第九十六話
「やっぱり、知ってた?」
悟仙の言葉に、優弥ははにかんだ笑みを見せた。
「学校中の生徒が知ってるんじゃないか?」
優弥は机に突っ伏すと顔だけ上げておおきくため息を吐いた。
「陸奥悟仙なら、知らないと思ったんだけどな~」
「どういう意味だ?」
「陸奥悟仙は他人に興味が無いって、ウチのクラスの奴らが言ってたからさ」
「それは残念だったな。気になることくらい、俺にもある」
「気になるって……さてはお前俺のことを!?」
ガタッと音を立てて悟仙から体を離す優弥に、悟仙はため息を吐きたくなった。
「あのな……」
「すまん、俺にそんな趣味はないんだ」
身体を両手で抱いてそんなことを言う優弥だが、表情こそ真剣なものの目は笑っている。
「俺にもないよ」
「なーんだ、つまんねーの」
ドスッと背もたれにもたれかかり、天井を見上げた優弥は独り言のようにぼそりと言った。
「何で俺が野球部に顔出さなくなったのか、知ってる?」
「いや、そこまでは」
『監督と揉めた』『先輩から嫌がらせを受けた』『弱いチームに嫌気が差した』など、教室では様々な憶測が飛び交っていたが優弥本人から聞き出せたものはいなかった。悟仙はその噂のどれもが、隣に座る少年には似合わないと感じていた。
「教えて欲しい?」
「無理に聞くつもりはない」
「なんだよ、教えて欲しいって言えよー」
「じゃあ教えてくれ」
素直に言うと、優弥は悪戯っぽく笑った。
「でもどうしよっかな~?誰にも言ってねえしな~」
「どっちなんだよ」
ケラケラと笑う優弥に悟仙は麻理と話しているときと似た感覚を覚えた。何を考えているのかイマイチ摑めない。そのせいで大きく調子を狂わされるのだ。何かしらで人より抜きん出ている者は皆そうなのだろうか。
「冗談冗談、言わせてくれよ」
むすっとした悟仙の表情に気付いたのか優弥は少し慌てて言うと、何故か鞄から筆箱を取り出した。
「日が出るって書いて何て読むか分かる?」
「は?」
今までの話と噛み合わず、つい間の抜けた声を出してしまった。
「つまりさ……」
そんな悟仙に構わず優弥は身体を寄せてくると、悟仙の座る机にシャーペンを走らせた。残ったのは全体的に右に上がった独特な形で書かれた『日』と『出』という字。
「ひ……で?」
「ブッブー」
困惑気味に言う悟仙の横で優弥は得意気に笑った。少々腹は立つがそれ以外の読み方が浮かんでこない。ここに麻理がいれば優弥の表情を変えられる可能性もあるだろうが、今それを考えてもしょうがない。平均的な学力しか持ち得ない悟仙ができることはただ一つ。
「俺には分からん。降参だ」
諦めるだけである。お手上げのポーズをしてみせると、優弥はつまらなそうな顔をした。どうやらもう少し悩んで欲しかったようだ。
「『ひじ』って読むらしいぜ。九州の地名だ」
それは初耳だと感心してしまいそうだが、それどころではない。これはヒントだ。野球、ひじと聞けばそう難しいことではない。
「怪我か……」
「肘をちよっとな」
トントンと机に書いた字を示しながら優弥が言う。冗談めかしているつもりなのかもしれないが、果たしてそんな軽いことなのかと少し疑問に思う。
野球選手、取り分け投手を務める者が肘を故障することがあることは、野球について少し知識がある者なら知っていることだ。
しかし、それが部活に出ないこと様々な部活を転々としていることとはどうにも繫がらない気がした。
「ほら、ぎりぎり着くんだぜ」
そんなことを考えている悟仙をよそに、優弥は右肘を曲げておどけた声を出す。だが、本人が言っているとおり中指の先が肩にかろうじて触れているだけだった。それも強張ったように肩が上がっていてひどく不格好に見えた。
「それが、部活を休んでいる理由か?」
核心を突く問いに、優弥の表情から笑みが消えた。しかしそれは一瞬のことですぐに人懐っこい笑顔に戻るとおちゃらけた声を出す。
「いや~、いろんな部活を覗くのも楽しくってさ」
