おいしい花蜜茶をあなたに
◇
目が覚めるとくすぐったいほど柔らかな黄金の光が私の全身を包み込んでくれた。
朝を告げる輝かしい太陽は、この大地の女神さまよりもさらに高位の御方であるらしい。教えてくれたのは姉の一人。彼女にはいろいろと教えてもらったものだ。花の誘い方、蜜の吸い方、恋の仕方、そして、危険な精霊を見分ける方法……。
そのどれもが正しかったけれど、たった一つだけ間違っていると思うことがあった。
――それは。
「おはよう、胡蝶。よく眠れた?」
ここは糸で出来たお家だ。壁も床も光を受けて輝く美しい糸が絡まって出来ている。私が横になっている柔らかな揺りかごもまた複雑に絡まった糸で作られた代物だ。眠るとそれはもう心地よい夢を見られる。ここ最近、私の目覚めはすっきりとして素晴らしい。何より、寝ぼけた心を目覚めさせてくれる優しい声が好ましい。
この家を作ったのは蜘蛛である。姉は蜘蛛という生き物の恐ろしさを再三教えてくれた。だが、この蜘蛛と出会って長く経つが、いまだ擦り傷一つつけられたことはない。色気のある麗しい声で優しい言葉をかけて、私の肌にそっと触れてくれる。蜘蛛はそういう素敵な女性だった。
「そろそろ朝ご飯にしようか。昨日は素晴らしい花蜜が手に入ったんだ。さあ、おいで。飲ませてあげるから」
「ありがとう」
手を握って貰いながら揺りかごを降りると、すぐにふらついた。糸で出来ているのは揺りかごだけではない。不安定な足場を歩くのは、とても難しい。そんな中でもどうにか転ばずに歩けるのは、蜘蛛が丁寧に導いてくれるからだ。
私は蜘蛛の手の感触が好きだ。蜘蛛と手を繋いでいると、ここに居ていいんだという安心感が生まれる。私は蜘蛛が大好きだった。
「ここに座って」
連れてこられた場所は、私たちのための食卓である。この近くには外に通じるところがあって、その先には罠が仕掛けられている。私が蜘蛛に出会うきっかけになった場所でもある。
羽化してから数日も経たない頃、私は彼女の仕掛けた罠にかかってしまった。姉に聞かされていた蜘蛛の巣というものだと悟り、もがいたけれどどうにもならない。やがて、私の存在に気づいて蜘蛛がやってきた時には、死すら覚悟した。
でも、彼女は姉が語っていたような蜘蛛ではなかったのだ。私を罠から解放して、家に招き、温かな部屋と寝心地のいい揺りかごと、そして美味しい花蜜茶をくれたのだ。それ以来、ここはすっかり私の家になっていた。
蜘蛛は私を可愛がってくれる。愛してくれる。時に純粋に、時に官能的に。笑顔の絶えない二人だけの空間は、蛹化する前には想像も出来なかった私の宝物である。
「どうぞ」
そう言って出されたのは木の実の殻に入れられた芳しいお茶である。火を起こす魔法を使える彼女は、よくこうして美味しい花蜜をさらに美味しく飲める花蜜茶を作ってくれるのだ。その製造模様を見たことはない。いつも私が起きる前からせっせと作業に入っているから、いつの間にか出来上がっているのだ。
――魔法は危険なものだからね。見学するだけでも危ないんだ。
蜘蛛は人間たちから魔女と恐れられるような精霊だった。そんな彼女でも、時には魔法を練習しないといけないらしい。練習ついでに造れるだけだからと彼女はいつも無償の働きでお茶を作ってくれるのだ。
こんなに尽くしてもらっていいのだろうか。時に不安になりながらも、私は朝夕の二回、花蜜茶をいただいた。
「おいしい!」
一口飲んだだけで、味と香りがふわりと広がった。素晴らしい花蜜だと蜘蛛が言った通り、これまでの美味しいというすべての記憶に勝るほどの美味しさだった。
蜜の素晴らしさは恋の悦びにも近いと言ったのは、姉だったか、兄だったか。花の精霊であっても、物言わぬただの花であっても、与えられる蜜の色気は変わらないのだ。そんな素晴らしい大地の恵みに、蜘蛛の手が加わることで、温かく、程よい渋みの入った花蜜茶は完成する。そして何よりも忘れてはならないことは、このお茶に溶け込んだ蜘蛛の愛情であった。
時間をかけて体に沁み込む美味の感動に震えていると、蜘蛛がにっこりと笑った。
「よかった。自信はあったけれど、もしも気に入られなかったらどうしようかって心配だったの」
「蜘蛛の作ってくれたお茶が気に入らなかったことなんてないよ。私、ここに来てからはずっと、毎日の花蜜茶が楽しみなの。蜘蛛が一緒に寝てもいいって言ってくれる夜と同じくらい楽しみ」
少しだけ気恥ずかしさを感じながら、私は正直にそう言った。
花蜜茶の味はときに恋の悦楽にも似ていると思うことがあった。ただ甘くておいしいだけではなく、味に浸っていると感情が波打って、嬌声にも誓い感嘆の声が漏れ出す時がある。それは、蜘蛛の隣を許された夜の至福の時にも似ていた。
恥ずかしがる私をじっと見つめながら、蜘蛛は穏やかに答えた。
「嬉しい。私もこの時間は好きだよ。胡蝶と一緒に眠れる夜と同じくらいね」
彼女の眼差しに、いつの日かの夜に見た妖艶さを重ねてしまい、しばし見惚れてしまった。
もはや姉がかつて教えてくれた恐ろしい捕食者の姿は何処にもなく、私にとって蜘蛛とはいつまでも見つめていたくなるほど艶やかな精霊だった。
