第六十三話・『再始動』
走る。
走る。
走る。
頭を下げると刃物のような風が脳天を掠る。
「なぁぁぁぁぁんで相手が男なんだっつぅぅぅのおおおおおおお!!!」
草薙綾斗は絶叫しながら裏路地を走り回っていた。追いかけているのは何言おう、先程まで会話をしていたエウロスだった。彼は綾斗の会話にも応じずに鋭き細剣を向けて、綾戸を抹殺せんと追い掛け回している。目的は当然リーシャの回収。そのためにまずは周辺に群がる邪魔な虫を掃除するつもりだろうという事は相棒二人よりかは比較的馬鹿の綾斗でも容易に想像できた。
「相手が女だったら攻撃してきたときに生肌ぺろぺろとかでできるからモチベアップできたのに男じゃやる気出ないんだよ畜生!! なんでこうも俺の相手はむっさい男ばっかりなんだ!!」
「余計なおしゃべりは――――筒住め蛆虫!!」
「ひぃぃぃぃ!?」
綾斗はたまらず壁を蹴って真横の通路にスライド。後ろからの遠距離突きを回避する。
「剣閃飛ばすとかゲームじゃねぇんだから糞がッ!! 見切るのも一苦労だぞ!?」
急いで立ち上がり疾走を再開する綾斗。
エウロスも間髪入れずに綾斗の入った通路に入る。――――直後、エウロスの足に何かが引っかかる。
「?」
細い一本のワイヤー。
その先にあったのは――――爆薬だった。
「しま――――」
言い切る前に爆発。
壁に使われている石材が吹き飛び、爆破された建物hあそこから放射状に罅が広がる。
当然こんな轟音聞こえれば建物の管理人も出て来る。建物に空いた穴から青ざめた顔をしている管理人らしき男が顔を出してきた。
積もった瓦礫からエウロスが顔を出すと、顔を真っ赤にした管理人らしき男が怒鳴り散らそうとする。
「あ、あんた一体何して――――!」
「黙れ糞塗れの蠅が。私は今忙しいんだ」
「てめ――――」
管理人らしき男はエウロスに顔面を蹴り飛ばされ中に強制帰還させられる。
綾とはその隙にかなり距離を稼いでいた。さらに言えばそこら中に爆弾仕込みのナイフを突き刺し、ワイヤー―トラップを仕掛けている。追撃は容易ではないだろう。
エウロスはうっとおしそうな目で服にこびりついた埃を掃いながら、追走を開始。
正面には金属製ワイヤーが大量に設置されている。
「正面から!?」
「そんな糸程度で私を止められると思うなよ、類人猿!!」
エウロスは細剣を走りながら構え――――一番前の糸を切断した。
「嘘ぉっ!?」
仮にも鉄線。細剣程度で斬れるような代物ではない。
確かにエウロスの細剣が業物と推測できるほど素晴らしい代物であったとしても、ワイヤーは繊維が束ねられたものなのだ。肉厚の大剣で切断するならともかくカッターの様に細い細剣で斬れるほど軟なものではない。
だがエウロスはそんな理屈を正面からひっくり返した。
恐らく、というか確実に研磨された実力と経験からそれを可能としているのだろう。
とてつもない手腕であると、綾斗は冷や汗を流しながら理解した。
「顔だけ執事じゃないって事かよ畜生!!」
キレ気味に綾とは真横の壁にナイフを突き刺し、着ているコートで身を隠すようにして起爆。
壁に大きな穴を作り、その中に飛び込む。
中は、家族一団での昼食途中だった。全員唖然とした顔で綾斗を見つめている。
「ちょっとごめんよ!」
食卓にある料理の載せられていた皿を料理もろとも投擲。フリスビーの様に回転する皿は同じく飛び込んできたエウロスの顔に真っ直ぐ向かう。
「笑止」
無音の剣閃で皿を真っ二つに割る。
しかし綾斗は諦めずに三度皿を投げつけるが、全て切断され回避されてしまった。
舌打ちすると綾斗は食卓をひっくり返し逃走開始。
エウロスは食卓を真っ二つにして道を作り後を追いかける。綾斗は毒づきながら花瓶を投げつけたり本棚などを倒して進行を妨害しようとするがエウロスは全て切り捨てる。
