逆さの虹のアリス
初めに感じたのは、柔らかい草の感触だった。
頬を擦り付けるたびに感じるソレは、ここが外だということを主張してくる。
「うぅん……ここは?」
昨日は家のワンコとベッドで寝たはずが、なぜこんな場所に?
眩しい朝日に照らされ、薄っすらと目を開きながら起き上がる。
顔にかかる髪が鬱陶しい。
「……んん?」
髪?
ふと違和感を覚え、髪を手で掬って前に持ってくる。
おかしいな。
この、長い金髪は誰の髪だ?
不思議なことは他にもある。
外で寝ていたこともそうだが、いま身につけている水色のエプロンドレスなんて、着た覚えがない。
いつも愛用しているスウェットとは似ても似つかないし、そもそも女装なんて……。
そこまで考えて気づいた。
「まさか……まさかっ!」
腰まで届きそうなくらいに長い金髪。
先程から聞こえる、自分のものは思えないような女の子の声。
そして、着た覚えのない水色のエプロンドレス。
おそるおそる。
自分の胸へ……心臓部分へと手を当てる。
返ってきたのは、ふにっという柔らかな感触と、何か潰されたような……何かが掴まれたような、不思議な感覚だった。
当然、下に馴れ親しんだ相棒の姿もなく。
「俺、女の子になっているッ!」
……誰も居ない森の中に、俺の叫びだけが木霊した。
空には虹がかかっている。
「ああ……綺麗だなぁ……」
晴れ渡る空。
そして、聞こえてくる小鳥たちの囀り。
例え、虹が逆さにかかっていたとしても。
小鳥たちの囀る声が、どう聞いても日本語にしか聞こえなかったとしても。
「池に映った俺の姿よりマシだと思えるのは、なんでかなぁ」
池には、困ったように覗き込む少女の姿が映し出されている。
透き通るような蒼の瞳に、造形の整った顔。頬に当てられた手は小さく、少女の儚さを増幅させるかのように水面も揺らめいている。
「何で俺、こんな可愛い子になっているんだろ」
真っ直ぐに見つめられていたら、一目惚れしたかもしれない。
水面の中の少女はこちらを真っ直ぐに見つめている。
だが、俺が顔を動かすと同時に少女も動き、身振り手振りも真似してくる。
つまり、映っているのは俺自身、だった。
「現実逃避しても仕方な……ん?」
そのとき、少女の後ろに何か小さい影が映ったように見えた。
よく見えなかったので覗き込んでみると、確かに小さい影が見える。
つまりそいつは、すぐ後ろにいるわけで。
「何か用でしょう……きゃあっ!!」
ばしゃん!
大きな水しぶきがあがる。
同時に、俺の顔から全身が水の冷たさに襲われた。
……どうやら、何者かに池へと突き落とされたらしい。
「おいっ! いきなり何だよ!」
「きゃきゃきゃきゃきゃ!」
「って、リス?」
すぐに池から起き上がって見えたのは、小さな動物の背中だった。
見たところ少し大きめのリスっぽかったけど、アイツが俺の背中を蹴って音したのか?
その犯人は、ドヤ顔でこっちを見て、森の奥へと走り去っていく。
「おい! 待て!」
叫びも虚しく、リスのような動物はすぐにどこかへ行ってしまった。
ずぶ濡れのまま残されても、どうしたらいいんだよ。
「……さむっ」
いつまでも濡れたままではいられない。
これは、仕方のない事だと自分で納得させる。
見知らぬ女の子の身体。
でも、今は俺の身体なんだ。風邪をひくわけにはいかない。
服を絞る、乾かすためには脱がないといけない。
「いい、よな」
一応周りに誰もいないことを確認し、水の滴るエプロンドレスを脱ごうと手をかける。
エプロンを外し、ワンピースを脱ごうと苦戦し、ようやくその服が……。
「おや、こんな場所にお客とは珍しいね」
「だっ、誰だっ!」
脱ごうとしたところで、誰かに声をかけられた。
いくら自分の身体じゃないといっても、流石に脱ぐさまを見られるのは恥ずかしい。
声の主を探すと……そこには一匹のキツネがいた。
「おやまあ、可愛らしいお嬢さんだね」
「え? キツネ? でも、喋った?」
「そんなに珍しいかね、あたしは」
「あっ、はい」
なぜ会話が通じているかわからないが、ようやく話を聞けそうな存在だ。
もしかしたらこの場所について何か知っているかもしれない。
「あんた、迷い人……て、ずぶ濡れじゃないかい! そんなんじゃ風邪ひくよ!」
「でも着替えを持っていないから、脱ごうかと思って」
「替えの服はあるのかい?」
「ないです」
「ああもうっ! ダメじゃないか。しょうがない、ついてきな!」
そういい、こちらの返事も待たずにずかずかと森の奥へと行くキツネ。
ここで置いていかれると手がかりも失うかもしれない。
俺はエプロンを拾うと、脱ぎかけだった服もそのままでキツネを追う。
見失わない程度に追いかけていくと、やがて小さな小屋に辿り着いた。
「確かここに……ほら! これに着替えな!」
「えっと、ありがとうござ……ちっさ!」
渡された服は、いかにも幼児が着るような淡いピンクのワンピースだった。
いくら少女の身体とはいえ、これ着れるかな?
