彼
ふふと彼女の笑い声が聞こえた。いや、彼女かどうか分からないが女性の笑い声だ。彼女の表情が止まった。僕の横をすり抜けるような目線、それをたどるように後ろを振り向く。
身体が濡れた背の高い男性が立っていた。生きているみたいに傷がなく、死んでいるみたいに無表情だ。彼に見覚えがあった。だけど、とても違和感があった。綺麗すぎる。本当に彼は死んでいるのか。あの夜見たゾンビたちとは全然違う。
さっきまでの殺気は失い親近感を持つほどだ。彼と僕には共通点がある。同じ思い持っていることだ。ただ、彼にはとても勝てないのだ。
手に何かを持っていた。
やっぱりそれは濡れていなかった。
その手を前に出してきた。
僕が一歩前に出て手を長く伸ばす。全く抵抗はなかった。手を差し出されたから握手したみたいに。その四角い何かを受け取った。
それは写真だった。珠理ちゃんの隣に居るのは彼だろう。
珠理ちゃんは見ていると悲しくなるほど完璧な笑顔だった。彼に嫉妬を覚えるほどだ。彼らの後ろに映っているのはこの湖だ。転落防止用の柵の前でふたり顔を近づけている。この角度だと彼女が自撮り棒か何かを使って撮ったのだろう。
いつも笑顔の彼女を見ているが、こんなにも感情が詰め込まれた笑顔を見たことはない。やっぱり僕には無理なんだと実感してしまう。
だから……と思っていると彼がいつの間にか消えていた。まるで霧が晴れたみたいに。その代りにチカちゃんが隣に居た。どうやってここまで来たのか疑問に思ったが、それどころではなかった
チカちゃんは黒くて重たい雪を降らす雲みたいに、今にも泣きだしそうだ。
ぶるぶると彼女が震えている。ゆっくりと彼女に近づき、体が自然に動いた。
それは当たり前のことだった。リンゴが木から落ちるように、彼女の背中に手を回し抱きしめた。
冷たい涙が確実に僕の体を濡らした。
「怖かったの?」
と聞く僕自身にぞっとした。
彼女が声を出さずに涙を流しているのに。




