冷たい背中
「いいから早く行こう。ここに居てはいけない。じゃないと。」
彼女の腕を握ろうと手を伸ばした。突然、彼女が居なくなった。ガシャガシャと葉に当たる音がしたのでまさかと思ったが、数メートル下に落ちていた。見覚えのあるあの場所に彼女は居た。
「大丈夫?」
崖の端に立って彼女を見る。3メートルほどだがほぼ直角だ。彼女は立ってこっちを見ていた。
「大丈夫です。別に滑り落ちたんじゃなくて、降りただけですから。」
そう言うと向きを変えて誰かを探しているように周りをちょろちょろしている。僕も一緒になって探すが誰も居ない。
「登ってこれる?早くここから逃げた方がいいと思う。」
彼女に向かって叫ぶ。彼女が振り返った。少し暗い表情だ。
「無理です。」
彼女が口に手を置きメガホンみたいにして言った。
「あの、物理的にここを登れないのもあるんですが、それだけじゃなくて。達也さんに会ってもらわないといけない人が居るらしいです。達也さんが会ってくれないと私ここから動けません。」
彼女が叫ぶように言ってきた。
彼女は自分の意志で降りたんだから何か目的があったに違いないのに、それが達成していないのに戻ってくるはずがない。そんな当たり前のことすら考えられないほど、恐怖で頭がいっぱいだ。珠理ちゃんだったら「バカじゃないの。頭あるの?」と言われているに違いない。
「会う?誰に?」
震える声を抑えるように言った
「分かりません。とにかくここに来てください。」
腕全体を使って招く。
「本当に帰れないの。それに会いたくないし、会ってはいけない気がする。」
彼女の前ではカッコよく、そう思っていた自分はいったいどこに。今にも泣きだしそうな震えた声で彼女に言う。
「それは分かりますが、会ってくれないと動けませんから。」
口調が強くなった。怒っているのが分かる。確かに女々しい男は嫌われる。
それは幽霊でも同じだろう。何か知らないものに会う恐怖を彼女に嫌われる恐怖に変えて、彼女に宣言する。
再び唾を飲んだ。
「分かった。降りるよ。僕が背負ってあげるから、早くここから行こう。」
崖の上に両足を出して座る。見下ろしたら鳥肌が体中を走る。よくここ降りたなあ。それに珠理ちゃんよくここから落ちて生きていたなあ。気を紛らわすようにあれこれ考え、両手で体を持ち上げて、今にも滑り降りようとしたとき、彼女が言った。
「待ってください。やっぱり、大丈夫でした。」
彼女の言葉にホッとした半分、突然の方向転換に恐怖が濃くなる。
早くここから逃げたい。
「そう、じゃあ早く上がってきて、手を貸すから。」
彼女はゆっくりこっちを見た。何とも表現しがたい表情。笑っているのに楽しそうに見えない。むしろ真逆の感情。
「彼はあなたの後ろに居ますよ。」
彼女の声がねっとり耳についた。
「え。」
確かに背中が信じられないぐらい冷たい。