「あんたがでかいんだよ! ちょうど良い。お腹は減っていないかい?」
そう聞かれた途端、俺の腹がぐぅぅと可愛らしい音を立てた。
男だったときはもっと地の底から響くような音だったのに、どうやら胃袋のほうも可愛らしくなってしまったらしい。
「なんだ減っているじゃないか。ほら、これをお飲み」
「え? 食べ物じゃ……んぐっ!」
てっきり食べ物を貰えると思ったのに、渡されたのは一瓶の液体だった。
しかも、眺めていたら無理やり口に流し込まれた。
「ぷはぁっ! いきなり何をっ! ……うっ」
ドクン。
鼓動が強く胸を打つ。
意識が朦朧とする。立っていられない。
あのキツネ、いったい何を飲ませやがったんだ!
……そのまま、何分が経過しただろうか。
真っ暗な視界の中、誰かにゆすられたような気がした。
「ほら、起きな。そろそろ出来上がった頃だろう?」
「ふぇ?」
いつのまにか、布のようなものに包まれていたらしい。
随分と大きな布で、出口がどこにあるのかわからない。
なんだろう、この生地と色、どこかで見たことのあるような。
ようやく脱出すると、目の前には俺と同じくらい巨大になったキツネがいた。
「うわっ!」
「何だい、人の顔見て失礼だね。随分と可愛らしくなっても、性格は変わらないのかい」
「可愛らしく?」
周りを見渡すと、見覚えのある風景だ。
でも、違う。
周りが大きい。大きすぎる。
「ほれ、これでこの服が似合うだろ?」
渡されたのは、さっきの淡いピンクのワンピース。
しかしそれは、俺の手に、いや俺の身体にピッタリだった。
ふと、下を見る。
……何もない。肌色の絶壁が広がっていた。
「ほれ、いつまでも裸じゃ風邪ひくよ」
「おれ、ちっちゃくなってる!」
そこには、さっきちらっと感じた膨らみも全く存在しなかった。
着替えて、キツネと共にぐらぐらする橋を渡って数分。
気づけば森のお茶会に招待されていたらしい。
「はっはっは。お嬢ちゃんはあの橋を渡ったのかい。怖かったねー」
「そう! あんなのきいてないもん!」
「はっはっは、でもこのお菓子は美味しいだろ? そこの帽子屋自慢の一品さ」
「むぅー……」
「あれは、ぼくも怖いから、渡れないんだ。ごめんね?」
「く、くまさんはわるくないからいいよ!」
ここにいるのは、帽子屋と呼ばれるクマと、お喋りなコマドリだ。
この二人はキツネの友人らしく、ときどきこうやってお茶会を開いているらしい。
「でも、橋を渡らないと帽子屋には会えないんだ。ビービー泣きながらでも渡ったんだから偉いもんだね」
「なっ、ないてないもん!」
「はっはっは。キツネ殿は手厳しいな」
どうしてだろう。
年齢が幼くなったからか、感情まで抑えが効かなくなっているような感じがする。
でも、ここでキツネ以外の動物に出会えたのは僥倖だった。
「ねぇねぇ、ここってどこなの?」
「そういや、お嬢ちゃんは迷い人だったね。ここは、そうさね。逆さ虹の森という場所さ」
「さかさにじのもり?」
「はっはっは。ご覧、虹が逆さにかかっているだろう? 始まりと終わりの端が空に昇り、消えることもない虹。その虹がかかる森がこの場所さ」
そうして、皆で遠くにかかる虹を見上げる。
「そんな虹がかかる場所だからこそ、住んでいる奴らもどこか変わっているのさ」
「はっはっは。ここにいる帽子屋は怖いかい? こいつは料理をつくったり裁縫は得意なくせに、喧嘩はからっきしでね。森の中ではアライグマの奴が一番強いときた」
「そういう、コマドリは、飛ばないじゃないか」
「はっはっは。飛ばない鳥はただの鳥さ」
……たしかに、皆変わっているかもしれない。
でも、俺は動物じゃない。というか、性別が変わったのもそれが原因なのか?
