その名はシオン
すっかり日が落ち、月の薄明かりと街灯を頼りに帰ってきた真矢は家の門をくぐった。
玄関を開けるが家の中は真っ暗だ。
暗い家に帰ることにも慣れてしまった自分にいささか戸惑いながら、直矢は鍵を閉め、電気をつけるために靴を脱いだ足を一歩、廊下に踏み出した。
が、しかし。
「ぶみゅ‥‥!」
何やら柔らかいものが着地を拒んだ。
そして、足の下から何やら変な声がする。
直矢は気にせず、パチリと電気を点けた。
明るくなった廊下で自分の足下を見ると、なるほど納得。
「なんだ、ネコか」
「い、いだいですニャ‥‥早く足を退けてくださいですニャ‥‥」
ネコと呼ばれた10歳くらいに見える少女には、猫のミミとしっぽのようなものが生えていた。
そのしっぽがタップをするかのように廊下を叩く。
「ああ、すまんすまん」
直矢が足を上げてやると、ネコは踏まれていた箇所をスリスリしながらぴょこんと身体を起こす。
そしてすぐに満面の笑みで直矢を見上げた。
「ご主人、お帰りなさいですニャ!」
「たーだいま」
対称的な態度で直矢は少女の横をスタスタと通り過ぎる。
リビングの電気を点け、荷物を下ろしたところで少女は追いついてきた。
「酷い扱いですニャ!こんにゃに可愛いトラ型ロボットさんが、甲斐甲斐しく玄関先でご主人の帰りを待っていましたのに!」
「あー、ごめんごめん。そいつはご苦労だったな」
「全然心がこもってないですニャ!?」
プンスカと拳を振り上げて少女は憤るが、直矢は聞いてか聞かずか家中のカーテンを締めて回っていた。
しかし、少女はめげない。
「ふーんですニャ。そんにゃ態度をとるようでしたら、ニャーにも考えがありますニャ」
「なんだよ、考えって」
ズバリ、と少女は指を一本立てる。
「もうお出迎えはしませんニャ」
勝ち誇ったような少女に、直矢を手を止めて振り返る。
「出迎えってお前、ただ玄関で寝てただけだろ」
「ギクッ!」
「どうせ腹減って、帰ってきたら文句を言おうと思って待ってる間に寝ちまったんだろ」
「ギクギクッ!」
どうやら図星らしい。
直矢は軽く溜め息をついた。
「そそそ、そんにゃこと無いですニャ!ニャーはご主人が心配で」
そこで少女の言葉は切れた。
なぜなら、目の前に差し出された手の中にあるものに意識が釘付けにされたからだ。
「心配してくれてありがとよ。飯が出来るまで、これでも食ってろ」
直矢の手のひらに乗っているものは、カリカリと呼ばれる猫の餌だった。
少女はそれを引ったくるようにして奪い取った。
「にゃ~ん♪ご主人大好きですにゃ~♪」
先ほどの怒りはどこへやら。
少女は顔を崩れんばかりに綻ばせ、直矢に愛と忠誠を誓う言葉を口にしながらひとつひとつ味わうように食べていた。
(ちょろいやつだ)
直矢はそんな事を思いながら、夕飯の支度に取り掛かった。
と言っても用意するのは直矢1人と、この少女のぶんだけである。
自分のためにご飯とインスタントの味噌汁、それと納豆と漬け物。
そして少女にはツナ缶という、料理と呼ぶにはあまりに簡単な代物だった。
後は湯が沸くのを待つだけとなった時、ズボンの裾がクイと引っ張られるのを感じて見下ろすと、カリカリを食べ終わった少女が座り込んでこちらを見上げていた。
「どうした?もうすぐ出来るぞ」
「ご主人、願い事は決まりましたかニャ?」
「願い事、か‥‥」
特に無いんだよな、と直矢はぼそりと呟くと、やかんにかけた火に視線を戻した。
この少女との出会いは数日前に遡る。
────少年は上谷直矢、地元の高校に通う1年生。
オリンピック選手を両親にもつこの少年は、自分はその才能はほとんど受け継がなかったと思っている。
