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第八十六話

翌朝、いつも通り遅刻ぎりぎりの時間に教室に入り、悟仙は顔をしかめた。最近冷えてきて、窓を閉め切るようになったからか教室内には何かの香水の匂いが充満していて、香水が嫌いな悟仙は堪えられなかったのだ。

だからといって、回れ右をして帰るわけにもいかない。


なるべく鼻で呼吸をしないようにしながら席に着き、窓を少し開ける。そこから入ってくる新鮮な空気を吸って、悟仙は自分が窓際の席であることを幸運に思った。


冷たい風が入ってきたことで、誰かに咎められるかとも思ったが、そんなことはなくクラスメイト達は楽しそうにお喋りしている。そこで、クラスの雰囲気が少し浮ついていることに気付いた。


そんな中で、唯一沈んでいる男が一人。


悟仙の前の席に座る竜二は肩を落とし、どんよりしている。竜二の周りだけ違う空間が作り出されているようだった。


その竜二がちらりと目を向けてくる。悟仙もよく目が死んでいると言われるが、今の竜二は悟仙よりも遥かに目が死んでいた。


「よ、よう悟仙。いい朝だな」


「そういう言葉は、もっと明るい声で言うべきだな」


窓の外には青空が広がっていて確かに天気は良い。しかし、竜二の表情は見事に曇っている。


「こういう時は、慰めの言葉をかけるべきだな」


軽口を返せるだけまだ元気じゃないかと思いながら口を開く。


「慰める?お前、何かあった……」


そこで、右からどす黒い気配を感じて悟仙は言葉を止めた。その気配の発生源に目を向けると、廊下側の席に座る麻理と目が合った。

何やらご立腹なようで、頬を膨らませている。


意味が分からず首を傾げると、麻理はますます頬を膨らませた。しかし、そんなフグのような顔をされても悟仙には分からない。すると、そんな悟仙に堪りかねた麻理は口の動きだけで何かを伝えようとしてきた。


「うん?」


き、の、う、の、で、ん、わ


麻理が分かりやすいように大きく口を動かしてくれたおかげで、麻理が言いたいことはよく分かった。


「ああ」


そういえば、昨夜麻理と電話で竜二と夏子を仲直りさせることについて話した。麻理に教えられるまですっかり忘れてしまっていた。


面倒だが、やるしかない。悟仙にはあのお嬢様に抗う術がないのだ。悟仙は一つため息を吐いて竜二に向き直った。


「竜二、九条と仲直りしたいか?」


「えっ。まあ、そうだな」


竜二が驚きながら答える。期待はしていなかったが、ノーとは言ってくれないようだ。


「なら、取り敢えず話しかけたらどうだ?」


そう提案しながらちらりと麻理に目を向けと、麻理はふんわりとしたボブカットの黒髪を揺らして満足そうに頷いた。


「そうだよな。ちょっと話しかけてみる」


意外にも、渋ることなく竜二は了承した。竜二も何か行動しなければと思っていたのかもしれない。

竜二が了承したところで担任教師が教室に入ってきて、話はここで終わった。頬杖を突いて窓の外に視線をやると、向こうから厚い雲がやって来ていた。




二限目は移動教室であったため、話す暇がなかった竜二は三限が終わったところで何かを決心したような面持ちで夏子の席に向かった。


そこで、悟仙は異変に気付いた。夏子は麻理とにこやかに話していて何ら変わったところはない。ずんずんと歩いていく竜二も、表情は少し硬いがそれ以外は普通だ。


問題はその周りの人間、クラスメイト達にあった。


竜二と夏子に視線が一斉に向けられる。

皆目の前にいる人そっちのけで二人しか見ていない。ただクラスメイトの女子に話しかけに行く男子を見ているにしては余りにも異様な雰囲気だった。


麻理もその雰囲気を感じ取ったようで、大きな瞳を右に左に動かしてきょろきょろしている。


しかし、教室の異変を感じ取る余裕のない竜二は躊躇いなく口を開いた。


「なあナツ、昼飯一緒に食わないか?」


「え、別にいいけど」


竜二と同様に周りが見えていない夏子はその誘いに驚いたような、困ったような嬉しいような何とも言えない顔で承諾する。


その二人のやり取りを視界の端に納めながらも、悟仙は教室内を見回していた。いや、『見下ろして』いた。物事を俯瞰できる悟仙にはクラスメイト達の次の動きが見える。


「思った以上に、面倒くさそうだな」


二人に注目しているクラスメイト達に聞こえないように、悟仙は呟いた。


竜二の申し出を夏子が了解して一件落着にはきっとならない。少しの沈黙の後、教室の前の方に座っている男子生徒が口を開いた。


「おい竜二、真っ昼間からデートか?」


その隣にいた男子生徒も便乗する。


「仲がいいなあ?」


その明らかにからからいを含んだ言葉に、竜二は過剰に反応した。


「はあ!?お前ら何言ってんだよ!」


悟仙はため息を吐きたくなった。


確かに、麻理の言うとおり喧嘩している二人が仲直りするには先ずそれなりにコミュニケーション取った方がいいだろう。それが難しそうであれば、第三者が手助けすればいい。だから、麻理の案は間違っていない。