「ちなみに迷い人はたまにいるさ。あんたはどこが変わってしまったんだい?」
「えっと、おれ……おとこだったんだ」
「は?」
「おや?」
「え……」
三者三様の反応だが、それが事実だ。
証明できるものはないけど……ない、けど!
「そうか。それにしては随分と可愛らしいね」
「はっはっは。どうだい、このままここで暮らしては」
「うん。君なら、怖くないから、大丈夫」
「でも、おれはかえりたいし」
こんなヘンテコな世界にいつまでもいるわけにはいかない。
そもそも。
男の姿でならまだいいが、女の子にされたまま生きる気にはなれない。
「なら仕方ないね。帰る方法はあるよ」
「ほんと!」
「ああ。あたしと会った場所に池があったろ? そこにドングリを投げて願うだけでいい」
「それだけでいいの?」
「うん。それで、皆帰っていったよ。ただ、ドングリ、どこにあるかなぁ」
帰る方法はわかった。
けど、そのキーとなるドングリ?
そこらへんに落ちていると思ったけど、そう簡単には見つからないらしい。
「はっはっは。ドングリならあの食いしん坊が持っているのではないかい」
「くいしんぼう?」
「そうさね。あのヘビなら持っていてもおかしくない。ただ、あたしはアイツは気に入らないよ」
「でも、君なら、食べられちゃうかも」
「えっ!」
今の俺はキツネよりも少し大きいくらいだ。
この姿だから、食べられちゃうの?
「安心しな、そのためのコレだよ」
「むぐっ!」
俺が何か言うよりも早く、キツネが食べ物を口に押し込んできた。
い、息ができない……っ!
「もぐっ……モグ! 何しやがっ! ぐっ」
今度は身体が燃えるように熱くなる。
しかし、それも一瞬のこと。
俺の視界はぐんぐんと高くなり、気がつくと帽子屋と同じくらいの大きさまで身体が大きくなっていた。
「お、おっきくなった?」
「あれまあ、随分と別嬪さんになったじゃないの」
「はっはっは。これはまた変わったお方ですね」
「せ、成長した? さ、さっきの子と同じなの? こ、怖いな」
姿見がないので想像するしか無いが、身体が大きくなったことで髪の毛の伸びているらしい。
同時に胸も……。
今の俺は、もう男だと言えないほどに女性らしい身体つきへと変わってしまった。
それに、さっきから下がスースーと涼しいのは……っまさか。
「その服は、今のあんたには小さすぎるみたいだね」
「きゃあ!」
「はっはっは。さすがに帽子屋もこのサイズの服は作ってないらしい。それに君は、怖がられているみたいだよ」
「え?」
見ると、さっきまで机にいたクマの帽子屋がいない。
キョロキョロと見渡してみると、近くの木の幹からクマのお尻がはみ出していた。
「あの、それで隠れているつもりなのですか?」
「放っておきな。あの状態ではもう喋ることもできないだろう。それよりドングリを手に入れるんだろう? ヘビは向こうだよ」
「はっはっは。その姿なら丸呑みされることはないだろう。しかし、風邪をひかないように気をつけるんだ」
「あ、ありがとうございます」
自分の喉から出るソプラノボイスにはいまだ慣れない。
でも、これでようやく男に戻れる目処が立った。
俺はキツネとコマドリにお礼を言い、クマにも礼だけしてその場を去る。
食いしん坊のヘビは、来るときに渡ったボロボロ橋の近くに住んでいるらしい。
それらしき動物を探すも、ヘビどころか動物の姿すら見当たらない。
キツネと歩いていた時は何匹かいたはずなのに、この短時間で皆移動したのだろうか?
