彼女の過去
「どうしよう。どこに行くか分からない。」
泣きそうだ。そういえばここには来たのではなく、連れてこられたのだから分かるはずがない。
辺りはたくさんの人ではないものが木々と同じぐらい在る。
「それなら大丈夫。遊歩道の位置は分かるから。」
自信満々に彼女が答えた。
「どうして?」
「遊歩道は整備されていて、人も通るから霊が集まりにくいの。だから右ね。右に真っ直ぐ。」
そう言って彼女は背中に顔を押し付けた。
「ちゃんと前向いて。」
「いやよ。怖い。震えが止まらないんだから。」
少し聞きにくいがたぶんそんな感じのことを言ったと思う。
「いつも幽霊見ているくせに。」
「幽霊じゃないもの。死体だもの。歩く死体。」
確かに彼女の言うとおりだった。なるべく目に入らないようするが、おぞましい姿が僕を気絶させようとする。よく、ここに一人できたなあ、彼女の精神力の高さに感服した。
「何だってこんなに醜い姿なの。」
息を切らしながら言った。
「死んだ瞬間がそのまま霊になったからね。自殺した瞬間がね。」
ずっと背中に顔を押し当てながら話しているせいで、彼女の唾液や汗が、背中に熱く染みてくるのが伝わってきた。今は嬉しかった。
「ねえ、もっと速く走ってよ。」
こんな状況なのにじゃじゃ馬娘のように文句を言う。
「無理に決まっているでしょう。そんな体力あると思っているの。これが精一杯のスピード。」
遊歩道に出てひたすら上と向かった。息が激しく乱れて内臓が飛び出しそうになりながらも止まることはない。
「ねえ、今から勝手に話すから口出ししないでね。」
「何を?」
「ここに来た理由。喋るなって。」
珠理ちゃんの息が僕の耳に触れる。ようやく顔を上げた。
「もうわかっていると思うけど、ここに来たのは献花のためよ。私の元カレよ。3年前の今日彼は死んだわ。湖に身を投げてね。彼は私よりも五歳年上で昔からよく知っていたわ。同業者だったから、私に幽霊についていろいろ教えてくれたわ。あなたに言った、幽霊は怖くない、怖いのは人間っていうのは彼の口癖。私たちの関係は上手く言っていたと思うよ。自分で言うのは何だけど。少なくとも私はそう思っていたわ。」
彼女がひとりで話し始めた。
その声は聴いているだけで辛くなりそうな怒りと悲しみに満ち溢れていた。僕はただ黙って聴くしかなかった。喋るなって言われたのもあるけど、聞くことで彼女が少しでも楽になればいいと思って、邪魔をしたくなかったからだ。
彼女が唾を飲むこむ音が耳元で聞こえた。
そして続けた。
「でも付き合って1年ぐらい経ったある日彼が女性と歩いていたのを見ちゃったの。とても綺麗な女性だったわ。背が高くモデルみたいなほっそりした体で、手も足も長かった。髪には艶があり毛先まで整っていて、遠くからでも綺麗って分かっちゃう感じ。顔は見えなかったけど整っているに決まっている。悔しかったけどしょうがないと思ったの。私みたいな子供が太刀打ち出来る相手ではなかったから。諦めが付いたわ。もし、彼女が人間だったらね。
でも、彼女は幽霊だったの。だがら、何も問題ないと思ったわ。彼は達也君と同じで幽霊にモテモテだからね。ただ、遊んでいるだけだと思ったの。彼は私以上に幽霊について知っていたし、幽霊と人が一緒になれないなんて分かっていると思っていたから。
まさか、彼が幽霊に本気で恋していたなんて考えもしなかった。
でも、だんだん冷たくなったのね。本当に分かりやすく。デートには誘ってくれないし、電話もしてくれないし、会っても確実前より冷たくなったわ。まるで人が変わったみたいに。
彼から別れようと言われたときは、正直ほっとした。もう終わっていると分かったいたけど、自分から言うのは嫌だったから。
冗談聞いたの。『幽霊とでも付き合うの。』そしたらあいつ真顔で『もちろん、そのつもり』だってさあ」
痛い叩くな、頭を。しかもグーで。もちろん心の中で毒づいた。
「もう最低。幽霊と付き合うなんて嘘に決まっている。そんなに私と別れたいなら、はっきり言えばいいじゃん。だってありえないじゃん。幽霊と一緒にいるなんて。もちろん、鼻で笑ってやった。今まで言ったことがない言葉を浴びせたやったわ。聞きたい?」
慌てて首振った。それを聞くほど僕は優しくはないよ。
「嘘じゃなかったと気がついたのは彼の遺書が見つかったときね。彼女と一緒になるために死にますだって。死んでも幽霊になれるはずないのに。死んでもただの遺体なのに。まあ、まだ遺体は見つかってないけど、湖の藻屑にでもなったんじゃないの。」
声を荒げた。でも、とても悲しそう。彼女が顔さらに近づける。唇がそっと耳の淵に触れた。しかし、今は何と思わなかった。
「裏切られた。」
魂が抜けたように弱々しい声で言った。こんなにも近くで言われたのにかすかに聞こえた。
心配になるほど情緒不安定だ。
「そのとき、やっと気が付いたの。幽霊に浮気されたんだ。それと同時に私しか止められなかった。本気で彼を説得していればと思うと悔しくて。」
ひと通り話し終えると沈黙が包み込んだ。
それはふたりの中だけにとても意味があるものだと思った。
「本当に何も喋らなかったね。」
呆れたように言った。あんたが言ったんじゃないと心の中で言った。
「何か言ってよ。」
声を荒げた。何も言えなかった。息が乱れすぎて頭の酸素が足りていないことも一つの要因だが、それ以上に驚きが僕を支配していた。彼女のネオン街のように明るい笑顔からは到底想像の出来ない過去だ。
それと同時に時折見せるどこか遠くをじっと見つめるような表情が僕の勘違いではなかったことに気が付いて、なぜだか誇らしかった。
しかし何も声をかけられない。こんなときどう声をかければいいか、ネットにも載っていないのだろう。いつもあんなにも彼女について知りたがっていたのに、こんなときだけ自分勝手に他人面する自分が許せなかったがしょうがないと思った。
僕と彼女では釣り合わないそう思うしかなかった。




