第九十二話
悟仙が絶望感で重くなった足を引きずりながら部屋を出ると、背中に声が掛けられた。
「あんたそんなに着込んでどこに行くの?」
その声の主である姉の葉子はリビングのソファに寝転がっている。
「ちょっとな……」
「ちょっとって何よ?」
「別に、何でもいいだろ」
答えを渋る悟仙に興味がわいたのか、葉子が少し前のめりになる。
「何でもいいなら教えてくれたっていいでしょ?あ、もしかしてデート?」
「違う」
「そうよね~、デートならもう少し先かあ」
間違っているのは時期的なものではなかったのだが、わざわざ言うのも面倒なのでやめておく。
「じゃあもう行く。夕飯は食べてくるからいらない」
これ以上の追及から逃れるために少し早足で玄関に向かうと、葉子が駄々をこねるように声を上げた。
「もー、別に教えてくれたっていいじゃない!どうせデートなんでしょ!?」
「そうじゃないと言ってるだろ。姉貴は俺より自分のことを気にしろよ」
ちらりと目を向けて言うと、葉子がソファから飛び起きた。
「い、言ったな!帰ったら覚えときなさいよ!」
葉子が迫ってくる前に玄関を閉める。十二月の下旬、冬真っ盛りの外はやはり寒かった。
エレベーターに乗りながら、何となく葉子のことに思考を巡らす。
悟仙の覚えている限りでは、葉子は高校生くらいまではよくモテていたように思う。恋人がいない時はなかったし、何度か紹介されたこともあった。しかし、大学生になったあたりから、そういうことがめっきり無くなった気がする。
その時期が丁度葉子が「○○な彼氏が欲しい」と言いだし、オシャレに気を使い出した時期と被るのだから不思議だ。
クリスマスも予定が無いようでここ何年かは「クリスマス撲滅の会」という女子会に顔を出している。
恋とはどうにもままならないものらしい。
そんな姉に、クラス会に行くなどと言ったら何を言い出すか分からない。絶対に面倒なことになるだろう。
そんなことを考えながらクラス会が行われるカラオケ店に向かっていると、見知った顔がいたので、軽く手を上げた。
「竜二、待ち合わせをした覚えはないんだが」
言うと、竜二は寄り掛かっていた壁から背中を離し苦笑を浮かべた。それは、いつものどこかおちゃらけた笑みとは異なるものだった。
「一応、礼を言っとこうと思ってな」
「それは全部終わってからにしてくれ」
「もし失敗したら、そんな余裕はない」
竜二が少し俯く。
もし失敗したら、一番ショックを受けるのは目の前の竜二ではなく、麻理かもしれない。それほどあの少女は他人に感情移入する傾向がある。
悟仙は、麻理との約束を破っていた。麻理が竜二と夏子に隠れてコソコソとするのは二人に悪いと言っていたので、悟仙と麻理で立てた作戦を二人に伝えず、作戦通り進むように裏から仕向けることになっていた。
悟仙は表面上それに従いながら、裏では竜二に作戦を全て伝えていた。悟仙は二人の感情どうこうよりも、作戦の成功確率の事だけを考えていた。
「失敗も何も、やることは単純だろ?」
並んで歩きながら言うと、竜二は鼻までマフラーに埋めた。
「単純でも簡単じゃないんだよ」
「そうか」
「そうなんだよ」
それきり、会話はなく時折吹く風に震えながら歩いた。
カラオケ店の前に着いたとき、悟仙はふと思い出したことを言った。
「礼なら、宮田にも言わないとな」
今回の作戦の根回しとして、大変不本意ながら宮田にも協力を頼んだのだ。勿論、このことも麻理には言ってない。
宮田の名前を聞いて、竜二の表現が暗い中でも分かるほど曇る。
「言わないとダメか?」
「俺に言うなら、な。実際の所、成功したら俺よりあいつの方が功績はでかい」
「まあ、一応成功したら言っとくか。にしても」
竜二はそこで言葉を切ると、固い表情で口を開いた。
「緊張するなあ」
「緊張なんて、する要素がないと思うが」
悟仙の言葉に、竜二はガリガリと頭をかき回す。
「俺にはあるんだよ」
「ないだろ」
「ある」
「ないな」
「あるね」
「ない」
「ある!」
「あの」
「ないな」
「あるんだよ!」
「ちょっと陸奥く」
「絶対ないな」
「絶対ある!」
「いや、な」
「陸奥くん!」
後ろから聞こえた声に振り向くと、困り顔の麻理が立っていた。
当たり前であるが私服姿であった。全体的に黒っぽい格好で、麻理の白い肌が一層白く見えた。
竜二が驚き顔で言う。
「い、井上さん、いつからいたの?」
「えっと、二人が言い合いをしてた時からですけど」
「マジか……」
麻理が恐る恐る言う。
「何か、あったんですか?」
「大したことことじゃない」
答えた悟仙に麻理が疑いの目を向けてくる。悟仙には、その目に非難の色がある気がした。
「本当ですか?」
「本当だ」
麻理の懐疑的な視線を感じたのか、竜二も慌てて加勢する。
「本当だよ井上さん、ていうかもう行こうぜ」
そう言って竜二はカラオケ店の入口に歩いていく。
悟仙も後を追って歩こうとするが、踏み出せなかった。後ろから袖を掴まれたのだ。
「どうした?」
目だけ向けると、麻理がより疑いの強まった視線とぶつかった。
「陸奥くんもしかして、言いました?」
ギクリとしながらも口を開く。
「何をだ?」
「作戦のことを、です」
「言ってない」
否定する悟仙の目を麻理がじっと見てくる。身長差から、自然と麻理が見上げる形になる。
「本当に?」
「本当に」
麻理がずいっと顔を近付けてくるが、ここで目を逸らす訳にはいかない。
少しの間そうしていると、先に麻理が目を逸らした。そして、クスリと笑う。作戦を竜二に教えたかもしれないのに、麻理に責める様子はなかった。
「何かおかしかったか?」
「いえ、何でもありません」
麻理はそう言って入口に向かう。憮然とした顔で華奢な後ろ姿を見ていると、麻理が突然振り返った。
「陸奥くんも、緊張取れましたか?」
「どういう意味だ?」
いまいち要領を得ず問うが、麻理はニコリと笑っただけでそのままいってしまった。
何だったんだ一体?
改めて考えても、やはり分からない。そもそも、麻理の思考が読めたことは殆ど無いのだ。諦めて一歩踏み出すと、遅れて思い付く事があった。しかし、これが当たっていたとしたら悟仙は麻理とまともに話せる自信がない。
だから、ただ祈るしかない。
悟仙が竜二の緊張を解そうとしていたなど、ばれているはずがないと。