「おいコラ器物損壊だぞ!?」
「どの口がそれを言う!!」
綾斗は近くのトイレに飛び込み扉を閉めて鍵をかける。
エウロスは嘲笑し、扉を一閃しようとする。直前、扉の向こう側から爆発が起こり、扉は空気圧により吹き飛ばされエウロスは軽く潰される。
「く、っお――――この、ちょろちょろと動き回るだけでなくこんな嫌がらせをぉぉぉ…………!」
扉を蹴って吹き飛んできた方向に飛ばし返し、エウロスは鼻を抑えながらトイレを見る。
床に大穴が開いていた。
「爆発で穴を作って逃れたか」
トイレには水を供給するためのパイプと排泄物を運ぶためのパイプが繋がっている。それらをメンテナンスするためにあるのが地下水路。同時に非常用の避難通路としても知られているそれはかなり広く分布しており、トイレに穴を掘れば地下水路に繋がっていること自体さほど珍しくない事実だ。
ただし悪臭がとんでもない。
エルフたる者、穢れたものは例え大気であろうとも触れてはならぬと言う格言があるほどエルフは汚染された物質を毛嫌いしている。確かにエルフに対して逃げるならば、それこそ悪臭や汚染物質がたっぷりある地下水路は正しいと言える。
「……仕方ない、向こうと合流しましょうか」
細剣を収納し、エウロスは逃げるように住宅を去った。
――――――
「展開、一番から十八番。十九番から三十二番は待機。陣形――――緊急突撃!!」
「アハハ♪ 面白い技を使いますね~――――『死線琴技・四季色万華鏡』」
紗雪の背後から光の矢が出現し、三十二個のうち十八個が爆発的な速度で打ち出され、曲線を描いて目標に向かって飛翔する。紛れもなくそれはホーミングショット。紗雪の視界に入ったもの全てを貫く魔弾であった。
対峙したのは尖った耳を持つメイド服を着たエルフ、レミリィ・スフィルペーテ。四色――――赤、緑、黄、青色の光を帯びた無数の鉄線をその細く傷一つない指で巧みに操り、まるで万華鏡でも描く様に周辺の建築物の壁や天井を両断して紗雪の創りだした光の矢をことごとく切断、破壊する。
自身に死を運んでくる糸を、紗雪は冷静に観察する。
判断に必要とした時間はコンマ五秒。やるしかないと思ったときにはすでに口は動いていた。
「十九番から三十二番――――一点集中!!」
紗雪は残った光の矢全てを模様の中で比較的隙間の多い場所に飛ばす。
そして――――触れる直前に手動起爆。紗雪の狙い通りに爆発によって隙間は広がり、人一人ならどうにか通れそうな隙間が出来上がる。相手がその隙間を埋めないうちに紗雪は全力疾走。
水泳選手のダイブを真似て体を可能な限り細くし、隙間を通りすぎて前転。手首に行くダメージを可能な限り軽減させ、起き上がって間髪入れずに弓を引く。
通常の弓矢の代わりに、術式を圧縮した赤く光る矢がそこにあった。
「!?」
初めてレミリィの顔から笑顔が消える。
彼女は空中にいるかつ大技を出したが故、今は身動きが取れない。少なくとも後三秒はどうしようもない。紗雪はそれを取り逃がさなかった。
「『炎爆・焼死剛矢』」
弓矢の穂先に魔法陣が展開。
弦を放すと矢が放たれ、矢は魔法陣を通り――――十もの光線へと姿を変えて目標に向かって行く。
レミリィはそれを目に収め、笑った。
「面白い人ですね」
不気味に笑うレミリィは服の袖から大量のナイフを取り出し投擲。
数十ものナイフが光線とぶつかり爆発。それにより周囲のナイフは吹き飛ばされ別の光線に当たると言う循環をし、光線は全て迎撃された。
幸いナイフは全て失速し地表に散らばる。しかし紗雪は今の攻撃で仕留められなかったのがひどく気に食わないらしく、離れているレミリィに聞こえるほどの盛大な舌打ちをする。
「チッ……まだナイフを持っていたの? 何十本目よ」
