第六十六話・『無形の触手』
予定がきつきつで余裕がねぇ・・・次回の投稿は二週間後になりそうです。
学生って辛いね。いや、社会人が辛くないと言う気はありませんけど・・・
小さいカンテラが淡い光で照明のない部屋を薄く照らす。すでに時刻は十二時を過ぎ、深夜へと突入している。冷たい夜風は古くなって腐ってしまった木材の間を通して室内に流れ込み、たださえ寒い室内を冬かと思うほど温度を低下させる。
それでも最低限の生活環境は整っている。いや、整えさせているか。探訪こそ無いものの、何枚もの毛布をかぶってベッドで丸まっているのは一枚の布を服の様に作っただけの代物を着ている少女二人。断を取るには十分とは言い難いが、それでも二人は安らかに眠っている。
先ほどまで奴隷という立場であったがために、この環境は十分恵まれている物だと思っているのか清々しいまでにぐっすりと熟睡している。一応腹ごしらえのための夜飯は用意したが、それでも干し肉を放り込んだ味の薄いスープという物だった。それでも、胃が縮んでいてあまり大きい物を食べられない二人にはちょうど良かったようだが。
逆に考えれば奴隷の待遇がそれだけ酷かったという事か。
無地の本に羽ペンをガリガリと走らせながらそんなことを思う。木を間際らせるために全く別の事を思っていたのだが、逆効果だったらしい。苦笑しながら、この一か月で随分と伸びてしまった髪を掻く。
「……連絡は無し、か」
一応ルージュとは経路で繋がっているため、任意で念を送ることができる。かなり不安定だが、金も魔力もいらない便利な通信手段であった。しかもこれでルージュの生死判定や身体的な状態を読み取ることができる優れもの。『現身の力』、つくづく謎の多い力だ。
その恩恵は十二分で何回も助けられている身だが。
本に書き記しているのは、自身の覚えているいくつかある魔法の改良型。急造の代物やランクの低い魔法などの質を磨くために今日初めて見たのだが、これが結構難しい。
何せ魔法の歴史は何万年という年月で築き上げられており、作り出された魔法もまた万年以上の研磨が行われて完成させられた代物だ。それをさらに磨き、更に自分の作った原石を先人らが磨き上げた宝石と同じレベルに削っていかねばならないのだから、その苦労は計り知れない。
とはいっても、今やっているのは消費する魔力の軽減と効率化であり、別に一つの木っ端魔法で隕石を振らせようと言う魂胆ではない。直接的に言えば『実用的な代物の作成または改変』だ。急造で魔力制御とプロセスが滅茶苦茶だった代物を、循環経路の円滑化や規模の縮小化による消費魔力軽減と効率化を目指しただけの物。要は複雑になり過ぎた機械の構造を簡略化か単純化するだけの作業だ。
魔法陣が複雑になり過ぎれば制御もまた複雑になっていく。かと言ってそれを削れば威力を損なう。無理やり大量の魔力で威力を増幅するにも、それでは連発できない上に効率が良くない。
そんな壁を何個も取り払いながら作業して、四時間かけてその簡略化や単純化が済んだのはたったの二十個前後。素人や才能の無い者ではそれすらできないと言う話だが、あまり簡単な作業ではないのは確かだろう。簡単に修正するだけなら一時間かけてすでに二百個全部終えているのだが。
それにこれからいくつもの状況を想定しての魔法を構築していかねばならないと言う現状。その場で変化させる『魔術』に手を回しても問題はないのだが、とある事情で今回はそれができない。
理由については後で記すとして、問題はルキナのあの言葉だ。
「『悪神の触覚』……か」
この世界に来て、恐らく一番不可解な言葉だった。
意味が分からないわけでは無いのに、本質が理解できない。言っている言葉の神威が理解できなかったのだ。
神の触覚――――言うなれば神が現世に触れるための『介在役』。包み隠さずに言えば『パイパス』だろう。
それが理解できているのに、何かが理解できなかった。
自身が『其れ』だという事を。