ふと、後ろから何者かの視線を感じた。
「え?」
「……………………ふん」
そこには、不機嫌そうな顔のアライグマがいた。
彼が先程コマドリが言っていたこの森のボス……ここで一番強い動物なのだろうか。
まずは敵対心がないことをアピールするためにも、丁寧に要件を聞いてみる。
「あの、どうかなさいました?」
「アア”!?」
「ひぅんっ」
会話できませんでした。
自分の口から出た悲鳴にドキッともしたが、まずこのアライグマに話は通じないらしい。
彼はこちらを睨みつけたまま、ゆっくりとした足取りで森の奥へと引っ込んでいった。
「こ、怖かった……」
いつ襲いかかられるか、気が気でなかった。
思わずその場にペタンと座り込む。
足を外に広げ、自然と女の子座りをしている自分に驚く。
……地面が冷たい。
そういえば、下に何も履いていなかった。
ようやく立ち上がれるようになるまで回復したとき、近くの木がガサゴソと揺れた。
「そこの美人さん、見慣れない顔だね」
「誰だ? どこにいる?」
「うえだよ、うえ」
声のしたほうを見ると、木の枝に絡みついたヘビがこちらを見ていた。
多分あれが、食いしん坊のヘビだろう。
「初めまして、素敵なマドモアゼル。貴方は迷い人ですか?」
「うぇ……そうだ。知っているなら話は早い」
ヘビは食いしん坊というだけではなく、王子様も気取っているらしい。
ただ。
男の俺からすると、この扱われ方は気持ち悪い。
「お前の持っているドングリがほしい。渡してくれるか?」
「うーん。どうしようかな? マドモアゼルの頼みならいいよ……といいたいところだけど」
ヘビはスルスルと地上に降りてくると、俺の目の前までやってきた。
「僕の頼みも聞いてくれるかな?」
「ああ。言ってくれ」
「僕はヘビに変えられた可愛そうな男でね。是非とも姫のベーゼが欲しいんだ」
チョロロロ、と舌を見せてくるヘビ。
その姿に、全身から鳥肌が立つ。
「じょ、冗談じゃない!」
「ドングリなら木の上にあるよ。その前に、マドモアゼルから誓いのベーゼを。さあ、さあ!!」
「い、いやだ!」
これはヤバイ!
食いしん坊って、そういう意味か!
思わず逃げ出したが、王子様気取りのヘビは爬虫類らしくスルスルと追いかけてくる。
「ははは、追いかけっこは得意だよ」
「こっち来るな! ドングリ要らないから帰れ!」
そういっても追跡をやめてくれる相手ではない。
いつしか俺は、ボロボロの橋まで追い詰められていた。
「その橋を渡るかい? 忠告しておくけど、君が渡ればその橋は落ちると思うよ」
「まさか。ここを渡ってきたのに、そんなわけ……っ!」
そこで重大な事実に気づいた。
来る時はキツネと俺で渡ってきたが、そのときの姿は?
幼児ともいえる体型だったので、30キロはなかったはずだ。
しかし、今の俺は。
見下ろした身体は、どうみても幼児には見えない女性の身体。
無駄に突き出た胸と、デカ尻のせいでで歩くときに何度もバランスを崩した。
身長もそれなりにあるので、50キロ近くあると見てよさそうだ。
……行きより、20キロも重くなっている。
それを加味すると、ヘビの言うこともあながち嘘ではないように思えてくる。
「さあ、観念して僕にベーゼを!」
「お、おれ男なんだ! だからっ」
「おや、どこに男がいるんだい? つくならもっとまともな嘘をつきなよ」
事実なのだが、見た目だけは女性の姿に説得力は皆無だ。
後ろはボロボロの橋、前には腹ペコ? のヘビ。
退路は絶たれた。
「う、嘘じゃないもん……」
「へえ? そんな姿でよく言えるね。まあいいや。僕は君にベーゼをしてもらえばどっちでもいいよ」
「!!」
ゆっくり、ゆっくりとヘビはこちらへと近づいてくる。
一秒一秒が長く、焦らすようにゆっくりと。
まるで捕食されるカエルの気分だ。
「ちょいと待ちな」
「うん? 誰……かと思えば、アライグマさんではないですか」
ヘビに睨まれて動けない。
そんな俺を救ってくれたのは、先程通りかかったアライグマだった。
「そいつの言っていることが嘘かどうか、あの根っこ広場で聞いてみたらどうだ?」
