ではない。彼らの交渉のテーブルに着くという選択肢そもそもがありえないのだ。
「そうではありません。あなたにとっても、そう悪い話ではない筈です」
「どういうこと?」
フィーアの目的は、アシリレラではないのか? エインは隙間を縫うようなフィーアの言葉に耳を傾ける。
「ここでは何です。あなたの部屋を使わせて頂けませんか?」
カルモーに住み着き数ヵ月が経つが、エインにとってはこれ程不愉快で、アシリレラにとってはこれ程不安な気持ちで卓に着くのは、これが初めてだった。
だがアシリレラの不安を和らげる要素が二つばかりある。一つは、エインが隣にいること。そして、怖い顔をしているものの、エイン自身の気性が落ち着いていること。
それでも、拭い切ることの出来ない不安感を抱えて、ちらりとエインの顔を見やる。
膝に置いた手が、強く握られた。
「で? 話って?」
声色強く、エインが切り出す。
「もう追い掛けるの、やめますって?」
「残念ながら、少し違います」
正面に座ったフィーアの表情は動かない。普段の柔和な顔使いは鳴りを潜め、波のない水面のようにうっすらとエインを見つめる。
「どこから話しましょうか」
つらつらと、言葉を選びながら、フィーアは語り始めた。
「まずは……そうですね。我々は間違いを犯しました。まずはその謝罪をさせて下さい」
「謝罪?」
今更何を謝ろうというのか。
エインからすれば、アシリレラに危害を加えることそのものが間違いだ。世界の運命だからなどという大義名分など知ったことではない。
「我々は、エイン、あなたに計画の全容を話すことをしなかった……これは明確な過失です。その上でアシリレラ様を強引に連れ去ろうとしたこと……到底許されることではないでしょう」
どうでも良い。エインは鼻先で嘲笑うように嘆息した。
「あなたの憤りはもっともです。増してや、ドライの率いる部隊の応対は言語道断でした。あのような結末を迎えたのも、彼ら自身が巻いた種に他ならない」
二人の結末。
ここに来て以来どちらともなく二人の名前すら、口にすることを避けるようになっていた。今を成り立たせる踏み台が何か、現実から目を逸らすように。
「だから一度、ここらで仕切り直さなくてはならない」
「どういう意味?」
「アシリレラ様……そしてエイン。今一度お願いしたい」
フィーアは椅子からそっと立ち上がり、深々と首を下げて。
「我々の意思は、あくまで世界に奉ずることです。そのためにここまでやってきたのです」
世界をリセットする。それしか方法がないからこそ、数百年という時に全勢力を注ぎ、真に後一歩のところまで計画を漕ぎ着けたのだ。
「もしあなたが拒否するのであれば、今一度考えて下さい。我々の決意を、世界の未来を、それら全てを否定する覚悟があるのかと」
目的はただ一つなのだ。
そこに、エインの敵意を煽るだけの醜悪な悪意などある筈がなかった。
「ここで計画を止めるつもりはありません。そのために、我々にはアシリレラ様が絶対に必要です。そしてエイン、あなたの働きにも敬意を表するつもりでいる。だからこそ、我々が払うべきだった誠意を、受け入れて頂きたいのです」
その先は言えなかった。言わせなかった。
エインの拳が卓を叩く音に、フィーアの言葉は押し退けられた。
「誠意?」
びくりと、アシリレラが細い肩を竦める。
「ふざけるなよ」
矢継ぎ早に否定と拒絶を最も短く繰り出す。
「お前達の覚悟なんて知らない。どう取り繕うと、人柱で世界を何とかしようなんて考えは、悪魔のやることだ」
頭を下げたままのフィーアに、エインは次から次へと言葉を投げ付けた。
「アシリレラは、ずっとあの屋敷に閉じ込められていたんだ。外のことなんて忘れるしかない、理不尽な人生を勤めるしかないと分かっていながら」
坦々とした声色から、徐々に怒気が溢れ始めた。
「普通の女の子なんだよ、アシリレラは! お前達が勝手に決めた一生を押し付けて、演じさせて……! そんなことのために生まれてきたわけじゃない、アシリレラはお前達の人形じゃないんだ! そんな身勝手な都合で、世界の運命をたった一人に丸ごと背負わせるな!」