「そうか」
「全部面白いからさ、全部活に入っちまおうかな」
「なんてな」と言って笑う優弥を見て、どこか懐かしく感じる不快感が悟仙の胸に浮かんだ。それはざらざらと胸を這いずり回り、悟仙は堪らず胸を押さえた。
「どうかしたのか?」
突然の悟仙の変化に優弥が心配そうな顔をするが、その声が悟仙には届いていなかった。
分からない。こいつが考えていることが全く分からない。ただ分からないならいい。でも、こいつは隠している。何だ。何を隠している。怖い。分からないのは、ひどく怖い。見えないことは、怖い。見えないものは悪だ。裏だ。見せろ。みせろ。ミセロ、オマエノウラガワヲ。
「おい、本当に大丈夫か?」
「……だ」
「は?もうちょっと大きな声で」
「全てを選ぶというのは、何も選んでないことと同義だ!」
荒げた声に一番驚いたのは悟仙自身だった。
はっとして顔を上げると、同じように驚いたような顔をした優弥と目が合った。
お互い何も言えずに何とも言えない沈黙のなか、先に口を開いたのは悟仙だった。
「悪い。意味不明なことを言った」
「いや、結構分かりやすかったよ」
そう言って優弥は帰り支度を始める。それを横目に見ながら、悟仙はこっそりため息を吐いた。頭を抱えたい衝動を抑えるので精一杯だった。らしくない、なさすぎることをした。何をやってるんだ。
「んじゃ、またな」
「ああ」
そう言うが、優弥はもう来ないだろう。
優弥がドアに向かい、ガラガラとドアを開ける。
「「あ」」
すると、優弥の声に混ざって聞き慣れた声がした。
「井上?」
突然出て来た優弥に驚いたのか麻理はあたふたとしながら口を開いた。
「あの、帰ってきました」
それは見れば分かる。
「忘れ物?」
尋ねる優弥に麻理は俯きがちに首を振った。
「いえ、そういうわけではなく」
「とりあえず入ったらどうだ?」
「は、はい」
ぱっと顔を上げると、優弥に一礼し麻理が入ってくる。麻理を通した後、優弥は悟仙達に手を振って帰って行った。麻理はそれに律儀に礼を返す。これではどちらが新入部員か分からない。
「それで、どうしたんだ?」
「昇降口に着いたところで、なっちゃんからメッセージが来まして」
改めて問う悟仙に麻理が座りながら答える。先程までの慌てた様子はなくいつも通りの穏やかな笑みを浮かべている。
「メッセージ?」
「はい、熱が下がったから明日から来れるそうです」
「見舞う必要もなくなったわけか」
「はい」
「昇降口から、真っ直ぐ帰ってきたのか?」
「はい、そうですが」
「随分時間がかかったな」
麻理は一瞬の沈黙の後言った。
「それは……ドアの前に来たときに陸奥くんの声がして……」
「もういい、分かった」
つまり、ドアを開けようとしたところで悟仙の荒げた声が聞こえたわけだ。それは入りづらいだろう。
「聞いてたんだな」
「はい……あの、決して盗み聞きしようとした訳ではなく」
「分かってる。そんなこと」
苛立ちが収まらず、つい口調が強くなってしまう。
「そうですか」
しかし、麻理には気にした様子はなく鞄から文庫本を取り出した。悟仙としては助かるが、これ以上ぼろを出す訳にはいかない。
「帰った方がいい」
「へ?」
文庫本から顔を上げる麻理から、目を逸らしながら言う。
「とばっちりを受ける」
「そうですか」
麻理は立ち上がると、とてとて歩いてきて隣に座った。
「おい」
「帰りません」
「いや、だから」
「陸奥くんが帰るのもダメです」
「横暴だ」
「そうかもしれませんね」
そう言って麻理がにっこりと笑う。その笑顔を前に悟仙は呆れて何も言えなかった。
「好きにしろ」
閉じていた文庫本を開き、続きから読み始める。ちらりと隣に目を向けると、窺うようにこちらを見ていた麻理と目が合った。そして、また微笑む。
それから目を逸らしゆっくりと息を吐く。すると胸の不快感は消え、代わりに暖かな空気が入ってきた。