神なんて大層な存在を信じているわけでもなく、その力を感じたこともまたない。
なのにルキナは俺を『触覚』と言った。
つまりそういう事だろう。
「知らず知らずのうちに、そうされているのか」
実感がない。だからこそ怒りもまた無かった。
実害が無いのだから、何に対して起こればいいのか。人体改造されているわけでもなく、変な干渉を受けたわけでもない。
つまり、考えても意味が無い。
だがそれでもその言葉は俺の耳から離れなかった。
「…………」
手が止まる。
別にそうしたかったわけでは無かった。だが自然と、さも当然の様にては止まる。
思えばこの一ヶ月半。一体どれほどの大事に巻き込まれたのだろうか。ほとんど自分から関わりに行ったのだが、それを踏まえても色々と国家規模の陰謀がいくつも転がり込んでくるのは中々頭が痛くなるような事実だった。
工房の存在、ヴァルハラでの大規模テロ、現身の存在、妖精王国第一皇女の保護――――あまりにも出来過ぎた話だと思う。
笑えと言えば笑うだろう。何せ全てこちらの意思関係なくこちらに向かってきたのだから、笑うしかなくなる。それに関わろうとしたのは俺でもあるのだが、何せ選択の余地を見解まで削ってきている始末。
不条理。理不尽。
これらの現象を表す言葉ならいくつかある。
その言葉を言って逃げ続ければ、こんな大変な目に合うことも無かったのかもしれない。
そう思うとなんとも複雑な気分になる。
自分がこんな歪み切った性格ではなかったのならば、どうなっていたのだろうか。
もし自分がこんな世界に迷い込まず、平穏な毎日を過ごしていたのならば、今まで関わってきた事件や人物はどうなっていたのだろうか。
何かが変わっただろうか。何かが起こったのだろうか。
自分が関わらなければ――――こんなことにはならなかったのではないか。
考えれば考えるほど、自分が疫病神の存在だという妄想を巡らせてしまう。しかしそれは、半分間違ってはいない。アウローラは俺に出会わなければルージュと合わずにそのまま自分の記憶を維持できていただろうし、リーシャもまた自分の旅を続けいずれは無事国に連れ戻されていたはずだ。ジョンやニコラス、セリアやファールも、ヴァルハラなどに滞在せずどこかに旅に出ていたのかもしれない。死なずにいたのかもしれない。ヴィルヘルムやリルも、俺みたいな厄介者に関わらず自分の人生を送り、商売を続けていたのだろう。
紗雪は復讐心を胸に、過去を引きずりながらもそのまま日常を暮らしていただろう。
綾斗も改心して、自分の親父の元に帰って巨大企業を率いて不自由ない暮らしを送っていただろう。
優理も――――いずれは良い婿が見つかって、平穏な暮らしができたのだろう。
「…………なんだよ、俺」
つくづく自分は疫病神だと思った。
誰にも関わらなければ。何もしなければ――――全部上手く行っていたじゃないか。
全部自分の勝手な妄想だ。だけど、少なからずそれに近い結果はあるのだろう。
俺がいたから、こんなことになっているのだろう。
何人もの人生を狂わせて、それは留まることを知らない。
何とも迷惑な存在だ。
「……なんで生きてんだろうな、俺は」
そう思っているのにもかかわらず、惨めに生き恥晒しながらのうのうと生きている自分に静かな怒りがこみあげてくる。
自殺しようとは何度も思ってきた。
だが全て直前で踏みとどまった。
何故だ。
罪を償うためか。
生きることへの執着か。
皆と離れたくないためか。
我が儘な野郎だ、俺は。
誰にも聞こえない呟きを漏らして、静かに俯く。
頬を暖かい物が伝う。
それを拭うことはしなかった。それが涙だとは、気づきもしなかった。
「…………なんで」
憎悪するような声が、自分の物と思えないような声が耳に入ってくる。
だけどそれでも、自分の口は言葉を続けてしまった。
「……なんで、俺みたいなやつを生んだんだよ。神様」
恨み言を吐き捨てるように言い、俺はそのまま眠りに入る。