「いえ、僕は嘘か真実とか、そんなものはどうでも……」
「あ”? そこが重要だろうがァ!」
「ヒィ!」
「ひゃぁ!」
凄まれた声に、俺まで悲鳴を上げてしまう。
「おら、お前らついてこい。さっさと行くぞ」
「ま、まだ僕は行くとは!」
「文句あるのか?」
「イエ、アリマセン」
アライグマはヘビをつれ、さっさと森の奥へと行ってしまう。
身体は……動くようになった。
このまま逃げても良いだろうが、もし逃げてしまうと助けてくれたアライグマにお礼を言うこともできない。
それに、ここで逃げてもドングリとやらが手に入らないような気がする。
案内されたのは、木の根がうねる広場だった。
「おい、そこのお前。パツパツの服を着たネーチャン」
「お、俺ですか?」
「他に誰がいるんだよ。さっさとそこに立って宣言しろ」
促された場に立ち、ふと考える。
この場合の宣言とは、男性ということを宣言しろということだろうか。
「ハッ! 馬鹿め。ここでは嘘つきは地の底に埋められるって噂なんだ。こんな場所で男だなんて嘘、言えるわけがない!」
「お前は黙ってろ!」
「す、すみません!」
しかし、あのヘビのおかげで状況は理解できた。
ここは何一つ嘘はついていないので、堂々と宣言してやろう。
「俺は……俺は男だ!」
「はっ、言いやがった! 言いやがったよコイツ。これで根っこが………あれ?」
……何も起きない。
噂がガセだった可能性もあるが、少なくとも俺の宣言は事実として受け取ってくれたらしい。
「ふん。疑いはこれで晴れたか。それともアレか? ヘビさんよ、お前は男性でもオーケーな口か?」
「うっ、それは……いや、マドモアゼルは女性だ! 男性は無理だが、マドモアゼルが相手ならいける!」
「無理無理無理! 俺は無理だから!」
「やっちまったな」
ブンブンと首を振る俺とは裏腹に、アライグマはここで初めて笑みを見せた。
同時に、広場のあちこちから太い根っこが何本も伸びてくる。
「え、あれ? なんで僕がっ!」
「お前は『男性は無理』と言っておきながら『マドモアゼルは女性だからいける』と宣言した。実際はどうだ?」
実際?
俺はこんな見た目になってしまったが、心は男のままだ。
それはこの場所、根っこ広場も認めてくれたらしい。
だが、ヘビは俺のことを女性だと宣言した。
それが、嘘……だと判定されたらしい。
「まって! 僕はまだ誰ともベーゼを終えてないっ! 僕は王子なのにっ! うわっ! たすけっ……!」
「……嘘に嘘を重ねるとそうなるわな」
どうやら彼が王子というのも嘘だったみたいだ。
ヘビは瞬く間に根っこの海に飲まれ、そのまま地面に根っこごと引っ込んでいく。
ヘビの姿は、もう見えない。
完全に消えたことを確認して、ホッと一息つく。
アライグマに救われてしまった。
「あ、あの。助けてくださりありがとうございます」
「別に助けたわけじゃない。あいつは問題ばかり起こしていたから利用させてもらっただけさ」
「それでも、助けていただいたことには違いありません」
「……チッ、お前も変な奴だな。探しものはドングリだろ? ほらよ」
そういって、ひょいっと放り投げられた。
それは、手のひら大のドングリだった。
「あの、これ」
「戻りたいっつってたろ? これを向こう岸の池に……チッ、ちょっとかがめ」
「えっ?」
「いいからかがめって!」
アライグマは、俺の知るアライグマと変わらぬ大きさだ。
今は大人の女性である俺がかがむと、アライグマはそのまま……俺の胸元に飛び込んできた!
「いひゃん! な、何するんだ!」
「動くな!」
「まっ、むりぃ! ちょっ……やめっ!」
「……よし!」
何が、ヨシ! だ。この変態アライグマめ!
と怒るよりも先に、俺の身体に変化が訪れる。
ドクン。
この感覚……キツネのときの……。
目を覚ますと、そこにアライグマの姿はなかった。
真横にドングリが置かれているが、手のひら大だったドングリは両手で抱えるほどに大きくなっている。
……いや、違う。
「おれ、またちっちゃくなってる!」
周りをみると、いつの間にか向こう岸まで渡っていたらしい。
あのアライグマが運んでくれたのだろうか?