膝に置かれた手に、ぐっと力が入るのが分かった。
目の奥が熱い。唇を噛んでエインの声に耳を傾ける。
全て自分のために発してくれた言葉だった。
運命への憤りと、そして、同情と。
「…………それに……」
だが、それだけならここまでエインを信じて身を委ねることはしなかっただろう。エインから発せられる愛と、沼のように深い欲望は、アシリレラのもがれた羽の根をどこまでも引き揚げて止まない。
「自分のためにも、だ。アシリレラは絶対に渡さない」
支配権を行使したかのように、静寂が最大の音として渦巻いた。
「そのためなら、世界だろうと敵に回してやる」
カルモーの通りに、一筋の砂塵が引かれてゆく。砂塵は中央道中央で柔停止すると、続くより巨大な砂塵に飲み込まれた。
はっきり言って、あまりにも予測の通りが過ぎた。
やはりあの方の計画は完璧なのだ。
慧眼で、的確で、優しく、難攻不落の如き趣と所作。全てを兼ね備えている。
「嗚呼……やはり、そうだったのですね」
中性的な顔を砂に塗れさせながら、用意された空間にピースが一人でに嵌っていくような感覚に高揚感を覚える。
見上げた空が美しく見える。指先から背筋まで溶け合うようだ。鳥肌が止まらない。全身の毛穴という毛穴から一生涯分の快感が継続的に吹き出し続けるような愉悦に漬け込まれる。
「……は?」
エインの拒絶が衝突を生み出したことは、最早必然であった。
決裂した交渉にフィーアの声色が変わったのをエインは見逃さなかった。敵の気配がないことを悟ると瞬時にフィーアの頭を抑え、部屋から引きずり出した。
剣を失ったことが悔やまれる。素手でなければフィーアの首は既に撥ねられている筈であった。
だからこそフィーアは単身二人の元を訪れたのだ。そう画策されていた。
「ふーぅ……」
深く、深く息を吐き下す。
「とはいえ、素手でもこの力ですから……これは少々骨が折れますね」
少々。その言葉にエインの眉尻が僅かに上がる。
「これから死ぬ人の言葉じゃない……」
一気に詰め寄る。
「……だろう!」
懐に潜り込んだエインの拳が、フィーアの鳩尾を真っ直ぐに捉えた。
フィーアの身体がくの字に折れる。
岩を打つような波音が遥か後方まで響いてカルモーの朝日の中で児玉した。
虚を突かれたフィーアの足元が崩れる。頽れたフィーアの側頭部目掛けて、エインの踵が弧を描いた。
ホムンクルスといえど、体重は人間とそう変わりない。華奢な特にフィーアは、エインの攻撃をまともに喰らえば、それこそ地の果てまで飛ばされてしまうだろう。
だが、フィーアは直ぐに踏み止まって見せた。二本の砂塵を引きながら、エインから数十メートルの位置で速度を失わせる。
だがその僅かな距離がエインの追撃の機会を与える。
フィーアの完全停止と同時に、エインの顔が眼前まで迫る。
フィーアの視界がエインの存在に埋め尽くされた。故、完全死角となる真下からの蹴りがフィーアの顎をかち上げた。
視界が揺れる。仰反る身体が空を見上げ、重力に捕まる。だが重力より遥かに強い打力が、フィーアの身体を地面に叩き込む。
「ガッ……!」
血反吐を吐きながら、フィーアは体勢を立て直してエインから距離を取った。
だが、駄目だ。後退するより速く追い縋るエインの攻撃が、五発、瞬時に胴に打ち込まれた。
水平に吹き飛ばされるフィーア。受けねばならない。しかし、地を踏み締めるより、エインの追撃が速かった。
殴り、飛んで行く相手より速く動き、空中にいながら何度も追撃を掛けているというのか、こいつは。
信じ難い情景であった。
「…………ならない……!」
フィーアは思い知る。
「お前をアインス様に合わせては……!」
猛追を凌ぎながら、再び大地に立つ。
「絶対にならない……!」
「どの道いずれ……!」
その言葉がフィーアに火を付けたと言って良いだろう。
エインの繰り出した拳が、直前でフィーアの残像を掠める。
次いで二撃、三撃と、エインは連続して攻勢に出続ける。
「ッ!?」
だがどれもがフィーアの後塵を打つに止まる。
まるで影や霧を打つようだった。
捉えたと思った攻撃が、尽く打点を通り過ぎる。
エインの中で何かが訴えた。警告に似た何かが、身を引かせた。