それはまるで、使い潰れた人形の様だった。
――――――
心底ルージュは勘弁してくれと願う。
目の前の、金の装飾がふんだんに施されている玉座に座っている腹の突き出た、小太りな男はそれを意に介さず下品な笑い声を響かせる。
「ふっほっほっほ――――つまりなんだ、君たちは、吾輩の、飛行船を、貸してほしいと? 無償で?」
「……そうですね」
否、金なら払っても文句はない。それがこの世の等価交換の法則であるため、対価を支払うこと自体はそんなに不満があるわけでは無かった。
問題は、相手が要求してきた金額が途轍もない物だったため。
等価交換もクソも無い出鱈目な要求を突きつけられば『無償で提供しろ』とやけくそにもなりたくなる。
頭が痛くなるのをはっきりと感じ取ったルージュは、引き攣った笑顔でこの屋敷の主、名前を確かマンティスと言ったか、その男を殺気だった目で睨みつける。
だがその殺気は武人になって初めて正確に感じ取れるもの。マンティスは「ふむ」と呟いてハンカチで鼻のあたりをふき取る。動作一つ一つが癪に障るのはなぜだろうか、とルージュはつくづく疑問に思った。
流石にルージュも自分が交渉するのは無理だと感じ、隣のソファに座っているリザに全てを丸投げした。
「ん~、ある程度の金額ならば払えます。しかし、流石に金貨十万枚というのは破格すぎるのではないでしょうか」
「わかっていないようだねぇ~美しい娘さん。飛行船の燃料、維持費、修理代、動かすための人材に支払う報酬、それと貿易が行えない分の損を埋めるための外部からの資金。何よりも吾輩への『得』を含めれば、まだ安い物だろうねぇ」
その自分への『得』とやらが九割以上を占めているのは気のせいかとルージュは呻く。
元々生返事で屋敷に入れてもらった時点でまともな交渉が不可能だと言うのは直感で察していた。しかしこうも交渉以前の問題だったとは、実に頭痛のタネになりそうな問題だ。
相手は『富』のみを求める下種以下の豚。そもそもの話、個人の都合で金で貿易ルートを潰し、港町フィルゲポリオスを飢餓の渦に叩き込んでいるのだ。人間性など端から期待していない。
本音を言ってしまえば荒事覚悟でこの屋敷ごとこいつを焼き殺せればどれだけ気持ちのいいことか、とルージュは歪みそうな顔を抑えながら俯く。
「困りましたねぇ~。私たちは貴族でもなんでもなく、ただの旅人の集まりです。そんな金額は持ち合わせていませんし、何か別の方法で良ければそちらにしますが」
「ほう。金以外で、吾輩に何かを支払うと? 残念ながら吾輩は名声や地位には固執しないのでね――――」
「体、というのはどうでしょう」
清々しいまでの笑顔で、リザは言い放った。
もちろんそれは予測済みだ。あまり使いたくはない手段ではあったが、この際仕方ないだろう。相手が交渉に応じなかった方が悪い。
ルージュは冷や汗を流しながらアウローラの両耳を静かにふさいだ。そんなことをされたアウローラは頭の上に疑問符を浮かべているが、特に抵抗はしなかった。
「ほうほう。体、とは?」
「夜伽に決まっているでしょうに。わざわざ娘に言わせますか」
「ほっほっほ! ……聞くが、男と寝た経験は?」
「まだですが、何か?」
「……ほっ、ふっほほほほほほ!! 良いでしょう、吾輩の飛行船を一隻貸しましょう。すぐに下の者達へ連絡しますので、貴女は奥の部屋でゆっくりと『用意』を済ませておくといいでしょうねぇ」
「あ、この二人はまだ『未熟』なので、先に飛行船に向かわせても?」
「……ふむ。まぁ、いいでしょう。私にはまだ『そういう趣向』の良さはわかりませんからねぇ」
下種な笑いを浮かべてマンティスは傍にあった受話器らしきものを操作し、この屋敷の周りを警備しているであろう者達へと連絡を巡らす。
その間に、リザはルージュへとこっそりと耳打ちをした。
「心配しないでください。成功率は言わずもがなですよ」
「してないわよ。……こっちで連絡は入れておくから、一時間以内でどうにかしておきなさいよ」