近くには動物の気配もない。
仕方なく、そのまま池を目指して歩き出す。
「俺が落とされた池って、ここだよな」
つい先程の出来事なので、道を間違えるようなことはない。
ただ、時間帯が違うからか、その池はキラキラと輝いているようにも見える。
それに。
「さっきは虹なんてなかったよな?」
はじめは遠くに見えた逆さ虹。
橋の向こうでも見ていた虹が、今は目の前にある。
そう。
まるで池の水面から上空に広がるように、虹の逆アーチが伸びていた。
「これ、普通に落とせば良いんだよな?」
初めに見た時と違う風景でも、俺のやることは変わらない。
ドングリを投げて願うだけとしか聞いていないので、ただ投げるだけで良いのだろう。
「まあいっか。ひょいっと」
ボチャン!
抱えるほどに大きなドングリなので、投げるというより池に落とした。
あとはこれで願い事を……なんて考えていると、今度はバシャバシャという音がする。
「ん? 何で水の音なんて……あ!」
近くに動物の気配はなかったはずだが、気づけば初っ端にタックルしてきたリスが池に飛び込んだところだった。
そのまま何か石のようなものを転がして……。
「って、それ俺のドングリ! 返せ!」
「きゃきゃきゃきゃきゃ!」
まるでフンコロガシのようにコロコロと運ぶリス。
水の中でもお構いなしに移動できるらしい。
幸いにも目の前にいたので、俺もドングリを掴んで抵抗する。
「きゃ?」
「返せ! それがないと願いがかなわないんだ!」
事実かどうかはともかく、せっかく手に入れたヒントなんだ。
ここまできて可能性を手放すのはもったいない!
お互いに引かず譲らず、ドングリを引っ張る力は均衡している。
くっ。
この幼子の身体は、リスと同じ力しかないだなんて……!
何度目かの駆け引きの後、前触れもなくリスが手を放す。
「え? うわわわっ!!」
思いっきり力を込めていたので、その反動で後ろに倒れてしまう。
いくら浅いといっても、水の中だ。
幼女の身体では息も苦しい。
俺がもがくようにして這い起きると、そこにリスの姿とドングリはなかった。
「……え」
最後に見たのは、森の近くまで移動したリスの姿。
その手にはドングリが抱えられており。
目が合うと、むかつくほどに清々しい笑顔を返された。
「おい、待て!」
立ち上がろうとして、足がもつれて池にダイブする。
起き上がったときには、もうリスの姿は見えない。
「そ、そんな……せっかくここまでがんばったのに」
不思議な世界、慣れない身体、怖い動物。
全て我慢してここまできたのに、最初と同じくリスに邪魔されて振り出しに戻るなんて。
ポチャン。
音に気づいて下を見ると、一人の女の子がポロポロと泣いていた。
かわいらしい顔はくしゃっとなっており、ヨシヨシとしてあげたい感情におそわれる。
「うぇっ……ぐすん。スン……これ……俺だ……」
水面に映るのは、自分の顔。
そうか、俺がこんなに泣いているのか。
「うぇぇぇぇぇえええんん! うわぁぁぁぁあああんん!!」
そのことに気づいたら、もうダメだった。
ここは、逆さ虹のかかる森。
喋る動物はいても、俺と同じ人間の姿はない。
戻れないってことは、このまま一生を終える可能性もあるわけで、先のことを考えると不安でさらに涙が溢れてくる。
「うわあああああん!! うぇぇええええん!!」
いくら泣き叫んでも、ドングリを持ち去ったリスは戻ってこない。
代わりに、何事かと動物たちが集まってくるが、俺が話したことのある動物の姿は見えない。
「うぇぇぇんん! うわぁぁぁぁんん!!」
「チッ、うるせぇな」
「きゃん!」
どれだけ泣き叫んでいただろうか。
聞いたことのある声が聞こえたかと思うと、茶色い動物にタックルをされたらしい。
リスよりも重量がある動物で、ただ泣いていた俺は無抵抗で突き飛ばされる。
バシャン!
