死より怖いもの
海の上を飛ぶ二匹のカモメのように教科書とノートを机に広げ英語の予習をしている。ベッドの上ではチーちゃんがごろごろと転がっている。可愛いから別にいい、彼女以外は見えなくなった。たぶんそれは、お守りのおかげではなく、時間が経ったからだ。
一万円で買ったお守りは、まるで名誉ある賞のたてみたいに机の教科立てに立て掛けた。一万円のご利益があるに決まっている。交通安全って書いてあるから5、6年は事故に遭わないはずだ。そう信じることにした。
僕にはチカちゃんの声は聞こえない。だから、まるでペットなのだが、妹みたいに愛情を注いでいるつもりだ。今もこうやって勉強を犠牲にしてまで抱っこしてあげている。声は聞こえなくても感情は分かる。混じりけのない笑顔で喜んでいるのが分かった。
「じゅ……」
何か言った気がした。
「じゅ、じゅ。」
「じゅ、じゅ?」
赤ちゃんが初めて話すってこんな感じなのかな。目頭が熱い。
「何?じゅじゅって。」
「じゅじゅ。」
じゅって珠理ちゃんのことかあ。何だあ。パパじゃなくてママって呼ばれた気分。パパでもママでもないんだけど。
「珠理ちゃん会いたいの?明日会わせてあげるよ。でも、会いたいなら勝手に行けるんじゃないの?」
「じゅじゅ、じゅじゅ。」
泣き出した。泣いている声は聞こえない。ただ抱いている僕の服が濡れているのが分かる。
「どうしたの?珠理ちゃんだったら、明日会わせてあげるから。泣かないの。ねえ。」
できる限り優しく諭した。頭をなでなで。しかし、それを振り払うように頭を振りながら涙を飛ばす。声は聞こえないが絶叫しているのだろう。口を大きく開けて泣いている。
「もう、わかったよ。電話してあげる。珠理ちゃんの声聞かせてあげるから。」
さっそく珠理ちゃんに電話を掛けた。しかし、なかなか繋がらない。切っては、掛けてを三回繰り返したが結局かからなかった。
「まだ、用事済んでいないのかなあ。」
さらに、大泣きした。それによく見ると口が動いて泣きながら何か言っている。
よく分からない。やっぱり珠理ちゃんと連絡が取れないと解決が難しそうだ。
もう一度電話を掛けたが繋がらない。
どうしよう。声が聞こえないけど、ずっと泣かしておくわけにはいかない。それにいつも大人しい彼女がここまで泣き叫んでいるのだ、何か大切なことを言っている気がした。
とりあえず、真美ちゃんに連絡してみようかなあ。チカちゃんが何言っているのが分かるはずだし。それにもしかしたら珠理ちゃんと一緒に居るかもしれないし。
電話帳から彼女を探し電話をかけた。3回のコールで彼女が出た。
「もしもし、先輩どうかしました。」
眠たそうな声のトーンで少し機嫌が悪そうだった。
「今、大丈夫かなあ?チーちゃんが泣き止まなくて。」
とても低い姿勢で霊媒師さんに話した。
「チーちゃんって前に言っていた子供の幽霊ですよね。泣いていますね。」
「やっぱり真美ちゃんには聞こえるんだね。僕には全然聞こえなくて、泣きながら何か言っているよね。」
「言っているけど、よく聞こえません。スマホにもっと彼女を近づけてくれません。」
「分かった。」
彼女の声が聞こえるようにスピーカーに切り替えスマホをチカちゃんの口元に近づけた。
しばらく間が在った。僕には外からカラスの鳴き声が聞こえる以外、静寂そのものだったが、彼女は何かを聞き取っているに違いない。気がつけば自分の心臓の鼓動する音が聞こえてきた。それは彼女の難問の答えを言うような自信なさげな声で、倍増された。
「じゅ、じゅ、おちた。」
「落ちた?」
思わず叫んでしまった。
「はい。落ちたって言っています。そのほかのじゅじゅがちょっと分からないけど。」