「知っています? メイドのナイフは、無限なんですよ~。いえ、冗談ですけど」
そう言いながらまた数十本のナイフを袖から出してくるレミリィ。
「『封物の法』ね」
「あら、バレちゃいましたか。というか、知ってる人結構いないと思っていたんですけど~」
「私も使えるからね。知っていて当然よ」
とかいう紗雪、実は結城に教えられた身なのだが。
「じゃあ――――こういうのは、どうです?」
そう言ってレミリィは、袖に手を深く入れる。
そして、取り出した。
全長三メートル以上の黒い銃――――どう見ても対人用ではない武器を。
「な――――!?」
「全長三メートル五十センチ。口径20.5mm。使用弾丸20.5×134mmディレクシティス弾。装弾数十発。作動方式ガス圧式自動装填。重量44.8㎏。銃口初速2,300m/s。有効射程六キロ。正式名称『全てを破壊する者-Code000α』――――別称『暴食者』」
二脚を立て、地面にアンカーを撃ちこみながらレミリィは長々と丁寧に説明をする。
しかしその間にも着々と装填準備は進められ、説明が終わったころにはすでに発射準備が完了していた。
銃口、否、砲口は当然紗雪へと向けられている。
当たったらミンチ肉か爆発四散は確実。掠りでもしたら確実にその部位は引きちぎられること間違いなしだった。
しかもここは狭い路地。避ける場所などほとんどないに等しい。
つまり――――かなり不味い状況である。
「あーでぃおーす☆」
「ちょ、まっ――――」
「あ・みーご♪」
――――ゴッッカァァァアアアァアアアアアアアアアアアアアアンッッ!!!!!!
そのかわいらしい笑顔とは裏腹に襲ってきたのは、グリズリーを一発で粉々に出来そうな凶弾。
衝撃波で周囲の建築物の壁を問答無用で破壊しつくしながら紗雪へと真っ直ぐ向かう。
「ぐっそ、がぁっ!!」
ほかに道がないことを悟り、紗雪は跳躍。壁を蹴り遥か上方へと避難し凶弾から逃れる。
はるか後方でとてつもない轟音と崩壊音が聞こえるが、その直後に更なる弾丸が発射されたであろう炸裂音が聞こえる。対物ライフルの一斉掃射かと思えるそのあり得ない音量。銃というよりもう大砲の域に片足を突っ込んでいる。
「何でこの世界の奴らは揃いも揃ってオーパーツ持ってるのよ!?」
言ってもしょうがないことを愚痴りながら壁を蹴って落下速度を加速させることで二射目回避。
着地し、全力疾走開始。
「あれれ~? 突っ込んできちゃいますか」
まるで興味無しと思っているような声が紗雪の耳に入る。
恐らく自暴自棄になって自殺しようと突っ込んできている――――そう思っているのだろう。
確かにばこの状況ならそう思うのも無理はない。いや、常人ならばそれが普通だ。
しかし紗雪は死ぬつもりは無かった。
当然だ。
「処女のまま――――死ねるかアァァアアアアアアアアアア!!!!」
知人の前ならば絶対に口に出せないことを叫びながら紗雪はしっかりと目でとらえる。
引き金が引かれ、銃口から巨大な花火が出て来る瞬間を。
その瞬間と同時にスライディング。可能な限り体を地面に付け、回避を狙う。だが衝撃波だけでダメージを与えられる弾丸だ。運が良くても死ぬのが少し遅くなるだけ。
「フッ!!」
だが紗雪は弓を引き――――矢を飛んでくる20.5×134mm弾に直撃させた。
音速の二倍で跳んでくるその弾丸にとって鉄でできた弓などほとんど影響をもたらすことは無い。
普通の矢ならば
紗雪は弓を引く前に矢に『炎属性』の魔法を付与していた。この場で速攻で展開できる魔法で一番火力が強い物を。