「それがあんたの力か」
構えを下さず分析を続けるエインに、フィーアは余裕の笑みを浮かべて。
「くっく……どうかなあ?」
刺すような眼光が、エインを突いた。
額が冷える。
眼前を刃物が過るような不快な閃きに、エインは思わず追撃の手を下ろし、大きく距離を取った。
本能的な部分がそうさせたと言って良いだろう。今まで自分がいた場所に変化はない。だがエインは本能が発した退避勧告を、なによりも優先させた。
「お前は……?」
ゆらりと、霞の中に立つような、“それ”に話し掛ける。
「いつまでもだらだらとやりやがって。もう見ちゃいらんねえってんだ。俺にやらせろ」
目の前にいるのは、確かにフィーアだ。
そして、目の前のフィーアの口から発せられた言葉が、それだった。
「白、勝手なことをしないで頂きたい。貴様は黙って見ていろ」
「はあー? ナマ言ってんじゃねえよ。あのままじゃ殺されてたのはオメーだぞ」
「……良いか? 僕は貴様が嫌いだ。この期に及んで貴様の手を借りるくらいなら、潔く死を選ぶくらいにはね」
「勝手述べてんじゃねえ! いーか、これは青からの指示なんだよ!」
「何だと?」
「テメー一人の勝手で身体ぶっ壊されて堪るかってんだ。分かったら今すぐどきやがれ!」
「……青がそう言うのなら、仕方がありませんね」
「クソが。手間掛けさせんなや」
一頻り喋り切ると、フィーアは再びエインに視線をぶつける。
「おう、テメーが世界種か?」
今度は自身に向けられた言葉だと分かる。
「そうだけど」
強い指向性のある声と、先程までとは打って変わって蟹股に開かれた両足。
「っしゃあ……! 待ってたぜこの時をよー!」
言うが早いか、フィーアの姿をしたそれは爆発的な加速を得て、一直線にエインに飛び込んだ。
「ッ!?」
速い。さっきまでと違う、まるで野獣のような愚直な突進。その速度から叩き込まれる拳がエインの正中線に向けられる。
だが、避けられない速さでは、決してなかった。
ない筈だった。
右肩に衝撃が走る。
ほんの一瞬、受け流しに走った左腕の反応が遅れた。
「あっ……!」
肩周りの衣服が爆ぜる。その打拳はぼろぼろだった羽織を破砕し、インナーのシャツをも貫通し、エインの肩に痛烈な打撃を与えた。
「オラオラおせーぞ世界種様あぁ!」
打ち込まれた勢いに流され後退するエイン。そこに更なる追い打ちが迫る。
七手八手、雷のような猛攻が矢継ぎ早にエインを襲う。
反撃の糸口を見付けるのは困難だった。
治ったばかりの左腕の反応が遅い。繋がった筈の神経だったが、思考と反応に追従しない。
「っはぁー! やっぱりなあ! こいつぁいーぜ! その腕はもう使い物にならねーんだとさあぁ!」
バレている。どこから情報を仕入れたのか知らないが、エインの身体の鈍い部分を把握した上で、都度的確な手段を選び、攻めている。
もたつく左腕でも良い、少しでも守りに使う。だがその殆どは右腕一本での防衛戦だった。
ただでさえ速い。速さだけならツヴァイと互角かもしれない。そのような相手に武器もなく、それも実質片腕だけで防衛を行うなどほぼ不可能と言える。
現にフィーアの攻撃にエインの防御は崩され始めていた。捌き切れなかった打撃が一撃、また一撃とエインの身体を捉える。
「そのまま死ねやあぁ!」
足がモタつく。ダメージの蓄積が現れた。
大きな踏み込みが来る。懐に入られた。右腕が弾かれる。左腕は……。
否、腕で捌けないなら、足を使う。
「ッ!!」
これまでで一番大きな衝撃が、エインの腹部に叩き込まれる。
衝撃は背中まで押し通り、まるで槌で穿ったように羽織を打ち破った。
直撃の瞬間、エインは大きく後退することを選んだ。だが、衝撃を逃すことは出来なかった。フィーアの掌底は下から弧を描くように回り込み、エインの策を潜り抜け、エインの身体を打ち据えた。
「か、はっ……!」
浮遊感に呑まれる。身体が浮き上がる程の一撃を受けたことを理解する。
フィーアの顔をしたそれは、大きくゆっくりと舌舐めずりしてエインを覗き込んでいた。
「けっ」
吐き出すように吐き付けると、フィーアはエインから飛び退いた。