「はいはい。こちらもあまり油の多い輩は好まないので、さっさと『消化』しますよ」
何やら不穏な言葉を聞いて、ルージュは顔を苦虫を噛み潰したような顔になる。
どちらかというと、悔しさよりも屋敷の主が可哀想だと言う同情の哀れみが強く出ていたのだが。そもそも悔しさ事態あまりない。
「……ふむ、それでは二人。この屋敷を出て飛行船が停まっている場所に行けば、案内されるはずだ。まぁ、後は好きにするが良い。吾輩は楽しんで、いますからねぇ」
「……どうも」
やや挑発的な口調だったが、怒りすら湧かなかった。
今後彼の身に起こることを考えれば、同情のほうが上回るのはわけないからである。
小さく手を合わせながら、ルージュは言われるがままに部屋を出て行った。
その後、警備員に案内されて一隻の飛行船の中へと入れられた。
かなり巨大だが、別に豪華客船というわけでは無く貨物運搬を主な目的として設計されているようだった。それでも所有者が所有者なのである程度の生活環境は十分に整っていたし、長期間の旅でも問題ないくらいの設備であった。
アウローラと共に操縦室に入ると、広い空間に出る。
恐らく多人数で管理するタイプなのだろう。複雑だが効果は確実だ。しかし、人数が少ないルージュ等では運用は困難だろうという事は予測できる。
「ま、アイツに任せれば何とかなるかしら」
それでも一人で十数人分の仕事をしてくれる結城に任せれば何とかなるだろう。
適当に考えないようにして、操縦桿近くに落ちていた紙束を拾い上げる。
「……基本マニュアル。なんで落ちてるの」
何故こんな重要そうなものが床に落ちているのだろうか。そう懸念に思いながらルージュは軽く中身を拝見するが――――自身の学んできた技術系統と全く違う知識が並べられていたため、あまり理解することはできなかった。
彼女が得意とするのは結城達の世界で発達している『電子系統プログラミング』。そしてこの飛行船はそれと似ているようで全く違う『魔力導線形式機構』で動いているのだ。要約すればこれをルージュが理解するという事は、パソコンの扱いに長けている者に蒸気機関車の設計図を渡して理解しろと言ってるような無茶ぶりだ。
当然できるはずもなく、またこの世界でその二つの技術系統を習得しかつ実用的なレベルまで製錬させられているのはこの世でも五人いるかいないかだろう。
「……そもそも、工房は技術隠匿をし続けているしね。二つの技術を修めろっていう方が可笑しいわね」
そう笑い飛ばしながらルージュはマニュアルを操縦桿隣に放り投げる。
アウローラの手を引きながら館内を見回り、やがて手ごろな休憩場所を見つける。とはいっても緩衝材を重ねた様なベンチに座っただけなので、高級感も何もないし快適とも呼べなかった。
「さて、上手くやってくれてるといいけど」
「……?」
「アウローラ、貴女は気にしなくていいのよ。――――遅れた結果通達でも飛ばしますか」
実に毒々しい何かに満ちた黒い笑顔を浮かべながら、ルージュは耳の裏を抑えながら口を動かし始めた。
人生、強烈な刺激を味わう機会などそうそうあるわけでは無い。
新しい味覚を味わえた、新しい発見をした、新しい嗜好品が見つかった――――しかしそれ以上に強烈な感情が人間、否、生物にある。
恐怖、絶望、狂気。
恐らく人間の感情で最も限界を越えられる、越えてはいけない線を持つ負の感情。
それを味わう機会など人生に一度有るか無いかだろう。
いやあってはならない。
それはつまり、強烈な絶望や恐怖は――――人を蝕むようにして殺すのだから。
確実に、しかし徐々に。
マンティス・ゴールドマンはきっと今、人間の許容範囲外の恐怖と絶望をその身に宿しているのだろう。
何故、と言われても困る。
理由が明確に、目の前に、『弱者』に絶望を与える『邪神』がいるのだから。体は上半身だけは普通の女性の、美人と呼べるものだった。では下半身は? 蛇か? 鳥か? 竜か?