通常、壁撃ちを狙う弾丸はフルメタルジャケット弾でなければならない。理由は単純。弾頭が潰れて貫通力が失われてしまうし、早すぎる速度で弾丸が変形してしまえば無視できない規模の失速を招く。勿論放たれた弾丸はFMJ弾。初速2,000m/sオーバーという、対物弾でもなかなか出ない速度で放たれる弾丸は当然繊細だ。速度が速い故に、少しのズレが多大なる影響をもたらす。
例えば、弾頭先端部分が規格外の熱を帯び、はがれてしまったら。――――どうなるかは言うまでもないだろう。
その圧倒的な速度によりダメージは一気に弾頭全体へと広がる。圧倒的な速度により叩き出された強力な空気抵抗により弾丸はあっさりと割れてしまう。要するに、先端に大きな傷のある弾丸で撃ったら、空中分解するのと同じだ。
この世界の精錬技術は確かに凄まじいものだ。だがそれは魔法という外法に対しては紙装甲同然。摂氏四千度という融点以上の温度を直撃してしまった高純度真鍮は当然融解し――――空中で形が大きく潰れた。
粉々に割れまではしなくとも、空気抵抗により鉛という比較的柔らかい金属は容易に変形してしまった。覆っていた真鍮は八つに分かれてどこかへと飛び散り、中に内包されていた鉛は軌道を大きくずらし明後日の方向に向かい轟音を立てて止まる。
つまり、紗雪にダメージは殆どない。
更に言えば完全に油断していたレミリィは動けない。矢も向けられている。先端にあるのは爆発性魔法を付与された穂先。
「王手」
「それはどうですかね?」
声がしてからの紗雪の反応は単純なものだった。
弓を構えるのを中断し、壁を蹴って横にスライド。そのまま跳ね上がるように立ち上がり、レミリィの上を飛び越しながら声の持ち主へと弓を射た。
横やりを入れて来た者――――エウロスは地面に突き刺した細剣を引き抜きその矢を軽く両断する。
紗雪は舌打ちしながら着地。即座にバックステップで距離を取る。
「……その様子じゃ、逃げられたようね」
「ええ。まさにその通りです。しかし苦労して不意打ちを狙ったにもかかわらず、掠り傷一つなしですか」
「私に不意打ちなんて千年早いわよ」
紗雪自身、常時『王の目』を展開していれば周囲の戦況など掌で起きているミニチュア同士の戦争を眺めているようなものだ。
しかし脳への負担からそれはできない。だがそれでも『眼』により紗雪の脳は空間把握能力と直感に鋭い物へと変質している。彼女に不意打ちを慣行するならそれこそ一流の暗殺者でも無い限り不可能と言えよう。
(……綾斗は、地下か)
右目の『王の目』を開眼し、綾斗の現在位置と向かっている場所を確認する。
それを見て、紗雪は微かにほほ笑んだ。
「折角だから、聞きたいわね。貴方たちがどうして私たちを始末しようとしているのか」
紗雪はポケットに片手を入れながら、小馬鹿にするような口調で言う。
それが少しだけ癪に障ったのか、エウロスの持つ細剣の切っ先が微かに揺れる。
「まさか『ただ邪魔だった』なんて下らない理由じゃないわよね。流石に」
「当り前ですよ。人族の足りない頭と一緒にしないでいただきたい」
「まぁまぁエウロス、相手の挑発に乗ってるよ~?」
「乗っていません。…………いいでしょう、特別に教えて差し上げます。どうかその犬の様な脳味噌にしっかり刻んでくださると此方も手間が省ける」
完全に手玉に取られたエウロスは、面白いように真実をべらべら喋っていく。
こんな奴が執事で大丈夫なのか、と紗雪は呆れながらそう思った。
「姫様は狙われています」
「誰に、と聞くのは野暮ね」
「ええ。当然、我ら森のエルフと抗争をしている呪いをその身に刻んだ哀れなほど愚かしいエルフの恥の恥の異端種族、ダークエルフです」
「ひっどい言われよう……」
