第九十四話
自動ドアをくぐり一歩外に出ると、刺すような寒さが体中を襲う。室内との温度差もあって堪らず悟仙は首を縮めた。
ビュッと風が吹き、髪を揺らす。頭が寒い。ニット帽を被ってこなかったことに後悔した。
少し前屈みになって駐車場を出たところで背中に声を掛けられた。
「陸奥くん」
振り向くと、慌てて出て来たのか上着を手に持った麻理がいた。風になびく髪を抑えている。こっそりと抜けたつもりだったが、見られていたらしい。
「どうした?」
「帰ってしまうんですか?」
「ああ、もう役目は終わったしな」
今回悟仙がクラス会に参加したのは作戦の結果を見届けるためだ。これ以上残る理由はない。
「そうですか」
麻理もそれは分かっていたようで、特に動揺する様子はない。
「何か用か?」
ちらりと道の先に目を向ける。
「竜二たちなら、もういないが」
「そう、ですか」
二人に用がある訳ではないなら、一体どうしたというのか。悟仙は俄に焦燥が生まれるのを感じた。
今中にいるクラスメイト達に悟仙と麻理がいないことを知られるのはよろしくない。そういう雰囲気を意図的に作ったのだ。それは麻理も知っているはずなのだが。
「じゃあ何の用だ。何もないなら帰らせてくれ」
いつもより幾分強い口調に、麻理の肩がピクリと動く。
「用なら、あります。陸奥くんにお礼を言いたくて……」
「それはこの前聞いた」
「……」
黙り込んでしまった麻理に悟仙は首を傾げる。作戦は成功したと言っていい。喜びこそすれ、この様子は不可解だ。
「おい、一体どうし」
「なっちゃんは」
困惑する悟仙の声を麻理が遮る。俯いていて、麻理の表情は窺えない。
「なっちゃんは、気付いていました。私達が二人のためとはいえ、策を立てたことを……そういうこと、なっちゃんが一番嫌うのに」
自らを責めるように、麻理は言葉を吐く。その姿は、いつかのショッピングモールからの帰り道と重なる。
あの時の行動は間違ってはいなかったと思う。しかし、正しくはなかったのだろう。最善でも、なかった。あの時最も傷ついたのは目の前にいる少女だった。
同じ過ちを繰り返すつもりはない。
冬の夜空を見上げて悟仙は言った。
「だろうな」
「え?」
見なくても、麻理が顔を上げるのが分かった。
「気付かれるだろうと思っていたんだ」
「どういう、意味ですか?」
麻理の声は少し震えている。悟仙が言ったことを理解できていないのだろう。
少しゆっくりと話す。
「今回のことで、クラスの連中は二人が付き合っていると錯覚する。そうなれば、九条に対する状況は多少は改善するだろう。今夜仲直りしとけば、誰かに何か突っ込まれても対処できる。あいつらは本来ああいうのに慣れているはずだしな。そしてもうすぐ冬休みだ。新学期が始まれば、今回のことなんて皆ほとんど忘れてしまってるだろう」
「はい」
「あいつらからすれば、理想だろうな。棚ぼたもいいところだ」
「それは、良いことですよね?」
「良くない」
つい大きな声を出してしまった。胸がむかむかして気持ち悪い。ただ話してるだけなのに息が切れそうになる。誰かを救おうとした人間が、傷付いていいはずがない。
視線を向けると麻理はおろおろしていた。悟仙の意図がまだ分かっていないようだ。
「ですが、障害を少なくしてなっちゃん達が仲直りできるのは、良いことなんじゃ……」
「今回のことでいえばな」
「あっ」
思案顔の後、麻理が大きな目をさらに大きくする。
「何かある度に、俺達が尻拭いするなんてことはできないし、したくない」
あの二人にとって理想的な状況を作ることはできたかもしれない。しかし、それが必ずしも最良な事とは言えない。世界は、理想的なことだけでできてはいない。もしそうなら、二人があのような状況に陥ることがそもそも理想からかけ離れているのだ。
少しの沈黙の後、麻理がポツリと言った。
「だから、わざと気付かれるようにしたんですか?」
「まあ、最初に思い付いたのがこれだったというのもあるがな」
麻理が何か思い付いたように口を開く。
「じゃあ加藤くんにも」
「言ってある。随分感謝していたぞ」
「私、そんなこと聞いてません」
「訊かれなかったからな」
むくれる麻理にそう言って、悟仙は歩き出した。夜の風が冷たくて寒いし、これ以上ここにいるのもまずい。上着を着ていない麻理は寒くないのだろうか。
正直に言って、悟仙は竜二と夏子のために動いてはいなかった。全ては麻理から逃れるため。二人に気付かせたのも、悟仙が今後このようなことに絡む機会を少しでもなくすためだ。
しかし、それも建前だったのかもしれない。今年の夏のことを思い出してからは、なるべく麻理が傷付かないようにという想いがなかったとは言えない。
「陸奥くん!」
振り返ってぎょっとした。麻理が直ぐ近くまで来ていたのだ。
「どうした?」
手に持った上着を着る様子はない。一緒に帰ろうとしているわけではなさそうだ。麻理はそれをぎゅっと胸に抱えると、こちらを見た。睨むような、強い目だった。
それに反して麻理の声は弱々しいものだった。
「クリスマス……予定はありますか?」
寒さで潤んだ瞳に射抜かれたように、身体が固まる。悟仙は絞り出すように声を出した。
「ない……と思う」
答えると、麻理は突然慌てだした。目をあちこちに動かしてあわあわしている。麻理は目が大きいため目の動きがよく分かる。そんなことを考えていたら麻理が一歩踏み出してきた。
「じゃあ、ウチに来ませんか?」
「へ?」
間の抜けた声に構うことなく麻理が早口で話す。
「ウチは毎年私と由衣でケーキを焼くんです。それを食べに来ませんか?由衣も喜ぶと思いますし」
それを聞いて、悟仙は頭が急に冷えてくるのを感じた。これは、断るべきだ。「家族」というものの中に自分が加わることにどうしても抵抗がある。
断ろうと口を開こうとしたとき、ポケットのスマホが震えた。
姉の葉子からの電話だった。「ちょっと悪い」と麻理に言って電話に出る。
「何か用か?」
「クラス会はどう?」
開口一番の台詞に呆れながらも答える。
「もう帰っているところだ」
「そんなことだろうと思ったわ。リア充までの道のりは長いわね」
「用がないなら切るぞ」
「切ってもいいけど、後悔するわよ」
「じゃあ早く言ってくれ」
「クリスマスの女子会なんだけどさ、今年はウチが会場になったから」
悟仙はその年のクリスマスを井上家で過ごした。
何かの拍子に撲滅されたのではたまらない。