――――違うッッ!!!!
自分が失禁しているのにも気づかないマンティスは、まるで折れてしまった柱を必死でくっつけようとする腰抜けが恐怖を塗りつぶしたかったという様に強く心の中で言い放った。
だが無駄だった。
黒を白で塗りつぶそうとも、また黒で塗りつぶされる。
逃れられない恐怖。
彼女の下半身は――――触手の群集だった。紛れもなく、触手だった。
タコの足の様に太く、長い半透明の触手は、一つ一つが途方もない狂気を孕んでいた。何もかもを恨み、呪い殺す願望でも持っているような狂気の塊であった。一つだけでも並の人間ながら逃げ出すだろうそれが何百本も人間を模った何かの下半身を作っていた。
気絶したくても気絶を気絶で塗りつぶして意識が逆に明確な物になるのだから、不条理と言っても過言ではない。
そして彼女は、リザは微笑みを崩さずに口を小さく開いた。
「『準備』、と言いましたよね」
「あ、あいっ………………」
「ええ、言われた通りしましたよ。――――食事の準備を、ですけど」
普通に聞けば、ただの女性の声なのだろう。
だがなぜなのだろうか。
マンティスの耳にはこう聞こえた。
「テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ、テケリ・リ――――」
これが人の言葉だと言うのだろうか。
そんな訳はない。道理など存在しない。これが、人であるなど世界の理に反している。
「すみまぇえん……最近、あんまり食べなかったので、ちょっと食欲が、抑えられないんですよねぇぇええっ、ひ、ひひひ」
「ばっ、化物ぉッ!!!!」
「あ、はい、化物ですけど、何か」
リザは罵倒されても「それがどうした」と言わんばかりに、下半身の『中身』を開いた。
この世の『混沌』の渦を。
常識に存在している限り、見ることすら耐えられない事象を。
人の集合意識から作られた存在。
彼女はそれを遺伝子に組み込まれて、生み出された。
元となった生物の名は。
「ひ、ゃぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
「――――いひっ♪」
古き瑠璃色の王水。
かつて神話で「古きもの」と戦った、ショゴスと呼ばれた種族の末裔である。
「いただきまぁす」
マンティスの耳に届いたのは、そんな艶かしいくも狂気に満ちた誘惑の音色だった。
――――――
善と悪とは、何だろうか。
一体何年そんなことを考え続けたのか、わからない。
哲学などわからない。
宗教なども知らないし、知りたいとは思わなかった。
機械だらけになった地球の上で、そんなことを考えるのは、恐らく俺一人だという事はわかっていた。
誰もそんなことを考えるはずがない。そんなことを考えるならば、働いて金を稼いだ方が有意義なのだから、考えるわけがない。
地球は汚れ過ぎた。
大気は重金属の粒子だらけになり、マスク無しでは出歩くことすら難しい。水脈も、植物も、枯れ果てた。だがそれでも人類はしつこく生き残っていた。ある時は海の水を真水に変え、ある時は土を元素変換して、ある時は水さえ要らない身体に改造してまで人類は生き延びようとしていた。
一昔前は、虫という生物がいて、生命力が強かったそうだ。その言葉を引用して人類を言い例えると――――まさに虫の様なしぶとさだった。
世界は文字通り鉄になった。緑と呼べる存在は消え去り、土もまた消えた。全て人間の生きると言う本能的な欲望で。無くなったのだ。食いつくしたのだ、人類は。
もはや善悪など関係ない。
人々はただ己のせいを全うしたいがためだけに争い、競争し、死ぬ。
本末転倒もいいところだ。生きようともがくほど己の子孫の首を絞めていくのだから。笑い話になるだろうか。いや、この時代ではもう無理だ。