「けろっとしやがって……」
既にエインは両足を地に付け、まるで何事もなかったかのようにフィーアを見据えていた。
それどころか、却ってフィーアの脇腹に痛みが走った。それも三箇所同時に、まるで肋骨を上から順に蹴り付けたかのような痛みが広い範囲に渡って刻み付けられている。
「正真正銘のバケモンか、テメー」
痛覚が反応するまで、蹴られたことに気付きすらしなかった。それだけの鋭い蹴りをあの僅かな時間に行っていたというのだ。それも、三度も。
驚異的な瞬発力を目の当たりにしながらも、フィーアは笑みを抑えることが出来なかった。
「疼くじゃねえか」
ぞわぞわと沸き立つ首筋の感覚が、フィーアの闘争本能を煽り立てる。中毒的な浸食感を拭い去る程、今のフィーアは冷静でもなければ理性的でもない。
「ねえ」
エインの淡々とした声が掛かった。
「あ?」
闘争心に水を刺されたのかフィーアは苛立ちを見せたが、お構いなしにエインは問い掛ける。
「あんた、誰?」
抽象的な質問だったが、エインの疑問も尤もだ。エインは、このフィーアのことはなにも知らないのだから。
「俺は、白だ」
先程も言っていた、白という単語。
素直に色のことを指してはいないことは分かる。恐らく、今のフィーアが白であり、エインの知っているフィーアは白ではない、ということだろう。
「白?」
「テメーの知ってるフィーアってのは黒だ。以上」
大雑把に語り尽くすと、白と名乗るフィーアは姿勢を低くし、エイン目掛けて真っ直ぐ飛び出した。
「再開いぃ!」
どうやら、問答は得意ではなくなっているようだった。
一直線に立ち向かうフィーアの顎先をエインは蹴り上げた。
「なあっ!?」
今度は、確実に捉えた。先程まで見せていた霞のような動きは最早見られない。否、エインの目にはもう、そうは写っていない。
「もう少し」
高々と打ち上がったフィーアの足首を掴む。真下に叩き付け、もう一度振り上げる。
「ちゃんと」
打ち上げられた時とは違う景色が見える。
ぐら付く意識の中、フィーアは必死にエインの手に攻撃を加えようと踠いた。
「説明を」
だが無駄だった。綿のように振り回され、フィーアはその遠心力に抗うことすら出来ない。
「してもらおうか」
一方エインは顔色一つ変えず、フィーアを地面に叩き付けて、振り上げて、打ち付けては振りかぶって、何度も何度も、地面をフィーアで殴り付けた。
やがてフィーアからの抵抗も弱まると、エインはぼろぼろになったフィーアを地面に投げ捨てた。
所詮こうなる。
エインにはやる前から分かっていたことだった。
フィーアの戦闘力では、自分に勝つことは絶対に出来ないと。
左腕の反応を実感した時は少し焦ったが、慣れさえすればフィーアのそれも、速さだけならツヴァイとそう変わらない。肝心な殺傷能力など、ツヴァイの足元にも及ばない程度でしかなかった。
そもそもフィーアは戦闘に特化したタイプではない。それは本人も分かっている筈だ。
ではなぜ、彼は積極的に戦いを挑んだのか。
「って……もう聞くに聞けない、か」
すっかり気を失ったフィーアを見下ろして、エインは嘆息する。
とはいえフィーアの動機など、はっきり言い切ってしまえるくらいどうでも良いことだった。
それより、フィーアをここで見逃すわけにはいかない。
エインはフィーアに跨ると、右手の指を真っ直ぐに揃え、その首を目掛けて弓のように引き絞った。
彼に恨みはない。これといった思い入れも、彼にはない。
迷いなど生まれようもなかった。だからエインは引き絞った手刀を最短距離で、フィーアの首目掛けて突き立てた。
エインの指が、喉元を刺し貫く……その直前で、エインの手は止まった。
「エイン」
見られた。
「アシリレラ……?」
エインが誰かを手に掛けるところなど、ただの一度も見たことがなかった。
立ち尽くすようにエインの背中を見つめるアシリレラは、打ちのめされ、ボロ布のように仰向けに横たわるフィーアを見ようともせず、ゆっくりとエインに近付いた。
「私……」
アシリレラが何を言おうとしたのか、エインには分からなかった。だがエインが見せたかったエインは、今ここにはいない。
