彼女との約束
湖に着くと彼女がそこに居た。
ぜえぜえと息を整えることなく彼女に近づいた。
前かがみして両膝に手をついてだらしなく息を乱す。
「大丈夫?」
と頭の上から苦笑しながら言われた。
大丈夫、大丈夫と言うものの顔すら見ることができず、右手を軽く上げることしかできなかった。彼女に背中をさすられたのは少し恥ずかしかったけど、嬉しかった。
「急いでどうしたの?分かった。会いたかったんだ。そんなに私に会いたかったんだねえ。」
ふふと笑いながら言った。
「そうだよ」
と、はあはあ言いながら言った。
すると、ぱちんと音を立てて背中を叩かれ、彼女が僕から離れた。
「どこ行くの?」
と僕が聞くと、
「どこにも行かないよ。何を心配しているの?」
と彼女が言った。ようやく息が整って彼女を見た。口に手を押さえて少し首を右に曲げていて、顔はこっち見ているのに目はどこか違う所を見ている。
「もしかしてだけど、私が死ぬとでも思ったの。あなたの小さな脳みそで考えたのは、その程度ってことなのかなあ。」
彼女はゆっくり口を開け静かに言った。今まで聞いたことのない優しい声だった。彼女は穏やかに微笑んで、僕はそれに包まれたいと本気で思った。
「でもね、大丈夫だよ。私そんな気ないからね。ただここに来たかっただけだから。」
湖の遠くを見つめる彼女の暖炉の火のように温かい笑顔はどこか寂しかった。それを見た僕は何もできなかった。
やっぱり彼には勝てない。彼女の中には彼が今ままでもこれからも居る、そう思った。
こちらを見た。
彼女の髪は一本一本意志を持っているように踊るようにたなびいた。その大人ぽさと真逆に、ビニールプールで遊ぶ幼児のような笑顔を見せた。こちらも、口が大きく緩む。
「ねえ、写真撮ろうよ。僕、ちょうどデジカメ持っているから。」
そう言ってポケットからカメラを取り出した。せめてこの瞬間を忘れないようにそうしたかった。
「彼女さんと写真を自慢したいの。全部消してあげようか。」
声を出して彼女が笑った。
「残念なことに、彼女とは一枚も撮っていないので。」
「そうなの。でも、どうして?」
と言った顔は何だか嬉しそうだった。
「怖かったから、もしも、彼女が写真に写らなかったらと思って。」
少し言葉足らずだったと思うが、それ以降聞いてくることはなかった。なので僕も言わなかった。幽霊と分かっているのに幽霊という証拠が欲しくなかったなんて言えない。もちろん写真に写る幽霊もいるけど、写らなかったら確実に幽霊だから。
「私が撮ってあげようか。」
と言ってカメラを奪い取ろうとする。
「いいから、珠理ちゃんが撮るとたくさん映るでしょう。」
「いいじゃん、賑やかそうで。」
無邪気に二人笑い合った。
「僕は珠理ちゃんとふたりきりで撮りたいの。」
珠理ちゃんがしゅんと静かになった。何かまずいことでも言ったのかと思ったがよく分からなかった。
自撮りは思っているよりも難しかった。彼女の肩が触れるほど近づかないとどちらかの顔が切れてしまう。下手くそと何度も彼女に言われながら撮った一枚は涙が出そうになるほど素敵な笑顔の彼女と、死ぬ物狂いで作り笑いをしている僕が映っていた。
「完璧ね。私ってやっぱりカワイイ。」
僕が見ているカメラの画面を後ろから見て耳元でいつものきゃきゃと高い声で言った。
「そうだね。本当に。」
聞こえるか分からないほどの声で囁いた。それは風に流され独り言になった。
ポケットの中に手を入れ、彼らの写真を掴んだ。本当は握りつぶしたかったが、優しくでも力を込めて握った。
この写真を渡すことが出来れば違う結果になっていたらかもしれないが、悔しくてどうしても渡すことが出来なかった。
「写真、あとで頂戴ね。」
そう彼女が言うと、ゆっくり歩きだした。悲しそうな背中に見とれていると、髪を揺らしながらこちらを見た。冬の星空みたいな笑顔を見せて手招きした。僕はただそれに従うしかなかった。本当はなぜここに来たの?僕には分からないままだった。
約束をしたはずなのに守れなかった。