外宇宙惑星移住計画など、夢のまた夢。火星に作られた試験施設が、可燃性ガスの引火事故で星の表層事吹っ飛んだのは人類にとってはいい悪夢だろう。
何もかもが終わり果て、もはや生物が生きるべき大地さえ人が喰いつくした。
何をやっているのだろうか。
馬鹿か。
アホか。
こんなに無様にすがるように生きて、自分たちの首を縄で絞めるのが楽しいか。
ふざけるな。
ふざけるな。
善悪は人々の判断で左右される。そんなことは譫言に過ぎない。――――ないのだ、善悪など。
動物の間に善悪の意識があるだろうか。
生きることが善悪に関わるのだろうか。
他人を救うのが善だと決まっているのか。
他人を殺すのが悪だと決まっているのか。
違うだろう。
全部人間たちが勝手に作り出した概念だろう。
だからこそ、一人の人間は思った。
人類は己以外の全ての生命を食い尽くし、それでも生きようとしている。それは、善だろうか。生きることは、善だろうか。
いや、悪だろう。
しかしそれを誰もが認めない。
生きることは当然の権利だと、誰もが主張するのだ。
善悪など、何処にも存在しないと言うのに。
善だと、言い張るのだ。
自分たちを善だと、言うのだ。
全てを喰らいつくした挙句に存在したのは、そんなくだらない物だった。
「何だこれは。これが人類が行き着く場所だったのか」
それが俺の最期の言葉――――だったのかも、しれない。
その記憶は、もう曖昧にしか残されていないのだから。
だから――――最後に一回だけ、夢見た。
本当の『善』という物を、見てみたいと。
目が覚めると、質素な部屋で薄い毛布にくるまっていた自分がいた。
軽やかでさわやかな目覚めにはんのうして、体はゆっくりと起き上がる。近くにはピンク色の髪という、あまり類を見ない色の、頭に狐の耳を生やした少女がまだぐっすりと寝ていた。
そして――――床で死んだように寝ていた黒髪の少年と、顔に大きな傷がついた色の薄い、まともに手入れもされていない薄茶髪の青年は疲れたように眠りこけていた。
特に黒髪の少年の方は死んだ魚の目がかすむほど濁った目が瞼の隙間から見え隠れてしている。どう見ても生者のそれではなかった。
ある意味かなり苦労しているのだろうという事は普通に理解できた。
「……俺はどうする、べきか」
逃げるべきか。いや、逃げても追いつかれる可能性の方が高いだろうし、そもそもこんな身なりで受け入れてくれる居場所などありはしないだろう。
それに、体の傷を治してくれた者だ。乱暴に扱ったことも、今のところはない。
善良な市民――――というわけでもないだろうが、少なくとも現状一番信頼がおけそうな人物であるのは確かだった。
少し独り言が多い気がするが、気にしたら負けというやつだろう。
「もう十一年……か。原因も目的も、未だ不明と」
なぜ自分がこの世界に来たのか。
前世の記憶が抜け落ちている今の状態では、そんな事を気にする余裕はない。
だが気になる。いや、見つけなくてはならない。
自分が無意味にこの場所に来たのではないと、自分に言い聞かせたい。
無意味な人生も、死も、御免だ。
「俺は…………誰だ」
何より、自分を見つけなくてはならない。
ソフィという人物ではなく、前世で罅を過ごしていた自分を。
そうでなければ、未練が残って仕方がない。
「俺を呼んだのは、誰だ」
その答えは誰も返さない。
当然か。
「いつか、全部分かればいいんだが」
小さく細い手を握り、俺は――――ソフィはそう独り呟いた。
本当のことがわかる時まで、俺は「ソフィ」を演じよう。
それが正しいかはわからない。
「……今できることは、それだけだ」
あの少年について行くことしか、今俺ができる精いっぱいの事だった。
小さい人間だな。
薄ら笑いを浮かべながら、ソフィはもう一度ベッドに横になった。