彼女はとても落ち着いているようだ。しかし、僕の発言で声が震えだした。
「それは、たぶん珠理ちゃんのことだと思う。」
「お姉ちゃん。」
ここで僕が動揺した様子が声に現れたらさらに彼女が動揺してしまうに違いない。一度深呼吸した。そして震える声を抑えながら言った。
「でも、落ちたってどういうことなんだろう。」
「ねえ、先輩。そこからあの湖って近いっておしゃっていましたよね。」
「湖ってまさか。」
最悪の映像が一瞬頭に映し出された。立てなくなりベッドに座る。
「いえ、お姉さんがそんなドジをするとは思えません。しかし、今日はそこに行く日なので。」
「どうして、そんなところに。あそこは危険なんでしょう。」
声を荒げて言った。彼女の方が何倍も落ち着いていた。
「詳しくは言えませんが、彼女は絶対その湖に行っているはずなんです。ただ、もう戻っているかもしれませんが。」
「そういえば、珠理ちゃんに電車で会ったよ。」
「それっていつ頃です?」
チェストの上の四角い目覚まし時計に目をやるあとちょっとで6時だ。
「1時間前ぐらいかなあ。5時ぐらいに僕は駅に降りて、彼女はそのまま乗っていた。」
「そうですか。ならもう帰っているかもしれませね。」
「でも、連絡できないんだよ。」
動揺がそのまま声になって出してしまった。落ち着いてくださいと彼女に言われて体中ががさらに熱くなる。
「そうですか。大丈夫です、先輩。私が何とかしますから。間違っても湖に行かないで下さい。」
彼女は明らかに動揺した。
「何言っているの。僕も行くよ。自転車で20分ぐらいで行けるし。」
「絶対に行かないでください。死にますよ。」
その言葉に脈が早まる。この数日で死の恐怖と言うものがどれほど恐ろしいのか身を持って体感した。それに真面目そうな彼女が言うとそれがはっきりとそこにあることが実感する。
「死ぬって。」
「ええ、先輩みたいに霊に好かれやすい人があんなところに行ったら、マジでやばいっす。」
「やばいっすって。」
キャラが完全に崩壊しているほど興奮している。
「今の時間帯、人も少ないし、もう1時間すれば日の入りです。そうなったら命の保証はできません。だから、私が行くので先輩は行かないください。お願いします。」
電話が切れた。
しばらく動けず、震える足に手を置き何とか止めようとした。その震えはすぐに止まったものの、恐怖が大波のように僕を襲い飲み込まれた。
自分に聞いた。
「何がそんなに怖いの?」
しばらく沈黙があった。
「死ぬのが。」
僕が答えた。
「どうして死ぬのが怖いの?」
もうひとりの僕が聞いた。
「分からない。」
即答だった。本当に分からない。
「じゃあ、行かないの?」
さらに聞く
「……。」
答えられない。
「どうして迷っているの?」
「彼女だから。」
すぐに答えられた。
「どういう意味?」
もうひとりの自分が首を傾けた。
「意味なんてない。彼女が死んでしまうそれを防ぎたい。」
もう一人の自分がまだ納得してない様子でさらに聞いた。
「死ぬかもしれないのに?」
「それでもいい。彼女を助けられるなら。彼女が居なくなった世界に僕は怖くて生きられない。だったらむしろ死んだ方がましだ。彼女には死んでほしくない。だから」
「決まったね。」
もう一人の自分が笑った。珠理ちゃんのようないたずらっ子の笑顔で。
すうと消えた。まるで幽霊みたいに。
まだ泣いているチーちゃんをリュックに詰め込み急いで階段を降りた。ドアが壊れそうなほど激しく開けて閉め、走って自転車に向かいそのままの勢いで自転車を走らせた。
先ほどより弱々しで太陽がもう少し消えそうだ。風を切って走り7月なのに寒いと感じた。