「ダークエルフは森を去り、地下に国を作り暮らしています。幸い去年まではその国の領土は我々エルフの森には触れていませんでした。しかし、今年、詳しく言えば今から約五か月前、急激に勢力を拡大したダークエルフたちは国土も拡大しなければならなかった。信仰の増加と共に、住処もまた足りなくなったのです。……そして、エルフの森にぶつかり、約三平方キロメートルほどの森林の地盤が崩落。それを森のエルフが発見し、抗議をしました。しかしダークエルフもまた生物であり文化を持つ者たち。領土を広げなければ発展は不可能。彼らはエルフたちに領土のほんの少しを譲渡してほしいと行ってきました。交換する代物は、一定以上の価値のある鉱物――――でしたが、エルフには精錬技術がありません。金属を使う武具や日用品などはドワーフの国に任せていますから。しかもドワーフの国はかなり遠方の土地。道中モンスターの被害にあった場合の埋め合わせ、貿易路の開拓にかかる費用、その作業員の確保、そして何よりエルフにとって命そのものと言える森の損失。それらを考慮した結果、交渉に赴いた大臣はなんと国王の意思も問わず『否』と答えました。交渉は決裂。そして現在の状態に至ります」
「長い説明どうも」
耳に穴が開きそうになるが、ため息つきながら紗雪は真面目にそれらを記憶に刻んでいく。
後々大事になるかもしれない情報なのだ。覚えておいて損は無いだろうし、何より覚えること自体もそんな苦ではない。
問題はそれ話している者がエウロスという人類差別主義者自己種族至高主義者という事だ。
美化されている可能性は否定できない。
「ここからが本題ですが」
しかしそんな空気は一瞬で霧散した。
つまりこの話は差別的な思想は一切入っていないという事だろう。
どちらにせよ聞くことには変わりない。と、紗雪は耳を傾けて一句一句を逃がすまいと身構えた。
「今現在進行形で、ダークエルフの殺し屋にリーシャお嬢様が狙われています。第一皇女として」
「…………は?」
――――――
冷たい風が馬車の天幕に空いた小さな穴や出入り口にある隙間などから入ってくる。季節は現代に例えると秋ほどだろうか。冷やされた風がルージュのはみ出た肌を撫でて脳に刺激を送る。
「っ……ん」
久しく忘れていた『寒さ』という感覚を思い出し、ルージュは目が覚める。まだ深夜だと言うのに、目が冴えている。昼打とうと寝ていた影響だろうか。ルージュはくしゃくしゃの髪を治しながら辺りを見回す。
ほとんど全員が薄い布を羽織って寝ていた。この季節の夜風に対してあまりいい対応とは言えないが、仕方ない。冬用の布団などの日用品は数が限られているため入手が困難なのだ。庶民などは毛皮を剥いで綿を詰めたものを利用したりするため、家畜の少ない前に寄った街などには売っていなかった。基本的にあんな高級品は都会でしか購入できない。
それにあまり贅沢を求めすぎると、人間自然的に駄目になる。とはいえ、流石にこんな生活が続くのは避けないのだが。しかし南に行けば寒さなど蚊帳の外。あそこは年中真夏のような暑さだ。布団を買わなかったのも、渡ってしまったら使わないからということもある。
暗闇に慣れた目で、ふと一部分だけ開いている場所があった。ルージュがもう一度周りを確認し、同行人がこの場にいるのかを確認すると――――結城だけが消えていた。
無意識に嫌な予感が脳裏を過り、ルージュは静かに立ち上がって馬車を出る。
「結城?」
彼の本名を呼びながら、ルージュはあたりを見る。
馬車が止まっていたのは比較的木々の少ない森の中であった。ここに止まった理由は二つ。盗賊に襲われにくいのとカモフラージュが簡単な事、そして視野も十分確保できることだ。少々ルートからは逸れてしまったが、寝込みを襲われたりでもしたら元も子もないという事でここで寝ることに決めた。
周りでは風で草や木が揺れる音だけが聞こえる。
ルージュは不安になりながらも、耳を澄ませることで周囲の音を正確に聞き分ける。
「………ぁ、……が……」
「!」