突如としてエインの胸が、得体の知れない早鐘を打った。
駄目だ、と。
「来るな!」
ぴたりと、アシリレラの歩が詰まった。
初めてアシリレラに対して語気を強めたように思う。
ずっと見せたくなかった、ただただ強い自分。
異様な力も、その強制力も、アシリレラの前では、ことアシリレラに対しては、絶対に現出させてはならないと。そんな必要などどこにもないのだと。
けれど、ふと、覗かせた。
アシリレラを、否、二人で綺麗なままでいたかったから、その願いが強い焦燥感に煽られて。
気付いたら、投げ付けていた。
その時の表情は、エインの心に深々と刺さり込んだ。
年端も行かぬ少女に相応しい、恐ろしい物を見る、慄くような表情。
それは、エインの胸の奥に押し込められていた忘却のカーテンを裂く鋭い破片になる。
恐ろしい。怖い。はっきりとした拒絶。
それは、命を奪われることへの恐怖が人の面に現出したものだった。
だが、アシリレラとは違う。頭で理解していても、表情が重なって、抱えていた恐れ達が両手を奪って、溢れていく冷静さを掬い取る余裕すらなくなっていた。
だから、その接近に気付くことさえ出来なかった。
「やはりな……予想通りだったか」
エインは我に帰って声の方を見た。
フィーアは未だ、眼下で気を失っている。
声の主は、二階建ての民家に乗って、こちらを見下ろしていた。
「まだ生きてオるよウだな……。仕方なイ、連れて帰らねばなるまイ」
寸胴ような体躯に、痩せた手足。枯れ果てた老人のような声はその殆どが肉声ではない。金属を鳴らすような、不安感を煽る音のような反響を声として出力している。
世界再配置委員会技術運用実行官、フンフだ。
「なぜここにイるのか……と、聞きたそウだな?」
フィーアとの戦いに気を取られて気付けなかったのか。違う、そんな筈はない。フンフはそれこそ戦闘とは無縁のホムンクルスだ。戦闘中とはいえエインが接近に気付かない筈がない。となると、新たな道具でも持ち出したのか。
フンフの作る道具は得体の知れない物ばかりだ。故にエインがほぼ唯一正面からの戦いを避けたがる相手でもある。
「だが、駄目だ」
フンフの手がゆらりと上がる。
「教エる義理はなイ」
それを合図にするように、エインの足元が、がくんと揺れる。
「なっ……!?」
地震か。それとも古い地盤が崩れたか。
そのどれもが違った。
瓦礫と砂塵を巻き上げるように、地面を破ってそれは現れた。
「っ……! ゴーレムか!」
家々を見下ろし、大地を踏み抜く岩盤の化身。
血肉で精製されるのがホムンクルスなら、岩と地脈のエネルギーを用いて作られたのが、大地の化身ゴーレムだ。
「引くか」
ゴーレムの肩にひらりと飛び乗って、フンフはエインとアシリレラを見下ろした。
「だが、世界樹は……一応フィーアの小僧も、回収させてもらウ」
あまりに相手が大きかった。
ここは引くべきだ。剣があれば或いはと思ったが、今のエインには持つべき剣などありはしない。
エインは走り出そうとアシリレラに手を伸ばした。
ほんの一瞬だった。血だらけのその手が、初めて恐れをなした。
「世界種には死んでもらウ」
フンフの手が、扇のように振られる。
鯨のように太いゴーレムの腕が、影を落としてエインの頭上目掛けて振り下ろされた。
「エイン!」
強く、胸を突く。
フィーアの突きに遥か及ばないその一撃が、エインとアシリレラを大きく突き放した。
声を発するまでもなかった。
ゴーレムの拳が二人の間に激突し、轟音と共に、分厚い壁を作る。
発した声など、とうに届かなくなっていた。
「む……!?」
ゴーレムの挙動が乱れる。地面を殴り付けただけの岩石の拳は手首、腕と際限なく埋没し、ゴーレム本体の巨躯を地面の下に引き摺り込み始めた。
「どウやら地盤が脆くなってイたよウだな……ゴーレム!」
フンフの声に反応するように、ゴーレムは倒れゆく巨躯を残った腕で支えた。
巨大なアーチのように覆い被さるゴーレムの下で、エインは直ぐにアシリレラの方に目をやった。
「アシリレラ!」
返事はない。砂煙が上がっていて視界も悪い。
分かるのは、そこに大きな穴が空いているということ。