……池に落とされるの、何度めかな。
犯人は誰かとにらみつけると、そこにいたのはアライグマだった。
「アライグマ……しゃん?」
「おう。ビービーうるせぇな。キツネのやつが言った通りじゃねえか」
「え、キツネの知り合いなの?」
「あいつとは幼馴染さ。腐れ縁とも言うが」
それにしては情報が早いと思うが、ここは逆さの虹がかかる森。
俺の知らない連絡手段があってもおかしくない。
「面倒を見てやれって、厄介なことを押し付けられたもんだぜ、まったく」
……そうか。
アライグマが助けてくれたのは、偶然じゃなかったんだ。
「あ、ありが……」
「コイツ、シメておいたぜ」
そう言い、後ろからひょいっと出される。
そこにいたのは、グッタリとしたリスだった。
「リスさん!」
「安心しろ。しんでない。ドングリも拾ってきたぞ」
「わわわっ!!」
どこにそんな力があるのか。
アライグマは同じようにドングリもひょいっと投げた。
……尻尾で投げるとは、とんだ力持ちだ。
これで、俺は男に戻れる……かもしれない。
ドングリを見て、アライグマを見る。
「あとは好きなようにしろ」
「いいの?」
「そのためのコイツだ」
リスは相変わらずグッタリとしているけど、その瞳はこちらを見ている気がした。
俺はドングリを抱えたまま、リスに近づく。
「どうしてあんた、俺にいたずらばかりしたんだ?」
「きゃきゃ……」
「ドングリがほしかった、わけじゃないのだろ?」
リスは何も言わない。
最初から、何かおかしいと思っていた。
ここは逆さの虹がかかる森。
小鳥たちですら日本語を喋り、動物たちとは会話ができる不思議な森だ。
なら、どうしてリスは喋らないんだ?
そこまで考えて、一つの予想にたどり着く。
まさか……でも、もしそうであれば。
今までの行動にも説明がつく。
「お前、もしかしてワンコか?」
「きゃきゃ!!」
先程までグッタリとしていたリスだったが、俺がそう呼んだ途端、嬉しそうに吠えた。
俺がこの場に飛ばされたと同時に。
一緒に寝ていたワンコも飛ばされたのだろう……リスの姿となって。
姿は違えど、俺が飼い主であることに変わりはない。
いつものように遊んでほしくて。
ドングリを取ったのも、追いかけてほしくて。
このリス……ワンコはただ、俺に構ってほしいだけだった。
「そうか。お前だったのか。気づいてやれなくてごめんよ」
「きゃきゃ……きゃうん……」
いまはお互い一回りも小さくなってしまったが、それでもお互いに認識ができた今なら関係ない。
小さくなってしまった身体にワンコを抱き、代わりにドングリを地面に置く。
「結論は出たか?」
俺たちを、アライグマだけでなく、集まった全ての動物が注目していた。
「ああ。ドングリは……こうだ!」
小さい足で、思いっきり蹴飛ばす。
幼女の力では少ししか動かないが、ドングリはコロコロ転がり、ポチャンと池に落ちた。
「俺の願い……俺達の願いは、元の世界に帰りたい!」
「きゃっ! きゃっ!」
高らかに宣言する。
そして、アライグマが言った。
「ああ。それで正解だ。お前たちは間違えなかったな」
「え? それってどういう……えっ」
疑問を答えてもらうよりも早く、後ろから一際眩しい光が放たれる。
思わず振り向くと、さっきまであった虹が巨大化し、周りを勢いよく取り込んでいるようだ。
あっ!
と思ったときには既に遅し。
俺も、ワンコも、森の動物達も。
何も抵抗ができないまま飲み込まれてしまった。
……頬にザラザラとしたモノが押し付けられている。
それは何度も俺の顔を往復し、一際大きい鳴き声を放つ。
「ワンッ!」
「ああ……おはよ、ワンコ」
「へっへっへっ」
わしゃわしゃとワンコを撫でるうちに、意識が覚醒してくる。
さっきのアレ、夢だったよな。
ワンコがリスになるなんてありえないし、俺が女の子になるなんてありえ……。
そういや、ワンコってこんなにでかかったっけ?
「ちょ、ちょっと待って!」
ベッドから起き上がる。
……気のせいじゃない。そろそろ買い換えようと思っていたベッドが、ものすごく大きく感じる。
気の所為であってほしい。
しかし、現実を知るのが怖い。
やけにスースーする服で、おそるおそる姿見の前まで行く。
「ふぅ……はぁ……チラッ」
うん。そうだよな。
あれは夢だったに違いない。
だからこそ叫ぼう。
「戻ってない! ちっちゃい女の子のまま、戻ってないよ!!」
今度はいくら泣き叫んでも、助けてくれるアライグマは、こなかった。