しかし、人間関係における問題において絶対的な正解はない。告白の成功率と同じように、そこに人の感情が関わってくるからだ。

何かの小説のように、主要人物が仲違いしている二人ならあるいは正解だったかもしれない。だが、ここは小説の世界ではないし、主要人物は登場人物とイコールだ。


何かをする時は、それらの人達にどのような影響を与えるのか考えなければならない。理由はよく分からないが、夏子に今近付くのは得策ではなかったらしい。竜二も冷静になれていれば教室の雰囲気を感じ取れたのかもしれないが、それは無理だろう。


竜二の言葉に、先程発言した男子が大袈裟な動きで肩を竦めた。


「だって、普通二人で昼飯食ったりしないだろう?」


よせばいいのに、竜二が問う。


「どういう意味だよ?」


「お前ら、デキてるんじゃないか?」


「なっ!?」


このやり取りを見て、本格的におろおろし始めた麻理と不意に目が合った。麻理は悟仙を見つけると、何かを懇願するような目を向けてきた。きっと悟仙がこの状況を打開してくれることを期待しているのだろう。その気持ちも分からなくはない。良かれと思って自らが提案したやり方で二人の関係が悪化しそうになっているのだから。


自分でまいた種だろ、とは言えない。昨夜、不覚ながらも悟仙はこの種まきに参加してしまっているのだ。関係ないとは言えない。

しかし、悟仙はスーパーマンじゃない。理由が分からないのに、根本的な解決はできない。だが、何とかすることはできるかもしれない。


「まあ、お前にも協力してもらうしかないがな」


悟仙は苦笑しながらそう呟くと、普段使わない陽気な声を出した。


「おいおい竜二、俺の言ったこと覚えてるのか?」


教室にある目が一斉に向けられる。こんなに注目される機会もなかなか無いなと悟仙は現実逃避じみたことを考えた。


「悟仙、俺に何か言ったか?」


竜二は不思議そうに首を傾げた。悟仙は呆れたと言わんばかりにため息をつく。


「やっぱり忘れていたのか。直接言うのが少し恥ずかしいから、それとなく井上も誘ってくれと言ったじゃないか?」


悟仙の言葉に、教室が少しざわつく。それを聞きながら、悟仙は背中に嫌な汗が流れるのを感じていた。この際他の人の反応などどうでもいい。あの天然気味の人物さえ大人しくしてくれれば。


頼むから天然が発動しないでくれ。悟仙がその思いを伝える意味を込めてその人物、麻理に目を向ける。麻理は悟仙と目が合うと、少し下を向いた後にっこりと笑ってみせた。それを見て、悟仙は心の中でガッツポーズした。


「陸奥くん、何を言ってるんですか?四人で食事をとるなんてそう珍しいことではないじゃありませんか」


「それもそうだな」


「そうですよ。可笑しな陸奥くんですね」


そう言って麻理は上品に口元に手を当ててくすりと笑った。

その仕草の狙いが引きつった口を隠すことだと分かっていたが、勿論口に出さなかった。


そう、いつも昼食に学食を利用している悟仙達四人は、時々同じ席で昼食をとることがある。それは、クラスメイト達も知っているはずだ。これで竜二の行動を何ら特別なことではない、いつも通りのものだと意識づけられればそれでいい。


もうすぐ四限目が始まる。何か疑問を持った者がいても、追及している時間はない。

悟仙の予想通り、ドアを開けて教師が入ってきた。これで一先ず窮地を脱することができた。


しかし、安心できた訳ではない。今回のことで最悪の事態は免れたが、麻理の計画は頓挫し振り出しに戻ったのだから。


昨夜の電話で、麻理はまるで今思い付いたように話していた。ということは、麻理に思い付かせた人物がいることになる。それは間違いなく律子だろう。そして、あの律子が悟仙を巻き込もうとしない訳がない。当然、律子が授けた案は悟仙ありきのもののはずだ。実際先程は悟仙が口を挟まなければ危なかった。


今回は何とかなったものの、運が良かっただけだ。基本的に優秀な麻理だが、あの場面で天然な一面が出なかったのは奇跡だとも言える。もし、近くに麻理がいたら頭をなでていたかもしれない。


そんな麻理に目を向けると、暑いのかぱたぱたと手を仰いで顔に風を送っていた。もし窓を開けてなかったら、悟仙も同じことをしたかもしれない。最近冷えてきたと思ったが、そうでもないらしい。



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