親の影響や周囲の期待があったために小さい頃からスポーツを色々やって結果は残してきたが、どれ1つとして芽が出なかったというのが直矢自身の正直な気持ちだった。
同じ土俵で比べられるのは嫌だが身体を動かす事が好きだった直矢は武道を選んだ。
剣道、柔道、空手の門も叩いたが高校に上がる時に合気道一本に絞り、それと繋がりが深いということで今は刀法の修行をしている。
両親は自分達がやってきた競技を選んでほしいと思っていたに違いないが、いやな顔ひとつせずに直矢が選んだ道を応援してくれていた。
直矢もそんな両親が大好きだった。
しかし、その両親が他界した。
2人で車に乗っての帰宅途中に飲酒による居眠り運転に巻き込まれたのだという。
それ以来、今まで以上に直矢は稽古にのめり込み、今日のように帰りが遅くなることも多くなった。
そんなある日の帰り道、直矢は左前脚ケガをした一匹の茶トラの猫に出会った。
何となく放っておけなかったので動物病院に駆け込み、自分で調達するのも難儀だろうと思い餌をやり、翌日直矢が家を出る時に外へ逃がしたのだが、帰ってくると玄関先で待っていたのだ。
餌をくれるから、例えそんな目的だったとしても、親を失ったばかりの直矢には擦りよってきてくれるだけで心の穴が塞がるような思いがした。
猫が家にいることで気が晴れればいいと、そんな軽い気持ちで飼うことにしたのだ。
だが、この猫が普通の猫ではなかった。
突然人語を話し出し、人の形に姿を変えたのである。
あの時ほど驚いた事はこれまでの人生で一度もなかった。
まるでSF映画かテレビ番組のドッキリ企画だと思っていると、「自分は未来から来たトラ型ロボットだ」などと、おとぎ話のような事を言い出す始末。
どう見ても茶トラのネコミミとしっぽを付けた少女にしか見えぬ彼女は、自らをシオンと名乗った。
スペイン語で祈りという意味のオラシオンから博士が名前をつけてくれたのだと自慢気に話してくれたが、直矢は一度も呼んだ事はない。
そして、その少女は、なんでも願いを叶えてやるから好きな事を言えと、そう言ってきたのだ。
それから一週間が経ち、今に至る。
人の願いを叶える事が自分の使命だと言い続けられても、直矢は未だに何も叶えてもらっていなかった。
なぜなら、
(願い事なんて、特に無いんだよな)
心の中でまた呟き、直矢は頬杖をつきながら、正面の机に座ってツナ缶を食べている少女、改めシオンを眺めていた。
シオンは一口毎に大袈裟なリアクションをとるため、品数が多い直矢より時間がかかるのだ。
「にゃ?ニャーの顔に何か付いてますかニャ?」
ずっと直矢が見ていたからだろう、シオンが不思議そうにこちらを見返してきた。
口の周りがツナの脂でベトベトになっていたので直矢はそれを拭いてやる。
「ありがとうございますニャ!」
ひまわりのような笑顔を浮かべ、食事を再開したシオンはまたすぐに口の周りが汚れていく。
スプーンを使っているのにどうしてそうなるのか不思議である。
しばらくして食べ終わったシオンの皿も一緒に下げ、洗ってやる。
すると、また裾を引かれた。
「なんだよ」
「ご主人、願い事は無いですかニャ?にゃんでもいいのですニャ」
またか、と直矢は思った。
最近は特にしつこくなってきたな。
「前にも言ったろ?願いなんて無いんだって」
「そんにゃ‥‥ニャーもご主人の役に立ちたいですニャ‥‥」
しょんぼりとシオンの耳もぺたんと垂れた。
少し可哀想な気にもなってきたので何か無いかと周りを見ると、目に入ったものが。
「あー、そういえば」
「にゃにかありましたかニャ!」
「ラップを切らしてたんだ」
「そんなことですかニャ!?」
大事だぞ、ラップ。
かけないと残った漬け物が乾燥してしまう。
もともとかけてあったラップをさっき破いてしまったが、改めて掛け直す在庫がなかったのだ。