「アシリレラ……!? アシリレラ!!」
エインは立ち上がるのも忘れて、崩落した大穴まで縋り込んだ。
ぽっかりと空いた穴の中は、地上から見通すにはあまりに暗かった。
エインは直ぐに飛び込もうとした。だがフンフのゴーレムはそこに生まれた隙を見逃さず、横から拳を振るい、蹴鞠のようにエインを弾き飛ばした。
立ち並ぶ民家を一つ、二つ、三つと打ち抜いて、エインは地面を打ち付けて止まった。
「邪魔を……するなあぁぁ!!」
まるでダメージなどないかのように翻り、ゴーレムの側頭部に蹴りを叩き込む。
だが、ゴーレムを構成する岩石が僅かに崩れただけだった。やはり素手ではダメージを与えることは出来ない。
このまま殴り続ければやがて崩壊させることは出来るかもしれない。だが、それではアシリレラのところに行くことは出来ない。
今すぐに、この穴に飛び込まなくてはならない。泥人形の相手をしている余裕などエインにはないのだ。
「小賢しイ!」
フンフが手を振るう。ゴーレムの拳がエイン目掛けて薙ぎ払われる。
空中にいたエインは受けることしか出来ず、またしてもされるがままに吹き飛ばされた。
今度は放物線を描き、岩盤に沿って立ち並ぶ家々の最上階層に叩き付けられた。
「ガッ……!」
口内に溢れた鉄のような悪臭が、呼気と共に放出される。
唇を伝う、生暖かい滑った感触を味わうのは久し振りだった。
「クソッ……!」
瓦礫塗れになりながらも、立ち上がる。
ダメージはあるが、支障がでるほどではない。骨に損傷はない。肉も、靭も、全てが健在だ。
だが精神は確実に磨耗している。
アシリレラのことを思えば思う程、その焦りは冷静な判断を侵攻する。
「クソックソックソックソッ……! 邪魔するな!! これ以上邪魔をするな!! 消えろ!!」
挑み掛かる。ゴーレムに一撃を見舞う。だがダメージはない。
「ッ!」
瞬間、迫る腕にエインは反応した。
避ける……否、それすら攻撃に転用した。
「おおおおおおおおおお!!」
壁そのものが迫るような圧迫感目掛けて、エインは拳を叩き付けた。
岩盤に肘まで突き刺さる。それでもゴーレムの腕が止まることはなかった。だがエインも引かなかった。両足を地面に固定する。押し返される。だが、エインの繰り出した右腕はそれさえも退けた。
ゴーレムの腕に亀裂が走る。フンフの顔色が変わると同時、ゴーレムの腕は限界を迎え、エインの拳を中心に粉々に爆砕した。
「馬鹿な!!」
巨躯を乱し、ゴーレムはその場に雪崩れるように横倒しになった。周囲の民家を積み木のように破壊して、ゴーレムは活動を停止した。
「なんとイウことだ……まさにバケモノか……!!」
フンフが腕を振るう。するとゴーレムは再び活動を再開し、その巨躯をゆっくりと擡げた。
「素晴らしイぞ世界種……このゴーレムの拳ヲまさか素手で退けるとはな」
ゴーレムが立ち上がる。エインを巨大な影が覆う。
繰り出した腕が痛む。受け切った両足は関節、筋肉共に悲鳴を上げていた。
ゴーレムが動き出す。直ぐに立て直さなくては。だが酷使した四肢は言うことを聞かなかった。
辛うじて動く身体に鞭打って、ゴーレムに対峙する。
やらなければならないなら、何度でも腕を上げるしかない。フンフを討つべきという単純な答えにすら辿り着けないエインの思考は、ゴーレムを前にして尚地面を穿つ大穴に向けられていた。
「ここで仕留めても良イが……こちらも、これ以上ゴーレムヲ破壊されると都合が悪イのでな。ここは一度引くとしよウ」
フンフが手を上げる。するとゴーレムは太陽を煽るように巨躯を擡げ、エインから頭部を逸らした。
「また直ぐに会ウだろう。その時まで世界樹は預けてオくことにしよウ」
「に、逃げる気か……!」
「アア、その通りだ」
ゴーレムが歩く毎に、大地が揺れる。まるで天災の如きその巨躯を揺らしながら、ゴーレムとフンフはエインの元を去っていった。
エインはそれを待たず、ゴーレムが開けた穴に飛び込んだ。
相変わらず先は見えない。日没と共に内部は更に闇を深めるだろう。
だがエインにとってもっと恐ろしいことは、この暗闇の先に呑まれたアシリレラを失うことであった。