私は蜘蛛を愛している。
そして蜘蛛に愛されている。
きっと私は、この世界の誰よりも幸せな胡蝶に違いない。
◆
遥か彼方に住まう人間どもの中には、森に棲む精霊たちを意図的に繁殖させ、好みの容姿になるような血統をつくることを生業としている一族がいるらしい。初めてそれを聞いた時は、大地の掟に背いて生きる人間らしい強欲だと嘲ったものだった。
しかし、人間というものは生き物の一種。同じ生き物である私が何故、強欲でないと言えるだろう。産み落とされた大地でどうにか生き延びていくうちに、何度も目にすることになった胡蝶という生き物たちは、夜空で瞬く美しくも儚い星のようだった。
いつの頃からか、私は夢を抱いていた。立派な家を築けるまでの蜘蛛になれたならば、胡蝶を一匹養おう。その美しさを間近で愛でて、時に堪能したい。
夢が叶うまでにどれだけの時が流れたものか。しかし、叶ってしまえば、こちらのものだった。手に入ったのは羽化したての初心な胡蝶。大人ではあるが、少女と言っても差し支えないような純粋無垢な生き物だった。
近いうちに同族の男が堪能するはずだったその体ごと愛を尽くし、心も体も糸で縛り上げていく。面白いほどに、この胡蝶は私の思い通りに懐いてくれたのだった。
そんな胡蝶に抱き着かれながら眠る夜。いつまでも触っていたくなる柔らかな肌を撫でてその口からわずかに淫らな声が漏れるのを聞きながら、私はこの世界の何処かにいる蜘蛛の仲間へと思いをはせた。
多くの蜘蛛は胡蝶を食べ物だとしか思っていない。手に入れた獲物を弄ぶことはあっても、心の底から愛して傷つけないようにするものは殆どいないのだ。もしも、この子が囚われたのが私の元でなかったならば、今頃、生きてはいなかっただろう。そう思うと、急に恐ろしくなってしまう。
もしも、この子が何らかのきっかけで外に出てしまったら。外の危険は蜘蛛だけではない。あらゆる肉食精霊たちが、胡蝶を食料として見ている。こんなに美しく、愛らしい価値に興味を持たないなんて信じられない。
そんな輩にこの子の存在を知られることが、私は非常に怖かった。
だから、胡蝶の過ごす空間はひたすら優しい世界だった。
色気はあっても、血生臭さはない。蜘蛛が何を食べるのかくらいは、この子も知っているようだったが、少なくとも目の前では自分の食事をとらないように注意した。
これより先、私の胡蝶が知る世界は、美しいものだけでいい。花蜜茶の味に心を奪われ、官能的なほどにうっとりとした笑みを見せてくれるような毎日を過ごす。そして、時折、私の手によって愛らしい声をあげてくれればいい。
それが私の望む綺麗な世界だった。
しかし、蜘蛛である私の日常が血生臭いものであるように、胡蝶の本来の日常もまた綺麗なだけでは済まないものである。この子ひとりを養うだけでも、その食欲を満たしてやるのは大変だ。成熟した体を支えるための花蜜茶も、濃度が低ければ意味がない。
だから私は常に秘密を抱えていた。
そろそろ朝が来る。
胡蝶を起こさぬように気を付けて、調理室へと向かった。そこは胡蝶の立ち入れない穢れの場所。私の食事のための場所でもあるが、それだけではない。
胡蝶は全く知らないことだが、そこには常に精霊がひとり住んでいる。いや、住まわされている。両手を糸で縛られて、吊り上げられた彼女は今朝も蒼ざめた様子でそこにいた。とりあえず、まだ生きている。そのことだけを頭に入れて、私は彼女に声をかけた。
「おはよう、そろそろ朝だよ。気分はどう?」
淡々とした問いかけに、彼女は答えない。答えられないのだ。一昨日辺りから、無言になることが多くなった。ただその目の輝きは失われていない。真紅に近い赤い目に、血の気を感じさせないほど白い肌。銀髪は乱れ、すっかりぱさぱさになっているが、目鼻立ちの整いは、人間たちを喜ばせるに値する。そして何より好ましいのは、この香りだ。月花と呼ばれる彼女は、常に甘い香りを漂わせている。
香りは今日も素晴らしい。あとはどれだけ搾り取れるかだ。貯めておいた露を無理やり飲ませると、今度は調理室に常に置かれている鋭利な石を手に取った。その石の輝きを見た瞬間、ずっと俯いていた月花の目が見開かれた。
「いや……お願い……」
か細い声で懇願するも、私の方は全く心が動かされなかった。これは必要な犠牲。私と胡蝶の世界を守るための儀式でもある。石の尖りで肌を傷つけると、月花は痛みで悲鳴をあげた。流れるのは血であるが、甘い香りが強まった。非常に濃厚な蜜が、この血の中には含まれている。胡蝶と月花の戯れで生まれるものよりも高栄養なものだ。胡蝶を一日生かすために十分なだけの飲み物となる。
――だから、仕方がない。
すすり泣く月花から血を掬い上げながら、その甘い香りを確かめながら、今度は月花の身体を弄んだ。月花の汗や涙などの体液が濃厚な甘みに混じっていく。その残酷な妖艶さに見惚れながら、私は胸に誓うのだった。
このことは秘密である。絶対に胡蝶に知られてはいけない。悟られてはいけない。そのために、これからも美しい世界の魔女を演じ続けよう。
そして、私は今日も花蜜茶を作り上げる。
愛する胡蝶を悦ばせるために。