かなり近くで、呻き声が聞こえた。
小さかったが確かに聞こえたとルージュは確信し、走り出す。
茂みをかき分け、草を退け――――近くにあった小さな池にたどり着く。
そこにいた茶色のコートを羽織っていた結城を発見し、駆け寄ろうとする。だがルージュは彼がただならない様子であることに気が付く。
「ぐ、っ……ぁあ」
「……結城、あなた」
「ルー、ジュか……ああ、すまん」
右腕が溶けていた。
いや、正確には表面から黒い粘性のある液体が流れていた。まるで肉が爛れているようにも見える。そのせいでルージュは一瞬腕が解けていると勘違いしてしまった。
ルージュは駆けよって無造作にコートをはぎ取ると――――黒い液体に体の三割を侵された結城の無残な姿が露わになる。
その異常な状態に、ルージュは思わす息をのむ。
「は、ははっ…………『悪魔の呪い』が、まだ血液に残ってやがった。侵食された腕が無事だと思って油断していたが、失態だった。侵食された腕は消えたけど、血液中の『悪魔の呪い』は残っていた。少し考えれば、わかったことなのにな」
「ど、どうすれば……」
「抑制剤はもう打った。侵食を食い止めるだけだが……なかったら死んでた」
結城は右腕の表面に流れる液体を池の水で洗い流しながら、半ば諦めたように呟く。
恐らく残り時間がもう少ないことを、理解しているのだろう。
「キース医院長からは数ヶ月持つって言われていたが、たぶん持っても後二ヶ月程度だ。毎日抑制剤を撃ちづ付けたとしても、そう変わらない。たぶん……あの暴走が、原因なんだろうな」
一か月前に起こった、ファールの死から起こってしまった結城の暴走。
SSS級の脅威種さえ単独で打ち倒した挙句、総合的には国一つを潰せるであろう戦力と正面からぶつかり辛うじて『封印』された事象。
あれが原因であろうと結城は推測する。
「ついにツケが回ってきたってわけだ」
ジワッ、と結城の顔にまで侵食は広がる。
まるで火傷の跡を塗りつぶすようにそれは広がり、右目に達した所で侵食は収まった。白目はどうにかその色を保つが、虹彩は真紅へと変化する。黒から純粋な赤に塗りつぶされた虹彩はやがて黒い濁りが浮かび始め、汚れた赤へと変化する。
完全に人ならざる者へと着実に変化していっている。
その事実に、結城本人はただ嗤う事しかできなかった。
「もう残り時間も少ない」
「今すぐ極東に――――」
「それは駄目だ。……セリアも待っているんだ。大丈夫だ、今すぐ死ぬわけじゃない。だから――――」
結城は侵食されていない左手で、ルージュの頭を撫でる。
無く子供をなだめる父親の様に。
「今は、進もう。それが最優先だ」
「……バカ。自分の心配ぐらい、しなさいよ……!」
ルージュが嗚咽を漏らしながら、結城の首に腕を回す。
それに少々驚きながらも、結城はルージュを抱きしめた。それがどういった感情で行われたのかは、互いに本人でありながらわかる事は無かった。
愛情なのか、友情なのか。
「俺は、いいんだ。……死んでも構わない」
「そんな事――――!!」
「……わかっているさ。悲しむ奴もいるだろうな。でも……俺はこの中に居ちゃいけない」
結城も吐き出すようにそう呟いた。
そうするしか、できなかった。
「俺は頭が可笑しい。行動も矛盾だらけだ――――頭は無駄にいい癖に、馬鹿だよ。俺は」
結城は涙を流した。だが、涙が流れたのは左目だけであった。
「……ごめんな」
「……言わないでよ、そんな事」
二人はただ、お互いの傷をなめ合うしか、できないのであった。
――――――
太陽の位置からして、およそ午前七時頃だろうか。
そう思っていると、右腕の痛みが少しだけ薄れていくような気がする。しかしそれを意識し始めるとまた痛みが脳をチクチクと橋で刺すような痛みを送られる。ウザったいほど迷惑な悪魔だ。
顔右半分と右腕含む右胸部を抗魔の魔法を付与した包帯で巻いても、悪あがきの域を出なかった。はっきり言って気休めレベルにも達していない。侵食は収まり謎の液体も分泌されなくなったとはいえ、視界は悪いし痛みも薄れずしばらくはまともなものを握れそうにない。普通の生活を過ごすならギリギリ許容できるだろうが、荒事を今から解決しに行くのであればこれは見過ごせないだろう。
しかしイリュジオンが無いだけまだマシだ。あったら二つの要素から身体侵食を受けていることになる。
ほんの数か月前までは普通の体だったのに、完全に変質して人間のそれとは別物となっているわが身を呪えばいいのやら感心すればいいのやら。
右腕を切り落とすことも考えたが、対して効果はあるまい。あくまで右腕を起点として侵食を開始しただけであり、別の場所から侵食を開始しないとも限らない。はっきり言って何もしないことが今のところ最良の選択だった。
「明日は我が身、ってか……糞が」
異空間から抑制剤を取り出し首に打ち込む。ちくりと痛みが走るが、右腕の痛みと比べれば月と鼈だ。抑制剤の効果で右腕の違和感も幾分かなくなり、痛みも薄れていく。二ヶ月どころか二週間持つかどうかも分かった物じゃない。
だからと言ってこいつを手放すのも無理だ。こいつの力を制御できればそれは魅力的以外の何物でもないし、むしろ言い訓練ともいえる。制御できなかった場合は即座に自害を選ぶが。しかしそれでもこいつが無くなるとは限らない。むしろ近くにいるやつに寄生しそうな勢いだ。
とにかく現状維持が正解か。変な刺激を与えてこの場で暴走するのも遠慮したい。
軽く運動するために背を預けていた馬車の車輪から離れ立ち上がる。その音に反応したのか、遥か奥の重見で何かが動いた。此処で右目を包んでいた包帯が緩んで、隙間ができる。
「これは……」
右目の景色が異常な事に気付き、左目を閉じる。
色が可笑しい。ほとんどの物体が黒色だった。ただし――――先程茂みから動いた何かはサーモグラフィーの様に白色に光っていた。シルエットからして、鹿だろうか。
そう認識した瞬間、右腕が一瞬だけ蠢く。
「ぐぅっ!?」
ぐちゃりと音を立てた瞬間、右腕が勝手に持ち上がり鹿の方に手を向ける。
そして――――右手がこのように存在しないであろう獣の咢へと変化し、鹿を食わんと伸びてゆく。その巨大な口を開き、逃げ出そうとした鹿の頭部を削り取るように捕食した。
それで一応の満足を得たのか、手が変形した獣は鹿の頭部を角ごと粗食し終えると、ゆっくりと右腕に収まっていく。右手もいつの間にか形だけは元通りになっていた。
「……包帯の意味はない、か」
それでも包帯を外すわけにもいくまい。黒い肌は人間としては目立ちすぎる。包帯を十分目立つとは思うが、怪我人と思われた方が色々楽だ。呪いを受けた奴と大怪我をした奴、どちらの方が怪しまれにくいと言えば一目瞭然、決まっている答えだろう。
それにこの力――――使える。
武器のない現状、格上に対する唯一の武器となりえる物はこれぐらいだ。
ならば使わせてもらおうじゃないか。
俺はまるで気に入った玩具を手に入れた様な子供の笑顔をしながら、頭部を失い絶命したであろう鹿の回収に向かう。流石にあれを放って置くと色々面倒だ。獣が寄ってきて襲い掛かってくると言う事態は、個人的にかなり面倒だ。無益な殺傷も避けたい。
「朝は鹿肉のソテーでも作るか。バターと白銀レモンを添えるのもいいな。パセリっぽいのもあったっけ……赤色ジャガイモも使って贅沢に仕上げてみるか。ああ、ソースも作らないと。サラダは――――」
とりあえず仲間たちの朝食メニューを考えるの事が先だろう。
個人的には腰のくびれが一番セクシーだと思っている。




